蜘蛛
魑魅魍魎が、ばっとみずほに向かって飛んできた。みずほは簪の切っ先でそれを引っ掻くと、魑魅魍魎は「ぴぎゃ」と鳴き声を上げて消えた。
しかし、雲子は慌てることもなく、みずほを見守っている。
「あなたは……行方不明になった女の子たちをどこにやったんですか……!?」
「腹が減っていたからねえ。精気をたっぷりと吸わせてもらったよ。生きているといいね」
「……っ、あなたの元となった……雲子さんはどちらにやったんですか!?」
「ああ、この元になった子。ね」
既に雲子と名乗っている魑魅魍魎は、くすくすと笑う。
「あの子は馬鹿な子だよ。男を信じてついていって、殺されたんだからねえ」
「……待ってください。あなたじゃないんですか、彼女に手をかけたのは」
「私は起きただけだよ。眠ってたんだけどねえ、現世はなにかと騒がしいから。ぱっと目が覚めたときにはこの子が死んでいたのさ。女優だったんだろう? あまりに可哀想だから、その子の皮を剥いで、その子を殺した付き人をバリバリ食ってやったのさ……ほぉーんと、男はこれだから信用できない」
彼女は温度のない声で淡々と語ると、指を伸ばした。
「女の子は好きだよ。食べるのもだけれど、鬱屈していても嘘をついても、柔らかくて気持ちいいし、まっさらな心を持っているから。でもそれは、檻の中にいるときまでだ。だんだん腹は黒くなり、男と大して変わらない固くてまずい味になってしまうんだ。だから、一番綺麗なうちに食べてあげないと可哀想だ」
彼女が指を伸ばすと、みずほははっと振り返った。
廊下は魑魅魍魎の黒で覆われてしまった。一匹一匹はたしかに小さいけれど、それが何匹も、何十匹もいたら……。
こんなときに、顕明連があったら。せめて日傘の仕込み剣があったら違ったけれど、今は簪しかない以上、それで戦うしかあるまい。
一斉に襲いかかってきたところを、みずほはぐるりと回って体からふるい落とし、落ちたそれを次々と刺し、突き、切り裂いた。しかし、こんな戦い方が何度も何度もできる訳がない。
彼女の使役する魑魅魍魎が、次から次へと出てくる。
……男嫌いなため、考えが少し追いつかなかったが、そんな魑魅魍魎をみずほは知っていた。
「あなた……絡新婦ですか? これだけ大量に下の魑魅魍魎を使役して、餌を得るためにあちこちにおまじないをばらまいて」
「へえ……私も結構な有名人だ」
彼女はけざやかに笑ったと思ったら、急に雲子の姿は裂けた。
中からメリメリと音を立てて現れたのは、上半身は女の裸体で、下半身はいったいどうやって人の皮の中に埋まっていたのか、大きな蜘蛛の姿が現れたのだ。
絡新婦。年老いた蜘蛛が女の姿に化け、人をたぶらかせて食らうとされている。基本的に男を食べることが多いとされているために、彼女のように女ばかりを餌に選ぶ例はかなり珍しい。
「私の子たちを簡単に殺せるし、頭も悪くはない。面白いから君を殺すのはやめておくよ。君は餌じゃなくって……私の伴侶にしようか」
「なにを好き勝手なことばかり……っ!」
飛んできた魑魅魍魎を再び突き刺し、簪を戻す。……だが。
簪がヌチャリと濡れていることに気付き、みずほは驚いて簪の切っ先を見る。絡新婦はくすくすと笑う。
「私のしおり糸だよ。そこにはたっぷりと、催淫液を含んでいる。今の君には、私がずいぶんと魅力的に見えているはずさ」
「う……あなたは」
先程指を伸ばした仕草。蜘蛛の糸は細く、時には見えにくいために躱しきれなかったそれを、みずほは浴びていたのだ。しおり糸は蜘蛛の体を支えるための糸であり、粘着力は絡新婦一匹を支えきれるほどに強い。
だんだんみずほを酩酊感が襲ってきた。
本来だったら殺すはずの魑魅魍魎が、ひどく美しく見えるのだ。
昼間に目を蕩けさせていた少女たち。彼女に触られた少女は、あれだけおまじないを行うのを拒んでいたのに、最終的には行うと約束してしまっていた。
ただでさえ常任には見えない糸を、それも蜘蛛が求愛行動に使うような催淫液をたっぷり含んだしおり糸を使われてしまったら、それに逆らうことはできないのではないだろうか。
吐き気を催しながら、魑魅魍魎を刺し続けていたみずほの動きが鈍くなる。
……今まで、行方不明になった少女たち。彼女たちは見えない魑魅魍魎に操られて、自ら餌場に向かったのだとしたら? 彼女の言い方からして、まだ彼女たちは食べられてはいないようだが。
そこまで考えたところで、とうとうみずほに迫る魑魅魍魎を倒しきれなくなってきた。一匹、また一匹とみずほの体を伝い、上ってくる。
絡新婦はくすくすと笑う。
「おいで、私の伴侶にしてあげる。この檻の中に入れられてしまった可哀想な君を、私が解放してあげる」
彼女の言葉は柔らかく、みずほの胸をくすぐる。
みずほは幼少期の頃から孤独な少女であった。人と違う家庭環境で育ち、初等学校の同級生からも実の家族からも距離を取られ、気付けば離れでひとりで暮らしていた。
最初は使用人たちが世話を焼いていたが、いつの間にやらいなくなり、全部ひとりで行わないといけなくなっていた。
寂しい。つらい。ひとりは嫌。
皆、嫌い。ひとりにしないひとがいい……。
みずほの体を這いずり回る魑魅魍魎たちは、このまま彼女に取り憑こうと、次から次へと彼女の記憶の普段ぼんやりと忘れている記憶を呼び覚ましていく。このまま彼女が耐えきれなくなり、投げ出そうとするのを、今か今かと待ち侘びている。
だが。
『俺はお前さんを、決してひとりにはしない』
くしゃりと、前髪を撫でられる、刀を振るい続けてすっかりと分厚くなった手の感触と一緒に、みずほの覚えのない記憶が、彼女の脳裏に飛び込んできたのだ。その声は、朔夜のもののはずだ。だが、今まで彼からは、こんな言葉を一度たりとも聞いた覚えはない。
彼女の脳裏を占めていた冷たい陰鬱な幼少期から一転、温かなこの数日の出来事が流れ込んできた。
ひとりで寒々しくお膳を食べるのではなく、温かいお膳を共にする。
大正の世を知らない彼に、この時代のことを教え、それに対して彼は感心したり驚いたり納得できない顔をしてみせる。
ただ、夜に刀を振るう生き方以外を知らなかったみずほに、人恋しい感情を覚えさせたのは、紛れもなく何者かもわからない鬼の朔夜であった。
今はこの場にはいない。盾となり矛となると言っておきながら出てこない。守ると言っておきながら来ない。
魑魅魍魎は必死の抵抗で、みずほから湧き上がってきた温かい記憶を打ち消すように否定の言葉を浴びせるが、みずほは簪を握った。
「……何者かは知りません。教えてくれませんから。あのひと、勝手なんです。人のこと好き勝手言っておきながら、私のこと掻き乱しながら、自分のことをなにひとつ話してくれませんから」
彼女は簪を、自分自身の腕に突き刺した。
途端に血が流れる。顕明連を扱えるほどに濃い、退魔の血だ。大きな姿形を取り、気を穢すような魑魅魍魎ならいざ知らず、数が多いだけの魑魅魍魎にはひとたまりもない。
みずほに這いずり回っていた魑魅魍魎たちは、次から次へと「ぴぎゃ」と絶命の声を上げて消え失せていき、みずほは自身の血の付いた簪を掌で回す。
彼女の血飛沫で、次から次へと魑魅魍魎が断末魔を上げて消失していく中、絡新婦だけは少しだけ驚いた顔をしたあと、唇を持ち上げた。
「へえ……私の催淫液を自らの力でねじ伏せたんだ」
「……悪酔い致しましたが、これ以上あなたの好きにはさせません」
「でも、しおり糸なんて私の力のほんの一部さ。それを突破しただけでいい気になるなよ」
「なってなんていません」
みずほは簪を握り締めて、自身の力を流し込む。絡新婦はくすくすと笑いながら、下半身の針を突き上げた。そこからは糸が吐き出される。
糸は蜘蛛の巣をつくるためのもの。粘着力はしおり糸と同等か、それ以上のものだ。
みずほは廊下を蹴って壁面へ跳んで避ける。
糸が次から次へと噴き出され、だんだん床も、壁面も、天井すらもみずほの逃げ場所はなくなっていく。絡新婦は糸を吐きながら楽しげに笑う。
「そろそろ逃げ場所もなくなってきたけれど、次はいったいどうするんだい?」
「いえ、逃げてなんていません。場所を誘導しただけです」
「誘導……?」
「そろそろ、時間ですから」
みずほは、スカートのポケットから、行方不明になった少女の手鏡を取り出した。それを、彼女にかざす。
「なんのつもりかな、私の声を聞いてくれた子たちのことは」
「……日がそろそろ落ちてきましたので、ここでだったら光を集められると思いました」
「……えっ?」
日が傾いてきた影響で、窓にも金色の日差しが差し込んできていた。それをみずほが鏡に映していたのだ。
最初はただの時間稼ぎかと思っていた絡新婦だったが、だんだん焦げ付いた臭いがしてきたことに気付く。
「……絡新婦とは、前にも戦ったことがあります。いくら粘着質な糸でも、火には弱いですよね。あいにく、私もマッチは持ち歩いてはいませんでしたから」
「……まさか」
収斂。光をガラスや鏡で一カ所に集まること。そして一カ所に集中した日の光は熱を持ち、やがて火を起こす。
夜ではマッチでも持ち歩かない限り火は起こせないが、日が傾きかけている今だったら鏡かレンズさえあれば、火を起こすことも可能だ。
蜘蛛の巣は煤けた臭いを吐き出して、燃えはじめた。もっとも、大きな火ではないため、せいぜい巣が焦げる程度のものであったが。
「私の巣が! 私の愛の巣が……!」
とうとう取り乱した絡新婦は、みずほから距離を取るのを忘れていた。
いくら今は簪一本しかないとはいえど、みずほは接近さえできれば負けることはないのだから。
「……あの世で雲子さんに会ったら、ちゃんと謝ってください!!」
簪を胸に深く突き刺した絡新婦は、みずほと目を合わせた。
「ああ……あなたは……そういうことだったんだね」
なにかを言おうとしたが、それより早くに絡新婦の体は崩れ、消えていった。残されたのは、雲子の裂けた死体だけである。
みずほは黙って彼女の裂けた体をできる限りくっつけて廊下の端に寄せてあげてから、校長室へと急いで走って行った。
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「お姉様、なんてことを……」
寄宿舎は、湿っぽい空気が流れていた。
ようやく警察が校内に捜査に入ったのだ。しばらくは休校な上、中には家に呼び戻され退学させられるとどよめいている少女までいるありさまで、長いこと悲しんでいる余裕がない。
警察からの発表によると、女優の雨乞雲子は、付き人と家族ぐるみの付き合いをしていたらしい。彼女が舞台で稼いだお金は半分以上は付き人の懐に転がり込み、どんどん彼にのめり込んでいった彼女は、とうとう駆け落ちを敢行しようとするが。付き人が欲しかったのは金であり、まだ女学生の子供な彼女には興味を示せず、口論の果てに彼女を殺してしまったとのこと。
付き人は行方不明に付き、現在捜査中となっているが、雲子の遺体に取り憑いた絡新婦により食われたことは既にみずほは報告していた。
あの絡新婦は男が本当に嫌いで、絡新婦の犯行だと思わしき行方不明の暴力男は見つかったが、行方不明になっていた女学生たちは何故か全員無事であった。雲子と付き人が逢引に使っていた劇場の控え室の一室で、弱りながらも見つかったのだ。
これで事件は解決したし、もう連続女学生行方不明事件は起こらないのだが、数人とはいえど死傷者が出た痛ましい事件であった。
校内では雲子の死亡で、どこからでもすすり泣きが聞こえる状態であった。
「まさか転校してきたばかりだっていうのに、もう実家に呼び戻されて中退なんてねえ。寂しくなるわ」
「はい……加奈子さんには本当にお世話になりました」
みずほは潜入捜査終了の際、「縁談が決まった」という体で退学という形を取ることにした。そうすれば籍も変われば住処も変わるため、そう簡単に連絡を取れなくなるからだ。この時代、女学生が結婚で中退というのはそこまで珍しい話ではなく、むしろ推奨されてさえいた。
加奈子は「私、本当になんにもしてないから」と笑ったあと、少しだけ顔を引き締める。
「本当に友達になれて嬉しかったの。また縁があったら会いましょうね」
「加奈子さん……はい」
ふたりで手を取り合ったあと、みずほは荷物をまとめることにした。
少しだけ着られた制服を名残惜しく思いながら風呂敷の中に入れ、いつもの着物に袴を合わせた出で立ちになると、寄宿舎を後にする。
最後にみずほは「お世話になりました」と頭を下げ、帰っていく中。
「みずほ」
声をかけられて、驚いて顔を上げると、女学校の前に並ぶ瓦斯灯の前に、朔夜が腕を組んで立っていた。
「朔夜さん。あなたどうしてこんなところに」
「そろそろお前さんの潜入捜査が終わると聞いてな。どうだった?」
「はい……痛ましい事件でしたね」
校内にばらまかれたおまじない。それを教えていた校内のお姉様。そして絡新婦……。少しだけ話しながら、みずほは「あの……」と朔夜を見上げた。
「どうした?」
「あなた、私の頭を撫でたことなんてなかったですよね?」
「なんだ、お前さん。よく頑張ったと褒めてもらいたいのか? よしよしやってやろうか」
「子供扱いはしないでくださいっ、不愉快ですっ!」
みずほはプイッとそっぽを向きつつ、それにしてもと考え直す。
絡新婦はずっと寝ていて、雲子が殺された現場でたまたま目が覚めたと言っていた。最近は魑魅魍魎の事件が増えているが、それと絡新婦が起こされてしまったことと、なにか関係があったんだろうか。
それに。記憶に全く覚えのない手の感覚に、声。あれはいったいなんだったんだろうか。あの記憶がなかったら、絡新婦の催淫液を破るのにもっと時間がかかったはずなのに。
……あれは、単純に最近少しだけ寂しくなくなったことで、絡新婦のまやかしが聞かなかっただけだろう。今は家に帰ることだけ考えよう。
勝手に悩んで、勝手に解決して。みずほは悲観的なのか楽観的なのかはなかなかよくわからない性格をしている。
そんな彼女を、朔夜が優しい瞳で見下ろしていることを、まだ気付かない。




