真理5:高速道路粉砕!敗北する探偵!
新王都のハイウェイ。
アスナの運転する装甲車は、制限速度を遥かに超える猛スピードで、灰色のコンクリートの海を滑走していた。
しかし、アスナの視界の隅、バックミラーに映る光景が、彼女の冷静な論理回路に再びレッドアラートを点滅させていた。
「……来たわね」
アスナの呟きに、ニーアが後ろを振り返る。
ハイウェイの遥か後方。雨に濡れたアスファルトを蹴立てて、異常な速度で車に接近してくる真っ黒な影があった。
四つん這いの異形。血塗られた黒髪。そして、遠目からでもはっきりとわかる、不気味に裂けた赤い口。
怪異ユリカ。
アスナの最大出力の火炎弾を至近距離で浴び、細胞のの一片すら残さず消滅したはずの怨念の塊が、一切の損傷のない完全な状態で、装甲車と同等の速度で追走してきているのだ。
「嘘でしょ……アスナ、あんたあれ、完全に灰にしたって言ったじゃない!元気すぎるわよ!」
ニーアが窓ガラスに張り付きながら悲鳴を上げる。
「器を破壊したところで、新王都に蓄積された絶望という概念がある限り、何度でも再構築される、ということ」
アスナは冷静に分析を口にしながら、ステアリングを激しく切り、並走する一般車両を次々と縫うように追い越していく。
しかし、怪異の速度は一向に衰えない。それどころか、車の排気音を掻き消すほどの悍ましい咆哮を上げながら、その距離をじりじりと縮めてきている。
「このままニルヴァーナのアジトに突っ込むわけには……いかないわね」
ニーアが、先ほどまでの怯えを急激に消し去り、その声に妙な熱を帯びさせて言った。
「……ねえ、アスナ」
ニーアは、シートベルトを外し、極太の尻尾を戦闘態勢の証として逆立たせた。
「あんた、昨日はあれを上空まで運んでから火炎弾で焼いたんでしょ?つまり、捕まれても振りほどけたわけだし、無傷で撃退できたってことじゃない」
アスナは、はっとしてニーアを見た。
「待って、ニーア。私の言葉の意図を履き違えている。私は昨日、明確にあなたに警告したはずよ。あれは……」
「わかってるわよ!でも、アスナが対処できた程度なら、私にだって勝機はあるわ!あんたが火炎弾でダメだったなら、私が直接、あの口を木端微塵に砕いて、呪いの核ごと引きちぎってやるわ!」
ニーアの瞳には、獣人特有の闘争本能と、相棒を脅かす存在に対する激しい怒りが燃え上がっていた。彼女の致命的な誤算。それは、アスナの「私でさえ振りほどくのに精一杯だった」という言葉を、単なるアスナの謙遜か、あるいは自分への過保護な警告だと都合よく解釈してしまったことだ。
アスナがどれほどの絶望的な恐怖を味わったか、その真実を、理解していなかった。
「車を止めて、アスナ!ここでトドメを!刺す!」
ニーアの絶叫に近い命令。
アスナの論理回路が、ブレーキを踏むことの危険性を何千通りもシミュレートする。しかし、このまま逃げ続けてもいずれ追いつかれる。ハイウェイの一般車両を巻き込む大惨事になることは明白だった。
アスナは、歯を食いしばり、ブレーキペダルを床が抜けるほど強く踏み込んだ。
「ッ……!」
凄まじい摩擦音とゴムの焦げる悪臭が周囲に撒き散らされ、巨大な装甲車がハイウェイのど真ん中でスピンしながら急停止する。
その直後。
後方からミサイルのような速度で迫っていたユリカの身体が、全く減速することなく、装甲車の分厚いリアバンパーに激突した。
凄まじい衝撃音が響き、装甲車の後部が紙くずのようにひしゃげる。ユリカの身体はその反動で大きく宙に弾き飛ばされ、数十メートル先のアスファルトを激しくバウンドしながら転がっていった。
ニーアは、変形して開かなくなったドアを、蹴りの一撃で蝶番ごと吹き飛ばし、雨の降るハイウェイへと飛び出した。
彼女は、立ち上がろうと蠢く黒い影に向かって、両手を広げて雄叫びを上げた。
「あなたが、どんな悲しい過去を持ってるかは知らないけれど……私の仲間を脅かすなら、ここであなたを終わらせる!……着装!」
ニーアの叫びと共に、彼女の身体を黄金色の眩い光が包み込んだ。
それは、ヴェリタスの名に恥じぬ、彼女の全力の戦闘形態であった。狐の獣人特有のしなやかな筋肉が極限まで強化され、両手足には狐火を宿した高密度の魔力障壁が形成される。極太の尻尾は三本に分かれ、それぞれが独立した意志を持つかのように空中で激しく波打っている。
黄金の闘気を纏ったニーアの姿は美しく、そして、力強かった。
「はぁぁぁぁぁッ!」
ニーアは、アスファルトを爆砕するほどの踏み込みで、ユリカに向かって一直線に突進した。音速を超えるそのスピードは、空気を切り裂き、白い衝撃波のリングを発生させる。
彼女の右拳に、黄金の狐火が太陽のように圧縮されていく。直撃すれば、巨大な戦車すらも一撃で蒸発させるほどの、必殺の破壊力。
対するユリカは、四つん這いの姿勢のまま、一切の回避行動をとろうとはしなかった。ただ、濁った赤い瞳で、突っ込んでくる黄金の光をぼんやりと見つめているだけだ。
ニーアは勝利を確信し、全霊の力を込めた右拳を、怪異の顔面めがけて振り抜いた。
ドスッ。
鈍く、そしてあまりにも手応えのない音が響いた。
ニーアの必殺の右拳は、確かにユリカの顔面に直撃していた。しかし、それはまるで、底なしの泥沼を殴りつけたかのような、一切の物理的破壊力を吸収される絶望的な感触だった。
ユリカの首はピクリとも動いていない。彼女の赤い瞳が、至近距離でニーアの瞳を捉えた。
「……あら?」
ニーアの脳が、現在起きている現象を理解するよりも早く。
ユリカのひしゃげた右手が、一切の予備動作なしに、下から上へと無造作に振り払われた。
刃物すら持たない、泥に塗れた素手による、ただの払いのけ動作。
生肉と太い骨が、強引に引き千切られる悍ましい音が、ハイウェイの静寂を切り裂いた。
そして彼女は、自分の視線の先、遥か上空を、黄金の狐火を纏ったままの「右腕」が、赤い血飛沫を撒き散らしながら飛んでいくのを、まるでスローモーションのように見つめていた。
「…………?」
声が出なかった。痛みすら、まだ神経を伝達していない。
ただ、右肩から先にあるはずの自分の腕が消失し、そこから滝のように生温かい血が噴き出しているという現実だけが、網膜に焼き付いた。
絶対的な力の差。防御力も、魔力障壁も、狐獣人の強靭な肉体も、この怪異の前では文字通り「紙切れ」と同義であったのだ。
ニーアはバランスを崩し、反射的に残された左手でユリカを殴りつけようとした。
だが、ユリカの動きは、残酷なまでに無慈悲であった。
今度は、四つん這いの状態から繰り出された、獣のような低い蹴り。
湿った破裂音と共に、ニーアの左足の太ももから下が、いとも容易く、空間ごと消し飛ばされたように切断された。
「あ……あぁっ……!」
両手足のバランスを完全に失ったニーアの肉体は、無様にアスファルトの上へと崩れ落ちた。
切断された肩と太ももの断面から、致死量の血液が雨で濡れた路面へと瞬く間に広がり、巨大な赤黒い水たまりを形成していく。
黄金の闘気は完全に消失し、三本に分かれていた尻尾も、力なく血の海に沈んだ。
その頃、全身が泥に浸かるような錯覚。
ようやく、神経を焼き尽くすような絶対的な激痛が、ニーアの脳髄を打ち据えた。
「あ、ぎゃあああああああああああああっ!!痛っ!痛いぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
ニーアは、残された手足の根元を押さえることもできず、ただ血の海の上でのたうち回り、涙と鼻水に顔をぐしゃぐしゃにしながら、喉が裂けるほどの絶叫を上げた。
彼女の誇りも、強さも、このたった数秒の間に、徹底的に、暴力的に、蹂躙され尽くしたのだ。
装甲車の運転席で、その一部始終を見ていたアスナは、完全に凍りついていた。
動かなければ。ニーアを助け出さなければ。
彼女の論理回路はそう叫んでいるのに、肉体が一切の指令を受け付けない。
ユリカから放たれる、その絶対的な絶望と呪いのオーラが、昨夜の記憶をフラッシュバックさせ、アスナの竜としての強靭な精神すらも麻痺させていたのだ。
「ニーア……っ!ニーア……!」
声にならない掠れた悲鳴だけが、アスナの震える唇から漏れ続ける。
ユリカは、血の海でのたうち回るニーアを見下ろすように、ゆっくりと立ち上がった。
怪異の裂けた赤い口から、ギチ、ギチ、と不気味に歯を鳴らす音が漏れる。
彼女は、ひしゃげた両手を高く、天に向かって振りかぶった。
狙いは、ニーアの細い首。
次の瞬間、その両手が振り下ろされれば、ヴェリタス探偵事務所の明るい狐獣人の命は、ここで完全に、そして永遠に終わる。
アスナが絶望に目を閉じた、まさにその瞬間だった。
天空から、世界を白く塗り潰すほどの、目も眩むような純白の閃光が突き刺さった。
ドゴォォォォォォンッ!
それは、雷鳴などという生易しいものではない。神の怒りを直接物理法則に変換したかのような、圧倒的な質量の「光の弾丸」であった。
光弾は、ニーアの首をはねようと振り下ろされたユリカの身体に直撃した。
「ギィィィィィィィィィィィィィィッ!!!」
この世のものとは思えない、ガラスを掻きむしるような鼓膜を破る断末魔の悲鳴が、ハイウェイに響き渡った。
光弾が直撃した瞬間、ユリカの強靭な呪いの肉体は、燃えることも、爆発することもなく、光の奔流の中で細胞レベル、いや、概念のレベルから完全に「消滅」させられていった。
アスナの火炎弾のように、器を壊すだけではない。呪いの核そのものを、根源から浄化し、存在そのものをこの世界から完全に削り取ったのだ。
数秒後、光の柱が収束すると、そこには怪異の影も形も、怨念の残り香すらも一切存在していなかった。
完璧な、そして絶対的な殲滅。
血の海で虫の息となっていたニーアと、運転席で硬直していたアスナが、その光の軌跡を辿るように、上空を見上げた。
ハイウェイの脇にそびえ立つ、巨大な高層ビルの屋上。
そこから、一つの影が、重力に逆らうようにゆっくりと、そして威風堂々と舞い降りてきた。
舞い降りたその姿は、全身から溢れ出る圧倒的な魔力と威厳によって、空間そのものを支配していた。
輝くような装甲。周囲を威圧する圧倒的な存在感。
それは、裏社会を牛耳る巨大マフィア組織「ニルヴァーナ」の若き幹部であり、そして、絶望の淵に沈む二人を救済するために現れた、絶対的な力を持つ者。
「…………待たせたね。」
完全に「着装」を完了させたアキラが、そこにいた。




