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【第一部「影の探索者」】第1章:最底辺の仕事

暗闇の中、セロスは息を殺していた。

石造りの回廊に足音が響く。自分のものではない。何か——いや、何者かが、この遺跡の奥深くを徘徊している。

心臓の鼓動が耳障りなほど大きく聞こえる。手の中のランタンを、セロスはぎゅっと握りしめた。光を絞り、炎をほとんど見えないほど小さくする。闇が迫る。それでも、光を完全に消すことはできなかった。この遺跡で明かりを失えば、二度と出口にはたどり着けない。

足音が近づいてくる。

セロスは壁に身を押し付けた。古代の石は冷たく、湿っている。この遺跡——「嘆きの墓所」と呼ばれる場所——は、ルーンヴァル王国の北東、霧深い森の奥にある。かつて何が埋葬されていたのか、今では誰も知らない。知っているのは、ここに足を踏み入れた探索者の半数が帰ってこないという事実だけだ。

だからこそ、報酬が破格だった。

だからこそ、セロスはここにいる。

足音が止まった。

静寂。

セロスは呼吸すら止めた。暗闇の向こうに、何かがいる。感じる。視線——いや、それ以上の何か。古代の遺跡に眠る「何か」が、侵入者を値踏みしている。

価値があるか、ないか。

喰うに値するか、どうか。

(また、値踏みされるのか)

セロスの心の奥で、小さな声が囁いた。いつもの声だ。自嘲と諦めの混じった、よく知った声。

(どうせ俺には、価値なんてない)

何かが動いた。

セロスは反射的に駆け出していた。背後で、轟音。石畳が砕ける音。巨大な何かが、さっきまで彼がいた場所を叩き潰した。

走る。ただ走る。

回廊が続く。左、右、また左。遺跡の構造なんて覚えていない。ただ、出口の方向だけは分かる。探索者として三年間、こうやって生き延びてきた。逃げることだけは得意だった。

背後から追ってくる気配はない。セロスは角を曲がり、小さな部屋に飛び込んだ。扉はない。壁に背を預け、荒い息を整える。

ランタンの光が、部屋の壁を照らした。古代文字が刻まれている。読めない。この国で古代文字を読める者は、ほんの一握りだ。セロスはそこに名を連ねない。

彼はただの、最底辺の探索者だった。

ポケットから、小さな布袋を取り出す。今日の「収穫」だ。遺跡の入口付近で見つけた、古代のコイン三枚。価値はほとんどない。骨董品として売れても、今日の食費にしかならないだろう。

それでも、手ぶらで帰るよりはマシだった。

(もっと奥に行けば、価値のあるものがあるかもしれない)

そんな考えが頭をよぎる。しかし、セロスはすぐにそれを振り払った。奥に行けば、死ぬ。それだけのことだ。

彼は死にたいわけではなかった。

ただ、生きている価値も分からなかった。


ギルドに戻ったのは、日が沈む頃だった。

「嘆きの墓所」から王都アインシュタットまでは、馬で半日の距離だ。セロスは馬を持っていないので、歩いて戻った。足が痛い。靴底に穴が空きかけている。

ギルドの建物は、王都の中心街にある立派な石造りの建物だ。三階建てで、一階が受付と酒場、二階が会議室、三階が上級探索者の専用ラウンジになっている。セロスは三階に行ったことがない。

重い扉を押し開ける。

酒場はすでに賑わっていた。依頼を終えた探索者たちが、酒を飲み、仲間と語らい、今日の戦果を自慢している。華やかな笑い声。武器と防具がぶつかり合う音。生きている者たちの、生命力に満ちた空間。

セロスは壁際を、できるだけ目立たないように歩いた。

「おい、見ろよ。『影』が帰ってきたぜ」

誰かが言った。笑い声が起こる。

セロスは顔を上げなかった。『影』——それが、彼の渾名だった。目立たない。暗い。すぐ消える。そういう意味だ。

受付に向かう。若い女性職員が、セロスを見て小さく眉をひそめた。

「依頼書」

セロスは言った。声が小さい。自分でも分かっている。

「......『嘆きの墓所』の調査、ですね」

職員は書類を確認した。「成果物は?」

セロスは布袋を差し出した。職員がそれを開け、コインを確認する。

「古代銅貨、三枚。状態は......良好とは言えませんね」

「すみません」

「謝らなくていいです」職員は淡々と言った。「買取価格は、三枚で銀貨二枚です。依頼料と合わせて、銀貨五枚になります」

銀貨五枚。安宿に三日泊まれて、質素な食事を一週間分買える程度の金額だ。

セロスは受け取った硬貨を、懐に仕舞った。

「次の依頼は?」職員が聞く。

セロスは依頼ボードを見た。壁一面に、羊皮紙が貼られている。様々な依頼。遺跡の探索、魔物の討伐、遺物の運搬。

そして、それぞれにランクが記されている。

Eランク——初心者向け。

Dランク——一般的。

Cランク——熟練者向け。

Bランク——危険。

Aランク——非常に危険。

Sランク——生還率が低い。

セロスは、Dランクだった。三年間探索者をやって、やっと到達したランクだ。それでも、彼が受けられる依頼は限られている。危険度の高い依頼は、パーティ推奨だ。単独で受けるには、もっと上のランクが必要になる。

しかし、セロスにはパーティがなかった。

誰も、彼とパーティを組みたがらなかった。

「影」と一緒にいると、運が悪くなる——そういう噂があった。根も葉もない噂だが、一度ついた噂は消えない。

セロスの視線が、一枚の羊皮紙に止まった。

『緊急依頼:「忘却の遺跡」調査。ランク:Cクラス。報酬:金貨一枚。※注意:過去二組が未帰還。単独推奨せず』

金貨一枚。銀貨百枚分だ。一ヶ月は食べていける。いや、二ヶ月でも足りる。

「それは......」職員が言いかけた。

「これを受けます」

セロスは羊皮紙を取った。

職員は困惑した表情を浮かべた。「しかし、あなたのランクでは——」

「規則では、一つ上のランクまで受けられるはずです」

「それは......そうですが」職員は言葉を濁した。「過去二組が、帰ってきていません。あなた一人では——」

「大丈夫です」

セロスは言った。大丈夫かどうかなんて、分からない。でも、言うしかなかった。

職員は溜息をついた。「......依頼を受理します。出発は明日の朝でいいですね?」

「はい」

「気をつけて」

職員はそう言ったが、その声に期待は込められていなかった。セロスが帰ってこないことを、すでに想定している声だった。

セロスはギルドを出た。

夕暮れの空が、血のように赤い。


安宿に戻る道すがら、セロスは考えていた。

(なぜ、あの依頼を受けた?)

自問する。答えは出ない。いや、答えは分かっている。ただ、認めたくないだけだ。

金が欲しいから——それは表向きの理由だ。

本当は——

(証明したいのか? 何を? 誰に?)

自分に価値があることを。

予言の子になれなくても、自分には何かできることを。

それとも——

(もう、疲れたのか?)

そんな考えが、脳裏をよぎる。

セロスは首を振った。違う。死にたいわけじゃない。ただ——

ただ、このまま影のように生きていくのが、耐えられなかった。

誰にも期待されず、誰にも必要とされず、ただ日々を消費していく。

それなら——

それなら、いっそ——

「おい、前を見ろ」

突然、声がした。

セロスは顔を上げた。目の前に、人がいた。ぶつかりそうになる。咄嗟に身を引く。

「すみません」

反射的に謝る。相手は——探索者だった。立派な鎧、上質なマント。腰には見事な剣。明らかに上級の探索者だ。

男はセロスを一瞥し、鼻で笑った。

「影か。相変わらず、そこにいるのかいないのか分からねえな」

セロスは何も言わなかった。男は仲間たちと笑いながら、酒場の方へ歩いていった。

セロスは再び歩き始めた。

安宿「眠れる羊亭」は、王都の外れにある。一泊銅貨五枚。安いが、清潔ではない。それでも、屋根があり、ベッドがある。それだけで十分だった。

部屋に入り、セロスは荷物を下ろした。ベッドに腰掛ける。窓の外を見る。

夕暮れが、夜に変わろうとしていた。

セロスはポケットから、小さな布切れを取り出した。古く、ほつれている。だが、彼はそれを大切に持っている。

布には、刺繍がある。下手な刺繍だ。子供が縫ったような。

——『セロス いつも がんばってね』

母の手によるものだった。彼女がまだ生きていた頃、セロスが探索者になる前に縫ってくれたものだ。

母は、セロスが予言の子になれなかったことを、一度も責めなかった。

ただ、「あなたはあなたのままでいい」と言った。

その一年後、母は病で亡くなった。

セロスは布切れを、再びポケットに仕舞った。

(母さん、俺は——)

言葉が続かない。

セロスは横になった。天井を見つめる。

明日、「忘却の遺跡」に向かう。

帰ってこられるかどうか、分からない。

それでも——

それでも、何かを——

何かを、証明したかった。

自分が、ここに存在していることを。


[第1章 了]

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