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短篇集を作成しつつ連載中。  作者: つくあ きぬを
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雨とトンネル (完成しました)

「平気なの? みんな心配してる」

食べやすいように皮を剥いた枝豆を、器用に箸ですくい口に入れた。角田の几帳面な性格は昔と何も変わってはいない。

「周りだってよくあることだろう。それと同じだよ」

テーブルに肘をつき、少し大袈裟にジャスチャーを加えて話した。私も高校時代と変わらないままであれば、角田に察知されるのも時間の問題だろう。

「全然違うよ。今まで喧嘩らしい喧嘩なんてしてこなかったじゃない。なのに急。急に家飛び出したって聞いて。みんな驚いてるの」

確かに、他の家庭の事情は知らないが、今まで喧嘩らしい喧嘩なんてしたことはなかった。お互い、すぐに一歩引いて身を守る性分だった。デットヒートのような火花が飛ぶ前に、常に抱えているバケツで消火する、そんな二人だった。だが、あの夜は得体の知れない情調に苛まれ、火に薪を投げ込む、そんな二人だった。

「もう三ヶ月も戻ってないじゃない。連絡は取ったの?」

「いや……」

「なんでしないのよ」

「最近はずっと仕事が忙しい。お袋も体調が良くない。俺にも色々あるんだよ。それに妻も実家に帰っている。向こうの両親のこととか、色々あるじゃないか」

「呆れた……あんまり危機感ないんだね」

「どういう意味だよ」

「ここで喧嘩したって仕方ないんだけど。そういうのは男が折れないとダメ。本当になっちゃん、離れちゃうよ」


カシスオレンジのカクテルを飲み干した後、お会計を済ませ駅へと向かった。「ちゃんと連絡しなさい」と、余計なお節介を言いながら、角田は改札の先にある喧騒へと溶けていった。私はなんとなく、角田に言われた言葉を何度も噛み締めていたい気分になり、少しぶらつくことにした。

キスをするよりも前、いや、手を繋ぐよりも前のこと。私と妻はよく、河畑先公園までの道のりをどちらが決めたわけでもなく、無粋に歩くことが多かった。その道を今は一人で噛み締める。家電量販店やタワービル、駅前の再開発による建設途中の工事現場。この街も随分景色が変わった。仕事に就き、この街とも縁が離れかけていた頃、よく行きつけたボウリング場と喫茶店は、まるでショッピングモールの商業に飲み込まれてしまったかのように、あっと言う間に姿を消した。賑やかに第一線を走っていた若者たちも、どこに行ってしまったのだろうか。密接に繋がっていたのだろう。ほぼ同時にこの街から姿を消していた。

信号待ちの人々は、足早に待ちわびている。私が向かう先に何があるのだろうか。気がつけば肩に肩が触れるほど、人が近い。

「今日いつもより混んでない〜 なんでー」

「あれじゃね。ほらイルミネーションの」

若いカップルが、この新アトラクションに並ぶ遊園地の時のような混雑に、答えを出してくれていた。交差点に置かれた掲示板に、破れかけた餅つき大会のチラシと、「光のトンネル」と書かれた貼り紙が画鋲で止められていた。12月11日〜12月29日、河畑先公園入口にて。そうか、イルミネーションが行われているのかーー

ふと光に包まれていない、思い出の中の公園の風景が、私を呼び止めるように想起された。漂うまま感傷に浸っていると、とても懐かしい電話ボックスが目に入った。不思議な気分だった。久しぶりに、どうしてだろうか、電話をかけている自分が容易に想像された。

今でも狭い箱の中に入ると、街から遮断された場所に飛ばされる。電波の繋がった人とだけの空間。誰も侵入出来ない場所。そんな若い頃の気持ちが蘇った。受話器を取り、ダイアルを回す。何度も何度もかけた妻の実家の電話番号は、頭ではなく、指に染み込んだままだった。そして、溢れ出してきた緊張は呼び出し音に呼応するように、ドクンドクンと全身を響かせていた。

「もしもし。川舟ですが……」

「あの、坪内です。こんな夜分に申し訳ありません」

「……達司さん? ……お久しぶりです」

「ああ……さゆちゃんか。久しぶり」

「どうしたんですか。こんな時間に」

「いや、大したことじゃないんだけどね。奈恵と話がしたくて」

「お姉ちゃんですか……今は、留守なんです」

「そうか……じゃあ言伝をお願いできるかな」

「いいですけど」

「ありがとう」

「でも、いいんですか?」

「ん?」

「私がお姉ちゃんに伝えないことだってありますよ」

「……大丈夫。信頼してるよ」

「お兄さんは、ちっとも昔と変わりませんね……お姉ちゃんと似て純粋なところが」


待ち合わせに選んだ場所は、当時の面影を消していた。ここには名の知れた芸術家の彫刻が置かれていたはずだったが、円状のベンチに腰を下ろして一休みをする憩いの場に変わっていた。これはもしやと危惧したが、何の心配もなく妻と出会えた。来てくれないのではと思っていた。恐らく、本当の懸念はこちらだろう。顔を見るなり、私は安堵の表情をしてしまい、照れくささを隠すように時計を見た。三ヶ月ぶりに会う妻は、少し痩せていた。そして、妻も私の顔を見て「少し痩せたね」と言った。

表通りからひとつふたつと脇道を入ると、下に降りていく階段がある。割烹料理の店。久しぶりの外食に、見栄を張っていないと言えば嘘になるが、こういう時の男のプライドは厄介の一つだった。熱くなって口論するのは好ましくない。そして大人の幅を利かせただけでは、解決に至ることはない。まるで運動会のリレーの順番が回ってきた時のように、階段を降りる間、深く息を吸い込んだ。


「今日は誘ってくれてありがとう」

「いや、こちらこそ。来てくれてありがとう」

当然のような社交辞令を交わし合う。店の中では、本題の核心に触れることはなかった。その場での私は、まるでツルツルの球体を掴もうとして、ドジを踏む少年のようだった。それを上手にやんわりといなす妻。

「雨、降ってるね」

「強くなりそうだな」

「私、傘持ってきてないや」

「なら、駅まで送るよ」

まだまだ本降りには届かない、弱いポツポツがあたりに落ちていた。雨は絵描きのようにコンクリートに斑らな模様を塗っている。このまま私達の沈黙にも、彩りを加えて欲しかった。これ程までに妻の気持ちがわからないことがあっただろうか。もどかしい。妻の心を見透かすレンズでもあれば、例え100万円の値打ちがついても購入するだろうに。

「少し散歩しないか」

「今、してるよ」

「いや、今は帰り道だよ」

「でも、雨も強くなりそうだし」

「連れて行きたい場所があるんだ。頼むよ」

もどかしさからくる不安と心配と少しばかりの怒りが、私を強引にさせてしまった。眉を傾けながら「うん」と言った妻の顔には、困惑が隠れているようにも見える。それと同時に、私の甘えからか安堵しているようにも見えた。

表通りに戻り、河畑先公園へと続く道に出ると、人波に流される形になった。雨による傘のせいで道の幅を使い、さらに休日ということもあり、一段と混んでいる。傘の中に収まる私達は、否応無しに寄り添い合うしかなかった。照れくささと気まずい雰囲気は、「光のトンネル」の先っぽが信号待ちで、顔を出すまで続いた。


妻の瞳にイルミネーションの光が住み始めた。先程と同じく黙々と歩いてはいるが、私達を包む雰囲気は明るさを取り戻した気がした。光のトンネルに足を踏み入れると、ここまでの喧騒が、少し緩和された。道幅が広がったおかげだろう。立ち止まって写真を撮る人達の邪魔にならないように、私達は端の方でゆっくりと辺りを見渡すことにした。

お星様をこの手に掴みたい子供のような面様で、顎を上げ、眺める妻。その姿は踵も浮いてしまい、本当にタッチしてしまうのではないかと思わせた。思わず、見惚れてしまう。こんな妻を見るのは、随分久しぶりだった。紛れもなく、ここにいるのは妻でもあり、少女でもあり、正しく女でもあった。

「……さっきのは、言わなくてもわかるよ」

突然。口を開く。その唇の動きも、思わず見惚れてしまっていたためによく見えた。意味を汲み取れずに言葉を探していると、妻が付け足した。

「昔はなんとなく帰り道が、長いお散歩コースに変わってたけど。あれ、あなたが駅から外れた道を選んでたんだよ」

気づいていたのかと、言い返せるほど鮮明に思い出せない自分が悔しかった。だが、妻がそう言うのなら、そうなのだろう。今はなんとなくそれでいい。いつもなら「思い出すまで夕食なしだから」と言われそうだが。

「覚えてる? 初めてのデートのこと」

「ああ。確か……水族館だったな」

「うん。何故か二人して頑張っちゃったんだよね。いつも通りが一番なのに」

「そうだった。気張ってさ。一番高い服を着ていったんだ」

「私も。なのに、イルカショーでびしょ濡れになっちゃって」

「替えの服がなくて、パーカーをお土産屋で買ったんだよな」

「そう。イルカのプリントの」

「ペアルックみたいだったな、たしか」

「ちょっと嬉しかったけど。やっぱり恥ずかしかった」

失笑が溢れる。傘にあたる雨がトントン。一定の間隔で時間を刻んでいるようで、時計を見る必要がない。そんな気分にさせた。傘を伝い滴る水は、イルミネーションの光にあたり、宙に漂う星と見間違うほどだった。星達は例え地面に着地したとしても、その輝きを忘れることなく全うしている。そこに映り込む妻は、不気味なほど美しく見えた。

夜が深くなっていくと、人々の賑やかさが増していった。私達がひっそりと立っていた端の方も、通り過ぎる人やポーズを決め写真を撮る人などが、目に入るようになった。少し後ろの方で、全体が画角に収まるように撮影を始めた外国人観光客がいた。もう充分、傘の中で寄ってはいたのだが、私は気を遣い、妻をこちらに引き寄せようと肩に手を掛けた。思いのほか軽い、まるで宙を舞う鳥の羽根を掴むような錯覚を与えられた。妻も同じように避けようとしていたのだろうか。腕ではなく、身体で妻を受け止める。胸のあたりにすっぽりと収まってしまった妻を、そうしなければいけない予感に襲われて、包み込むように抱きしめた。

「今日はありがとう」

「それ、私の台詞だよ」

「先に言ってやりたかったんだ」

「見栄っ張りなんだから」

予報では明け方まで雨は止まないらしい。このまま、この街で夜を過ごすのも悪くない。昔みたいに、そわそわ二人で終電を逃して、勇気は出ないから、ボーリングやバーで、意味もなく時間を潰したあの頃のように。空が溜め込んだ水分を枯らすまで、私達の肩と肩は近づいたままを保つはずだ。青い光の粒が、跳ねたイルカの水しぶきと重なる。心配はもうない。遠い思い出がイルミネーションのトンネルに混ざった時、雨音は限りなく小さくなっていった。

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