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大正鬼嫁婚姻譚  作者: 石田空
退魔編
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邂逅

 月の出ぬ夜だった。

 星明かりはまばらで、瓦斯灯がすとうの淡い光だけが、ぽつりぽつりと遠くに見えた。

 それは、ありえない光景だった。

 桜が、咲いたのだ。

 半年ばかり早過ぎる桜の下、注連縄しめなわの切られた祠の屋根の上。その男は座っていた。


「ようやく会えたな、我が妻よ」


 男の身長ほどの長さの直刀を背中に佩き、烏帽子に衣冠。

 昔の武士の格好をした男が、口元に笑みを浮かべて立っていたのだ。

 ──ありえない、と少女は思った。

 季節外れの狂い咲きの桜、祠から出てきた招かれざる存在。

 なにもかもがありえない。認めてはいけない。


「あなたは……誰?」


 その疑問以外、少女は口にすることができなかった。


****


 月の出ぬ夜だった。

 星明かりはまばらで、瓦斯灯がすとうの淡い光だけが、ぽつりぽつりと灯っていた。

 人気ひとけのない橋の上には、女がふたり。

 無地の着物に袴を合わせ、長い髪にリボンを留めた、年頃の割には地味な印象の少女であった。さらにその少女は、年頃の娘には似つかわしくないものを構えていた。

 それは刀であった。刃は人の世のものとは思えぬほどに艶やかで、刀剣に疎いものでも目を見張るような代物であった。あつらえはその刃に似合わぬほどに簡素であったが、年頃の娘が持つには重過ぎるはずのものを、彼女は片手で構えていた。

 その少女と対峙している女はもっと奇怪だ。

 遊郭から逃げ出してきたかのような、肩までを大胆に開けた着物を纏い、帯を前で留めている。派手に結い上げた髪は、しゃなりしゃなりと音のする簪で留められていた。目と頬に朱が差され、口元は椿の花びらのようにぽってりとした紅が差された美しい女であった。そして彼女の手から伸びる爪は──獣のように伸び、尖っていた。


「いい加減、観念なさい。この橋は……あなたの橋ではございません」


 少女は凜とした声を上げ、刀を構える。気のせいか、その刀は淡く青く光って見えた。

 この数日、この橋では自殺騒ぎが続いていた。

 最初は職業婦人が、続いて文士を志した青年が、次から次へと飛び降り自殺をすると言うので、おかしいと思った警察がこの橋を封鎖し、調査した。

 飛び降り自殺を続けた人々に、共通項は見受けられなかった。

 たったひとつの共通項は、この橋を渡ったこと。それだけ。

 だから警察は、今度は田村家たむらけに相談したのだった。

 少女がこの橋に来たのは他でもない、連続飛び降り事件の調査と……事件を引き起こした魑魅魍魎ちみもうりょうの退治のため。

 そして見つけたのが、この女であった。女はころころと笑う。


「あぁあ、憐れな娘。死ぬこともできず、こうしてわらわと相まみえることになるなんてねえ」

「なにを言っているのですか、あなたは」

「わらわはこの橋を渡る者たちに憐憫を向けただけ。生きているほうが楽しいと誰が決めた? 生きているほうが地獄だというのを、一時の悦楽のために誤魔化して誤魔化して誤魔化し続けて、老いさらばえてなにもできなくなるまで生きなくてはいけないのにねえ」


 女の言葉は蜜を口に含んだように、甘く粘りを帯びて心に絡みつく。しかし少女は冷静だった。

 その口車に乗せられて、他にやりたいことがあっただろうに、こんな川に流されてしまったなんて。さぞや無念だっただろうに。

 少女は刀の柄を力を込めて握る。


「……許しません、あなたのことは」

「ふふふ、わらわからしてみたら、娘もずいぶんと生きづらいように思うけどねえ……?」

「お黙りなさい……!」


 少女は刀を振るった。それを鬼は軽々と手の爪で受け止める。

 しかし、刀はふいに燐光を放った。少女が手に力を込めれば込めた分だけ、刀の切れ味が増す。それに鬼は目を細めた。


「本当に憐れだねえ……こんなに力を持っていながら、飼い殺されているなんて……」

「意味のわからないことを、おっしゃらないでください……!」


 刀の切れ味を殺していた爪は、とうとうパキンと折れた。真珠の粉のようにさらさらと夜風に解けていき、とうとう少女は間合いを大きく詰めて、女の胴を狙う。

 肩から大きく袈裟切りにされ、鮮血が噴き出す。

 女は先程の長く伸びた爪と同じく、どんどん真珠の粉のようになっていく。


「あぁあ、憐れだねえ……今死んでおけば、生き地獄を味わわなくてよかったのに」

「そう言って、いったい何人を殺したのですかあなたは」

「いぃや、わらわはあんたほども人間に憐憫をかけたことはないよ。あんたは」


 最後まで言い切ることなく、女は完全に姿を消した。

 先程まで漂っていたはずの粘る血の臭いも消え失せ、少女は刀をぶんと振るう。体液すら残さず消えた女の痕跡が完全に消え失せたことを確認してから、少女は刀を鞘に収め、家路に着くことにした。

 田村みずほ。田村家の長女にして、今代ただひとりの退魔師である。


****


 坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ

 平安時代の征夷大将軍にして、さまざまな逸話を持つ武官である。彼の逸話は数多くあるが、一番有名なものは田村草子たむらぞうしがまとめている。


──伊勢国鈴鹿山にて鬼神、大獄丸たいごくまるあり。坂上田村麻呂は天女・鈴鹿御前すずかごぜんと共に打ち滅ぼさんとのこと。以後、二人は夫婦となり、鬼を共に葬り去った。


 田村家は先祖に坂上田村麻呂と鈴鹿御前がいるとされ、代々武家として退魔師として日ノ本を守ってきたのだが。

 鈴鹿御前の置き土産とされる退魔の刀がある。鬼はすこぶる頑丈で、それでなければ斬ることができない。それは顕明連けんめいれんと呼ばれる刀であり、今は行方不明とされている小通連しょうつうれん大通連だいつうれんと共に鈴鹿御前の刀であり、それらは何故か女性にしか鞘から抜くことができなかった。

 そのために田村家は代々女性を退魔師として出してきたのだが、今代は少々問題が生じていた。

 田村家現当主の生野せいやと正妻の間には男子しか生まれず、急遽用意しためかけとの子だったのだ。妾はみずほを産んだ途端に死んでしまい、彼女の田村家での立場は微妙なものとなってしまっていた。

 退魔師としての仕事を終えたあと、戦闘中の凜とした態度はどこへやら。彼女はくたびれて重くなった体を引きずりながら、家に帰ってきた。

 裏口から入るのは、そこから離れに入るためである。母屋は正妻たちの住まう家屋であり、みずほは与えられた離れでのみ生活することを許されているからだ。

 これが戦国の世ならば、田村家の面子を守る女子は歓迎されるものなのだが、時代は既に大正だ。西洋文化が入って久しい現在では、妾の子の立場はあまりいいものではない。特に正妻の高子たかこは田村家より身分の高い華族の出自なのだから、いくら家のためとはいえど、どこの馬の骨ともわからない女の子供が表だって家にいるのが面白くなかった。

 だからみずほは、厠や道場以外ではなるべく離れで過ごし、義母との関係を悪くしないよう務めなくてはいけなかった。


「お帰り、みずほ。今晩もお疲れ様」

「……浄野きよの異母兄様にいさま


 戦闘でくたびれてしまったみずほの体に、ふっと温かい力が湧き上がる。

 浄野は田村家の次男であり、数少なく田村家で気安くみずほに声をかけてくれる存在であった。みずほと同じく真っ黒な癖のない髪で、今は浴衣を着ていた。着痩せするほうではあるが、昼間は警官として、日々町の平和のために働いているため、体には無駄のない筋肉が乗っている。

 みずほはぺこんと異母兄に頭を下げた。


「いいえ。鬼の女は倒しました。これで、橋は無事に使えるようになったと思います」

「うん、お疲れ様。このところどうも鬼が増えていけないね。なにかあるのかな」

「はい……あまり悪いことにはならないといいのですが」

「そうだね。今晩はもう疲れただろう? 薪をくべておいたから、風呂にはいつでも入れるよ」

「いくらなんでも、異母兄様にいさまにそこまでしてもらわなくても」


 離れにまでは、使用人もやってこない。高子がうるさいからだ。

 だから水を張るのも薪をくべて湯を沸かすのも、みずほがひとりでやっているのだが、警察からの依頼で鬼と戦ったあとだと、さすがにくたくたになってしまって、湯浴みを諦めて寝てしまうことが多い。

 そんなことをやってもらうなんて恐れ多いとみずほが首を振るが、浄野はにこにこと笑うばかりだ。


「気にしなくてもいいよ。やりたくてやっているだけだからね。異母妹いもうとのために」

異母兄様にいさま……」

「それじゃあそろそろ母様もうるさいだろうし、僕は行くよ。おやすみ」

「は、はいっ、おやすみなさいませ……!」


 みずほは頭を下げて、浄野を見送った。少しだけ疲れがほぐれたような気がした。

 風呂でゆっくりと体を洗って湯に入り、久し振りに一生懸命髪を洗った。みずほの御髪は、地味で目立たない彼女の唯一の自慢だ。米糠で丁寧に洗って湯で注いだあと、湯船に使ってこのところを振り返った。

 みずほが退魔師として、本格的に刀を振るうようになって、今年でちょうど一年となる。彼女は初等学校を卒業したときに、俗世を離れて退魔の道に進んだのだから。最初はもっと鬼と戦わなければいけないんじゃないかと緊張していたものの、大正の世は平和だ。

 平安時代のもっと昼と夜の境が曖昧だった頃ならいざ知らず、今は夜には瓦斯灯の明かりで爛々と輝き、自転車や車が走るようになり、鉄道が敷かれるようになった。強盗や追い剥ぎのほうが、見えぬものよりもよっぽど怖いと、そう思っていたが。

 この半年ほど、警察からやって来る奇妙な事件が増えていた。

 今回の自殺事件もだが、神隠しと称されるような行方不明事件、辻斬り、無残な死体……少し前に流行した探偵小説のような出来事が、次々と起こるようになった。

 なにかあるんだろうか。時代を揺るがすようななにかが。

 みずほはあまり頭がよくない。世間知らずだとわかっているし、世の中の大きな動きもあまり知らない。そんな世に疎いみずほでも、さすがにおかしいとは思うのだ。いろいろと考えてみるが、いまいちぴんと来ないでいる。

 だんだんと体に熱が溜まってきた。これ以上湯船にいたらのぼせてしまうだろう。

 考え事は、布団でしよう。そう思ってみずほが風呂から出た……そのときだった。

 ガタンッ、と外から音がしたのだ。


「え……?」


 思わず手拭いで体を抑えながら、外に耳を峙たせてみる。

 母屋と離れを繋ぐ長い廊下の近く……中庭から、その音が聞こえるようだ。

 みずほはすぐに寝間着に袖を通し、部屋にかけておいた刀を手に取って庭に出た。

 庭に立っていたのは、幽鬼だった。幽鬼は本来、人に取り憑いてもせいぜい体が重くなる程度で、あまり力のない鬼なのだが。その幽鬼がいる場所が問題だった。

 幽鬼が立っている庭には、祠が三つ存在している。

 ひとつは祖先の坂上田村麻呂を祀る祠。

 ひとつは祖先の鈴鹿御前を祀る祠。

 最後のひとつは、みずほも知らない。ただ注連縄に札で厳重に封印されているため、これが田村家に関わる重大なものであろうことしか、彼女は知らないのだ。

 その祠に吸い寄せられるようにして、幽鬼が現れたということが問題であった。


「なんでしょう……この封印が、解かれかけている……?」


 この半年ほどの、町での不穏な怪事件。

 まさか元凶が自分の家の祠だなんて、誰が思うのか。

 ……みずほはそっとかぶりを振った。考えたところでしょうがない。今はこの幽鬼を倒すことだけを考えよう。

 みずほは刀を抜くと、幽鬼を斬った。衣が裂ける感触だけが、手に伝わった。幽鬼は避けると、石灯籠の上に飛び乗った。そしてくるくると回り出したのだ。幽鬼が回るたびに、石灯籠はガタガタと鳴る。まるで遊ばれているようだ、とみずほは思う。


「お止めなさい! そんなところで!」

──馬鹿と煙は高いところが好きだからなあ。ずいぶんと舐められているもんだなあ、お前さん


 みずほは言葉を詰まらせた。

 不意に話しかけてきた飄々とした声は、第三の祠から聞こえたのだ。

 男の声だ。これは先祖が倒した鬼かなにかではないだろうか。だとしたら、鬼の言葉に耳を貸してはいけない。みずほは必死で無視することにしたが、高いところに登られてしまったら、せっかくの太刀も届かない。それで歯噛みしていると、祠の中からのんびりとした声がみずほに話しかけてくる。


──なんだ、幽鬼ごとき、なんとでもなるだろ。お前さん倒せないのかい?

「……高いところに昇られてしまったら、刀が届かないじゃないですか」

──なるほど、この時代、弓矢を持ち歩くことがないのか。じゃあどうだ。お前さん、俺をここから出してくれないかい?

「なにを言っているんですか」


 いきなりの申し出に、目眩を覚えそうになった。

 先祖が必死で封印した鬼らしきものを、どうして外に出さなければならないのか。

 みずほは無視して、どうにか石灯籠の上に乗った幽鬼を倒す方法を考える。残念ながら、彼女の持つ顕明連でなければ鬼を斬ることができない。彼女は先祖が使えたという神通力も鬼を祓う霊力も持ち合わせてはいない。

 祠の中で「弓矢」と言われたように、弓矢でもあればと思うが。みずほは歯噛みしていると、なおも祠の中から愉快そうな声が耳に届く。


──そこの注連縄を切ってくれたら、俺が退治してやろうか?

「何故あなたの封印を解かなければいけないんですか。ご先祖様に顔向けできません」

──なるほど、そういうことになっているのか。じゃあこうしよう。俺をここから出してくれたら、なにがあってもお前さんを守ってやろう。お前さんの剣となれと言われれば剣となるし、盾になれと言われれば盾になろう。破格の待遇だと思うがどうだ?


 いったいなにを言っているんだ、この鬼らしきものは。

 みずほはなおも無視をしようと思っていたが、そうはいかなくなってきた。

 幽鬼は蛙のように足を弾ませて跳び回ったと思ったら、とうとう他の祠の上に乗ってしまったのだ。──それは、天女の鈴鹿御前の祠のはずだ。


「お待ちなさい、この罰当たりが!!」

──罰当たり、ねえ……


 祠の声を無視し、みずほはとっさに中庭を見た。

 中庭には三つの祠以外には、桜の木が一本。その桜の大木の幹に、みずほは足を引っかけた。この幽鬼は倒してしまわなければいけない。

 みずほは幹をバネにして、高く跳んだ。


「いい加減、観念なさい……!!」


 刀で幽鬼を突き刺した。斬られる瞬間、幽鬼はニヤリと口元を歪ませた。

 ブツリ……と切れた音がしたのだ。


「え……?」


 注連縄が、切れたのだ。

 三つ目の祠の注連縄が切れた。

 そこから、シュルシュルと煙が立ち昇ってきた。

 それと同時に、なにかがひらりとみずほの腕に落ちたことに気付いた。みずほはそれに手を伸ばして愕然とする。


「桜……ええ?」

「やっと出られたなあ……いったい何年ぶりだ。五十年ほどまでは数えていたんだが、そこから先はざっくばらんにしか数えてなかったからなあ」


 その声は、明らかに祠の中から聞こえていた声だった。

 振り返り、その姿を見て愕然とする。

 半年ばかり早過ぎる桜の下、注連縄しめなわの切られた祠の屋根の上。その男は座っていた。


「ようやく会えたな、我が妻よ」


 男の身長ほどの長さの直刀を腰に差し、烏帽子に衣冠。烏帽子からはみ出た髪は金色で、瓦斯灯で見る瞳の色は、どう見てもびいどろのような蒼だった。

 昔の武士の格好をした男が、口元に笑みを浮かべて立っていたのだ。

 ──ありえない、と少女は思った。

 季節外れの狂い咲きの桜、祠から出てきた招かれざる存在。

 なにもかもがありえない。認めてはいけない。


「あなたは……誰?」


 その疑問以外、少女は口にすることができなかった。

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