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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

地上の愛

Daemon’s Soul

作者: 槙野 シオ

「地上の愛」Spin Off Part.1



ネフィリムと呼ばれたシルフィは、なぜ愛情豊かに育てられながら闇に堕ちてしまったのか ──


それは、単なる無邪気な遊び心などではなく、怨恨と邪心による復讐劇だった。

待っていたわ、シルフィ……わたしの愛しい子……早くここにいらっしゃい……





シルフィは光を知らない。


シルフィは音も知らない。



そろそろ冬の足音が聞こえて来ようかという寒い日、青白くほの明るい月灯りが部屋を包みはじめる頃、シルフィはこの世界に産まれ落ちた。シルフィの世界は常に静かで太陽も昇ることがなかった。音のない暗闇の中に産まれ落ちたシルフィを、両親は優しくあたたかく育てていた。



シルフィが怪我をしないよう家具の配置に気を配り、床に物を置いたりすることもなかった。突然抱き上げてシルフィを驚かさないよう頭をなで、両の手のひらで頬を包み、それから優しく抱き上げる。そうするとシルフィは "いまから起こること" がわかり、安心してその腕に納まった。


耳の聞こえないシルフィは当然話すこともできなかった。しかし自分の意思を伝えることは、さほど難しいことではなかった。


お腹が空いたときは、お腹に両手を当ててしゃがみ込み、散歩に行きたいときは、父親か母親の服を引っ張りながら部屋の外側に向かい指を差す。


両親はシルフィが危険なことや悪いことをすれば、シルフィの小さな手を自分の頬に当て首を横に振る。たとえば散歩の途中、道に生えている草花を踏み付けたり引き抜こうとしたときや、道を逸れて小川に向かい歩き出すとき。


逆に、自分で使った皿やスプーンをキッチンまで運んだり、両親にやわらかくキスをしたときなどは、シルフィの小さな手を頬に当てうなずき頭をなでた。


シルフィは良いことと悪いことの区別がきちんとできていた。



───



そんなある夜。


ベッドで眠っているシルフィは "音" を聞いた。



── シルフィ……待っていたのよ……早くいらっしゃい……



シルフィの頭の中に響く優しげな音。シルフィは驚いて目を覚ました。



── 早く……早く……ここに来て……



シルフィはそうっとベッドを抜け出すと、その音のするほうへ向かい歩き出した。頭の中で優しくあたたかな音が鳴る。耳の聞こえないシルフィが産まれて初めて聞いた "声" 。


光もなく、音もない世界で初めて聞いた "言葉" の意味はシルフィにはわからなかった。ただ、そこに行かなくてはいけないような、何か大切なものがあるような、不思議な思いが心を揺さぶり、小さな彼女を動かした。


声を頼りにシルフィがたどり着いた場所は、村のはずれにある牧場だった。もちろんシルフィにはここがどこだかわからなかったが、頭の中で鳴る音がここだ、と言っているような気がした。



シルフィ……目の前に何か感じるものはない?



自分の前にある "何か、生あたたかい感触" 。少しの温もりと、かなりの警戒心をあらわにする、自分の前にあるその感触に、シルフィは何だか恐ろしいものを感じていた。


なに?


このいやな、わたしをこわがっているような、この、くろい、なにか。



── シルフィ、心で感じてごらんなさい。あなたの目の前にいる "いやなもの" は、いまあなたを傷付けようとしているのよ。可哀相なシルフィ。そのままでは傷付けられて、痛い思いをすることになるわ。



真っ黒な感覚に囚われたシルフィはぎゅうっと目をつむり、そのいやなものが遠くに行ってくれることを願った。



── だめよシルフィ、遠ざけてはだめ。そのいやなものはあなたを傷付けるのよ。さあシルフィ、そのいやなものがあなたを傷付ける前に……殺してしまいなさい。



シルフィは怖くなって泣き出した。

こわい、こわい、こわい。

なんだかわからないけれど、こわい。



「やはりいきなりは無理ね」

「初めてですもの、仕方がないわ」



── 小さなシルフィ……今夜は家にお帰り……



優しい声に促されるよう、シルフィは家へと急いだ。



「とりあえずヴェールさまにお伝えせねば」


シュトリとヴィネアは一旦アビスに引き返すことにした。



───



エデン(天空)の対極にあるアビス(奈落)では、ヴェールが苛々とした様子でふたりの帰りを待っていた。


「ヴェールさま」

「ああ、おまえたち。それで、どうだったの?」

「まだ……目覚めてはおりません」

「そう……そうね。まだあんなに小さなこどもですもの」

「しかしヴェールさま、あの小さき者はルフェルさまの御子として育つ者。穢れを受け入れられましょうか」

「元は結晶を持たない(から)の赤子だったのよ」

「ではやはり目覚める日が来るのですね」


シュトリとヴィネアは期待に満ちた声でお互いを見合わせうなずいた。


「一刻も早く、このアビスの救世主としてあの小さなシルフィを手に入れなければ……」


ヴェールは歓喜と憎悪に胸を震わせた。


「やっと……やっとあの子をこの腕に抱く日が来る……」



───



次の日も、そのまた次の日も、シュトリとヴィネアはシルフィを呼んだ。呼ばれるがままシルフィは家を抜け出し、真夜中の牧場へとやって来た。怖い思いをすることはわかっていたが、頭の中に響く優しい "声" が唯一自分に聞こえる "音" だったシルフィは、その不思議な力に抗うことができなかった。



さあシルフィ、あなたの中に眠っているその力に気付いてちょうだい。小さなあなたのからだの中に眠る、邪悪で甚大なその力に……



── ほら、目の前にある "いやなもの" はあなたを傷付けるのよ。そうなる前にあなたの力で……殺してしまいなさい。



こわい、こわい、こわい……恐ろしさが極限に達したシルフィはビー玉のような青い瞳を大きく見開き、全身に力を込めた。ぐしゃり、という音と共にシルフィの足元に落ちて来たものは、捻り上げられ胴のねじれた一羽のニワトリだった。その途端、シルフィが感じていた "真っ黒な感覚" が消えた。


あ、こわくなくなった。



「おお……」


よくやったわシルフィ。あなたはなんて利口なこどもなのかしら。


シュトリとヴィネアがシルフィの頭をなでる。


頭をなでられたシルフィは "よいこと" をしたのだと理解した。



───



アビスを統べるヴェールにとって、人間はとても容易い獲物だった。契約を持ち掛ければふたつ返事で魂を売る。その魂が永遠にアビスから抜け出せずとも知らずに。


金貸しに賃金を返済することができなくなった者、商売がうまく行かず路頭に迷う者、道を踏み外し不貞を働く者、恵まれた子宝が病に苦しむ者、実らない恋心を摘まねばならぬ者……迷い、悩み、猛り、嘆き、その胸で闇を育てる人間に、苦しみの肩代わりをちらつかせれば魂を売ることなど迷いもしない。


アビスに堕ちた魂は、まず目の前にいる黒い天使を恐れ逃げ惑う。そして逃げられないとあきらめた頃、この黒い天使との契約を激しく悔やむのだった。エデンでは結晶となり産まれ変わりを待つことができるが、ここアビスでは魂のままその暗闇の中をさまようことになる。嘆き苦しむ魂が増えればアビスは活性化し、そこに棲む者たちを潤わせた。


しかし近頃は地上に棲む天使の数が増え、アビスの黒い天使たちは契約を持ち掛けることが難しくなっていた。



そこに吉報が舞い込んだ。


あの忌まわしい熾天使(セラフ)が人間と契りを交わし子を成した、と。


人間との恋に落ちることはエデンの厳粛な掟において絶対禁忌だ。その赦されざる恋の末に成された赤子には、女神の祝福した結晶は入っていないはず……


どれだけ憎んでも憎み足りない熾天使が、エデンの禁忌を破り人間に恋をし、さらに罪を重ね子を成した、ですって? あの冷徹で残酷なまでに正しく、誰よりも神に忠実で何よりも罪を赦さなかった、憎いあの熾天使が……!



───



ヴェールはファミリアー(使い魔)に "七つの種" を持たせ、地上に遣わせた。ファミリアーは言い付け通り、結晶を持たない小さな命に、ひとつ、ひとつ、丁寧にその種を埋め込んだ。


「あの子は……わたしの種から産まれて来るわたしの子……」


ヴェールは七つの種を植え付けた赤子が産まれて来るのを、いまかいまかと待ち詫びた。



───



アビスに棲む者たちは、人間から "悪魔" と呼ばれていたが、正確には "元天使" だ。神に背き、赦されざる罪を犯しエデンで死罪となった天使。その天使たちが堕ちる先がアビスだった。


ヴェールもかつては智天使(ケルブ)と呼ばれ、神々に永遠の命を与えられ忠誠を誓ったひとりだったが、地上で犯した罪を咎められ死罪を免れることができなかった。



「許さない……断じて許しはしない……!」



わたしは……罪を犯しはしたが神に背いたわけではない。愛するひとをこの手で葬ったあと、裁きの刃で堕天して人間として死んで行くはずだった。それが唯一……わたしたちふたりに残された、最後の道だったのだから。


愛するひとを葬り、いよいよ自身の胸を貫こうとした時……ヴェールは周りの空気が張り付いたよう動きを止めたことに気付いた。目の前が一瞬にして紅く染まる。不規則に舞い躍る火の粉は何かに呼ばれるように集まり、それはたちまち燃えさかる灼熱の楔となって地に深く突き刺さる。ヴェールは裁きの刃を両手で握り締めたまま、身動きひとつ取れなくなった。


なぜ……どこで知ったの……


吹き付ける熱風がおさまると、揺らめく陽炎の中から十二枚の翼を広げ、ひとりの天使がゆっくりとヴェールへ向かい歩いて来た。まさか……よりにもよって大天使長が現れるとは……


「ヴェール、その手に握る裁きの刃を寄越せ」

「大天使長さま……どうか、どうかお慈悲を……」


懇願するヴェールにルフェルは冷たく言い放った。


「人間殺しは大罪だ。わたしではなく神々に慈悲を乞うがいい」

「どうか……どうかこのままわたくしを死なせてください!」

「わたしに目の前の堕天を見守れ、と?」

「ほんのひととき……一瞬でいい! 目を閉じてはいただけませんか!」

「わたしが気付く前に遂げるべきだったな」


ルフェルはヴェールの両手に握り締められた裁きの刃を取り上げると、そのままヴェールをエデンへと連れ戻した。



───



「死罪」 「死罪」 「死罪」



"裁きの間" で神々はみな口を揃えてヴェールを咎めた。


「残念だがおまえをアビスへ追放することが決まった」


法の女神ユスティア、罰の女神ミーシス、死の女神フィオナのその言葉で、ヴェールはもう二度と人間として死ぬことの叶わぬ身となった。



── ただ罰を受けるためだけにわたくしはエデンへと連れ戻されたのか……



ヴェールは潰れそうな胸で一縷の望みを懸け、神々の右に立つルフェルを仰いだ。ルフェルは職務に対し決して妥協を許さない厳しい(おさ)ではあったが、情に厚く優しい顔も持っている。


「大天使長……!」

「……命乞いか」

「いいえ……いいえ! むしろこの場で! いますぐこの場で……あなたの手で殺してくださいませ!」

「ほう……自ら熾烈の餌食になりたい、と」


奈落(アビス)へ堕とされるくらいなら……この場で絶えたほうがましだ……!



「確かに、堕天を咎めおまえを連れ戻したわたしが、首を突っ込む道理はあるな」


そう言うと、ルフェルは空を切りその右手に焔火(ほのお)で鍛えられ深紅に染まる熾烈の剣を納め、それをひと払いした。剣は轟々と唸りをあげ、剣身に溶熱した焔火が走る。ひざまずき頭を垂れるヴェールの前で立ち止まったルフェルは、その剣を床に突き立てた。


「さて……罪人を斬り捨てることに些かの懸念もないが」

「どうか……ひと思いに……」

「それでおまえは……何を償えるのだ?」

「わたくしの命では……贖罪に値しないと仰るのですか……」

「神が与えし人間の命と、それを奪いし罪人の命……よもや同じ秤で量れるとはおまえも思うまい」

「……血の粛清などでは賄えぬ、と……そう仰るのですね……」

「剣を構えろ」

「……剣を?」

「おまえにもエデンの番人と言われた智天使としての矜持があるだろう。わたしの斬撃をかわし一筋でもわたしに傷を付けることができたなら、そのときはおまえの贖罪を認め、代わりにわたしがアビスの住人になろう」


……きっと大天使長は冗談ではなく本気で仰っているのだろう。もちろんわたしの腕前を嘲笑しているわけでもなく、仮にほんの少しでも傷を受けたならこの方は間違いなくアビスへと堕ちるつもりだ。そして、そこまでしなければ……大天使長に傷を付けなければ、この罪は償えぬということか。


「……無駄なことよ」


死の女神フィオナがそれを止めた。


「後悔を重ねるに過ぎぬ戯れだと……気付くことすらできぬまでに堕ちたか」

「……だ、そうだ。剣を取るか、裁きを受け入れるか、おまえが選べ」



ゆらり、とヴェールは立ち上がり、ルフェルとの距離を測りながら右手で空を切った。その手には燃え上がる炎をまとい、辺りを照らすほどの光を放つ "守護の剣" が握られた。ヴェールが剣を一振りするとその剣身は二又に分かれ、よりいっそうまばゆい光を放ちながら裁きの間を赤く照らした。


「殺すつもりで掛かって来い」


剣を握る手に力を込めると、ヴェールは双剣を振り抜いた。ふたつの切先から繰り出された輝く炎は火箭(かせん)となり、迷うことなくルフェルを捕らえた。この間合いなら……床に突き立てた熾烈の剣を引き抜き矢を払う時間はないはずだ……そう思ったヴェールの首元ではわずか一厘の距離で止まる熾烈の剣が唸りをあげていた。


まさか……あり得ない。矢を放つためにあえて距離を取ったにも関わらず、この動きの速さはどういうことだ。わたしとて伊達にエデンの番人として、守護を任されていたわけではない。特級の熾天使の力とは、これほどまでに絶大なものなのか……



「そこまでだ」



法の女神ユスティアがふたりを制したところで、フィオナとミーシスは溜息を吐いた。


「ヴェール……おまえを我が子のように可愛がって来たけれど、おまえがこんなに馬鹿な子だったとは知らなかったわ」


ユスティアがそう言うと、ヴェールの周りに懲罰の天使たちが姿を現した。


「自らの長に刃を向けるとは……」


アビスへの追放を言い渡され正念を失っていたことに、ヴェールはいま気が付き思い出した。上級天使に歯向かうことがエデンでは罪であることを。しかも、自分が刃を向けた相手が最上級熾天使であり、大天使長であったことを。そして……それを当の大天使長本人が知らぬはずがない、ということを。


「……謀ったな」

「言ったはずだ。おまえが選べ(・・・・・・)、と」

「信じていたのに……誰よりも、誰よりも信じていたのに……!」

「冷静さを欠いた浅はかな自分を恨め」


冷淡な顔でそう言うと、ルフェルは裁きの間をあとにした。



───



懲罰の天使たちはヴェールに群がると、その白く輝く美しい翼を、ゆっくり時間を掛けながら(なぶ)るように()ぎ取った。無理矢理ねじり切られた背から噴き出す真っ赤な血は、残り三枚の翼を真紅に染めた。裁きの間に絶叫が響く。それはすべての翼が捥がれ、千切られ、引き裂かれるまで絶え間なく続いた。


「許さない……! 断じて、断じて許すものか……!」



ヴェールの最期の言葉はエデンに深く響き渡り、ヴェールの水晶は無残にもその目の前で神々の手により粉々に砕かれた。なぜ……どうせ闇へと葬るならなぜあの時……人間として死なせてはくれなかったの……



天使の中にはヴェールに同情する者まで出て来た。シュトリもヴィネアもその中の天使だった。中級三隊の天使である能天使(エクス)のシュトリも、力天使(デュナミ)のヴィネアも、あまりにも無残に、苦しみながら闇に堕ちたヴェールのあとを追い自ら堕天してアビスの住人となった。


「お可哀相なヴェールさま……せめてわたくしたちがおそばに」



───



シルフィは優しげな "音" に促されるまま、大きな瞳を見開いて一頭の羊を捻り上げた。そのあと決まって頭をなでてくれるシュトリとヴィネアに心を開き始めていた。頭をなでられることは良いこと。シルフィは自分に音をもたらし、優しくなでてくれるシュトリとヴィネアの存在に喜びを感じていた。



そして次の夜。


シルフィは言われるがまま、ディオナの祝福を受けたこどもを捻り上げた。宙に浮いたからだはミシミシと音を立てて歪み、至る所からおびただしい量の血が流れ落ちる。捻られ気道を塞がれた小さなからだは泣き叫ぶことすらできず、全身の骨という骨を砕かれ地面に叩き付けられた。


黒い気配は感じなかったが "音" が喜びなでてくれる嬉しさを覚えたシルフィは、笑顔でシュトリとヴィネアの声に応えた。


あなたは本当に利口なこどもね。


シュトリとヴィネアがシルフィの頭を優しくなでる。



人間のこどもを殺めたシルフィは、完全に闇に堕ちた。それは神々にとって赦すことのできぬ大罪だったが、アビスの住人にとってはまたとないチャンスだった。


「ヴェールさま、とうとうあの小さき者が人間を手に掛けました」



七つの種にはひとつひとつ名前が付いている。


傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。


シルフィに植え付けられた七つの種はすなわち "七つの大罪" への芽となった。



いまこそ……見せしめの時が来た。



天空から、その遠いエデンから地上を見下ろすがいい。そして受け入れ難い現実に嘆き、もがき、悲しみに暮れるがいい。神が祝福した子の命を奪ったのは、神々が愛して止まぬ熾天使の娘だ! 地上で罪を重ねる小さき者は、いつかその血塗られた手に気付き、己の内に潜む甚大な邪気に目覚めることだろう。



───



いつものように優しげな音を聞き、その声に誘われるがままシルフィは村にある小さな教会へとたどり着いた。


きょうは、ここで、よいことをするの?


シルフィは天使の群れに近付くと、その大きな瞳を見開いた。一体の天使が宙に浮き、じわじわとからだが捻じれ始める。これ以上は耐えられないだろうというほど腰の上下でいびつな方向に捻られると、からだ中の骨が一気に砕ける音が教会に響き渡った。


全身の骨を砕かれた天使は、ドサリと音を立て床に落ちる。


シルフィの心の中は、優しく頭をなでてくれるだろうという思いでいっぱいだった。頭をなでられることは良いこと。しかし今夜は誰も頭をなでてはくれなかった。誰も頭をなでてくれないことを不思議に思っていると、そこに最も愛すべき者の気配を感じた。


きょうは、パパが、なでてくれるんだ!


凄惨な光景を目の当たりにしたシルフィの父親であるルフェルは、小さな影がよろよろと近寄り両手を広げた姿に言葉を失った。シルフィは自分の手がルフェルの頬に触れ、うなずいて頭をなでてくれるとばかり思っていた。しかしうなずいてくれることも頭をなでてくれることもなかったため、シルフィは "まだ足りないのだ" と考えた。


そしてまた天使の群れの近くに戻ると、シルフィは天使を見つめ始めた。ビー玉のような青い空っぽの瞳で、ただただ天使をじっと見つめ続ける。宙に浮かぶ天使の、みしみしとからだが捻じれる音。限界を迎えた瞬間、骨の砕ける音と天使の絶叫が教会を貫いた。


そして天使は無残にも、握り潰した紙のようにしわくちゃとなり、床に落ちた。


ドサリ、という感覚は床を這い足元からシルフィにも伝わった。そのまま、天使の群れをただじっと見つめ続けるシルフィ。


「シルフィ! やめてくれ!」


たりない?


「シルフィ……なぜこんなことを……」


まだ、たりない?



しばらくすると、ルフェルはシルフィの頭をそうっとなで、両の手のひらで頬を包み、いつものように優しく抱き上げた。


「シルフィ、こんな真夜中だ。家に帰ろう……」


シルフィはにっこり微笑むとルフェルの腕にきゅうっとしがみ付いた。



よかった、やっとなでてくれた。



───



罪深いシルフィの魂を手中にすれば、アビスはさぞ潤うことだろう。あの力があれば、わざわざ人間共と契約をする必要もない。そして何より……あの憎いルフェルと神々にこれ以上はないほどの苦しさを、絶望を与えられるのだ。


あの時ヴェールを闇に葬り、二度と叶わぬ夢にひとしずくの慈悲すらも垣間見せることのなかった神々に……



アビスの繁栄とエデンの凋落に胸を躍らせるヴェールに、シュトリとヴィネアが慌てた様子でシルフィの危機を告げた。


「ヴェールさま! 早く……早くあの小さき者を手中に収めなければ!」

「一体どうしたというの?」

「教会にフィオナさまが現れました」

「ルフェルさまに……明朝までにシルフィを殺せと仰せです」

「なんですって?」

「エデンではすでにシルフィの力を食い止める算段が成されているはず」

「早くあの甚大な力を手に入れねばなりません」


あの憎く忌々しいルフェルとフィオナが……またしてもわたしの邪魔をするというのか。


ヴェールは急いで地上へ向かった。



そしてそのヴェールの目の前で、いま正に、小さな首が、飛んだ。



流れて行くシルフィの血。七つの芽を持つ血がゆっくりと、しかし止まることなく床に広がって行く。


「なんてことを……!」


ここまで育てた七つの罪をただただ茫然と見送ることしかできないヴェール。シルフィに甚大な力があるとはいえ、首と胴を切り離されてしまっては生き長らえることなどできるはずもなかった。


そして次にヴェールが見たものは、



── ルフェルが己の胸を貫く姿だった。



……大天使長……あなたは一体、どれだけわたくしを苦しめれば気がお済みですか……愛しいひとを追い人間として死のうとしたわたくしを咎め、穢れたアビスへと追いやっただけでは事足りず、わたしくしが成し得なかった夢を……あなたは目の前でいとも簡単に果たしてしまわれる……愛する者を追って……人間として自死することを咎められることもなく……


ヴェールはあふれる涙を止めることができなかった。


わたしに科された人間殺しの罰は永久に終わることがない。人間として死ぬことを咎められ、天使として死ぬことさえも阻まれたわたしを、アビスよりさらに深い闇へと突き落とす堕天使ルフェル……



「あなただけは……わたしの未来永劫続く命の限り憎み続けてやる……!」



───



とうとうこの腕に抱くことのできなかったシルフィを想うと、その力を利用しようとしていただけに過ぎなかったヴェールでも、やはり種を植え付け待ち望んでいたことに変わりなかったからか、胸に小さな穴が開くような想いだった。


「ヴェールさま、結局小さき者を手に入れることはできませんでしたね」


シュトリが残念そうに言うとヴェールは答えた。





「大丈夫、人間に恋をする天使はあとを絶たないわ」

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