第八話 レバー味の葡萄パン
翌朝、アデラインは円卓の前で悩んでいた。目の前には温かいスープに、野菜のソテー。鮮やかな果物や葡萄を練り込んだパンが並んでいる。しかしアデラインの食指は全く動こうとしない。顔も暗かった
――…呼びにいくべきかしら。
食事とお茶の際に呼べ、と言われた件である。けれど当然、アデラインは気が進まない。幼い頃から両親が多忙な為に食事は一人でとることが多かった。その寂しさに、食卓を共にする相手が欲しいと考えたことも一度や二度ではない。けれど今、一人でとる食事の静かな平穏がこれほど惜しくなるとは…。
「どうなさったんです?お嬢様。スープが冷めますわよ?」
ミレーが首をかしげる。
――…呼びに行かせるべきだわ。
未来の夫、しかも王子殿下の言い付けだ。無視するわけにはいかない。
――…けれど言い付けたご自分がもしかしたら忘れているかも…。
そんな一縷の望みを打ち砕いたのは、扉を叩く音だった。
「…」
「まあ、朝からどなたでしょうね」
ミレーが扉に近づく。
取り次ぎを聞かなくても、誰が訪ねて来たかはわかっていた。
「ルトヴィアス王子殿下のお越しです」
――…き、来た!
アデラインは恐怖に身を固まらせた。
「まあ!少々お待ちください!」
扉の開閉の有無をやはり女主人に尋ねることなく、ミレーは扉をあけた。
「おはようございます。アデライン」
後光が差しているかと見紛うばかりの、聖人のような微笑みを浮かべて、アデラインの婚約者は優雅に入ってきた。
「…おはよう、ございます…」
立ち上がるのが精一杯で、笑顔は欠片も返せない。
「…………お、食事を、一緒に、いかが、で、すか?」
「じゃあ、頂こうかな」
あっさり頷くと、ルトヴィアスは昨夜と同じ椅子に座った。
「お嬢様。殿下と朝食のお約束をなさっていたなら教えてくださいませんと」
ミレーがひそひそとアデラインに苦情を申し立てたが、その顔は嬉しそうだ。傍目には初々しい婚約者達の麗しい交流に見えるのだろう。
――…この笑顔が、猫だと知らなければ…。
アデラインもきっとルトヴィアスとの食事を喜んだだろう。けれどそんな夢も今は泡沫である。
ミレーは最低限の給仕を終えると、何も言われずとも自ら部屋から出ていってしまった。
そして訪れたのは残酷な現実だ。
扉がしまるやいなや、ルトヴィアスの頭から猫がするりと下りた。
仏頂面に眉間には皺まで寄せて、黙々と葡萄パンを手でちぎり、口に運んでいる。
「………」
アデラインも葡萄パンを食べたが、好物であるにも関わらず、まるで砂でも食べているかのように感じた。
世界の終末のような朝食は、やはり一言の会話もなく終わった。
アデラインの受難は食事に止まらなかった。なんと、アデラインはルトヴィアスの馬車に同乗することになったのだ。
「そなたが殿下と睦まじくしてくれれば安心できる」
「…」
普段厳しい宰相が、父親の顔でそんなことを言う為に、アデラインには抗いようがない。
「風が強いから気を付けてくださいね」
そんな優しい言葉と微笑みで、ルトヴィアスはアデラインをエスコートし馬車に導く。馬車が動きだし、外からの視線を気にしなくてよくなると、ルトヴィアスの頭上で丸まって毛繕いをしていた猫はぴょんと飛んでいってしまった。
――…幻覚が、見える…。
末期だ、とアデラインは自らの正気を危ぶんだ。
ルトヴィアスは仏頂面で、やはり一言も喋らずに、ずっと外を眺めている。
その絵画のような横顔をアデラインは時折盗み見た。
これから一生、会話も、心の繋がりもないにも関わらず、人前では仲が良いふりを続けていくのだろうか。跡継ぎはどうするのだろう。側室をむかえるのか、それとも義務だからとルトヴィアスはアデラインを抱くのだろうか。それを考えると背筋を悪寒がはしる。きっと何のいたわりもない、苦行以外の何でもない行為になる。
そして、よしんば子供が生まれたとして、人前でだけ母親に優しい父親を、子供はどう思い、どう育つのだろう。
それともルトヴィアスは子供の前でも猫をかぶるつもりだろうか。
――…誰かに相談しようか…?
父親の顔が頭に浮かんだ。
けれど次いで声が甦る。
『安心できる』。嬉しそうな、けれど娘を手放す複雑そうな声音。
目頭が熱くなり、涙がでそうになった。私情より宰相としての立場を重んじる人だ。王妃として相応しくあれと、アデラインは厳しくしつけられてきた。けれど娘のごく普通の幸せを願っていることも、アデラインは知っている。だからこそ、父親にルトヴィアスとの実際の関係を知られるわけにはいかない。
きっと、酷く悲しむだろうから。
まるで別人格が入れ替わるようなルトヴィアスの猫の着脱に、正気を揺さぶられていたアデラインだが、翌日にもなると、徐々にそれに慣れてきた。
そうなると食事や馬車の中での、世界の終末のような沈黙を、どうにか改善できないかと考え始めた。せめて、葡萄パンの味を取り戻したい。
けれどルトヴィアスは怖いし、彼がアデラインとの会話に応じてくれるとも思えない。
更に一日、沈黙に耐えたが、ついにその日の午後、馬車の中でアデラインはルトヴィアスに話しかけてみた。
「…あの…何故殿下は猫をかぶってらっしゃるんですか?」
一生分の勇気を振り絞ってアデラインは尋ねたが、ルトヴィアスは窓の外から視線をはずそうともしない。
「それをお前に話す筋合いはない」
「…そうですね…」
確かに、嫌いな相手に自分の事情を明かす人間などいないだろう。かき集めた勇気がボロボロと塵屑のように崩れていく。
――…今夜の葡萄パンもきっと味がしないわ…。
いや、きっともっと悪い。アデラインが苦手な、レバーの味がするに違いない。
意気消沈するアデラインの向かいで、ルトヴィアスが深くため息を落とした。
そして、なんと、こちらをむいた。
「…本音で付き合うほどの価値がある人間とは、滅多にお目にかかれないものでね」
長い足を優雅に組む様は、さながら美術品だ。その顔が迷惑そうに歪んでさえいなければ。
「…え?」
「何故猫をかぶっているか、その質問に答えたつもりだが?」
「あっ、はい…」
アデラインは慌てた。会話。会話をしなければ。少しでも関係を改善するのだ。そして葡萄パンの味をこの手に、いや舌に!
けれど元より対人関係を苦手としているアデラインが必死になったところで、気の利いた返答が出来ようはずもない。
「で、でも、だからって皆を騙すような…」
――…ああ!何てことを!
口から出た瞬間に後悔したが、もう遅い。
ルトヴィアスの碧眼が、ギロリと光った。
「騙す?」
「ひ…っ」
――…殺される!
アデラインは、手提げの小袋を盾に、その影に隠れようとしたが、残念ながら小袋に隠れることができたのは口元だけだ。
ルトヴィアスは腕を組み、目を細める。全身から苛立ちが、まるで湯気か煙のように立ち上っている。
「そもそもお前らが必要なのはご立派で自分達に都合のいい王子様だろう。それを提供してやってるんだ。感謝されこそすれ非難されるいわれはないな」
「お、おっしゃるとおり、です」
泣きそうになりながら、アデラインは同意した。彼が白いレースを黒いと言っても頷こう。真珠を塵というなら、わずかながら持っている全てを庭にまく。絶対に彼には逆らわない。それに二度と話しかけない。葡萄パンの味など命があっての物種だ。
その時、天の助けとばかりに馬車が止まった。
ややあって外から声がかけられる。
「本日宿泊するお屋敷でございます」
「わかりました」
涼やかな声で、ルトヴィアスが返事をした。アデラインが振り向けば、そこには頭上に素晴らしい猫を乗せたルトヴィアスが、聖人のように微笑んでいた。
「…」
「さあ、行きましょうか。アデライン」
「…は、い…」
何て変わり身の早い人だろう。
差し出された手に、自らの手を重ねる。
ルトヴィアスに支えられて馬車から出ると、屋敷の侍従や侍女が、ずらりと並んで礼をとっていた。
「出迎えご苦労さま。世話をかけますが、よろしくお願いします」
にこやかに挨拶するルトヴィアスに、幾人かの侍女が赤面して顔を伏せ、そうでない者は見惚れている。
同性である侍従達まで目を見張っていた。
「ルトヴィアス王子殿下、よくお越しくださいました」
屋敷の主人が恭しく頭を下げる後ろで、その娘が蕩けそうな熱い眼差しでルトヴィアスを見つめていた。
――…ああ、ハーデヴィヒ様の屋敷だったのね…。
アデラインの元友人の一人。
かつて親友とまで思っていたのに、婚約解消騒動以降は、会うたびにアデラインを見下し、侮蔑の言葉を投げつけてくる。
けれど今、彼女の瞳にうつるのは麗しの王子様ただ一人。
――…何も知らないって幸せだわ…。
あの美しい顔の下で、ルトヴィアスはハーデヴィヒと、その父親を見下していることかもしれないのに。いや、ハーデヴィヒのような美人なら、その例に入らないのかもしれない。
いずれにせよ、美貌の王子が飼う上等の猫に、アデライン以外の多くの者が騙されているのだ。
――…私も騙されていた頃に戻りたい…。
ルトヴィアスの頭の上で、猫がニャアと、一声あげた。




