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誓いのその後3

笑い死ぬ、という死に方を、ルトヴィアスは漠然と幸せな死に方だなと思っていた。

笑いながら死ぬ。良いではないか。

だが、今は違う。

笑い死ぬとは、つまり笑いすぎで呼吸困難に陥り窒息死するということだ。かなり苦しい死に方である。一思いに刺された方がましかもしれない。

――……ああ……苦しかった……。

ルトヴィアスは椅子に腰かけ、やや背もたれに寄りかかる。背筋を伸ばすと、笑いすぎて疲れた腹筋に負担がかかって痛むのだ。

大広間の中央では、優雅な三拍子の音楽と共に、多くの男女がくるくると踊っている。

控えの間でのハーミオーネとの体面の後、まだ衝撃から立ち直れないオーリオをその場に残して、ルトヴィアスはハーミオーネの手をとった。舞踏会が始まる時間になったのだ。

ところが、ハーミオーネはどうもこういった華々しい場所は初めてらしく――もしかしたら、きちんと正装するのも初めてだったかもしれない――何度かドレスの裾を踏んで転びかけた。その度にルトヴィアスは彼女を支えたのだが、するとハーミオーネは独特な発音で『すまねぇです』と返してくるのだ。アデラインそっくりの顔と、アデラインとは似ても似つかない言葉遣いで。

思わず込み上げる笑いに、ルトヴィアスはとにかく耐えた。

女性を笑うなんて最低だ。いや、すでに大笑いしてしまってはいるが、だからこそこれ以上笑っては礼儀に反する。ルトヴィアスは自らを律するためにとにかく必死だった。ワルツの最中も、何度もハーミオーネに足を踏まれ、その度に『すまねぇです』と謝られても、唇を噛んで笑うのを堪えた。

――……これが、アデラインだったらな。

柔らかな真珠色のドレスを着て微笑むアデラインを思い浮かべれば、自然と頬が緩む。

そしてオーリオとの約束の『一曲目』を無事終えて、ルトヴィアスはようやく玉座から一段下にある王太子の椅子に腰を落ち着いたところだった。

ちなみに、玉座は空席だ。リヒャイルドは一曲目が終わり、一通りの招待客からの挨拶を受けると宰相を連れて奥に下がってしまった。国王の体調が悪いのはいつものことなので、ルードサクシードの人間は誰も空の玉座に違和感を抱かない。

華やかな祝賀の席で、誰もが社交に夢中だ。

――……頑張った、俺。税金分働いた。

これで胸を張ってアデラインに会いに行くことができる。

だが、その前にやることが一つ。

ちらりと、ルトヴィアスは隣を盗み見た。

本来ならアデラインが座る席に、今日だけは特別にハーミオーネが座っている。『王太子殿下の婚約者の代役』という大任を終えて、彼女はわかりやすいほどに安堵していた。

その横顔も、驚くほどアデラインにそっくりだ。アデラインと血縁関係があることは、ほぼ間違いないだろう。

「ハーミオーネ嬢」

「……へえ!?」

弾けるように、ハーミオーネがルトヴィアスを振り返る。

ルトヴィアスの飼い猫は、その見事な毛並みを誇って悠然と微笑んだ。

「もうすぐヒルリースの収穫祭ですね」

「へぇ!今年は林檎の出来がよぐてパイを……」

元気が良すぎる返事をしたハーミオーネは、けれどすぐに言葉を途切れさせて真っ青になり、自らの手で口を塞いだ。

その様子に、ルトヴィアスはたまらず吹き出してしまう。

人目を避けるためにルトヴィアスは顔を手で隠してやや下を向いたが、肩が揺れるのはどうしようもなかった。

「くっ…………くく」

「……き、気づいでだんか?」

情けないその表情も、アデラインそっくりだ。

ルトヴィアスは手を下ろしてハーミオーネを眺めた。

間が抜けたような、その顔。

よく似ているのに違いすぎて、逆にアデラインを思い起こさせる。

――……ああ、まずいな。

どうしようもなく、アデラインに会いたくなってきた。

けれど、もう少しの辛抱だ。

「あ、あの?殿下?」

不安げなハーミオーネに、ルトヴィアスは笑いを堪えて説明してやった。

「ヒルリース地方出身者が侍官にいたんです。独特の発音を直すのに苦労していましたよ。……父君のニールドーソン卿と赴任先の国へ行っていたというのは嘘ですね?」

ヒルリースとはルードサクシード北部の自然豊かな山間地方のことだ。

ルトヴィアスの指摘に、ハーミオーネは肩を落とした。

「ぞ、ぞのどうりだ。わだす……私の母ちゃんは身分が低くて、私はヒルリースの山村で乳母に育てられただ。だで、父ちゃ……お父様とは年に一度会うくらいで……」

どうやら、ニールドーソン卿の娘であることは間違いないらしい。だが、夫人の娘ではないようだ。

侍女や下女との間に生まれた子供を、公的に隠す貴族は少なくない。子供は貴族としての教育もされずに捨て置かれ、自分が貴族であることをいつしか忘れて平民として生きていく。ハーミオーネの身の上も、そういったものなのだろう。

「それがどうして舞踏会に?」

ルトヴィアスが尋ねると、ハーミオーネは口ごもった。

「あ、あのぉ……そのぉ」

大広間の人垣の中に誰かを探して、ハーミオーネは視線をさ迷わせている。

助けを求めているというよりは、誰かしらを恐れている様子だった。おそらく、どこかから自分を監視している父親の存在が気になるのだろう。不都合なことは言わないように口止めされているのかもしれない。

ルトヴィアスはハーミオーネが気の毒で、かすかに眉を寄せる。

どうにもハーミオーネに同情的になってしまうのは、彼女がアデラインと同じ顔という理由だけではない。ハーミオーネは、あきらかに田舎で育った素朴な少女だ。

花帽をかぶり慣れていないし、敬語もままならない。ドレスのさばきかたも不自然だ。ダンスもまったく経験がなかったものを、短期間に無理矢理叩き込まれたようだった。

ニールドーソン家は名家ではあるが戦中戦後の混乱もあり、没落とまではいかずともかつての姿とは比べるべくもないほどに落ちぶれている。

家を建て直そうにも堅実な領地経営を地道に続けるほどの根気がニールドーソン卿にあるようには思えなかった。どちらかというと宰相夫人となった娘のヴァルブルガを通じてマルセリオ家に資金援助を頼みそうな人物に見えるが、ヴァルブルガとは絶縁状態ときくから、それも出来ないのだろう。

他に何か手はないか――そう悩んでいたニールドーソン卿は、何かの機会にアデラインを見て、自分が捨て置いたもう一人の娘にそっくりだと気が付いたのかもしれない。そしてハーミオーネを領地から引っ張り出してきて、強引に磨き上げた。もしハーミオーネがルトヴィアスの側室にでも召し上げられれば、それを足掛かりに中央権力に近づくことができると考えて。

そしてその甘い蜜のおこぼれにあずかろうとした何人かの有力貴族が、裏で手を回してハーミオーネを今回の舞踏会におけるルトヴィアスの同伴者に押し上げたと考えれば、すべての説明がつく。

――……馬鹿馬鹿しい。

アデラインと顔が同じだからハーミオーネはルトヴィアスに気に入られるはずだ、と考えるあたりが短絡的すぎる。

確かに、ルトヴィアスはハーミオーネを気に入った。

アデラインと同じ顔を嫌えるはずもないし、純朴な人柄が言葉の端々から滲み出ている。何より……失礼ではあるがとにかく面白い。

だが、女性として惹かれているわけではない。

可哀想なのはハーミオーネだ。

収穫祭を楽しみに乳母と細々と穏やかに暮らしていただろうに、アデラインに似ているというだけで利用されて、窮屈なドレスを着せられ魑魅魍魎が跋扈する宮廷に放りこまれ……。

可哀想というよりは、もはや申し訳がないとルトヴィアスは思った。

彼女もまた、アデラインと同じくルトヴィアスとルトヴィアスを取り巻く環境の被害者なのだ。

「安心して下さい。貴女が秘密を話したことはニールドーソン卿には黙っておきます」

ルトヴィアスがそう言うと、ハーミオーネは少し安心したらしい。

「じ、実は……」

ハーミオーネがおずおずと話しはじめた事情は、ルトヴィアスが推測したものと大差なかった。

ただ、強引にハーミオーネを王宮まで連れてきたのはニールドーソン卿の弟の方で、ニールドーソン卿本人は礼儀作法がなっていない娘を人前に出すことを、むしろ恥じていたようだ。

どうりで、昨日の舞踏会の折りにニールドーソン卿の口から娘の話が出てこなかったはずだ。

――……それも親としてどうかと思うが……。

ルトヴィアスは内心唖然とした。

「わ、わだすが殿下のご側室さなれたら、壊れた納屋さ直すてくれるって叔父様が……だからわだす……」

しょぼん、とハーミオーネは肩を落とす。

「……」

壊れた納屋の修理と引き換えに側室。

側室になれば納屋が潰れようが飛ばされようが関係ない気がするのだが、そこまで考え至らないあたりがこのハーミオーネという娘が善良である何よりの証に思えた。

とにかく、話がきけて良かった。おかげで解決策を見つけることが出来た。

「納屋を私が直すというのはどうです?」

「……え?」

ルトヴィアスの提案に、ハーミオーネは目をぱちくりさせる。

「私は婚約者を愛しているので貴女を側室には出来ません。でも、そうすると貴女は困るのでしょう?」

「ん、んだ。納屋さ直らねえと山羊達が冬をこせねえ」

「山羊は何匹?」

「な、七匹」

ルードサクシードは財政難だ。その上、婚礼が延期になって負債が重なった。だが山羊七匹を収用する納屋の修理くらいなら、費用を捻出するのは難しくないはずだ。

ルトヴィアスはハーミオーネに微笑んだ。

「ヒルリースの冬は早い。早速明日にも手配しましょう」

「で、でも、そんなのいけねえ。わだす何にもしてねえのに……」

働き者の矜持、とでもいうのだろうか。ハーミオーネは、自分が働いたわけでもないのに、何かを与えられることに抵抗があるらしい。本当に心根の良い娘だ。アデラインと引き合わせればきっと良い友人になるだろうに、それが出来ないのがひどく残念だった。

――……青アザが顔にあるアデラインを、誰かに会わせるわけにはいかないからな。

ふ、と視界の端に、ルトヴィアスはそれを捉えた。

壁際を移動する女官。

高位の女官だ。

花帽から垂れ布がおりていて、顔は見えない。

だが、その歩き方。

姿勢。

ルトヴィアスは、思わず立ち上がる。

「……何やってんだ、あいつ」

「殿下」

ハーミオーネに呼ばれて、ルトヴィアスは我に返る。

――……とりあえず……。

今はこっちが優先だ。

ハーミオーネを納得させるために、ルトヴィアスは更に言葉を重ねた。

「慰謝料です」

「へ?」

彼女が平穏な日常から引き剥がされたのは、ルトヴィアスの責任だ。その慰謝料。

だが、ハーミオーネは意味が分からないらしい。

「い、慰謝料?何の?」

「……なら、報酬ということにしましょう」

「報酬って、わだすは何も……」

「実を言えば、この舞踏会は憂鬱だったのです。婚約者が病気で寝込んでいるのに、私だけ他の女性と踊るなんて、と。でも貴女のおかげで思わず楽しい時間が過ごせました」

「あ!わ、わだすも!」

ハーミオーネは立ち上がる。

「綺麗なドレズさ着て、殿下と踊れて、お姫様になった気分だっただ!村に帰って皆に自慢すんだ!ありがとうごぜえました!」

ハーミオーネは大きな声でそう言うと、思いっきり頭を下げた。

「あ……」

と、ルトヴィアスが止めようとしたものの時すでに遅く、ハーミオーネの花帽は床にコロンと転がった。

花帽はルトヴィアスが座っていた上座からコロコロコロコロと(きざはし)を転がり落ちて、ダンスの輪の中を横切っていく。

音楽が止む。

人の動きが止まる。

動いているのは転がる花帽と、それを追いかける人々の視線のみ。

「……」

「……やっべ」

ぺろ、とハーミオーネは舌を出した。

バターンッッ、と広間の隅で何かが倒れた音が響き、人々の視線が一斉に注がれる。

「あ……っ父ちゃ……お父様!」

人垣の向こうを伸び上がって眺めたハーミオーネが、顔色を変える。

どうやらニールドーソン卿が娘の失態を目のあたりにして気絶したらしい。

乗り気ではなかったにしても、今まで放置してきた娘を利用した報いだ。せいぜい恥をかけばいい。

「で、殿下。あの、そのう……」

おろおろしながら見上げてくるハーミオーネを見て、ルトヴィアスは頬を緩めた。

「いいですよ。父君のところへ行ってあげてください」

「ありがとうごぜえます!」

ハーミオーネはぱっと顔を輝かせて、ルトヴィアスに背を向けた。

自分を利用した父親を心配するなんて、やはり良い娘だ。

ただ急いでいるからといって、膝がみえるほどドレスをたくしあげるのは貴族の令嬢としてどうかと思う。

「あ!」

ハーミオーネは思い出したようにルトヴィアスを振り返った。

「納屋を……その、お言葉に甘えても本当にいいだか?」

「ええ。かまいませんよ」

ルトヴィアスが優しく頷いてやると、ハーミオーネは、ほっと胸を撫で下ろしたようだった。

「婚約者の……アデラインお嬢様のご病気が早くよくなるように、わだすも女神様にお祈りするだ」

にっこりと真昼の太陽のような満面の笑みを残して、ハーミオーネは今度こそ走って行った。

いい子だ。本当にいい子だ。爪の垢を分けてもらえばよかった。

オーリオに飲ませれば、あの嫌味な性格がましになったかもしれないのに。

「私の娘がお相手いたしましょう。ルトヴィアス殿下」

その言葉が自分にかけられたのだと、ルトヴィアスは名前を呼ばれるまで気がつかなかった。

振り向いた先にいたのは、初老の男だった。ルードサクシードと古くから国交があるアルデルフィート王国の外交大使だ。

男は張り付いたような笑みを顔に、ルトヴィアスにすり寄るように近付いてきた。

「ハーミオーネ嬢は父君の看病でお忙しいようだ。ですから、私の娘にお相手をさせて頂きたい」

大使の後ろで、丁度ルトヴィアスと同じ年頃の娘が軽く膝を折った。

鮮やかな紅をはいた唇は弧を描き、目は獲物を……ルトヴィアスを捕らえようとぎらぎらしている。

――……げっ。

昨日、あからさまにルトヴィアスに色目を使ってきた、例の香水臭い娘だ。

「……せっかくですが、先程足を痛めてしまいました。私のことは気になさらず他の相手を探して下さい」

ルトヴィアスはにぃぃっこりと、微笑んだ。

うっかり椅子から立ち上がってしまったが、誰かをダンスに誘うつもりがあってそうしたわけではない。

だが大使は、まるで秘密を共有するかのように囁いた。

「せっかくの機会なのですから、羽根を伸ばされませ」

美しく笑いながら、ルトヴィアスは首を傾げる。

「……どういう意味でしょう?」

「宰相閣下のご機嫌を伺うのも大変でございましょう。殿下はご帰国後、日も浅く、国内での支持基盤も磐石ではない。宰相令嬢を下手に扱って舅殿に睨まれては、ひとたまりもありませんからな」

「…………」

アルデルフィートの大使はルトヴィアスに深く同情しているふうに頷きながら、言葉を続けた。

「お気持ちはわかります。私も妻の実家の権勢が強く、いつも妻の顔色を伺っていました。ですがせっかく宰相令嬢がいないのですから、今日くらいは羽根を伸ばされませ」

ルトヴィアスがアデラインを大切にするのは、アデラインの父親であるファニアスに気を使っているからだ、という見方があるのはルトヴィアスも知っていた。この男もそうだと思い込んでいるらしい。

世間一般ではルトヴィアスがアデラインを愛するなんてありえないらしいのだが、どうしてなのだろう。何故、誰も彼もがアデラインの可愛さに無理解なのだ。

ルトヴィアスとしてはアデラインがいかに可憐か切々と説いて回ってもいいのだが、そんなことをしてアデラインと過ごす時間が減っては本末転倒である。

大使は訳知り顔で、まだ続けた。

「婚約者とはいえ、大して美しくもない娘の相手をするのも退屈なことでしょう」

ぴく、とルトヴィアスの微笑みがひきつる。

「しかも代わりの娘も同じように地味な上に無作法で……まぁ、宰相令嬢より美しい娘をあてがうわけにもいかなかったのでしょうな」

急激にルトヴィアスを取り巻く空気が冷たくなっていく。

周囲で様子を伺っていた国内の貴族達が氷点下の冷気に怯えて青ざめたが、大使も、その娘も何一つ気付く様子はない。

「とにかく、我が娘は宰相令嬢のように殿下を退屈させはいたしません」

ルトヴィアスの頭上で寛いでいた猫が立ち上がり――そこから飛び降りた。

大使令嬢が、まるで恋人にするようにルトヴィアスににじり寄る。

「殿下。昨日お会いした折より、殿下に恋い焦がれておりました。憐れな私を慰めては頂けませんか?」

「……」

国内の貴族達が『知らないって怖い』と言いたげに顔を引き攣らせ、ゆっくり後ずさりを始める。彼らはルトヴィアスの本性を知っているので、そうなるのも仕方がない。むしろ賢明である。

「今はご令嬢のことは忘れて、どうか私を見てくださいませ。あんな地味な()より私の方がずっと……」

腕に絡み付いていた大使令嬢の手を、ルトヴィアスは振り払った。

その頭上に、猫はいない。

「触るな」

「……え?」

百戦錬磨の暗殺者でもここまでではないだろうというほど鋭い殺気をこめて、ルトヴィアスは大使令嬢を睨みつける。

「ベタベタ触ってんじゃねえよ!このブス!」

「ひいっ!」

大使令嬢は青くなって飛び退いた。

「お、王太子殿下……?」

「あ、あ、あ、あの……?」

大使とその娘は手に手をとりあい、身を寄せあう。何が起こったのか、まったく状況がわからないようだ。

ルトヴィアスは後ろずさる父娘を追い詰めるように、一歩、また一歩と前進した。

「地味だの退屈だの、ペラペラペラペラよく動く口だ」

ルトヴィアスは控えていた侍官を横目に見ると、「針と糸を持て」と命じた。

侍官は、怯えた顔で首を傾げる。

「あ、あの。針と糸など何にお使いになるのです?」

「この無礼者どものお喋りな口を縫い合わせる。そうすれば、もう俺の婚約者の侮辱は出来まい」

ゾッとするほど美しく、ルトヴィアスは微笑んでみせる。

その背後に牙を剥く猛獣の幻影が見えたのは、おそらく一人や二人ではないだろう。

「ひいい!?」

「お、お許しを!」

涙目の父娘が揃って床に尻餅をつく。その父娘とルトヴィアスの間に、オーリオが滑り込んだ。

「殿下!落ち着いて下さい!」

「オーリオ、針と糸を持ってこい」

「お気持ちはわかりますが、これ以上は外交問題になります!」

「……ちっ」

ルトヴィアスは目を閉じた。

深く息を吸い込み、吐く。

「……失礼。怒りのあまり少々我を忘れてしまったようです」

にっこりと、花がほころぶようにルトヴィアスは笑ってみせた。

だがアルデルフィートの大使親子は青ざめたまま震え続けている。周囲の貴族達も息を潜め、ルトヴィアスを見つめている。

彼らを見回し、ルトヴィアスはまた艶然と微笑んだ。

「お忘れのようですが、アデライン・マルセリオ宰相令嬢は正式に、且つ公的に認められた私の婚約者です。彼女は近く王太子妃に、将来的には王妃になることが決定しています。彼女を侮る行為は我が国を、そして王室を侮る行為と心得てもらいたい」

脇でオーリオが小さく溜息をついたのが見えた。外交問題を気にしているのだろうが、具体的な国を名指ししているわけでもなし、これくらい言わせてもらう。いや、言わせろ。

「婚礼は延期になりはしましたが、彼女以外を妃に迎えるつもりはありません。側室を持つつもりも同様です」

アルデルフィートの親子を見下ろし、ルトヴィアスはこの上なく美しく顔を歪めた。

「地味?退屈?誰のことを言っているか知りませんが、私は私の婚約者の容姿にも人柄にも、一切不満はありません。それを、横から要らぬ親切を焼かれては迷惑極まりない。金輪際やめて頂きたいものです」

「は、はいい!」

「も、申し訳ございません!!」

震え上がる父娘の横を、ルトヴィアスはすり抜ける。

『彼女』がいた場所を確認したが、既にそこにその姿はない。

扉へと向かうルトヴィアスに、人々は道を空けて軽く膝を折った。

「殿下!」

追いかけてきたオーリオに、ルトヴィアスは早口で命じた。

「王太子の婚約者を侮辱するなど外交以前の問題だ。アルデルフィートの王に次の大使は間違っても王太子の婚約者に敬意を払う人間を寄越せと伝えろ」

誘惑目的で自らの娘を王太子(ルトヴィアス)に近づけるなど、大使の独断だとしてもルードサクシードを馬鹿にした話だ。

同じ意見だったらしく、オーリオは静かに頷いた。

「かしこまりました」

「それから」

ルトヴィアスは立ち止まると、周りに聞こえないように、オーリオの耳元に寄って話した。

「ヒルリース地方にニールドーソン家の領地があるはずだ。確か……山村だと言っていたな。わかるか?」

ルトヴィアスの話があまりに突飛したせいか、オーリオは戸惑うように眉を寄せる。

「地名まではさすがに……ですがヒルリース地方の山村でニールドーソン家の領地となるとすぐ分かると思いますが。それがどうかなさいましたか?」

「そこにハーミオーネ嬢が乳母と暮らす家がある。納屋が壊れているそうだから、冬になる前に直してやってくれ」

「……何ですって?」

「費用は俺の個人資産から出していい。いくらなんでも、それくらいの金はあるだろう?」

「そういう問題ではございません!何がどうしてそういう話になったのです!」

「詳しい話は後で話すからとりあえず手配を……ああ、あと」

ルトヴィアスは、オーリオに向き直る。いつものことながら、オーリオは仏頂面だ。外交問題を気にするなら、オーリオも多少は愛想というものを身に付けるべきではないのか。

「まだ何か?」

「ハーミオーネ嬢に爪の垢をもらって、飲め」

「……はあ?」

オーリオは意味がわからないと言いたげだ。

その背後に、ルトヴィアスは目を向けた。

歴史ある大広間。

きらびやかに着飾った面々が、戸惑ったようにルトヴィアスに注目している。広い会場であるため、ルトヴィアスの周囲にいなかった人々は何が起こったのかよくわかっていないらしい。

ハーミオーネの花帽が転がり、ニールドーソンが倒れ、直後にルトヴィアスの機嫌が何かしらの理由で急降下した。その理由が何なのか、人々は興味津々といった様子で囁き合っている。また好き勝手なことを言っているに違いない。

「音楽を」

ルトヴィアスが言うと、呆然としていた奏者達が慌てたように弦楽器を操りだし、優雅な調べが高い天井に響き始める。

聖人のようだと言われる清廉な微笑みを頬に浮かべ、ルトヴィアスは声を張った。

「床に臥せっている婚約者が心配でならないので私はこれで下がります。どうぞ楽しい夜を過ごしてください」

ルトヴィアスの今夜の義務は終わった。後は残りたい人間が残って好きに楽しめばいい。

侍官が開けた扉から、ルトヴィアスは一人、廊下へ滑り出た。





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