汗の海原、熱波の小舟
さて、読者諸賢。
突然ではあるが、想像してみてほしい。
真夏のうだるような暑さの中、熱気渦巻く狭い空間に押し込められ、見知らぬ男たちと汗まみれで身を寄せ合う。
それも、ただの汗ではない。
全身の毛穴という毛穴から、まるでナイヤガラの滝が逆流するかの如く汗が噴き出し、やがて床に水溜まりができる。
いや、水溜まりどころではない。
このままでは、この狭い箱の中で溺死するのではないか、と本気で思えるほどの汗の量なのだ。
そんな地獄絵図を、諸君は想像できるだろうか?
否、これは決して悪夢の話ではない。
現実の話である。
より正確に表現するならば、私は今まさに、その地獄の釜、否、サウナの中にいるのである。
私はどうにもこうにも、近頃ツイていない。
宝くじは外れ(それも、あと数字が一つ違えば1億円というところで外れたのだ!)、
道端で鳩の糞が頭に直撃し(その瞬間、私の頭はクソまみれのクレーターと化した)、
頼みの綱の彼女には「貴方、顔はタイプではありますけど、脳のほうの容量が少ないように思われます」と、その容量の少ない脳味噌でも簡単に理解できるほど、直接的な表現で、あっさりと振られ、この上なく悲惨な状況であった。
人生とは、かくも非情なものなのか。
涙が琵琶湖ほども溢れた。
ああ、無情。
この悲劇を、いったい誰が想像できただろうか。
まるでシェイクスピアも真っ青の悲劇である。
挙句の果てに、なぜこのような場所にいるのか。
その経緯を説明するには、万葉集より長く、
ハムレットより複雑で、ドン・キホーテの冒険より奇想天外な物語が必要となるが、今はその詳細は割愛させていただこう。
それはさておき、諸君はサウナというものをご存知だろうか。木製の箱の中で、石を焼いて熱し、その熱気によって発汗を促すという、いささか原始的な、それでいて実に合理的な健康法である。
サウナ愛好家は、「サ」のつく言葉が好きなのか、これを「サ活」と称しているらしい。
サウナ、サ活、サ道……まるで、頭までサ行で埋め尽くされた、サ行人間だ。
この小さな木製の箱の中は、まさに灼熱地獄。
温度計は100度をゆうに超え、湿度は限りなく100%に近い。
比喩ではない。本当に100%である。
私は今、そんな灼熱時偶苦の中で、汗をだらだら、否、どろどろと流しながら、この文章を書き綴っている。もはや、私の汗腺は、完全に狂ってしまったとしか思えない。
「ふぅ……」
ため息と共に、額から汗が一筋、いや、十筋、百筋、否、もはや数えきれないほどの汗が、怒涛の如く流れ落ちる。
まるで真夏の京都の盆地を、熱中症寸前の状態で彷徨うかのごとき、逃げ場のない暑さである。
いや、京都の盆地など、このサウナに比べれば、まるで北極の氷のように涼しい避暑地に違いない。
私の周りには、私と同じく汗まみれの男たちが、静かに座っている。
一人はがっしりとした体格の、赤ら顔の中年男性。
年の頃は五十路を少し過ぎたあたりであろうか。
その顔は、まるで茹でダコのように真っ赤で、今にも破裂しそうである。
彼はかつて、巨大なイカと格闘し、九死に一生を得た、伝説の漁師だったという噂があるが、真偽の程は定かではない。
彼はこの後、私にとっての重要なキーパーソンになるのだが、それはまた後々、説明しよう。
もう一人は、細身で眼鏡をかけた、いかにもインテリ風の青年。
しかし、よく見ると、その眼鏡の奥には、尋常ならざる肉体美が隠されているのがわかる。
まるで、スーパーマンが普段は冴えない新聞記者として生活しているかのように。
彼は、サウナの中で微分積分を解き、シュレーディンガー方程式を暗唱することで、精神を統一しているらしい。
ちなみに、彼は後にこのサウナで、驚愕の行動に出るのだが、それについてはまた後ほどお話ししよう。
そして、もう一人。
ひときわ異彩を放つ、丸々と太った、まるで力士のような巨漢である。
その巨体は、この狭いサウナ室の半分近くを占拠しており、彼が動くたびに、室内の空気が大きく揺れ動く。
まるで小型の台風が発生したかのようだ。
彼は、一日五食、毎回丼飯を三杯ずつ平らげ、さらに間食として巨大な肉まんを十個食べるという、伝説の大食漢であるという。この後、彼はその見た目通りの、驚愕の行動で我々を驚かせることになる。
皆、一様に無表情。
しかし、その目はギラギラと異様な光を放っている。
まるで獲物を狙う猛獣のように。
いや、猛獣などという生易しいものではない。
彼らの目は、まるでブラックホールのように、全てを吸い込んでしまいそうな、底知れぬ闇を湛えている。
「……」
沈黙が、サウナ室内に重苦しくのしかかる。
まるで、賞味期限切れのチーズのように、ねっとりと、そして不快に、我々の肌にまとわりつく。
その沈黙を破るように、ぽたり、ぽたりと、汗が床に落ちる音だけが、妙に大きく響き渡る。
まるで、巨大な洞窟の中で水滴が落ちる音のように、不気味な反響を伴って。
この異様な雰囲気、いったいなんなのだ。
怪奇現象か。いや、ここはサウナなのだから、怪熱現象か。
彼らは一体、何を考えているのか。
皆目見当もつかぬ。いや、見当をつけたところで、私にとって、なんの利益もないのだが。
私は、この見知らぬ男たちと、言葉を交わしたことは一度もない。しかし、この狭いサウナ室という閉鎖空間で、数分間、否、数十分間、共に汗を流しているうちに、奇妙な連帯感のようなものが芽生え始めていた。
否、連帯感というよりは、むしろ競争心、それも極めて低俗で、しかし、異様なまでに強烈な競争心と表現した方が適切かもしれない。
なぜなら、この空間には、奇妙なルールが存在するからである。
それは、先にサウナ室を出た方が負け、という、実に馬鹿馬鹿しく、阿呆の極みであり、しかし、妙に説得力のある、そして、この世の真理を突いているような気さえしてくるルールである。
なぜそのようなルールが生まれたのか。
それは定かではない。
しかし、このサウナ室に足を踏み入れた瞬間、
そのような空気、いや、そのような圧力、
いや、もはや、一種の呪いと表現すべきかもしれない、
その得体の知れない何かが、
ひしひしと、びしびしと、そして、
じっとりと感じられるのである。
この熱波の小舟に乗り合わせた我々は、汗の海原を漂流する運命共同体。
先に陸地、つまり、涼しい脱衣所へ到達した者は、この熾烈な我慢比べの敗北者となるのだ。
敗者には、永劫の苦しみと、拭い去ることのできない、屈辱が待っている。
私は、この無言の戦いに、否が応でも巻き込まれてしまったのだ。それも、自らの意思とは全く無関係に。
この我慢比べ、一体いつまで続くのか。そして、誰が最初に音を上げるのか。
私は、この馬鹿馬鹿しくも熱い戦いの行方を、固唾を呑んで、というより、汗を垂れ流しながら見守ることにした。
「しかし、それにしても……」
私は、心の中で呟く。
「なぜ、私はこんなところに来てしまったのだろうか……」
私の頭の中は、疑問符でいっぱいである。いや、疑問符どころではない。私の頭の中には、巨大な疑問符の形をした隕石が、今まさに落下してこようとしている。
しかし、その疑問を解決する暇など、今の私にはない。
なぜなら、この熱気は、私の理性さえも、蒸発させてしまいそうだからである。
いや、既に蒸発してしまったのかもしれない。でなければ、こんな駄文を延々と書き連ねるなど、正気の沙汰ではない。
「はぁ……」
私は、再び深い溜息をつき、目を閉じた。
そして、この熱波の小舟に揺られながら、
汗の海原を漂流する、長く、熱く、そして、馬鹿馬鹿しくも、どこか哲学的な戦いが、今、まさに、火蓋を切って落とされたのである。
読者諸賢、この奇妙な戦いの行方、どうか最後まで、
鼻でもほじりながら、お付き合いしてはくれまいか。




