第3章:死の淵の契約
「忘却の遺跡」は、王都から東へ二日の距離にあった。
荒れ地の真ん中に、ぽつんと立つ古代の塔。周囲には何もない。草も生えない、灰色の大地。
セロスは、塔の前に立った。
石造りの塔は、風化して崩れかけている。入口は口を開けたまま、暗闇を覗かせている。
(ここが、「忘却の遺跡」)
依頼書によれば、この遺跡は数ヶ月前に発見された。最初に入った探索者チームが、貴重な遺物を持ち帰った。それを聞いて、二組目、三組目が挑戦した。
誰も、帰ってこなかった。
ギルドは遺跡を封鎖しようとしたが、その前に遺物の回収を試みることにした。それが、今回の依頼だ。
セロスは、装備を確認した。
剣——安物だが、三年間彼を守ってきた相棒。
ランタン——油は十分。
ロープ——十メートル。
水筒——満タン。
乾パン——三日分。
これだけだ。
他の探索者なら、もっと装備を整えるだろう。魔除けの札、回復薬、予備の武器。
セロスには、そんな金はなかった。
(行くしかない)
セロスは、塔の中に入った。
内部は、思ったより広かった。
円形の大広間。天井は高く、上の方は暗闇に消えている。壁には、古代文字が刻まれている。
そして——階段。
下へ、下へと続く階段。
(地下に続いているのか)
セロスはランタンを掲げ、階段を降り始めた。
石の段は湿っている。カビの臭い。そして、何か別の臭い——死臭のような、甘ったるい腐敗の匂い。
階段は長かった。
どれくらい降りただろう。十分?二十分?
ようやく、階段が終わった。
広い通路。左右に部屋が並んでいる。
セロスは、最初の部屋を覗いた。
空っぽだった。壁に文字が刻まれているだけ。
次の部屋。
これも空。
三つ目の部屋——
セロスは、息を呑んだ。
床に、白骨が転がっていた。
探索者の装備を身につけた、三体の白骨。
(これが......未帰還の探索者たちか)
セロスは部屋に入った。骨を確認する。武器はない。装備もボロボロだ。
何に殺されたのか?
骨に、傷はない。毒?罠?それとも——
「......うぁ」
小さな声が、喉から漏れた。
骨の一つの頭蓋骨——
顔が、歪んでいる。
笑っているような、泣いているような。
恐怖と絶望の表情が、骨に刻まれている。
(何を見た? 何があった?)
セロスは後ずさった。部屋を出る。
心臓が、激しく打っている。
(落ち着け。落ち着くんだ)
セロスは深呼吸した。
(まだ、何も起きていない。先を進もう)
通路を進む。さらに奥へ。
部屋が続く。どれも空だ。時折、骨が転がっている。古い骨。何百年も前のものだろう。
そして——
通路の突き当たり。
大きな扉。
黒い石でできた、重厚な扉。古代文字が刻まれている。
セロスは扉に手を置いた。
冷たい。
そして——微かに、脈打っている。
まるで、生きているかのように。
(この奥に、何がある?)
セロスは扉を押した。
重い。
全体重をかけて、押す。
きしんだ音を立てて、扉が開いた。
扉の向こうは——
宝物庫だった。
円形の部屋。壁際に、棚が並んでいる。
そこには——
遺物。
無数の遺物。
剣、盾、鎧、装飾品。全て、古代のもの。
セロスは、息を呑んだ。
(これは......)
(これだけあれば、一生遊んで暮らせる)
しかし——
(なぜ、こんなに簡単に?)
疑問が湧く。
未帰還の探索者たちは、ここに辿り着けなかったのか?
それとも——
セロスは、部屋の中央を見た。
そこに、台座がある。
そして、台座の上に——
一つの遺物。
蒼い宝石のペンダント。
涙の形をした、美しい宝石。
ランタンの光を受けて、内部で光が渦巻いている。
セロスは、引き寄せられるように、台座に近づいた。
(これは......)
手を伸ばす。
触れようとした、その時——
「ソレニ フレルナ」
声がした。
セロスは振り返った。
誰もいない。
「ソレハ オマエノモノデハナイ」
また、声。
どこから?
「モドレ ニンゲンヨ」
部屋の壁が、光り始めた。
古代文字が、蒼白い光を放っている。
セロスは悟った。
(罠だ)
扉の方へ走る。
しかし——
扉が、閉まった。
轟音と共に、石の扉が落ちる。
セロスは扉を叩いた。
「開けろ! 開けろ!」
びくともしない。
「ソレニ フレタモノハ シヌ」
声が、部屋中に響く。
「ソレハ エラバレシモノノミガ テニスルモノ」
セロスは振り返った。
ペンダントが、強く光っている。
「エラバレシモノ......?」
セロスは呟いた。
(予言の子、ということか?)
(でも、俺は——)
(俺は、選ばれなかった)
壁の光が、渦巻き始めた。
部屋の温度が、上がっていく。
いや——違う。
下がっている。
急激に、寒くなる。
セロスの息が、白い。
(このままでは、凍死する)
焦りが、セロスを支配する。
(どうする? どうすればいい?)
扉は開かない。
窓はない。
他に出口は——
ない。
(ここで......死ぬのか?)
セロスの膝が、がくりと折れた。
冷たい石の床に、倒れ込む。
もう、体が動かない。
(寒い......)
(母さん......)
意識が、遠くなる。
その時——
ペンダントが、さらに強く光った。
「......タスケテ」
声が聞こえた。
今度は、古代語ではない。
セロスの言葉だ。
「タスケテ......」
誰の声?
セロスは、かすむ視界でペンダントを見た。
宝石の中で、何かが動いている。
「タスケテ......」
ああ——
分かった。
ペンダントが、話しかけている。
「お前......も、閉じ込められているのか?」
セロスは呟いた。
「タスケテ......」
「俺が......触れれば......」
「助かるのか?」
返事はない。
ただ、光が強くなる。
セロスは、最後の力を振り絞った。
這う。
台座へ。
一メートル。
五十センチ。
三十センチ——
手が、届いた。
ペンダントに、触れる。
瞬間——
世界が、爆発した。
光。
圧倒的な光。
セロスの体が、宙に浮く。
いや——違う。
光に、包まれている。
温かい。
冷たかった体が、急激に温まる。
そして——
記憶が、流れ込んできた。
自分のものではない記憶。
玉座。
戦場。
炎。
泣き叫ぶ人々。
そして——
後悔。
深い、深い後悔。
『私は......間違えた』
声。
男の声。
『やり直さなければ』
『もう一度......もう一度、選択を』
セロスの意識が、混濁する。
(これは......誰の記憶?)
『契約スルカ』
声が、はっきりと聞こえた。
『私ノ力ヲ オマエニ』
『代償ハ——』
そこまで聞いて、セロスの意識は途切れた。
目を覚ました時、セロスは部屋の床に倒れていた。
体が、重い。
でも——生きている。
寒さは、消えていた。
部屋は、普通の温度に戻っている。
壁の光も、消えている。
セロスは体を起こした。
胸に——
胸に、何かがある。
見下ろすと——
蒼い宝石のペンダント。
心臓の上で、微かに脈打っている。
「これ......」
セロスは、ペンダントを掴もうとした。
外そうとした。
しかし——
外れない。
チェーンはない。ただ、肌に貼りついている。まるで、体の一部のように。
「契約、したのか......?」
セロスは呟いた。
記憶が曖昧だ。何が起きた?
ただ——
ただ、分かることがある。
自分は、生きている。
そして、何かが——
何かが、変わった。
セロスは立ち上がった。
体が、軽い。
さっきまでの疲労が、嘘のように消えている。
部屋を見回す。
扉が、開いていた。
いつの間にか、開いている。
セロスは、扉へ向かった。
振り返る。
宝物庫の遺物たちは、まだそこにある。
(持っていくべきか?)
しかし——
セロスは、そうしなかった。
なぜか分からない。
ただ、触れてはいけない気がした。
ペンダントだけで、十分だ。
セロスは、遺跡を出た。
外に出ると、夕日が沈みかけていた。
(どれくらい、中にいた?)
時間の感覚が、ない。
セロスは、王都への道を歩き始めた。
胸のペンダントが、時々、微かに温かくなる。
まるで、心臓がもう一つあるかのように。
(俺は......何と契約した?)
(これは、何だ?)
答えは、まだ分からない。
ただ——
ただ、一つだけ確かなことがある。
セロスの人生が——
今日、変わった。
[第3章 了]




