真理4:本物の偽物!
「……もう、行くわよ、ニーア」
アスナの平坦な声に、部屋の隅で使い物にならなくなった通信機をいじっていたニーアが、大きなため息をつきながら立ち上がった。彼女の極太の狐の尻尾は、いつもの覇気を失い、だらりと床に垂れ下がっている。
「わかってるわよ。こんな風通しの良すぎるオフィスじゃ、幽霊の前に風邪を引いて死んじゃうわ。で?どこへ。……どこへ行くの。警察の保護は期待できないし、その辺の安宿じゃ、またあのオバケに壁ごとぶち抜かれるのがオチでしょ」
「目的地はすでに設定済み。アキラの統括するマフィア組織、ニルヴァーナのメインアジトへ向かう」
アスナは回収した物資を防水のトランクに詰め込みながら、極めて合理的な判断を下した。
「ユリカ……あの怪異の執念は、通常の物理法則や魔導理論では計り知れない。一度捕捉された以上、我々だけで完全な防衛線を構築するのは不可能に近い。ニルヴァーナのアジトが持つ多重の魔導結界と、彼らの圧倒的な火力を盾にするのが、現在の状況下で最も生存確率の高い選択肢」
「……背に腹は代えられないわね。了解、車を出すわ」
二人は瓦礫の山となった事務所を後にし、地下駐車場に隠してあった黒塗りの大型装甲車へと乗り込んだ。重厚なエンジン音が地下空間に響き渡り、アスナがハンドルを握る車は、雨上がりの新王都の薄暗いアスファルトへと滑り出した。
車は、新王都の中心部から少し離れた、かつての歓楽街の面影を残すエリアへと向かって走っていた。高架橋の下には違法な露店がひしめき合い、けばけばしいネオンサインが水たまりに極彩色の光を落としている。
ワイパーがフロントガラスの雨粒を単調なリズムで弾き飛ばす中、アスナの論理回路は、昨夜からずっとある一つの巨大な矛盾と疑問を処理し続けていた。
エラーラ・ヴェリタス。
三十年前、この狂った世界を致命的な崩壊から救うために、自らの命を犠牲にしたとされる伝説の存在。
アスナは、助手席で退屈そうに外の景色を眺めているニーアに、横目で視線を向けた。
ニーア・ヴェリタス。
エラーラ・ヴェリタスもまた、三十年前にこの新王都で「ヴェリタス探偵事務所」を営んでいたという公式の記録が残されている。大賢者と同じ苗字を持ち、同じ探偵という職業を選んだ相棒。アスナはこれまで、ニーアがエラーラの直系の血族であるか、あるいはその崇高な遺志を継ぐ特別な使命を帯びた存在なのだと、無意識のうちに推論を立てていた。
ヴェリタス探偵事務所の歴史に終止符を打った今こそ、その壮大なる血脈の真実を共有すべき時では、ないのか。
「……ところで」
アスナは、ワイパーの音に紛れさせるように、極めて慎重に口を開いた。
「あなたのその名前について、確認しておきたいことがある。……ヴェリタスというのは……つまりその……芸名、なの?」
アスナの問いかけに、ニーアはきょとんとした顔で振り返った。獣耳が疑問符を描くように片方だけピクリと動く。
「芸名?急にどうしたのよ、改まって」
「三十年前の大賢者、エラーラ・ヴェリタス。彼女の存在と、あなたの名前の符合。それに伴う様々な因果律の絡み合いについて、私は昨日、情報空間からいくつかの不確定なデータを抽出した……」
「あははははっ!」
アスナの深刻な推論を遮るように、ニーアの底抜けに明るい笑い声が車内に響き渡った。彼女は腹を抱え、涙を浮かべながらアスナの肩をバンバンと叩いた。
「ちょっとアスナ、あんた、頭良すぎるからって、考えすぎよ。壮大な宿命?大賢者の血脈?んなわけないじゃない!」
ニーアは笑いを収めると、あっけらかんとした口調で、世界の真理でも何でもない、あまりにも陳腐な事実を口にした。
「私の本名はね、ニーア・ヴェル・リータスっていうの。……ただの普通の、胸が大きくて尻尾が太くていい匂いのする、もこもこでふわふわの、強くて優しい、かわいいかわいい狐獣人様よ!」
「……?」
「何よ?」
「……。……??」
「で!……探偵事務所を始める時に、三十年前にこの街で大賢者様が探偵をやってたっていう有名な噂にあやかろうと思って、ヴェル・リータスをくっつけて『ヴェリタス』って名乗ってるだけの、完全な便乗よ!」
「便乗?……もしあなたが、大賢者の真なる血脈であり、何らかの巨大な宿命を背負ってこの事務所を運営していたのなら……わからない。……いったい、何のために?……」
「何のために?だーかーらー!いま、便乗と言ったじゃないの。……エラーラ・ヴェリタスが使っていたとされる安い藁半紙のノート。それを、ドラゴスキン社が工場ごと買い占めて、『ヴェリタス・ノート』としてレプリカの体で再販したじゃない。それと同じ。」
「ノートが大賢者の血脈に、何の因果が……」
「だから、因果なんかないっていう話よ。じゃあもう一つ例を挙げるわね。……今となっては脂っこいラーメンを『ヴェリタス系ラーメン』と呼ぶわよね。本来は、歯車通りの貧困層が廃棄された魔獣の骨を煮込んだラーメンのみを指す名称だったの。だけど、エラーラ・ヴェリタスが一度そのラーメンを食べたという、たったひとつの事実をもとに、改称し、今や世界に向けてブランド展開をしているじゃない。私は、エラーラ・ヴェリタスが住んでいた街にたまたま生まれて、たまたま名前が似ていた。ただ、それだけ。……まったく、『竜人様』は考えすぎよ!」
アスナは、完全に言葉を失った。
彼女の超高度な論理回路が、一瞬にしてフリーズし、そして再起動するまでに数秒の時間を要した。
ニーア・ヴェル・リータス。
言われてみれば、その通りなのだ。アスナは自らの目を疑うような致命的な見落としをしていた。
エラーラ・ヴェリタスは、歴史的にも生物学的にも、間違いなく純粋な「人間」であった。対して、隣で能天気に笑っているニーアは、極太の尻尾と獣耳を持つ、正真正銘の純粋な「狐獣人」である。
異種族間における遺伝子の交雑率や、三十年という短いスパンでの急激な形質変化の可能性を考慮しても、人間から純血の狐獣人が生まれるなどという生物学的な確率は、完全にゼロである。
血脈であるわけがないのだ。
そんなことは、ひと目見ればわかる、絶対的な真理であった。
アスナは、ヴィルゴやユリカのデータという複雑な情報に囚われるあまり、目の前にある最もシンプルで明快な事実を完全に見失い、勝手に壮大な陰謀論を組み立てていたのである。
自らのあまりの滑稽さに、アスナの表情筋がわずかに緩んだ。
それは、普段は機械のように感情を排しているアスナが見せた、極めて珍しい、そしてどこか呆れたような苦笑であった。
「なるほど。私の推論プロセスに、基礎的な生物学のパラメーターが欠落していたらしい。……忘れてちょうだい」
アスナは小さく首を振ると、アクセルペダルを深く踏み込んだ。重装甲の車が雄叫びを上げ、雨上がりのハイウェイへと一気に加速していく。壮大な真実など存在しなかった。しかし、その軽薄で単純な事実こそが、ニーアという相棒の愛すべき本質なのだと、アスナは微かな安堵と共に理解していた。
一方その頃。
新王都の裏路地にひっそりと佇む、古びたレンガ造りの酒場「奥泉」。
琥珀色の間接照明が店内を柔らかく照らし、カウンターの奥では、初老のマスターであるハママツが、純白のクロスでアンティークのグラスを無言で磨き続けていた。彼が醸し出す静謐な空気は、外の暴力的な新王都の喧騒を完全に遮断する、見事な結界のように機能している。
しかし、その店内の最も暗い片隅のボックス席には、周囲の静けさとは全く異質の、圧倒的な狂気と憎悪を煮詰めたような異物が鎮座していた。
リオン・ゴルドファング。
ボロボロのコートを纏った彼は、テーブルの上に置かれた手付かずのウイスキーグラスを見つめながら、焦点の合わない濁った黄色い瞳で、ブツブツと意味不明なうわ言を繰り返し続けていた。
「……終わら……ゴァオオオッ!……あいつ、殺す、……すべてを奪った……僕を……ブウミ!ダ!……そうですか?」
彼の脳髄は、過去の敗北と絶望によって完全に破壊されているように見えた。しかし、彼の獣としての聴覚器官だけは、狂気の底にあっても恐るべき精度で周囲の情報を拾い集め続けていた。地獄耳という表現すら生温い。数十メートル離れた人間の心音すら聞き分けるその耳に、カウンターで酒を飲んでいるチンピラたちの、他愛のない噂話が飛び込んできた。
「聞いたかよ。昨日、ヴェリタス探偵事務所で、どでかい爆発があったらしいぜ」
「ああ、伝説の飛竜が現れたって話だろ。光の弾を撃って、化け物を吹っ飛ばしたとか」
「バカか。三十年前の伝説が今更現れるかよ。俺のダチが近くで見てたらしいんだがな、その飛竜、探偵事務所にいるあの無愛想なガキに似てたらしいな」
「ああ、アスナ・クライフォルト。あのチビが、バカでかい竜に化けたっていうのかよ。ハッ、クスリのやりすぎだろ、お前のダチ」
ピクリ、と。
リオンの泥だらけの獣耳が、不自然な角度で硬直した。
彼の濁りきっていた黄色い瞳孔が一瞬にして収縮し、狂気の奥底に沈殿していた莫大な憎悪が、限界点を超えて沸騰を始めた。
「あすな……くらいふぉると……?」
リオンは、テーブルを両手で強く握りしめた。無垢の木材が、彼の異常な膂力によってミシミシと悲鳴を上げ、ひび割れていく。
飛竜の正体が、数日前にこのバーでニーアと共にいた、あの小憎らしい竜人の少女であったという事実。それ自体も驚愕に値する情報であった。だが、リオンの狂った脳内を最も激しくかき乱し、彼をパニックに陥れていたのは、その正体そのものではなく、「年齢」という絶対的なタイムラインの矛盾であった。
リオンの脳裏に焼き付いている、最も憎悪すべき飛竜、アスナ・クライフォルトの姿。
それは、幾多の戦場を潜り抜けた、成熟した「中年」の戦士の姿であった。彼の記憶の中にあるアスナは、酸いも甘いも噛み分けた、圧倒的な実力と経験を持つ大人でなければならないのだ。
しかし、現実はどうだ。彼がこの目で見たアスナは、まだ成長途中の、小柄で無機質な「少女」であった。
「……?お前はお前、ぼくは、あいつは子供なんだ……?」
リオンは両手で自らの顔面を掻きむしり、鋭い爪で自らの皮膚を引き裂きながら、声なき絶叫を上げた。血が指の隙間から流れ落ちる。
記憶が混濁しているのか。それとも、世界そのものの時間が狂っているのか。彼の頭の中では、過去と未来、そして複数の可能性のタイムラインが凄まじい勢いで衝突し、スパークを散らしていた。
だが、どれほど論理が破綻しようとも、彼の魂に刻み込まれた唯一の真理だけは揺るがなかった。
「イ!……大きい?……右から来ましたよ。飛竜?……あいつを、ムゥううううッ!……あいつを、ミッ!!!……ブガン!し尽くさなければ、僕の時間を返して!返してよオオオオッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!………………………………ぴ。」
リオンは、テーブルを完全に粉砕して立ち上がった。彼の全身から立ち昇る、可視化するほどの黒い殺意と狂気のオーラに、チンピラたちは悲鳴を上げて逃げ出した。マスターのハママツだけが、静かにグラスを磨く手を止め、哀れみを含んだ瞳で、地獄へと堕ちていく獅子の背中を見送っていた。




