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【6位】NV ヴェリタスの最終定理 完結篇  作者: リウ/Wan Liyue
●第17章:NV ナラティブ・ヴェリタス

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真理3:流し込まれる地獄!

ヴェリタス探偵事務所の惨状は、壊滅的であった。

窓ガラスは壁ごと完全に粉砕され、鋭利なクリスタルの破片が床のあちこちに散乱している。

ぽっかりと空いた巨大な大穴からは、容赦のない夜風と雨粒が室内へと吹き込み、横倒しになったキャビネットからは無数の書類が吐き出され、水浸しになって床にへばりついている。

その荒れ果てた瓦礫の中心で、アスナは元の小柄な少女の姿に戻り、ひとり静かにマグカップを傾けていた。

いつもの黒縁眼鏡を正確な位置に掛け直し、冷え切った室内で、彼女は淹れ直したばかりの熱いコーヒーを、無表情のまま喉の奥へと流し込んだ。

先ほどまでこの空間で繰り広げられた絶望的な死闘の痕跡は、彼女の微塵も揺らがない青い瞳からは一切読み取ることはできなかった。

そこへ、廊下から慌ただしい足音が響き、乱暴にオーク材の扉が開かれた。


「ちょっとアスナ、連絡もなしに通信を切って……って、ええええええええっ!」


飛び込んできたニーアは、事務所の惨状を目の当たりにして、獣耳を限界までピンと立てて絶叫した。極太の尻尾の毛が恐怖と驚きで逆立っている。その後ろから遅れて入ってきたビリーも、口を半開きにしたまま完全に硬直していた。


「な、な、何があったのよこれ!強盗?爆撃?壁が全部なくなってるじゃない!」


ニーアは水浸しの床を避けながら、つま先立ちでアスナの元へ駆け寄った。

アスナはマグカップをデスクの上の唯一平らなスペースに置くと、極めて淡々とした、報告書を読み上げるような平坦な声で口を開いた。


「先ほど、この空間に不法侵入してきた怪異……ユリカと交戦状態に入った。私は対象を拘束し、上空へと運搬した後、最大出力の火炎弾で焼却を試みた」


「はぁ!?」


ニーアの素頓狂な声が、雨音の響く室内に木霊した。


「あんた、あの幽霊騒ぎの怪物とやり合ったっていうの。……ちょっとちょっとちょっとちょっと!ねえ、待ってよ!……いや、そんな大立ち回りを演じておいて、あんた、怪我一つないじゃない。しかもなんか、優雅にコーヒー飲んでるし」


ニーアは呆れたように大きくため息をつき、濡れたソファの背もたれに寄りかかった。彼女の表情からは先ほどの驚きが消え、いつもの楽観的な笑みが浮かんでいた。


「と、いうことは!アスナが交戦して、しかも怪我一つなく撃退できたってことは!……そのユリカって怪異も、所詮はその程度の弱いオバケだったってことじゃないの?……ビリーの所属する警察機構も、ずいぶんと臆病になったものね!」


ニーアがビリーの方を向いて茶化すように肩をすくめた、その瞬間だった。


「……あの怪異が弱い、ですって?」


アスナの低く、地を這うような冷たい声が、室内の空気を一瞬にして絶対零度まで凍りつかせた。

ニーアの極太の尻尾が、本能的な恐怖によってビクリと跳ね上がる。アスナは椅子からゆっくりと立ち上がり、青い瞳でニーアを真っ直ぐに射抜いた。その瞳の奥には、ニーアがこれまで一度も見たことのないような、底知れない恐怖と、絶対的な警告の光が宿っていた。


「申し訳ないけれど……私は、あなたより強い。腕力も、魔力も、知能すらも。……私は、竜人だから。着装すれば、この差はさらに広がる。これは事実」


アスナは一歩、ニーアへと歩み寄った。


「……その私が、あの怪物の腕を振りほどくのに精一杯だった。あの時、ほんの数秒でも判断が遅れていれば、私は確実に頸椎を砕かれて死んでいた。あれは、物理的な力を超えた、純粋な怨念の凝縮体。……くれぐれも気をつけて、ニーア。あれに遭遇したら、一切の抵抗を諦めて、逃走することだけを最優先事項に設定して」


アスナの冗談を一切含まない本気の訴えに、ニーアは息を呑み、完全に言葉を失った。

あの冷静沈着で、どんな強大なマフィアや魔獣を前にしても決して揺らぐことのなかった最強の相棒が、はっきりと「死」を意識し、怯えている。その事実が、ニーアの背筋に氷のような悪寒を走らせた。

ビリーもまた、アスナの言葉の重みに顔面を蒼白にしていた。彼は震える手で警察手帳を懐にしまうと、逃げるように後ずさりをした。


「……お、俺は一度署に戻る。上層部に状況を報告して、ユカリの護衛態勢をさらに強化するように進言しなくちゃならない。お前たちも、戸締まりには気をつけろよ。……いや、窓がないんじゃ戸締まりも何もないか」


乾いた冗談を口の中でごまかしながら、ビリーは足早に事務所を後にした。

ビリーの足音が遠ざかり、再び雨音だけが支配する空間。

アスナは再び椅子に腰を下ろし、冷めきったコーヒーを見つめた。

彼女は、ニーアに嘘をついていた。怪異の強さについてではない。彼女が情報空間への不正アクセスによって暴き出した、この世界を根底から覆すほどの「真実」についてである。


ユリカという名の怪異。

その生体データと、彼女から放たれる特有の魔導波形。それは、単なるスラムの孤児のものとしてはあまりにも異常であった。

アスナが警察の最深部のデータベースと、新王都の地脈の記録を照合し、そこから導き出した一つの解答。それは、三十年前にこの狂った世界を救うために、自らの命を犠牲にして地脈を鎮めたとされる伝説の存在、大賢者エラーラ・ヴェリタスのデータと、ユリカのデータが「完全に一致」……に近いほどの酷似を示していたことだ。

三十年前の英雄と、現代のスラムで泥水をすすって死んだ少女。

二つの魂の間に、一体どのような「ナラティブ」があるというのか。


「……姉妹……?」


アスナは誰に聞こえるでもなく、唇を微かに動かした。

しかし、もしユリカがエラーラと血の繋がりがある存在だとするならば、なぜユリカは悲惨な死を遂げなければならなかったのか。世界を救った大賢者の血筋が、なぜこれほどまでに残酷な運命を辿ったのか。


「エラーラか、もしくは飛竜が……時系列を書き換えた?」


そして、アスナの論理回路をさらに混乱させているのは、ヴィルゴ・ライ・リーアというマフィアのボスの存在であった。

褐色の肌、見事な銀髪、透き通るような青い瞳。

彼女の容姿は、記録に残されている大賢者エラーラ・ヴェリタスの若き日の姿と、不気味なほどに重なり合っていた。

ヴィルゴに初めて会った時、アスナの奥底から込み上げてきた激しい「懐かしさ」。

エラーラの記録を読み解いた時に感じた、胸が締め付けられるような郷愁。

そして何より、先ほどユリカに首を絞め上げられ、その絶望の思念を叩き込まれた瞬間にすら、アスナは……確かな「懐かしさ」を感じ取っていたのだ。


ヴィルゴは、エラーラなのか。


私は、何者なのか。


私のこの身体は、記憶は、誰のものなのか。


そして、アスナがニーアにどうしても告げることができなかった、最も残酷なもう一つの真実。

アスナは、ユリカのデータを検索する過程で、たまたま、ほんの気まぐれに、相棒であるニーア・ヴェリタスの生体データを検索にかけてしまっていたのだ。

結果は、冷酷なエラー音と共に弾き出された。

ニーア・ヴェリタスの遺伝子配列および魔導波形は、大賢者エラーラ・ヴェリタスのものとは一切の共通項を持っていなかった。

つまり、ニーアはヴェリタスの血族などではない。彼女は、ヴェリタス一家とは全く無関係な獣人に過ぎなかったのだ。

もしこの事実をニーアに告げれば、彼女のアイデンティティは崩壊してしまうのだろうか。

アスナは、自らの内に広がる無数の謎と矛盾、そして相棒への隠し事という重い荷物を抱え込みながら、冷たい雨の降る新王都の夜空を、割れた窓ガラス越しに静かに見上げていた。


一方その頃。

ヴェリタス探偵事務所を飛び出したビリーは、王都警察本部へと続く暗く入り組んだ路地裏を、早足で歩いていた。

冷たい雨が彼の制服を容赦なく濡らし、体温を容赦なく奪っていく。アスナの恐怖に満ちた言葉が、彼の頭の中で何度もリフレインしていた。あの冷静なアスナが恐れる怪物。それがこの同じ新王都の闇の中を徘徊しているという事実が、ビリーの足取りを重く、そして臆病にさせていた。

近道をしようと、普段は人通りの少ない狭い路地へと足を踏み入れた時のことだった。

強烈な腐臭と、鉄錆のような血の匂いがビリーの鼻腔を突いた。

ビリーは反射的に腰のホルスターから大型の回転式拳銃を引き抜き、安全装置を解除して暗がりへと銃口を向けた。警察官としての訓練された動作が、恐怖で凍りつきそうになる肉体を辛うじて動かしている。

街灯の光が届かない、ゴミ山の陰。

そこに、小さな塊が倒れていた。

雨に打たれて微動だにしないその塊は、ひどく痩せ細った人間の少年だった。衣服は擦り切れ、肌は極度の栄養失調で青白く透き通り、今にも命の灯火が消えようとしている。

ビリーは銃を構えたまま少年に駆け寄ろうと一歩を踏み出した。

しかし、次の瞬間。

少年の倒れているゴミ山のさらに奥、絶対的な暗闇の中から、ズルリ、と。

不気味な水音を立てて、何かが這い出してきた。


「な……!」


ビリーの喉が引きつった。

黒い髪を雨と泥で固め、ひしゃげた四肢を不気味に蠢かせる、四つん這いの異形。

大きく裂けた赤い口。濁りきった、血走った赤い瞳。

それは間違いなく、怪談の「赤いお口のユリカちゃん」そのものであった。先ほどアスナによって上空から叩き落とされ、巨大な火炎弾で焼き尽くされたはずの怪異が、一切の傷を負うことなく、再び新王都の路地裏に現れたのだ。


「その子から離れろ!」


ビリーは絶叫しながら、怪物の頭部に向かって引き金を引いた。

鼓膜を破るような発砲音。

至近距離から放たれた大型の鉛玉は、間違いなく怪物の額の中央に命中した。

バギィッ、という骨を砕く鈍い音と共に、怪物の頭部が大きく後ろにのけぞり、額に空いた大穴からドロドロとした赤黒い血が雨の中へと噴き出した。

やったか。

ビリーの脳裏に一瞬の安堵がよぎった。

怪物の赤い瞳が、ビリーを捉えた。

怪物は、吹き飛んだ頭部をそのままに、信じられないほどの跳躍力で空中に舞い上がった。脳を破壊されてなお、その動きには一切の滞りがなかった。物理的な破壊は、この純粋な呪いの塊には一切通用しないのだ。


「あ、あああ……っ!」


逃げる間もなかった。

怪物がビリーの身体にのしかかった。

泥にまみれた冷たい両手が、ビリーの肩に深く食い込む。獣の腐ったような息が顔面を叩き、大きく裂けた赤い口から覗く鋭利な牙が、ビリーの喉笛の数センチ手前で止まった。

その衝撃で、ビリーの懐から分厚い革製の財布が弾き飛ばされ、雨の降る水たまりの中へとボチャンと落ちた。

しかし、怪物はビリーの肉体を喰いちぎることはしなかった。

その代わり、怪物の赤い瞳孔がビリーの瞳と至近距離で見つめ合い、アスナをも追い詰めたあの恐るべき「思念」の奔流が、ビリーの脆弱な人間の脳髄へと直接注ぎ込まれ始めたのだ。

圧倒的な絶望の幻覚が、ビリーの精神を侵食していく。

手足が動かない。泥水をすする悲惨さ。魔獣に生きたまま食われる激痛。

そして、周囲を取り囲み、笑いながら携帯端末を向ける大人たちの、おぞましい無関心。

人間という生き物の最も醜悪で残酷な本性が、原液のままビリーの魂に注ぎ込まれる。

アスナのような強靭な精神構造を持たない凡人のビリーにとって、それは致死量の毒であった。

警察官としての誇りも、正義感も、生きたいという本能すらもが、一瞬にしてドロドロに溶かされていく。


『この世界は、地獄だ。』


ビリーの自我は粉々に砕け散り、永遠の暗黒へと沈んでいく。彼の肉体は生きながらにして、精神だけが完全な死を迎えようとしていた。怪物が牙を突き立てるまでもなく、彼は数秒後には自らの舌を噛み切って絶命するだろう。

それが、この怪異の真の恐ろしさであった。

だが、ビリーの意識が完全に消滅しようとした、まさにその時だった。

傍らで死にかけていた少年が、微かに動いた。

少年は最後の力を振り絞って泥水の中を這い進み、震える小さな手で、先ほどビリーの懐から落ちた分厚い財布をしっかりと掴み取ったのだ。


「……これで、病院に行ける……!薬が、買える……!」


少年のひび割れた唇から、歓喜と、生きることへの強烈な執着の声が漏れた。

少年は財布を胸に固く抱きしめると、ビリーの方を振り返り、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫んだ。


「おまわりさん……ありがとう……!ごめんなさい……!」


『ありがとう』。

少年は生きるために、倒れた警察官の財布を盗んだのだ。それは決して褒められた行為ではない。美談でもない。ただの、絶望的なスラムにおける悲惨な生存本能の発露に過ぎなかった。


しかし。


ビリーにのしかかり、その精神を破壊し尽くそうとしていた怪物ユリカの動きが、その少年の言葉を聞いた瞬間、ピタリと完全に停止したのだ。

怪物は、ゆっくりと首を巡らせて、財布を抱えて暗闇へと必死に走り去っていく少年の小さな背中を見つめた。

怪物の論理は、生前のユリカの純粋すぎる魂に縛られている。


『ありがとう』


怪物は、その光景を「勘違い」したのだ。


この大人の警察官は、見ず知らずの死にゆく子供を見捨てず、見て見ぬふりをせず、自らの財布を差し出して、その命を救おうとしたのだと。

自分が生前、誰からも与えられなかった「慈悲」と「救済」を、この男はあの子供に与えたのだと。

怪物の赤い瞳から、ドロドロとした怨念の濁りがスッと消え去り、そこには深い悲しみと、そして限りない感謝のような澄んだ光が宿った。

怪物は呟いた。


「…………ア……リが……と……ウ…………」


ビリーの精神を侵食していた絶望の思念が、潮が引くように急激に薄れていく。

怪物はビリーの肩からゆっくりと手を離すと、そのまま夜の雨と闇の中に溶けるようにして、完全に姿を消した。


静寂が戻った路地裏。

冷たい雨が降り続く中、水たまりの中に、ビリーが、仰向けに倒れていた。

彼の肉体には、怪物の爪痕一つ、牙の痕一つ残されてはいない。

無傷であった。

しかし、彼の目を見開いた瞳孔は完全に焦点を失い、虚空をただぼんやりと見つめ続けていた。

怪物が去り際に思念の注入を止めたとはいえ、既にビリーの自我は、流れ込んだ絶対的な絶望によって破壊され尽くしていた。

彼はもう、二度と自力で立ち上がることは、ない。

警察官としての職務に戻ることも、家族と笑い合うことも、明日の朝食の味を感じることも、ない。

雨粒が、彼の眼球に落ち、涙のように頬を伝い、路地裏の泥濘へと落ちていく。

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