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作者: 大橋勇

 私は駅に降り立った。険しい山岳地帯と深い森によって外部から閉ざされた僻地にある小さな町の小さな駅だ。小さな町だが権威ある大学や研究機関があると列車の中で聞いていた。この町の駅にはホームがひとつしかなく線路も一本しかなかった。私は恋人や友人には何も言わず、彼女らを列車に残し、このホームに男ひとりで鞄ひとつを肩から提げて降り立った。駅舎は赤い色の三角屋根の木造でずいぶん古い物だった。駅舎の向こう側、つまり北側には、この町の建物がいくつも見えていた。いっぽう、その反対側、つまりホームから線路を挟んで南側には、草原と、その向こうにある深い森が遙か彼方まで続いていて、遠くに霞んで見える地肌を露出した山脈がその森を遮っていた。ようするにこの町は広い盆地の森林地帯の真ん中にあった。列車の乗り心地はさほど悪くはなかったが、いくつものトンネルを抜けたり、鉄橋を渡ったり、様々な素晴らしい景色を眺めても、もう行先はたぶん決まっている線路の上を走っていくだけでは面白くもないだろう、ちょっとくらい途中下車してもいいだろうと思っていたところへ、この町のこの駅に着き、その魅力、永遠に滅びることのないようなその魅力に惹かれてつい降りてしまったのだ。他にも降りる客はいて、皆、長旅で疲れた表情をしていた。列車に乗る客もいて、彼らは列車を待ちわびていたような顔をしていた。ホームに降りた私は胸いっぱいに田舎の空気を吸い込んだ。

「悪くない。居心地もよさそうだ」

私は改札口に切符を持って行った。改札は自動改札ではなく駅員が受け取る昔ながらの改札だった。そういうところも私の気に入った。

 私は改札の駅員に切符を見せて訊いた。「途中下車は何日間有効ですか?」私は途中下車というものを、これまでしたことがなかったから、これがいちばん気がかりだった。

「いつまでも」と駅員は笑顔で言った。「この駅で途中下車される方には長くこの町にご滞在いただくため、切符の有効期限を設けておりません」

 私は嬉しくなった。「そうか、好きなときにまた列車に乗ればいいんだ」私は安心した。切符はポケットにしまった。改札口近くに太った三毛猫が一匹寝転んでいた。「ゴロニャーゴ」。私はそれを聞くと穏やかな気持ちになり駅を出た。

 駅前は広場になっていて、真ん中に私が名も知らない大きな木が一本立っていた。三十数年生きてきた私だが、こんな不思議な木を見るのは初めてだった。空に向かって枝を広げているのだが、所々枯れていたり、あるいは紅葉していたり、あるいは青々としていた。近づいて幹を見てみると、樹皮がざらざらしている部分や、つるつるしている部分、凸凹している部分があり、縞が縦方向にあったり横方向にあったりで統一性のないメチャクチャな木だった。それでも一本の木だった。私はその木の下から周りを見渡したが、広場にタクシーはなかった。宿をタクシーの運転手に紹介してもらおうと思っていたが、まあ、小さな町だから歩いているうちに宿も見つかるだろう、そんなふうに思って私は鞄を肩から提げて歩き始めた。

 駅前広場には三階建ての小さな新しいホテルが一軒あったが、その新しさがなんとなくありきたりで気に入らなかった。私はけっして新しい物が嫌いなわけではなかったが、せっかく田舎の町に降りたのだ、ここで新しいホテルには泊まりたくない、なぜかそう思った。新しい物に囲まれた旅に慣れていた私は、たまには古い物に触れてみたい、そう思ったのかもしれない。歩いているうちに他の宿はすぐに見つかった。と言うより、この町は宿だらけだった。温泉地なのだろうか?個性的な宿が多く、新しいのや古いのやらが軒を連ねていた。どの宿がいちばん落ち着くだろうか、と私は歩きながら宿を物色した。そして、適当なのが見つかったので入ってみた。

 その宿は老舗旅館だった。木造二階建てで、玄関に入るとガラスケースがあり、その中に多くの著名人たちの写真がそれぞれ立てに入れられて並べられてあった。政治家、軍人、芸術家、学者などなど著名な人物たちがこの宿を利用したらしい。それらを見て私は「歴史上の著名な人々がこんなにも泊まるのだから、この宿はきっといい宿に違いない」と思って、この宿に決めた。歴史の中に自らが入ったような気がした。

 仲居に案内されて二階に行くと、埃のたまった四畳半の古臭い部屋に入った。私はどうしてこんなに埃がたまっているのかと仲居に訊いたら、仲居は、「この部屋は昔、著名人が泊り、そのままにしてあります。この部屋を整理することは勇気が要るのです」と答えた。そして、「もしこの部屋を整理する勇気がおありなら掃除してください。そうしたら宿賃をタダにいたします。当館ではそのようにしています」と付け加えた。私は、「それなら」と腕まくりをし、ハンカチでマスクをして掃除を始めた。窓を開けると、埃が窓の外にぶわっと舞い出た。はたきをかけると埃で眼が見えないくらいになった。何年分の埃だろうか。天井に張ったクモの巣を払うのは一苦労だった。畳の上にはネズミの死骸があった。他にある物と言ったら壁際に寄せられたちゃぶ台だけだった。入り口は襖で表装がかなり破れていた。押入れの襖も同様だった。私は破れて垂れ下がった襖の表装をいくらかマシに見えるように部分的に破り取った。古い畳だけは宿の人に替えてもらった。そこにはダニやらノミやらが棲みついていてどうしようもなかったからだ。

 掃除を終えても、まだ襖や壁の染みは取れなかったが、逆にそれが伝統を残しているようで私の気に入った。居心地は悪くなかった。歴史上の人物になったような気がした。

 しばらくすると、寂しくなってきた。誰かと話がしたかった。腹も減った。そこへ仲居が来た。「夕食はどういたしましょうか?」

私は答えた。「外へ食べに行くよ。人が集まる食堂は近所にありますか」

仲居は答えた。「当館の一階には食堂がございます。そこには当館にお泊りでない方もいらっしゃいます」

「そうですか、じゃあ、そこで食べます」

 私は仲居に案内されて食堂に向かった。廊下や階段の壁にはやはり歴史上の人物たちと思われる、古い肖像写真が額に入れて掛けられてあった。ずらりと並んだその写真たちを見て私は、「まるで歴史の中を歩いているようだ」と感じた。

 木造の老舗旅館だったが、やはり、たまに来る金持ちだけの相手では商売にならないのだろう。一階にある食堂は大衆化されたビヤホールだった。そこは時代を感じさせるホールで艶のある木目調の床、壁、天井、テーブル、そして椅子で雰囲気がまとめられていた。多くの旅人らしき人たちが、ビールを飲んで喋っていた。客は女も何人かいたが、ほとんどが男だった。カウンターもあって中にはバーテンダーがいた。給仕が忙しくビールやつまみ、おかずを盆に載せて立ち回っていた。男たちのガヤガヤとした喋り声。食器のガチャガチャ。まったく騒がしかった。客たちは三十人から四十人はいるように見えた。私は、ホールの隅にある空いた四人掛けのテーブル席に座り、ビールを注文した。

「なんだね?あんたもあれを探しにこの町に来たのかい?」酒に酔った男が、なれなれしく私の隣の席に座った。顔を真っ赤にして、へべれけになっている。息が臭い。歳は四十過ぎくらいだろうか、背が低く頭が禿げている。

「あれとはなんです?」私は訊ね返した。

「ははは、冗談を。この町に来て、あれを知らないわけがない。いや、俺もじつは知らないんだ」男はグビッとビールを飲み干した。

 するともうひとりの男が、私の向かいの席に座った。背が高い口髭を生やした四十代と思われるこの男もやはり酔っている。「みんな知らないさ。知らずに探してるんだ。知らずに探してるんだから、見つかるわけがないって言う奴もいるがな」

しかし、先に話しかけてきた背の低い禿げた男が私の隣で言った。「この町には長い歴史があるんだ。歴史上の錚々たる面々がこの町で探し続けて来たんだ。大学まで作ってな。あと少しで見つかるような気もするが・・・」

それに対して背の高い口髭の男が私の向かいの席で赤い顔をのけぞらせて言った。「見つからんさ。せいぜい一生懸命探して歴史に名を残せれば、それで充分かな、と俺は思うぜ」

「あれよりも探すこと自体に価値があるってわけか?」背の低い禿げた男は言った。

背の高い口髭の男は返した。「そういうわけではないが、歴史上の人物であれを見つけた人はひとりもいない。そもそもあれは存在しないんじゃないだろうか?」

背の低い禿げた男は言った。「存在しないほうが世のためかもしれないよ」

「そうだな、もし見つけてしまったら、人々は探すのをやめてしまう。そうなるとこの町も閉鎖だな」と背の高い口髭の男は言った。

私は割り込んだ。「あなたたちはなにを言ってるんです。あれとか探すとか」

禿げた男が言った。「じゃあ、なんであんたはこの町に来た?」

「それはこの町に魅力を感じたからです」

「どんな魅力を?」口髭の男が言った。

「どんなって、そりゃ、この田舎の小さな町の雰囲気に・・・」

「ははは、そいつぁ傑作だ」と禿げた男は笑った。「この町が小さな田舎町だって?外へ出て見ろ」

私はふたりに従って旅館の外に出た。そこは明滅する信号機に従いライトを点けた自動車がビュンビュン行き交い、どこに向かうのか群衆が歩道を行き交っている、夜の中に光輝く摩天楼の聳える大都会だった。ミュージカルとか映画などの看板が煌々と光っていた。

「あれ?」私は自分の目を疑った。「たしかに私の降りた駅は小さな駅で、町も小さな田舎町だったのに」

背の低い禿げた男は言った。「摩天楼に昇ってみるかい?あれにはエレベーターってものがないんだ。一段一段階段を昇らなければならない。長い年月をかけて築いた建物だからな」

私はふたりの男に言った。「お願いします。案内してください」

ふたりの男は答えた。「嫌だね。昇りたかったら、ひとりで昇りな」

ふたりの男は食堂の方へ戻って行った。旅館はビルの谷間にあって、そこだけが時代から取り残されているような、あるいは時代とは関係ないかのような風情だった。

 隣のビルの一階にはブティックが入っていた。表はガラス張りで、男性と女性の人間離れしたような理想的な体形のマネキンが流行の服を着て並んでいた。顔には表情がなく、まったく中身のないような風情で立っていた。そのブティックの中の試着室から女の声が聞こえた。外まで聞こえるから、かなり大きな声だ。「ああ、これでもないあれでもない。いったい、あたしに似合う服はどこにあるの?あたしはなにを着たらいいの?ああ、あたしもマネキンのような体形だったらなにを着ても満足できたろうに。こんな体形に生んだ親が憎い!ていうか、こんな遺伝子を受け継いでいる運命が憎い!」

 私は摩天楼を見上げた。上の方は雲がかかっていて見えなかった。「この摩天楼は雲の上まで突き出ているのかな?屋上からはどんな景色が見えるだろう」私の体じゅうから力が漲ってきた。「よし、摩天楼に昇ろう」

 私は群衆の行き交う横断歩道を渡り回転ドアを通って中へ入った。中は図書館だった。

「え?この建物は図書館なのか?いや、たぶん下の階だけだろう」私はそう思って、受付の女性に訊いた。

彼女は答えた。「この建物は全部図書館です。世界中の本、古今東西のすべての書物があります。ちなみに最上階に行きたかったら階段を一段一段昇って行かなくてはなりません。その階段は本でできています。いや、この建物自体が本でできています。その本をひとつひとつ踏みしめて昇って行かなければなりません。いいですか?ひとつひとつです。けっして一段飛ばしなどしてはいけませんよ。覚悟はありますか?」

私は困った。覚悟ってどんな覚悟だろう?

 本の階段はいくつもあった。私が知らず知らずに踏んでいた床も本だった。古代文字らしきものが刻まれた石や百科事典、歴史上に名を連ねる名著たちが敷き詰められてあって、建物の礎になっていた。動物の皮に文字が書かれてあってそれが絨毯のように床に広げられてあった。文字の書かれた板や竹、あるいは巻物が柱の一部になっていたりした。古い本ほど下の方にあるように見えたが、意外と古い本が上の方にあったりするかもしれないと私は想像した。なぜなら床の石版の隙間に子供向けの絵本やマンガ本、ファッション雑誌や、猥褻な雑誌などさえあったからだ。見上げれば壁も天井も本だった。一階の天井はまるで二階に人が行くのを拒んでいるかのように高かった。本が上手く積み上げられていて空中に浮いている本などひとつもなかった。いくつもある階段の中には、比較的新しい本が一段目に位置している場合もあった。時系列に下から積み上げられているわけではないようだ。この図書館は時間というものが混濁しているようだと私は思った。私はどの階段を昇ればいいかわからなかった。すべての階段が屋上へ続いているわけではないかもしれないと思ったからだ。そこで私は最も頑丈そうな本の階段のひとつを選んで昇り始めた。私の選んだ階段は歴史的に評価の定まった名著と呼ばれる本たちが積まれた階段だった。これなら確実に最上階、いや、屋上まで私を導いてくれるだろう、と判断したからだ。結局、知的権威に縋ることで高く昇ろうとしたわけだ。それしか縋るものがなかった。受付の女性が言ったように一歩一歩確実に昇って行った。初めは気持ちよく昇ることができた。二階、三階、四階、と昇って行った。次第に息切れがしてきた。何十階と昇っても屋上への出口はやって来ない。いや、途中から降りているのかもしれないという錯覚に襲われたりもした。そもそも階段は屋上まで続いてないんじゃないか?ひょっとするとこの階段は永久に続くのではないか、と疑ったりもした。不安になった。それでも屋上の澄んだ空気と、雲の上の満天の星空を期待して昇った。

 そして、ついに出口がやって来た。私はドアを開けた。だが、そこは屋上ではなかった。さきほどいた、食堂だった。男たちが酔って騒いで議論していた。

 私はどこを昇って来たのだ?私はたしかに書物の階段を息を切らして昇って来たはずだ。私は後ろを振り向いた。そこはトイレだった。私はトイレの中で夢を見ていたのか?

 私がトイレの前で困惑していると、そこへ、さきほどのふたりの男がニヤニヤしながらやって来た。

「どうだった?摩天楼の屋上は?」

私は答えた。「ここは、摩天楼の屋上じゃないんですか?」

「ははは」男たちは笑った。「図書館には入り口はあっても出口はないんだ」

私はふたりを押しのけ、宿の外に出た。そこは元通りの小さな田舎町だった。

 私は頭を冷やすために夜の町を歩くことにした。この町は宿が多い。宿ごとから灯りが漏れ、曇りガラスに人の影が影絵のように見えて、酒を飲んだ旅客の笑い声が聞こえた。私は改めて、「悪くない」と思った。列車に乗って線路を走ることも悪くなかったが、こうして不思議な気分で夜の町を歩くのも悪くなかった。しかし、悪くはないが、「良い」と言えるかどうかは自信がなかった。私の乗っていた列車は遠くの町からやって来て、この町の駅を過ぎ、別の見果てぬ町に私を連れて行くはずだった。その列車から降りたことは正解だったのか?この世界に正解があるとしたらの話だが・・・。

 それにしても、この町は居心地が悪くなかった。いつまでもいたいと思えるような町だ。しかし、いつまでもいるわけにはいかないだろう。あくまで私は途中下車したのだから。ここは目的地ではないのだから。

 私には列車の中で出会い、仲良くなった友人たちがいる。恋人もいる。彼女らに断わりもせず、降りてしまった。この町からは電話も繋がらない。彼女らはもう遠くを走る列車の寝台で眠っているだろう。もしかしたら、もう目的地に着いているかもしれない。彼女らは私のいないことをどう思っているだろうか?私は愛情友情を裏切ったのだろうか?いや、私のことを覚えていてくれているだろうか?まあ、私もどうせそこへ行くのだ。急ぐこともないだろう。もう少しこの町で遊んで行こう。

 私は宿に帰った。食堂では旅客たちがワイワイ騒いでいた。私はさきほどのふたりを探した。しかし、見つからなかった。私は席に着きビールを注文した。

 ビールが来るのを待つあいだ、私は騒いでいる旅客たちの顔を観察していた。どの顔も幸せそうには見えなかった。

私の隣のテーブルで飲んでいる四人の男のうちのひとりで酔いの回った腹の出た五十絡みの男が言った。「この町には金の鉱脈がある」

「いや、ダイヤモンドだ」炭鉱夫風の別の男が言った。

「どちらでもいい、金持ちになれれば!」と言ったのは、別の、外見からすると四十歳くらいと思われる山高帽を被って眼鏡をかけた背広の紳士で頭のよさそうな男だった。

すると、四人目の男で、顔の青い痩せぎすの小柄な青年が言った。「金持ちになってどうするんだ?その後は?」

金持ちになれればいいと言った山高帽を被り眼鏡をかけた背広の男が言った。「カネがすべてだ、青年。よく覚えておけ。カネがあれば何でも手に入るんだ。あれもこれも」

顔の青い痩せぎすの小柄な青年は言った。「そんなことはない。カネでは買えないものがある」

山高帽を被り眼鏡をかけた男が言った。「それはなんだ?青年」

顔の青い痩せぎすの小柄な青年は立ち上がって言った。「列車の切符だ!」

 私はそれを聞いてどきりとした。私はポケットの中の切符を握りしめた。

痩せぎすの青年は言った。「ボクは切符をなくしてしまった。駅で買おうと思ったら、この町の駅には売ってないんだ」

金持ちになれればいいと言う山高帽を被って眼鏡をかけた背広の男は言った。「それはお気の毒に。だが、青年、あんたはなぜこの町に降りたんだ。列車の切符より価値のあるものを信じたからじゃないのか?」

痩せぎすの青年は答えた。「初めはそうだった。切符があるうちはボクも探し物をしていた。しかし、切符がなくなってみると、あの切符がいかに大切なものか気づいたんだ。それからボクの探し物はあの切符になったんだ」

 痩せぎすの青年の言っている意味は私にはよくわからなかったが、切符はなくしてはいけないと思った。それと、この町にはカネになる話があるのかと、私の欲望が刺激された。

 さて、私は風呂に入ろうと、旅館の浴場へ行った。「男」と大きな文字で書かれてある暖簾をくぐった。脱衣所はそれほど広くはなく、誰もいなかった。壁の上の方に取り付けられた古臭い扇風機がひとりで首を振りながら回っていた。私はシャツを脱ぎ、パンツを脱いで棚にある籠に入れた。棚の籠は他にひとつだけ使われていた。先客はひとりのようだった。私は股間に一物があることを確認すると、手拭いひとつで浴室に入った。正面に湯船があり、左右に蛇口とシャワーと鏡と椅子と洗面器が並ぶ洗い場があった。床は石が敷き詰められていて、壁は青いタイル張りで、「源泉かけ流し」とか、「この湯の効能」などが書かれた板が掛けられてあった。湯気で視界が悪かったが先客がひとりいるのがわかった。湯船に浸かっている頭の禿げた皺くちゃの老人だった。まず、私は洗い場で体を石鹸で洗いシャワーで流した。頭もシャンプーで洗った。そして湯船に入ろうとした。私は足を湯に浸けるとすぐに引っ込めた。湯が熱すぎたからだ。

頭の禿げた皺くちゃの老人が笑って言った。「はっはっは、やっぱり若い人には無理でしょう」

私は悔しくなって熱を我慢して湯に入った。肩まで入り、数秒で我慢できなくなり、湯から出た。老人はまだ入っていた。

私は禿げた老人に言った。「あなたは、よくそんなに長く入っていられますね」

すると禿げた老人は笑顔を作ることで皺くちゃの顔をより皺くちゃにして答えた。「私はいつまでも入っている覚悟ができているからな。いい湯だ」

私は訊ねた。「『いつまでも』って、何時までですか?」

湯気の向こうだが、にこやかな笑顔をしているだろうと感じられる声音で老人は言った。「死ぬまで」

私は怖くなり、浴室を出た。浴衣を着て浴場をあとにした。

 部屋に戻ると、布団が畳の上に敷いてあった。私は壁や襖の傷や染みを見ながら茶を飲んだ。ここは私が掃除した私の王国なのだと感じた。しかし、まだなにかが足りないような気がした。なにが足りないのだろうか、などと考えながら、灯りを消して布団に入った。暗闇の中で、私は思った。「私もあれを探してみようか?」

 翌朝、食堂に行くと旅客たちが食事をしていた。朝食はビュッフェ式だった。私はご飯と味噌汁と目玉焼きと納豆を盆に取って、空いたテーブルを探した。どのテーブルにも先客がいた。私は昨夜カネがすべてだと言っていた山高帽を被って眼鏡をかけた背広の男の前が空いていたので、その席に座った。

「おはようございます」と私は言った。

「む、おはよう」と男は言った。

私は箸を取る前に男に訊いた。「あなたはなぜこの町にいるのです?」

男は私の方は見ずにご飯を食べながら答えた。「カネのためです」

私は訊ねた。「この町にはいったいなにがあるんですか?金鉱ですか、ダイヤモンドですか、それともみんなが言っているあれですか?」

男は顔を上げ眼鏡越しに私を見て答えた。「あれ?あなたもそんなものを探しているのですか?それはカネになりますか?みんなが熱心に探しているあれとかいうものはカネになるものなんですか?」

「それはこっちが訊きたいことです。あれとはなんでしょう?」と私は言った。

「では、ふたりでそれを明らかにしませんか?」

「いいでしょう。昨日のふたりに訊けばわかると思います。彼らはこの宿に泊まっているのかな?」

「昨日のふたり?」と山高帽を被り眼鏡をかけた背広の男が言った。

「ええ、あなたと会う前に、同じビヤホールで彼らと話をしていたら、不思議なことが起きました」

「不思議なこと?」

「ええ、この田舎町が摩天楼のある大都会に変貌していたのです」

「ははは」眼鏡の男は笑った。「それは夢ですよ」

「夢?」

「私も見ました。図書館の摩天楼」

「そうです、それです」私は男のほうに身を乗り出すようにして言った。

男は眼鏡に手をやり言った。「夢というのは現実ではありません。忘れなさい」

「しかし、ふたりが同じ夢を見るものでしょうか?」私は譲らなかった。あれは現実にあったことだ。

「しかし、それが現実だったという証拠がありますか?」

「証拠?ええ、あります。あのふたりの男です。彼らなら知っています」

「では、そのふたりの男とやらを探しましょう。その前に朝食を」男は味噌汁を飲んだ。

 食後、その背広の男と私は宿の受付に行って、例のふたりはここの客かと訊いた。

「いいえ、その方たちなら駅前のホテルに泊まっていると思いますが」と女将が言った。

私たちは駅前の広場にあるあの三階建ての新しいホテルに行った。ホテルのフロントに訊くとふたりはもうチェックアウトして、駅に行ったそうだ。九時の列車でこの町を出るらしい。

 九時まであと十分だった。私たちは走って駅に行った。ちょうど宿のビヤホールで最初に会話を交わした背の高い口髭の男と、背の低い禿げの男が、ふたり並んで、ようやくなにかを手に入れて安心したような顔をし、改札を通るところだった。

「ちょっと、待ってください!」私は叫んだ。

ふたりは振り向いた。

「やあ、昨日の?」とひとりが言った。

私は質問した。「あなたたちはこの町でなにを探していたんですか?」

「あれだよ」ふたりは、にこやかに答えた。

私は訊ねた。「あれは見つかったんですね?」

ふたりは、「いいや」と答えてホームに停まっている列車に乗ってしまった。私たちは呆然として、改札の外から列車が出発するのを見ていた。

 山高帽を被り眼鏡をかけて背広を着た男は言った。「あいつら、さては大儲けしたな」

私は言った。「いや、違うと思います」

背広の男は言った。「じゃ、なんだ?」

「わかりません」

 私は本当にわからなかった。これまでずっと駅に降りたりもせず列車の中で長旅をしてきたせいかもしれない。地面の上のことがわからなくなってしまったらしい。かねがね、私は途中下車する乗客に憧れを抱いていた。しかし、降りてみると、不安になることがわかった。やはり私もなにかを探さなければならないらしい。私には探し物などなかった。いや、強いて言うなら、探し物とはなにかを探していた。

 山高帽を被り眼鏡をかけた背広の男が言った。「なあ、あんた。この町で一儲けしないか?あれを見つければ儲かるに違いないと思うんだが」

私は答えた。「儲けになるかどうかはわかりませんが、探してみようと思います」

「よし、じゃあ、情報収集だ」

「図書館に行きましょう。あそこが鍵のような気がする」

「図書館?摩天楼の?」

「そうです」

「あれは夢ですよ?」

「いや、現実です」

「いや、夢でしょう」

「食堂のトイレ、あそこが図書館のある世界への入り口です」と私は言った。

「そうですか。そんなに言うなら、行ってみましょう。まあ、夢も現実だと言う人もいますからね」

男と私は宿に戻った。そして、まだ何人かの旅客が朝食を取っている食堂に行き、そこのトイレのドアを開けた。予想通りそこは図書館だった。

 私は本を整理している男性の司書に声をかけようとした。

司書はこう言っていた。「ああ、忙しい、忙しい。本を整理するのはまったく大変な仕事だ。たぶん永久に終わらないんだろうな」

私は彼の肩を叩いて質問した。「ここは、図書館の何階ですか?」

司書は答えた。「何階だと思いますか?図書館は何階からでも入れるのです。そして、無数の階段があります。どの階段を昇るかで出口が変わります。ただ、どこの出口もトイレのような汚いところでしょうけどね」

 私は辺りを見回してみた。いくつもの書物の階段がある。そのひとつに息を切らして昇っている、あの切符をなくしたという痩せぎすで小柄な青年がいた。

私は声をかけた。「あなたはどんな階段を昇っているのですか?どこへ出たいのですか?」

痩せぎすの青年は答えた。「ボクは出口なんてどうでもいいんです。今夜最後の列車が出発します。それに乗り遅れると三十年は列車が来ないそうです。ボクはついに切符を手にしました。出発まで暇つぶしに階段を昇っているのです」

私は驚いた。「え?三十年も列車が来ない?」

痩せぎすの青年は言った。「あなたたちも乗った方がいいと思いますよ」

痩せぎすの青年は階段を昇って行ってしまった。私は考えた。「居心地がよさそうに見えたが不安の漂うこの町に三十年もいるのは辛い。恋人や友人たちはすでに列車で先へ行ってしまった。三十年!人生の大半をこの町で過ごすというのか?もしかしたらこの町で死ぬことになるかもしれない。そんなのは絶対に嫌だ。私もその列車に乗ろう」

私は山高帽を被り眼鏡をかけた背広の男に言った。「あなたも列車に乗りませんか?」

背広の男は答えた。「いや、私はこの町に残る。なにしろ、まだまったく儲けていないのだからな」男は階段を昇り始めた。「この階段にはカネの臭いがする」

 私は別の階段を昇り始めた。長い長い階段だ。途中で前を行く二十歳前後の若者がいた。初めて見る若者だ。私は追いついた。

若者は言った。「あなたも栄光を目指して昇っているのですか?」

「栄光?なんです、それは?それにしてもあなたの着ている服はボロボロですね」私は驚きの目で言った。

若者は答えた。「服などボロボロでもかまいませんよ。栄光はすべてを肯定の光で照らすのですから。ところでそこに階段の分岐点があります。あなたは曲がりますか、それとも栄光に向かってまっすぐ進みますか?」

私はこんなに汚い若者と一緒にいるのは嫌だと思い曲がることにした。しばらく階段を昇ると出口があった。ドアを開けて出てみると、そこは駅のホームだった。振り返るとやはりトイレだ。駅長が来て言った。「次の列車は今夜八時です。その列車には必ずお乗りください。乗り遅れると次に列車が来るのは三十年後です。まあ、三十年待つ覚悟があるなら乗らなくてもけっこうですがね」

私は答えた。「絶対乗ります。しかし、なぜ、三十年も列車が来なくなるのですか?」

駅長は答えた。「見てください線路を」

私は線路を見た。私は何となく違和感を覚えた。

駅長は言った。「わかりませんか?線路がホームから離れている。これでは列車に乗るには、いったんホームを降りて少し歩いてから、列車に乗らなければなりません」

私は驚いた。「本当だ。ホームから線路が離れている!いや、でも、ちょっと待ってくださいよ。私がここに降りたときは、きちんと列車から直接ホームに降りられたのに」

「地殻変動です。今夜大きな地殻変動があります。すると線路はこのホームからずっと離れた・・・」と言って駅長は線路の向こう側を指差した。そちらには草原が広がっていて遠くに深い森があった。「あの森の中まで移動してしまいます。そうしたらもう列車には三十年間乗れませんよ」

 私はその夜の列車に乗らねばならないと思い、駅をあとにした。改札口には太った三毛猫がやはり寝ていた。永遠に寝ているかのようだ。気持ちよさそうに眠っている。

 私は宿に帰り、昼食を取った。そして、部屋に戻り、出発の仕度をした。私はもう、この町を去るのだ。だが、まだ、時間はある。私は食堂に行った。昼間からビールを飲んでいる連中がいる。私もビールが飲みたくなった。私は席に着き、ビールを注文した。そこへ、五十代で毎日酔っ払っているかに思われる汚い服を着た男がビールジョッキ片手にやって来た。

「あんた、この町の寺には行ったかい?」

私は答えた。「いや、まだ」

「なら行ったほうがいい。今日は三十年に一度の御開帳だ。神様だか仏様だか知らねえが、ありがてえ彫刻を見られるそうだぜ」

私は、時計を見た。まだ、午後の一時を廻ったところだ。出発は八時だ。充分時間はある。私はビールを飲んだら、その御開帳とかいうものを見に寺へ行くことにした。

 私は寺の参道を歩いた。多くの町民や旅客が寺を目指して歩いている。道の両側には松が並んでいて、その間に夜店が準備中だったり、すでに美味そうな匂いを漂わせていたりした。まるで人々を寺へ誘い込むようだ。私は途中でタコ焼きを買った。三十分ほど歩くと寺に着いた。寺は多くの観衆で賑わっていた。私は胸がわくわくした。これだけ多くの人々が御開帳に集まっているのだ。絶対に素晴らしい彫刻に違いない。私は立ったままタコ焼きを食べながら観衆の中で待った。本堂の前の舞台ではなにやら儀式が行われていた。化粧をした子供が舞を舞ったり、年寄りが三味線を弾いたり、そんなことを長々とやっていた。そのうちに日が暮れた。御開帳を見に来たのに、まだなのか?私は焦った。出発の八時までまだ二時間ある。駅まで四十分かかるとして七時二十分には寺を出たい。だが、ここまで待ったのだ。時間をそのために費やしたのだ。御開帳は見たい。それでも儀式はまだ続いた。七時を廻った。太鼓の音が激しく鳴り、いよいよ御開帳らしくなってきた。私は観衆の頭の上越しに本堂の方を見た。だが、まだ、ありがたい彫刻は見られなかった。それは扉の奥にあるはずだった。その荘厳に飾られた本堂の内部で、坊主がお経を唱え始めた。それが長く続き、私が腕時計を見たら、もう七時二十分だった。私は焦った。だが、御開帳には立ち会いたかった。この御開帳こそ旅人達がわからず探していた「あれ」なのかもしれないと私は思った。これだけ待ったのだ。駅には走れば三十分もかからないだろう。あと十分待とう。だが、十分待ってもお経は終わらなかった。私は八時の列車に乗るために走って寺を出た。松並木の参道を人の流れとは逆に走った。もう御開帳は行われたのだろうか?夜店が私を留めようとしているかのように誘惑的だった。私は夜の町を駆けた。宿に戻り荷物を持ち、駅に行った。着いたのは八時五分前だった。

改札の外からは、もう列車が来ているのが見えた。私はポケットに手を入れた。なかった。切符がなかった。私の体中から血の気がサーッと引いて行くのがわかった。上着のポケットもズボンのポケットも鞄の中も隈なく探した。どこにもない。私の足下では無関係な太った三毛猫が呑気にあくびをしている。

 他の客がぞろぞろと改札を通って行く。その中にあの切符をなくしたという痩せぎすの小柄な青年がいた。あいつだ。あいつが私の切符を盗んだのだ!

「おい!」私は叫んだ。

人混みの向こうにいる痩せぎすの青年は振り向いた。にやりと笑って、切符を駅員に渡した。

「待て!それは私の切符だ!」

改札の駅員は切符を切った。痩せぎすの青年はホームの方に抜けて行った。

「待て!」私は人混みをかき分け改札を通ろうとした。すると警官に止められた。

「切符のない者はここから入るな」正義を振りかざす警官は言った。

「私の切符は盗まれたんだ。あの青年だ!」私は警官を振り払おうともがいた。警官は警棒で私の頭をガツンと殴った。私は気を失った。



 目が覚めると、そこはベッドの上だった。病院の一室らしい。真っ白な部屋には私の他に誰もいなかった。この部屋はどうやら一階で、窓の外を見ると畑の向こうに寺の参道の松並木が見えた。空はどんよりと曇っていたが、もう真昼であることが窺われた。私は足が痒いと思った。靴下に手を入れて掻こうとすると、固い物が中に入っていた。それは切符だった!そうだ。私は切符を駅で買えないと知ったあの時、誰にも盗まれないように靴下の中に入れたのだった。私は、跳ね起きた。ベッドの横の台の上に自分の鞄があった。私は鞄を肩にかけ、靴を履くと、部屋を出た。廊下で出会った女性看護師が驚いて男性医師を呼びに行った。私は病院内の廊下を走った。田舎にしては大きな病院だった。玄関まで出たとき、男性医師がやって来て私の腕を摑んだ。「待て、どこへ行く気だ?」

私は答えた。「駅だ!」

「君はこの病院に入院していなければいけない」

「なぜだ?私はもう治った」

「君は病気だ。駅で暴れる人間はみんな正気ではないんだ。三十年間この町で暮らせるよう、適応するための訓練が必要なんだ」

「私はこんな町にいたくない!」

私は制止する医師を振り切り、病院から逃げ出した。そして、駅に向かった。後ろから医師の叫ぶ声が聞こえた。

「もう、君はこの町に順応するしか道はないんだぞ!」

もう列車は来ない。三十年間。この町には他に出口はない。とにかく駅に行かなければ。

駅に着くと私は駅員を探した。誰もいなかった。私は駅員のいない改札を通った。そこに肥満した三毛猫が一匹、気持ちよさそうに寝転んでいた。私がこの駅に降り立ったときから何度も見ているあの太った三毛猫だ。「ゴロニャーゴ」。私は初めてこの猫を怖ろしいと感じた。そして、ホームに出た。線路はない。遠くに深い森がある。私はホームから飛び降り草原を駆けた。深い森に向かった。あの森の中に線路はある。線路にさえ出れば、その上を歩いて行けばいい。そのうち列車が来るだろう。一度乗った列車には二度と乗れないかもしれないが、別の列車でもかまわない。とにかく乗ることが大事なのだ。私は草原の草をかきわけ森を目指した。後ろから「おーい」と呼ぶ声が聞こえる。「君は逃げる気か?三十年間この町であれを探すことこそ君の人生を有意義にすることなんだぞ」。私はそんな声を無視して、深い森の中に分け入って行った。

もう一度、列車へ。

もう一度、列車へ。                            (了)


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