第七話 冷たい食卓
「…消えてなくなってしまいたい…」
寝台の上に身を投げ出し、アデラインはポツリとこぼした。
馬車が、宿泊予定の屋敷に到着すると、ルトヴィアスはまた聖人じみた笑顔でアデラインをそつなくエスコートし、『疲れたでしょうからゆっくり休んで下さい』と、優しく言い残して宰相と共に行ってしまった。その背を見送ったアデラインは、体を引きずるようにして歩き、今何とか与えられた個室の寝台にたどり着いた所である。
――…猫かぶりなんて、そんな可愛らしいものじゃないわ。
人間誰しも親しい友人や家族に見せる顔とは別の、対外的な顔は持っている。けれどルトヴィアスのそれは、もはや別人と言える範疇である。
悪魔のような微笑みを思いだし、アデラインは身震いした。
ルトヴィアスの猫には、父親の宰相も気付いていない様子だった。もしかしたらアデライン以外誰も知らないのかもしれない。ルトヴィアスの飼う猫は相当優秀なようだ。
今朝まで抱えていた陰鬱な気分にとって替わって、アデラインの体を虚無感が支配する。
10年、恋をしていると思っていた。
でも、一体誰に自分は恋をしていたのか。そもそもあれは恋であったのか。恋でなかったのなら、3年前の胸が引き裂かれるような思いは、一体…。
――…失恋さえ、していなかったんだわ。
そう思うと、アデラインの目にじんわりと涙が浮かんだ。
馬車の中で砕けたのは、やはりアデラインの骨だったのだ。
幼い日。ルトヴィアス王子に恋をして、彼に相応しくなろうと必死で努力した。彼が他の女性を愛していると知っても、その恋を捨てられなかった。
容姿を嘲られ、名ばかりの妃だと陰で言われ、それでも婚約者の地位にしがみついていたのは、ただルトヴィアス王子への恋心ゆえだ。 彼の妃になるのだという思いが、かろうじてアデラインを支えてきた。
でもその恋が、ただの虚像だったとわかった今。アデラインは何を支えに立てばいい。支えなしには、一歩だって歩けやしない。
そんな自分が情けなかった。
立つことさえ、自分には出来ないのか。
「消えたいなんて、そんなに恥ずかしがらなくてもいいんですよお嬢様!」
泥沼の底へと沈んでいくアデラインの様子を、ミレーは何か誤解しているようだった。彼女は国境でのルトヴィアスとアデラインのやりとりを、早くも誰かから聞いたらしい。アデラインを半ば放置して、興奮しっぱなしだ。
「本当にようございましたね、お嬢様!王子殿下がこれほどお嬢様を気にかけていて下さったなんて、やっぱり3年前のことは王子殿下の気の迷いだったんですわ!若気の至りですわ!」
若気の至り、といってもルトヴィアス王子は御年20歳。今現在も十分若い。
「私感動いたしました!王子殿下はよそのご令嬢には目もくれず、まっすぐお嬢様のもとに駆け寄って…」
「…歩み寄って」
妙に劇的にアレンジされた昼間の出来事を、アデラインはボソボソと訂正したが、興奮した侍女の耳には届かない。大袈裟な身振り手振りで一人再現芝居は続く。
「アデライン待たせてすまなかった!もう離さないよ!と」
「ちょ…ちょっと待ってミレー」
アデラインはギョッとする。
しかしミレーは止まらない。
「泣き濡れるお嬢様をヒシッと抱きしめ、そのまま馬車の中へと」
「どこの世界の話なのそれはッッッ!?」
仰天して、アデラインは飛び起きた。
「違うのでございますか?旦那様についていった従者がそう言っておりましたよ。実際、お嬢様は殿下と同じ王家の馬車でお戻りでしたし」
「…それは、そうなんだけど」
「私胸がすぅっといたしました!これでお嬢様が飾りものの婚約者だとかぬかす不届者を見返してやれます!!」
幼い頃から、それこそ娘のように世話してくれたミレーは、3年前の婚約解消騒動の時も、随分気をもんでいた。まるで自分の心配事が解消したように晴れやかな表情の彼女に、事の真相を話してよいものか、アデラインは迷う。
――…話したところで、信じてもらえるとは到底思えないけど…。
しかしルトヴィアスは、何故猫なんてかぶっているのだろう。
皆を騙すような真似をする目的がまったく見当がつかない。
「さぁお嬢様。いつまでも恥ずかしがってないで。ドレスが皺になってしまいます」
ミレーはアデラインの様子を、羞恥によるものだと思い込んでいるようだ。そうではないと説明するにも、どう説明すればいいのかわからず、アデラインは結局寝台からノロノロと起き出した。ドレスに皺を作ってミレーの仕事を増やすのも本意ではない。
「…人を騙すのって…どんな理由があると思う?」
「理由も何も、そりゃ性根が曲がってるんですよ」
ミレーは迷う素振りもなく答えた。あまりに実も蓋もない直球回答に、アデラインは面食らう。
「し…性根が曲がって、る?」
「勿論です。人様を騙すなんて性根が曲がった人間のすることです」
「そ、そうよね…」
至極正論だ。
聖人のような微笑みを浮かべながら、その実、彼は周囲を見下していたのだ。あの冷たい微笑みは、ルトヴィアスの人となりを物語っている。性格がいいとは、お世辞にも言えないだろう。
『お前みたいな女、虫酸が走る』
確かにアデラインは愚か者だ。女神か聖人かを信仰するように、ルトヴィアスを一途に想ってきた。ルトヴィアスから見れば、さぞ滑稽に見えただろう。
けれどあんな上等の猫をかぶっているなんて反則だ。アデラインでなくとも、誰だって彼は聖人君子だと思い込むだろう。
「……せめてあんな猫をかぶるのはやめて欲しいわ…」
ボソリとアデラインは文句をこぼした。
「さぁお嬢様。少し遅くなりましたけどご昼食ですよ」
いつの間にか、円卓にはパンやスープ、鶏の香草焼きが並んでいる。ローズマリーの香ばしい匂いに、アデラインは空腹を覚えた。あれだけのことがあったのに、なかなか自分も図太いようだと自嘲する。
「お水を飲まれます?それとも果実水?」
「…お水をお願い」
注がれた水で喉を潤そうと、アデラインが杯に口をつけようとしたその時。扉をノックする音が響いた。
「まぁ誰でございましょう?」
給仕をしてくれていたミレーが手を止め、対応する為に扉に近づく。
父親だろうか、とアデラインは首を傾げた。それ以外にわざわざ部屋を訪ねてくるような親しい人物は、一行の中にはいない
「どなたです?マルセリオ宰相閣下のご令嬢のお部屋でございますよ?」
「ルトヴィアス王子殿下のお越しでございます」
取り次ぎの声を聞いて、アデラインは椅子から転び落ちそうに仰天した。
何故彼が来るのだ。
虫酸が走るほど煩わしい婚約者の顔など、見たくもないだろうに。
――…私だって会いたくない!
初恋の虚像が粉砕された傷は、勿論まだ生々しい。
なのにあの恐ろしい悪魔と対峙するなど、絶対に嫌だ。
「ミ、ミレー!私は…寝てるの!気分が悪くて、だから…」
お引き取り願って…そう続くはずの言葉はミレーにはまったく届かなかった。
「まあ!すぐにお開けします!」
年下の女主人の許可など無用とばかりに、ミレーは扉をあける。
開いた扉の向こうに、護衛の騎士と侍官を従えたルトヴィアスが立っていた。
「突然すいません。アデライン」
にこやかに微笑むルトヴィアスの頭上に、見事な毛並みの猫が鎮座する幻が見えて、アデラインはよろめく
。
「………いえ、どうぞお入り下さい殿下」
アデラインは身分の高い相手への礼儀として立ち上がった。ルトヴィアスが座るか、許可しなければ、アデラインは着席出来ない。
「食事中だったのですか?改めた方がいいでしょうか?」
春風さえ吹いてきそうな微笑みが、アデラインには吹雪に吹き付けられるように感じられた。
「いいえ、そんな…かまいません…あの…」
アデラインは逡巡する。食事中の来客には、食事を勧めるのが常識だ。その為、食事は常に一人分多く用意される。
食事の時間帯だと気付かずに訪ねてくるはずがない。ということは彼はそのつもりできたということになる。
――…一緒に食べたく…ない。
けれど言わないわけにはいかない。 彼はこの国の王子で、アデラインは彼の婚約者だ。
「…良かったら…ご一緒にいかがですか?」
アデラインが絞り出すように言うと、ルトヴィアスは当然とばかりに頷いた。
「ありがとう。じゃあ失礼させてもらいます」
ルトヴィアスはアデラインの向かい側の椅子を自分でひいて腰をおろした。それを見届けた侍官や騎士達が軽く頭を下げて廊下に出て行く。
軽く絶望しながら、アデラインも椅子に座った。
もはや食欲など湧くわけがない。
彼がどうしてアデラインと食事をとろうと考えたのかは知らないが、早々に食欲を満たしてお引き取り願うのみだ。
大皿から料理をとりわけようとしたミレーを、ルトヴィアスが止めた。
「自分でするからかまいません。二人にしてもらってもいいですか?」
「えっ!?」
「まあ、私としたことが気が利かず申し訳ございません」
「ちょっ…待っ…」
ルトヴィアスと二人きりなどとんでもない。
「ミレー!」
「ではお嬢様。ご用があったらお呼びくださいませ」
アデラインが引き留める間もなく、ミレーは部屋から出ていった。意味深な笑顔で。
取り残されたアデラインは、生きた心地がしなかった。蛇に睨まれた蛙のように、体を小さくして息を殺しても、まだ安心することできない。
ルトヴィアスはそんなアデラインをチラリとも見ず、大皿から手持ちの皿に魚料理を移している。
「………と、とりわけましょうか?」
「結構」
「…」
それきり、会話はなかった。
ルトヴィアスは昼間のようにアデラインに憎悪をぶつけることもなく、むしろ一度もアデラインと目をあわせることもなく、黙々と食事をし、そしてそれが終わると立ち上がった。
礼儀としてアデラインも立ち上がる。
そのまま出ていくと思われたが、部屋を出ていく一歩手前で、ルトヴィアスは立ち止まり、顔だけアデラインを振り向いた。
「今日から、食事やお茶を飲むときは必ず呼べ」
「…はい?」
「呼べ」
ギロリと睨まれ、アデラインは凍りつく。彼に反論など出来るはずもない。
ルトヴィアスはアデラインの返事を待たず、今度こそ出ていった。
「…っ」
落下するアデラインを支えてくれたのは椅子だった。爪の先が僅かに食器に触れたが、もう一口だって食べる気にはなれない。
何故、食事の度に、お茶の度に、ルトヴィアスを呼ぶ必要があるのだろう。彼が熱烈にアデラインを愛していて、アデラインの顔を見ながら食事をしたいと言うならまだしも、今日の昼間に『虫酸が走る』と言われたばかりだ。彼の冷たい目も態度も、その宣言どおりアデラインを嫌っているとしか思えない。
だったら徹底的にアデラインを避けてくれればいいのに、食事は一緒にとは、一体どういうつもりなのだろう。さっぱりわからない。
アデラインにわかるのは、やがて始まるルトヴィアスとの夫婦生活が、幸せなものではないだろうということだけだった。