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読みやすい短編集

鈍行に揺られて、いざ

作者: 鯰川 由良

一人旅特有の高揚感と、少し硬い言葉で頭の中に文章を構築していく感じ。

 午前六時前。わずかに都会の喧騒を乗せた電車は、静かに走り出す。朝早い電車のアナウンスの声は、他の時間帯よりもよく聞こえるような気がするのは私だけだろうか。

 通勤ラッシュの少し手前の時間帯、静かに鳴り続けるジョイント音を背景に聞きながら、私は一冊の文庫本を開く。


 そうして乗車してから三十分も過ごしていると、電車は都心からはもうかなり離れた場所を走っていて、不思議なことであるが、時々開くドアから流れ込んでくる空気だけでそのことがわかるのだった。というのも、季節は晩夏であり、それゆえ大気中には夏特有の湿気がたっぷりと含まれているはずであるが、その湿気の中にもしんとした澄んだ空気の断片をしっかりと感じるようになったのだ。


 やがて電車が県境を跨ぐと乗客は相当少なくなり、電車は車体が軽くなったことを喜ぶかのようにカーブのない線路で速度を上げていった。ふと車窓を覗くと、もう都会らしい小綺麗なビルなんかは全く映らなくなっており、その代わりに背の低い古ぼけたビルだったり、よく聞く社名の看板を引っ提げた平たい工場だったりが目につくようになった。所々に見える薄汚れた民家と、少し目線を遠くに移せば、こんもりと茂る深緑の木々。そんなどうということのない寂れた風景が、かえって私にノスタルジーを感じさせるのであった。


 さて、そんな電車とも別れを告げるときは来るもので、ついに終点到着を告げるアナウンスが車内に流れた。私は手持ちの少し大きなリュックを網棚から降ろすと、ずっと同じ姿勢でいた体を労るように一度小さく背伸びをしてからそれを背負った。その重みから、一瞬だけ後ろに引っ張られるような感覚を感じたが、次の瞬間にはすっかり背中に馴染んでいた。


 私は停車先の駅で、その先を目指すべく、六両編成の列車に乗り込んだ。車体の側面には普通列車という文字が表示されていたが、白と水色を主体としたその車両は、どちらかと言えば鈍行と呼ぶ方が相応しいように思えた。


 広々としたホームから車両に乗り込んで車内を見回してみると、私が想像していたよりも乗客の数はずっと多かった。ざっと数えて、ひと車両に三、四十人といったところだろうか。時刻は七時をまわったところで、乗客の多数を学生とサラリーマンが占めている。座席は彼らで埋まってしまっていて(座席のほとんどが二人がけのものになっていて、それらが向かい合って位置しているせいで、席の一人分が空いていてもどうも座り難い雰囲気にあったのだ……!)、私は仕方なく扉の横に寄っかかった。


 少し重そうに走るその列車は、幅もそれほど無いような古びた駅の一つひとつに丁寧に停車していく。そうしてその度に、再び動き出すことを億劫であると言うように軋んだような音をたてながら発車するのだった。そんなことを何回か繰り返すうちに、学生が一斉に降りる駅があったり、サラリーマンが次第に降車していったりで、私を含めて乗客はごくわずかとなってしまった。


 時々私が文庫本から視線を上げてみると、その度に視界に映るのは雄大な自然であった。標高こそ平凡なものだが、鬱蒼と生い茂る木々に覆われた山々がずっと遠くまで連なっていて、それが永遠を思わせるほどに続いている。やはり全く人間の手が及んでいないという訳ではないようで、山の中腹部あたりにはところどころ鉄塔が立っていて、送電線が張り巡らされているようである。それでも目の前にそびえ立つ山々からは、人間を寄せ付けまいとする、そんな強烈な意志を確かに感じた。あと少しでも深く人間が自然に介入してしまえば、それはすぐにでも眼前に迫ってきて我々に牙を剝いて凶暴な一面を認めさせるのだと、そんな想像をしてしまうくらいには目の前に広がる自然は荘厳で、私に底知れぬ恐怖を与えてくるのであった。そしていつの間にか、私の中には眼前の自然に対する崇敬の念が湧き上がっていた。しかし、一方でそんな光景に私は密かに興奮していた。なるほど、崇高を不快であり快でもあると言ったいつかの誰かの表現は確かなものであった。


 そんな私の緊張を度々緩めてくれたのは、その土地の特産品として名高いぶどうの畑だった。県を跨いで暫くした辺りから、次第に車窓越しに段々畑のようなものをよく見るようになっていたのだ。その大半が線路沿いの少し開けた土地にあって、多くの支柱と茂った蔦の向こう側に、人の姿を確認できることも何度かあった。雄大な自然と対比する形で現れてくる、そんな丸っこい存在がその時の私には大変愛らしく思われた。


 途中で停車した駅名で、こんなところにも温泉などがあることを知りつつ、私は電車に揺られた。

 思い返せば今朝は起床が早かったのだが、瞼が重いという感覚はなかった。初めて経験する様々な風景や音、匂いや雰囲気に、私はこっそりと興奮しているらしかった。五感で世界を堪能しているのだ。そしてまた、それはある意味で、生を堪能しているのと一緒であるように思えた。

 

 私の気分はなんだか高揚しっぱなしで、そうして先程まで読んでいた小説に影響されたように、わざとらしく小さな咳をした。私が山奥のサナトリウムに幽閉されたとある冬の日、この感覚は私の頭の中ににどれほど鮮やかに蘇るだろうか。色褪せた世界に戻る色、動き────そんなことを妄想してみる。


 この列車は次の駅で終点だ。気付けば、城らしきものが車窓越しに確認できた。荷物を背負って、ホームに出る。目的地はもう少し先だ。

 その時、柔らかな風がホームを歩く私の頬を掠めた。そして、ちょうどその時、私はふとそれを思いついた。思いついてしまったのだ。


 ──風が立った。私は()()なければならない!!


 私は口元を緩ませて、名湯の宿にね! と付け足した。

読んでいただきありがとうございました。

堀辰雄『風立ちぬ』をよんでいました。

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