真理0:プロローグ
ファントム・シュピーゲル博士。
あの優しくも恐ろしい絶対的な聖人に出会ったあの日から、私、リーベ・ニヒスツの人生は劇的な変貌を遂げた。
かつて、玩具店で理不尽な暴力と悪意に蹂躙され、社会の底辺で無力に血を流すだけだった私は、彼がもたらす「究極の平和」という名の甘美な死の思想に完全に魅了されたのだ。彼こそが真の救済者であり、この醜悪な世界を浄化する唯一の神であると。
私は、彼の説く言葉を私なりに解釈した。
博士の邪魔になるような、愚かで目障りな人間たち。
私を迫害した者、社会の寄生虫たち。
それらを排除することこそが、彼の最も忠実な使徒たる私の使命なのだと思い込んだ。
私は闇に潜み、気象管理衛星ウェザー・リポートのシステムを遠隔から制圧するための細工を進めながら、並行して邪魔者たちを次々と手に掛けていった。毒殺、絞殺、あるいは魔導による偽装事故。気づけば、私の手は四十人もの人間の血で赤く染まっていた。後に「王都四十人連続殺人事件」と呼ばれる凄惨な殺戮である。
すべては、愛するシュピーゲル博士のため。私がこれだけの血を流し、大いなる計画の障害を取り除いたと知れば、あの人はきっと私を優しく抱きしめ、よくやったと褒めてくれるはずだ。そう信じて疑わなかった。
ところが……現実は私の妄信を無惨に打ち砕いたのだ……!
シュピーゲル博士は、私に殺人など一言も頼んでいなかったのだ。彼の計画はあくまで、人々の同意のもとに行われる静かで平和な集団自殺であり、血生臭い暴力など微塵も求めていなかった。
勢い余って、血に飢えた獣のように単独で人を殺し回っていたのは、彼の信者の中で私ただ一人であった。
私は治安維持部隊に逮捕され、冷たい牢獄で処刑される日を待つばかりだと思っていた。
だが。
その直後、世界は私の矮小な罪など消し飛ぶほどの未曾有の破滅を迎えた。
ウェザー・リポートの暴走と墜落。
天を焦がすような爆発と共に、私が神と崇めたシュピーゲル博士はあっけなくこの世を去った。
そして時を同じくして、恐るべき「思想ウイルスのパンデミック」が世界を呑み込んだのだ。
それは、物理的な病ではなく、精神を直接蝕む悪夢の疫病だった。感染した者は、人間であろうと獣であろうと、隣人に対する一切の共感能力を喪失し、ただ純粋な殺意の塊となって、生き物が生き物に対する無差別の殺戮を開始したのである。
戦争という概念すら生温い。親子が喉を噛み千切り合い、かつての友が互いの眼球を抉り出す。瞬く間に高度な魔導文明は崩壊し、壮麗だった王都は、血と死臭が充満する世紀末の荒野へと早変わりした。
社会の機能が完全に崩壊した以上、私という一人の連続殺人鬼を裁く法も、処罰する執行者も、もはやどこにも存在しなかった。私は、狂気と死の吹き荒れる荒野を、ただ息を潜めて生き延びた。
やがて、絶望のどん底にあった人類の前に、巨大な飛竜が降臨し、その圧倒的な力と奇跡によって世界を復興へと導いた。灰燼に帰した都市は「新王都」という名を与えられ、三十年という長い歳月をかけて、かつての平和と秩序を取り戻していったのだ。
あれから三十年────。
新暦百三十八年の現在。私は、白髪の混じる初老の男となっていた。
過去の罪は、世界の崩壊と共に完全に闇に葬られたはずだった。警察機構が復活し、私が「王都四十人連続殺人事件」の真犯人であると目星をつけられ、幾度となく攻め立てられたが、決定的な証拠はすでに存在しなかった。当時の資料も、遺体も、すべてがあのパンデミックの業火に焼かれて消滅していたからだ。
だが。
ある日の夕暮れ時。
新王都の薄暗い廃工場跡を歩いていた私の前に、二人の影が立ち塞がった。
ひどくやつれ、しかし眼光だけは異常に鋭い、中年男性と中年女性だった。
彼らの顔を見て、私の記憶の底に沈んでいた古い名簿がめくれた。彼らは、私が三十年前に殺したターゲットのうちの二人、あの善良ぶった兄弟の生き残り……幼少期に兄と姉を私に惨殺された、被害者の遺族であった。
「お前か……。お前が、兄さんと姉さんを殺した悪魔だな……!」
男が、血を吐くような声で絞り出した。その手には、震えるナイフが握られている。
「逃げられると思うな!私たちは……三十年間……一日たりとも忘れたことはない!三十年間だぞ!お前が笑って生きている間、私たちがどれほどの!どれほどの地獄を這いずり回ってきたか!」
女もまた、ボロボロと涙を流しながら私を睨みつけている。
私は、彼らのその執念深い言葉を聞いて、心底からの……呆れを感じた!
三十年!
世界が一度完全に滅び、そして飛竜の奇跡によって再生したというのに、こいつらは未だに、たかが血縁者が二人死んだ程度の過去に囚われているのだ!
こいつらは、馬鹿だ!
あの思想ウイルスのパンデミックで、何億という人間が無惨に死んだのだ。それに比べれば、お前たちの悲劇など、取るに足らない塵芥に等しいではないか!
「いい加減に、しろッ!」
私は苛立ちに任せて、声を荒らげて叫んだ。
「言いがかりをつけるな!だいたい、私がやったとして、それがいったい、何だ!終わったことだからいいじゃないか!世界は前へ進んだんだ!人が一体死んだくらいで、なんだ!いつまでも過去にくよくよするな!前へ進め!成長しろ!お前たちのその執着こそが、世界を!……腐らせるんだよ!」
私のその正論めいた暴言が、彼らの理性の糸を完全に焼き切った。
「うわああああああああああああっ!!」
絶叫と共に、二人は獣のように私に飛びかかってきた。ナイフが私の肩を掠め、鋭い痛みが走る。私は男の腕を振り払ったが、女が私の髪を掴み、顔面を狂ったように殴りつけてきた。
「前へ進めだと!?こいつ!こいつは!こいつだけは!許してはおけない!兄さんたちを返せ!私たちの人生を返せぇっ!」
彼らは泣き叫び、鼻水を垂らしながら、無様に私を殴り続けた。私も必死で抵抗したが、老いた体では二人の狂乱を抑え込むことはできなかった。口の中が切れ、鉄の味が広がる。
その時だった。
「もう、無駄な争いはやめなさい。」
低く、しかし、空気を凍らせるほどに深く、重みのある声が響き渡った。
その声には、一切の暴力的な響きはない。しかし、耳にした瞬間に魂の根源を鷲掴みにされるような、圧倒的な凄みと重圧があった。
私を殴りつけていた男女の動きが、まるで時を止められたかのようにピタリと静止した。
足音が近づいてくる。
ゆっくりと現れたのは、年齢は五十歳前後だろうか、漆黒のコートを羽織った一人の女だった。
褐色の肌に、深い刻み込まれた皺。だが、その背筋は刃のように伸び、見下ろす瞳には、底知れぬ哀哀と、静かな怒りが同居していた。
驚くべきことに、彼女の頬には一筋の涙が伝っていた。
彼女は、血走った目で硬直する被害者遺族たちを、慈愛すら感じさせる目で見つめ、諭すように言った。
「これ以上の復讐は、お前たちの魂を汚すだけだ。もう十分だろう。私が引き受ける。下がりなさい」
その言葉に、被害者の男女は怒りに全身を震わせた。ようやく親の仇、兄弟の仇を追い詰めたのだ。それを赤の他人に止められ、素直に引き下がるわけがない。
「なんだあんたは!……引っ込んでろ!こいつは、私たちの……どけよ!」
男がナイフを女に向けようとした瞬間、女から放たれた目に見えない巨大な魔力の波動が、彼らの膝を強制的に地に屈服させた。
私は、地面に這いつくばりながら、その五十絡みの女を見上げていた。
息が止まるかと思った。
この圧倒的なカリスマ。
他者の憎悪を力で押さえ込みながらも、涙を流して平和を説くその姿。
間違いない。私は確信した。この混沌とした新王都に、あのファントム・シュピーゲル博士に代わる、真の指導者が現れたのだと。彼女ならば、この狂った世界を再び正しき救済へと導いてくれるに違いない。
女は、私の方へゆっくりと向き直り、冷ややかな瞳で私を見下ろした。
「お前。リーベ・ニヒスツだね。」
私は、歓喜に打ち震えながら、血だらけの顔を上げて叫んだ。
「そうだ!私がリーベ・ニヒスツだ! 俺は、あの偉大なるシュピーゲル博士の……!」
己の輝かしい信仰の歴史を語ろうとした、その時だった。
私の視界が、女の顔の細部を捉えた。
三十年の歳月を重ねてはいるが、その骨格、その褐色の肌、そして瞳の奥に宿る魔力の色彩。
それは、かつて私が間接的に耳にしていた、世界を救済し、しかしシュピーゲルの理想とは対極に位置した存在。
「あの褐色の大賢者」……エラーラ・ヴェリタスの面影、いや、彼女そのものではないか。
私がその事実に気づき、戦慄の悲鳴を上げるよりも早く、女は静かに右手を持ち上げた。
彼女の手のひらに、太陽すらも凌駕するほどの、圧倒的で高密度な光の魔力が瞬時に収束していく。
「カタキだよ。」
女は、一切の感情を排した、しかし絶対的な殺意を込めた声でそう告げた。
「お前のような愚者が、己の承認欲求のためにむやみに人を殺しまくるから、シュピーゲル博士は計画を早め、不完全な状態でウェザー・リポートを起動せざるを得なくなったのだ。」
女の目から、再び涙が溢れ落ちた。それは、被害者たちへ向けたものではなく、三十年前に失われた、彼女にとっての唯一の光へ向けた悲痛な涙だった。
「お前が、あの方を死に追いやった。お前が、あの優しきシュピーゲルを殺したようなものだ。私の、たった一人の恩師を!」
「ちが、私は博士のために――」
私が弁明を口にする間もなく。
「死ね。」
次の瞬間。
女の手のひらから放たれた極太の光線が、私の顔面を直撃した。
熱。
痛み。
それらを感じる暇すら、私には与えられなかった。
リーベ・ニヒスツという魂は、一切の原型を留めることなく、数万度の熱線によって一瞬にして蒸発し、爆散した。
完全なる、消滅。
後に残されたのは、ひび割れ、黒く焼け焦げた廃工場のコンクリートの壁と、重苦しい静寂だけだった。
地面に膝をついていた被害者遺族の男女は、目の前で起こった予期せぬ光景に、数秒間、完全に思考を停止していた。
しかし、あの憎き連続殺人鬼が、文字通り塵となってこの世から消え去ったのだと理解した瞬間、彼らの顔に狂喜の表情が浮かんだ。
「死んだ……!あいつが!あの悪魔が、死んだぞ!」
彼らは抱き合い、涙を流して復讐の成就を喜んだ。三十年間の苦しみが、ついに報われたのだと、困惑しながらも神に感謝した。
だが。
その喜びは、一瞬のうちに、文字通り冷水のように消え去った。
彼らがふと周囲を見渡した時、薄暗い廃工場の陰から、無数の影が音もなく滲み出してきていることに気がついたからだ。
全身に極彩色の刺青を入れた男たち。
無機質な瞳で魔導銃を構える暗殺者たち。
誰もが恐れる、新王都最大の裏社会を牛耳る巨大暴力団、「ニルヴァーナ」の極道者たちであった!
彼らは、逃げ道を塞ぐように、遺族の男女を完全に包囲していた!
そして、その頂点!
先ほどまで涙を流して平和を説き、そして圧倒的な光の魔導でリーベを消し飛ばしたあの女こそが、その「ニルヴァーナ」の冷酷無比なボス、ヴィルゴ・ライ・リーアその人であるという事実に、二人はついに気がついたのだ。
極道者たちが、一斉に武器のセーフティを解除する冷たい金属音が響く。
もはや、逃げ道はなかった。
連続殺人鬼の代わりに、今度は裏社会の頂点に立つ怪物たちの処刑場に迷い込んでしまったのだ。
男も女も、絶望に顔を歪め、互いの身を庇い合うようにして目を閉じ、死を覚悟した。
しかし。
静寂を破る銃声は、鳴り響かなかった。
恐る恐る二人が目を開けると、「ニルヴァーナ」のボスであるその女は、部下たちに攻撃の指示を出すこともなく、ただ静かに、地面で震える二人を見下ろしていた。
その瞳には、先ほどのリーベに向けたような激しい殺意は微塵もなかった。
あるのはただ、救いようのないこの世界で、過去の因習と復讐という鎖に繋がれたまま、無様に生きるしかない哀れな弱者への、憐憫の色だけだった。
「……行くよ」
女は、遺族たちに一言もかけることなく、コートの裾を翻して踵を返した。
その声一つで、周囲を囲んでいた極道者たちは音もなく武装を解き、モーセの海のように道を開け、彼女の背中の後ろへと静かに付き従っていった。
取り残された二人は、冷たいコンクリートの床に座り込んだまま、ただ呆然と、遠ざかっていく暴力団の群れを見送ることしかできなかった。
復讐は、終わった。
だが、彼らの心に残ったのは、晴れやかな解放感などではなく、この新王都の底知れぬ闇の深さと、己という存在の圧倒的な無力さだけであった。




