第2章:過去の傷跡
眠れなかった。
セロスはベッドの上で何度も寝返りを打った。薄い毛布。固いマットレス。窓の外から聞こえる、酔っ払いの歌声。
眠れない理由は、それだけではなかった。
明日、「忘却の遺跡」に向かう。危険な依頼だ。過去二組が帰ってこなかった。自分も、帰ってこられないかもしれない。
それでも——
それは、今に始まったことではなかった。
セロスは毎晩、こうして天井を見つめていた。眠れない夜を過ごしていた。
(いつから、こうなったんだろう)
答えは分かっている。
三年前——いや、もっと前。
あの日から。
セロスは十歳の時から、「予言の子」として育てられた。
ルーンヴァル王国には、古くから伝わる予言がある。「失われし王の血を引く子が目覚め、世界を救う」という予言だ。
セロスの一族——ヴェルナ家——は、古代王の血を引くとされる名家だった。代々、予言の子が生まれる可能性のある家系として、王国に仕えてきた。
そして、セロスが生まれた年、奇妙な天体現象があった。
「星が消える夜」——予言に記された前兆だ。
神官たちは宣言した。「この子が、予言の子である可能性が高い」
セロスの両親は喜んだ。村は湧いた。王国中が、彼の誕生を祝福した。
十歳になるまで、セロスは特別な教育を受けた。剣術、学問、礼儀作法。予言の子にふさわしい、あらゆる訓練。
彼は——頑張った。
期待に応えたかった。両親を誇らしげにしたかった。村の人々に、笑顔でいてほしかった。
そして、十三歳。
「覚醒の儀式」の年齢に達した。
あの日のことを、セロスは今でも鮮明に覚えている。
春の終わり。晴れた日だった。
村の中央広場に、祭壇が設けられた。古代の文様が刻まれた石の台座。その上に、予言の書が置かれている。
村中の人々が集まっていた。いや、村だけではない。王都から神官たちが来ていた。貴族たちも。遠くの街からも、見物人が集まっていた。
セロスは、白い儀式服を着せられた。
母が、彼の肩に手を置いた。
「大丈夫よ、セロス。あなたはあなたのままで」
母はそう言った。でも、その声は震えていた。緊張しているのか、不安なのか。セロスには分からなかった。
父は——父は何も言わなかった。ただ、厳しい顔で、セロスを見つめていた。
「さあ、セロス・ヴェルナ。祭壇へ」
神官長が言った。白い髭を蓄えた、厳かな老人だった。
セロスは歩いた。群衆の視線を感じる。期待。希望。祈り。
重い。
とても、重い。
祭壇の前に立つ。神官長が、予言の書を開いた。古代文字で書かれた、誰も読めない文字。しかし、その意味だけは、代々伝えられている。
「星が消える夜、失われし王の血を引く子が目覚める——」
神官長が詠唱を始めた。
セロスは、言われた通りに膝をついた。両手を祭壇に置く。
「——その手は古き力を呼び覚まし、破滅か救済か、二つの道を示すだろう——」
祭壇が、微かに光った。
群衆がどよめく。
セロスの心臓が、激しく打つ。
(これから、何が起こる?)
不安と期待が混ざり合う。
「——選ばれし者よ、沈黙の声を聞け——」
神官長が、セロスの額に手を置いた。
「目覚めよ、予言の子よ!」
瞬間——
——何も起きなかった。
静寂。
光は消えた。祭壇は、ただの石に戻った。
セロスは待った。何かが起こるはずだ。力が目覚めるはずだ。
でも——
何も。
何も、起きなかった。
神官長が、手を離した。困惑した表情。
「......もう一度」
神官長は詠唱を繰り返した。セロスの額に、再び手を置く。
「目覚めよ!」
——何も起きない。
三度目。
四度目。
五度目——
群衆がざわめき始めた。
「どうしたんだ?」
「予言の子じゃないのか?」
「おかしい、星が消えたのに——」
セロスは、自分の手を見た。何も変わっていない。普通の、子供の手。
(なぜ?)
(なぜ、何も起きない?)
(俺は——俺は、予言の子じゃないのか?)
神官長が、溜息をついた。
「......残念だが」
その言葉が、全てを告げていた。
群衆の声が、大きくなる。
「やっぱり違ったのか」
「期待して損した」
「ヴェルナ家も、落ちたものだな」
セロスは、父を見た。
父は——顔を背けていた。
母は——泣いていた。
セロスは立ち上がった。足が震える。
「すみません」
誰にともなく、セロスは言った。
「すみません」
もう一度。
「すみません」
何度も。
謝り続けた。
なぜ謝っているのか、自分でも分からなかった。
ただ——
ただ、謝るしかなかった。
その夜、セロスは部屋で一人、泣いた。
翌日から、村の雰囲気が変わった。
人々は、セロスを見ても、もう笑顔を向けなかった。
同情の目。失望の目。
時には、軽蔑の目。
「あの子、結局普通だったのね」
「ヴェルナ家も、もう終わりだな」
「王都からあんなに人が来たのに、恥をかかせて」
噂話が、セロスの耳に届く。
彼は——学校に行けなくなった。
友達だと思っていた子供たちが、距離を置き始めた。
「お前、予言の子じゃなかったんだって?」
「がっかりだよ」
「もう、一緒に遊べないや」
セロスは、家に引きこもった。
父は、仕事に行く時間が増えた。家にいても、セロスと話さなかった。
母だけが——母だけが、優しくしてくれた。
「大丈夫よ、セロス。あなたはあなた。予言の子じゃなくても、あなたは私の大切な息子よ」
でも、母の目も、悲しみに満ちていた。
半年後。
父が、セロスに告げた。
「お前を、修行の旅に出す」
「修行......?」
「そうだ。お前には、まだ可能性がある。別の場所で、別の師に学べば、何か目覚めるかもしれない」
父の言葉は、優しかった。
でも、セロスには分かっていた。
これは——
追放だ。
「名誉ある追放」という建前。
村を出て、二度と戻ってくるな、という意味だ。
母が、泣きながらセロスを抱きしめた。
「ごめんね......ごめんね、セロス」
「母さんは、悪くない」
セロスは言った。
「俺が......俺が、予言の子じゃなかったから」
「違う!」母が叫んだ。「あなたは何も悪くない。悪いのは——」
母は言葉を飲み込んだ。
「......気をつけてね。必ず、生きて」
母は、手作りの布切れをセロスに渡した。
下手な刺繍。
『セロス いつも がんばってね』
「母さん......」
「あなたは、あなたのままでいいのよ」
それが、母との最後の会話だった。
十三歳のセロスは、村を出た。
小さな荷物を背負い、一人で。
誰も見送りには来なかった。
父は、家の中にいた。
村人たちは、窓から見ているだけだった。
セロスは振り返らなかった。
(俺は——俺は、何者なんだ?)
(予言の子じゃない。じゃあ、何?)
(ただの、普通の子供?)
(それとも——)
(それとも、何の価値もない、失敗作?)
その日から、セロスの旅が始まった。
目的のない旅。
ただ生きるための旅。
そして——
そして、三年が経った。
セロスは、ベッドの上で目を開けた。
夜が明けようとしている。窓の外が、うっすらと明るい。
(あれから、三年か)
十三歳だった少年は、十六歳になった。
背は伸びた。声は低くなった。
でも——
心は、あの日のまま止まっている。
(俺は、まだ探している)
何を?
自分の価値を。
存在する意味を。
(明日——いや、今日、「忘却の遺跡」に行く)
(帰ってこられないかもしれない)
(でも——)
(でも、それでもいい)
(何かを、証明できるなら)
セロスは起き上がった。
窓の外を見る。
朝日が、昇り始めていた。
新しい一日。
もしかしたら、最後の一日になるかもしれない。
それでも——
セロスは、準備を始めた。
[第2章 了]




