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二度編んだ娘 3

「ごめん」

 ラビの絞り出すような低い声が、カジャルの耳元で聞こえる。急に体を引き寄せられ、抱きしめられたからだ。

 これまでカジャルとラビの間には、いつもひとり分の距離があった。彼女たちの間にはいつもザビという存在があって、それが自然とふたりの距離に繋がっていた。けれども今、カジャルとラビの間に何も存在しない。ラビの腕の中にカジャルがいるのだ。


「順番を間違えた」

 何の順番だろうかと考えてみるも、思考が働かない。状況に理解が追いつかない。カジャルの頭は完全に混乱に陥っていた。

 夜の帳が下りてきて、気温が一気に下がった、筈だ。それなのにカジャルの体は温かい。それが心地良くて、幸せで、そして恐ろしかった。どうして抱きしめられているのか、どうして謝られたのか、間違えたとはどういう意味か。カジャルはそっと手を伸ばし、縋るようにラビの上着をぎゅっと掴む。そうして恐る恐る彼を見上げた。

「例えカジャルが今も兄さんを想っていても、どうもしない。カジャルを妻にするのは俺だから。そしていつか、きっと俺がカジャルを幸せにしてみせるから」

 そう言おうと思っていたんだ。夜に溶けてしまいそうなくらい小さな声で、ラビがそう呟いた。


「ずっと怯えていたんだ。いつか兄さんが帰って来て、カジャルがまた兄さんの許婚に戻ることに。俺が兄さんの元を訪れていたのは、兄さんを心配していたからじゃない。兄さんの気が変わらないか、見張っていただけなんだ」

 それは衝撃的な告白だった。村の者たちは皆、ラビが町に下りた時にザビを訪れていると確信していた。ザビを勘当した長ももちろん察してはいただろうが、次男が長男を訪ねることは黙認しているようだった。家を出た兄を心配する弟。誰もがそう信じていたけれど、実は違うのだと本人が否定してしまった。

「兄さんが俺たちを、村を捨てたと知った時、もちろんそれは悲しかった。だけど同時に、心の奥でほくそ笑んでもいた。兄さんがこのまま帰って来なければ、恐らくカジャルの婚約者は俺に代わるだろうという期待があったからだ。そして実際そうなった。子供の頃から好きで、でも絶対に手に入る筈のなかったカジャルが自分のものになる。カジャルはあんなにも傷ついていたのに、あの時俺は、密かに喜んでいたんだよ」


「……嘘でしょう?」

 同じ年で、婚約者の弟で。だからラビとは幼い頃からずっと一緒で、時には喧嘩をし、時には共に叱られ、小さな手と手を繋ぎながら大きくなってきた。だけど十を過ぎた頃から徐々に素っ気なくなり、十三歳になって男衆と女衆に別れて仕事をするようになるとすっかりよそよそしくなっていた。あんなにもずっと一緒にいたのに、話す機会が減ると何を喋れば良いのかも分からなくなって、ラビと結婚することが決まった時は正直どうしようかと不安になってしまったくらいだ。

 だけど、婚約者になったラビは優しかった。子供の頃のようにいじわるを言うわけでなく、思春期の頃のように避けることもなく、いつもカジャルのことを気遣ってくれた。でもそれは、兄の行動に対する贖罪の気持ちによるものだとカジャルは思っていた。なぜならラビはいつも、カジャルとの距離をとっていたからだ。ザビひとり分の距離を間にあけて、決してカジャルに触れようとはしなかった。けれども彼は、ずっと彼女を想っていたのだと言う。

「言いたいことは分かる、ごめん。だけど婚約者になってからずっと、カジャルと話すことも、隣を歩くことさえ緊張していたんだ」

 もしかして、もしかしなくても、自分はものすごくラビに想われているのではないか。今更ながらカジャルはそう自覚すると、その瞬間一気に体温が上がる。そうして恥ずかしさを隠すように、早口で彼の不安を打ち消した。

「ザビの気が変わるなんて、ありえるわけないじゃない。だって彼には、奥さんがいるのだから」


 二年前のあの日、ザビが姿を消したのは、とある女性を好きになってしまったからだ。

 定期的に町に下りていたザビは、町でひとりの娘と出会った。いつどんな経緯で知り合ったのか、どんな風に仲を深めていったのか。その詳細をカジャルは知らない。けれどもザビは、家族と許婚を捨ててでも、彼女と一緒になることを望んだ。将来は村の長となることが定められ、結婚する相手も幼い頃に決められ。後継者として長から厳しくされていたけれど、それに逆らうこともなく、ザビは明るく優しい人柄で村人から慕われていた。そんな彼が、すべてを捨ててひとりの女性を選んだのだ。それはもう、並大抵の覚悟ではないだろう。そんなことは、世間を知らない小娘のカジャルですら容易に理解できる。だからこそ、傷つきもした。

 それなのに、ラビは今も兄の影に怯えていると言う。今はその女性と家庭を築き、二度と村へ戻る気のないザビが、カジャルの元へ帰って来ることを恐れていると言うのだ。


「春の空の色をしたあの織物を見た時、カジャルはまだ兄さんを好きなんだと思ったんだ」

 抱き締める腕を緩めると、ラビはそうぽつりと告白した。

「兄さんは、晴れた青空のような人だ。だからカジャルが兄さんの為に編んだサティヤムを見た時、あまりにも兄さんに似合っていて、俺は羨ましくて仕方なかった」

 マライ村では昔から、結婚が決まるとサティヤムと呼ばれる髪紐を互いに贈り合う。髪を結わえる為の紐だという以外に決まりはなく、だから自分の家に代々伝わる文様を編み込んだり相手が好きな色を選んだりと、各々が好きなように趣向を凝らす。カジャルはザビを思わせる優しい空の色を、複数の青糸を使って繊細に編み上げた。未来の夫となる人を想って編んだサティヤムは、自画自賛したくなるくらいに上手く仕上がり、ザビも綺麗だと褒めてくれた。婚約者の黒い髪に結われた空色を見るたびに、カジャルはくすぐったい気持ちになったものだ。

 けれど、ザビに贈った筈のサティヤムは、カジャルの元へ返ってきた。僅かな私物を携えて姿を消したザビだが、許婚から贈られた空色の髪紐だけを残して去ったからだ。


「あの布は、ザビを想って織ったわけじゃない」

 ラビは明らかに誤解をしていた。そしてそれは、カジャルのせいだ。カジャルがずっと受け身だったから、ラビにそんな風に思わせてしまったのだ。今こそ自分の気持ちを伝えなければと、カジャルはきっぱりと彼の言葉を否定した。

 青空が、ザビを思わせる色が大好きだったカジャルだが、あの日以来大嫌いな色となった。空なんて見たくもない。何日も家に引き籠り、外に出たとしても極力空を見ないよう俯いていた。だけどいつしか、空色の布を織りたいと思うようになった。二年という時間の中で、ずっと寄り添ってくれた家族と親友と、そしてラビのおかげで、胸に開いた傷が少しずつ塞がっていった。そして綺麗なものを綺麗と、好きなものを好きだと思う感情が戻ってきたのだ。

「あの色は、幼い頃にこの場所でラビと見た空の色だよ。一緒に走り回って、疲れて寝転がって見上げた空の色」

「俺と……?」

 戸惑い気味に問いかけてきたラビに、カジャルはそうだよと微笑みながら頷く。

「それから天気の良い日に、落ち込んでいたわたしを家からここまで連れ出してくれて、並んで座って眺めた空の色でもあるわ。何も言わなかったけどラビが隣にいてくれて、空が綺麗だなってまた思うことができた」


 やがてカジャルは手を伸ばすと、ラビの髪に結われている藍色の髪紐にそっと触れた。

「この藍色は、泣いているわたしをラビがここまで探しに来てくれた時の夜空の色」

 ザビの失踪後、しばらくは許婚が帰って来ることを信じて待っていたカジャルだが、ある日ついに耐え切れなくなって家を飛び出した。誰もいないこの場所で、声をあげて泣いた。泣いて泣いて、涙が枯れるくらい泣いて。いつしか太陽は沈み、空が藍色に染まった頃に迎えに来てくれたのがラビだった。

「静かな夜のように寄り添ってくれるラビの色だと、そう閃いたの。わたしの中でずっと夜が続いていたけれど、気づけば夜は明けていた。だから端の方は夜明けの色なのよ」

「俺がカジャルに編んだサティヤムも、カジャルが泣き腫らしていたあの日の空の色だ」

 濃い藍色から少しずつ明るくなってゆく、そんな繊細な髪紐に触れながらそう打ち明けたカジャルに対し、ラビも同様にカジャルの髪に手を伸ばした。彼女の長い黒髪には、ラビが贈った藍色の髪紐が結わえられている。男性が編むサティヤムは女性が編むものに比べて比較的シンプルだが、ラビは藍地に白の糸で、長の一族を示す伝統的な文様を丹念に編み込んでいた。


「もう二度とカジャルを泣かせないと誓いを込めて、あの日の空の色をサティヤムに編み込んだ。なのにまた泣かせてしまった」

 低く吐き出されたラビの言葉には後悔が滲んでいて、カジャルは慌てて首を横に振った。

「婚儀の前に兄さんへの気持ちに区切りをつけようと、腹を割って色々と話したんだ。俺がカジャルを幸せにすると宣言したら、それを伝える相手は違うだろうと笑われて、それで兄さんへのわだかまりが消えた。そして、カジャルが俺を好きじゃなくても、今日こそ俺の気持ちを伝えようと覚悟を決めたんだ。だけど緊張で余裕がなくて、順番を間違えた」

 ラビはもともと口数が多い方ではないが、今は饒舌だ。普段はあまり表情も変わらないが、今は消沈したような表情を見せている。その様子に、胸の奥が温かいようなくすぐったいような気持になって、カジャルはそっとラビの手に触れる。先程手を差し出された時には恥ずかしくて躊躇ったのだが、ラビに触れたいという気持ちが先立って、自然と手が動いていた。一瞬驚いたように触れた先がぴくりと動き、やがてカジャルの冷えた指先はラビの大きな掌に包まれる。

「さっきのカジャルの質問に、まず好きだと答えるべきだった。そもそも、もっと早く伝えるべきだった。色々順番を間違えてごめん」


 生まれた時から許嫁だったザビのことは、本当に好きだった。幼かったけれど、幼かったなりに全力で好きだった。

 だけど今は、ラビのことしか見えない。遠慮がちに、けれども根気強く、カジャルのことを見守ってくれたラビが心の傷を癒してくれた。行き場のないザビへの想いを持て余していたけれど、いつしかその場所にはラビが入り込み、彼の存在がカジャルの心を占めるようになっていた。

「わたし、ザビじゃなくてラビが好きなの。ラビのお嫁さんになりたいの」

 サティヤムを編むのが二度目だった故に、遠慮とか引け目とか、また捨てられてしまったらという怖れとか。色んな感情に囚われて身動きがとれなくなっていた。けれども二度目のサティヤムは、お互い同じ夜空の色だった。その意味に気づかず、気持ちを告げる勇気を出せなかったのも似た者同士だ。

 だけど今、隠していたみっともない本音を曝け出し、ようやくふたりは真の婚約者になった。そして間もなく、夫婦になる。

「うん、カジャルを嫁にするのは俺だから」

 そう宣言すると、そっとラビが顔を寄せる。そして、まるで誓いを立てるかのように口づけた。

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