誓いのその後2
お願いがある、とやってきたオーリオから舞踏会に関する一通りの話を聞いて、アデラインは俯いた。
「ニールドーソン家の……ハーミオーネ嬢……」
膝の上に揃えた自らの両手を見つめながら、その名を呟く。
部屋には、呼吸すら遠慮がちになるほどに重い沈黙が満ちていた。
「……堪えて頂かねばなりません。ご不快でしょうが……」
オーリオの申し訳なさそうな表情に、アデラインは逆に申し訳なくなる。
オーリオは、ルトヴィアスが自分以外の女性と踊ることで、アデラインが傷つくだろうと考えているようだった。だが、おそらくそれだけではない。
婚礼が延期になっただけではなく、ルトヴィアスが他の令嬢と踊る。そのことで、またアデラインを貶めるような噂が流れるだろう。ルトヴィアスがアデラインとの婚姻を拒否したから婚礼が延期されたとか、舞踏会で踊る相手が新しい婚約者だとか、そんな噂が。
それがどんなに根も葉もないものであろうと、人の口から口へと語り伝えられていく過程で、憶測は信憑性を纏い、あたかも真実であるかのように擬態する。
無責任な人々の囁きにアデラインが傷つくだろうことを、オーリオは心配しているに違いない。
――……確かにルトが他の人と踊るのも、そのせいで色々と噂されるのも嫌だけど……。
アデラインだって、やがては王族の一人になる身だ。王族が守るべき立場や義務はわきまえている。
顔を上げて、アデラインは微笑んだ。
「私への気遣いは必要ありません。王太子として必要な判断をなさってくださいと、殿下に伝えて下さい」
「お嬢様……」
申し訳なさそうに顔を歪めるオーリオに、アデラインは努めて明るく笑ってみせた。
「大丈夫。私は平気よ」
膝の上で、静かに手を握り締める。
――……信じるって、決めたもの。
アデラインを愛していると言ってくれたルトヴィアスの言葉を、信じると決めた。
金英花の花言葉のように想いは変わらないと、そうルトヴィアスは言ったのだから。
――……だから、例えルトが大陸一の美女と踊ったとしても……。
その光景を想像したアデラインの胸の内に、突如として黒い靄が立ち込める。
「……ハ、ハーミオーネ嬢って、どんな方?」
ニールドーソン家は王族筋の名家であり、アデラインの母ヴァルヴルガの生家だ。けれどヴァルヴルガは実家から届く季節の挨拶や、夜会への招待状に対して、徹底して無視を決め込んでいた。
『あなたがルトヴィアス王子と婚約したからおこぼれにあずかりたいんでしょうけれど、そうはいくものですか』
そう言って招待状を破く母の横顔には憎しみと同時に、深い悲しみも見て取れた。
きっと、何か深い事情があるのだろう。そのためマルセリオ家とニールドーソン家の間には交流という交流もなく、母方の祖父母とアデラインはまともに言葉を交わしたこともない。もっとも、ヴァルヴルガの実の母親は既に他界しており、現在のニールドーソン夫人とアデラインに血縁関係は一切ないのだが。
オーリオは記憶を探るように視線を落す。
「お会いしたことがないので、詳しいことは分からないのですが……。外交大使として他国に駐在していたニールドーソン卿と先頃帰国したらしく、年齢はお嬢様より一つ上の19才だと聞いております」
「私の……えっと、叔母様にあたるのかしら?」
「そうなりますね。ヴァルヴルガ様にとっては母君違いの妹君ということですから。……ニールドーソン家に若い令嬢がいると聞いたのは初耳です」
「そうね。私も初めて聞くわ……」
どんな令嬢なのだろうか、とアデラインは想像を巡らした。
美しい人なのだろうか。
賢い人なのだろうか。
――……信じるって、決めたのに……。
胸の中の黒い靄が、思考を塗り潰していく。
「あのね。ちょっと聞きたいことがあるの」
オーリオが部屋を辞した後、アデラインはミレーに尋ねた。
「ニールドーソン家のハーミオーネ嬢がどんな人か、知っている?」
お茶を片付けていた手を止めて、ミレーは小首を傾げる。
「ニールドーソン家……というと、奥方様の?」
「そう。お母様の妹君。ニールドーソン卿と先日まで他国に駐在していたらしいのだけれど」
「妹君がいるというお話は奥方様から聞いたことはございませんが……。マルセリオ家に使いを出して奥様にお聞きになりますか?それとも他の者にそれとなく尋ねてみましょうか?」
これに頷いていいものか、アデラインは酷く迷った。
――……どんな人か知りたいけれど……。
アデラインの代役として、ルトヴィアスの同伴者に選ばれたハーミオーネ嬢。
そのハーミオーネ嬢についてアデラインが探っていると知られれば、人はアデラインがハーミオーネ嬢に嫉妬しているのだと思うだろう。
事実、アデラインの胸に宿るのは間違いなく嫉妬だった。恋人であり婚約者であるルトヴィアスが、自分以外の婦人と踊るのだ。これを妬まずにいられようか。
けれど嫉妬は、貴婦人にとってはしたないこととされている。夫が浮気しようが妾を囲おうが、正妻として悠然と微笑むのが貴婦人の正しい姿。
王太子妃、ひいては王妃になる立場のアデラインも、そうであれと父から育てられた。
その教えに反した行動をとれば、たちまち王太子妃に相応しくないと指をさされてしまうだろう。
だからアデラインはオーリオに『私は平気よ』と答えたのだ。王太子の婚約者として、アデラインの行動は最適だったはずである。
第一、舞踏会の一曲目を踊るのはルトヴィアスにとっては公務であり義務。王太子として、彼はそれを拒否することは許されない。
それなのに、それをアデラインが不誠実だと責め立てては、ルトヴィアスを困らせるだけである。
「ううん。いいの」
アデラインは誤魔化すように笑う。
けれど、心中は穏やかではいられなかった。
――……大丈夫。大丈夫よ。
警戒心が強いあのルトヴィアスが、そうそう簡単に女性に心を寄せるはずがない。
彼がアデラインを愛してくれたのは奇跡なのだ。
奇跡を連発するほど、女神が慈悲深いはずないではないか。世界が残酷だと、アデラインは身をもって知っている。
――……で、でも。
奇跡が確かに起こるということもまた、身をもってアデラインは体験した。
奇跡はおきる。しかも、まさかここで、というタイミングで。
「…………」
アデラインはドレスを握り締めた。
ルトヴィアスを信じている。
でも、不安になるのは、本当は信じていないからなのだろうか。信じきれていないからなのだろうか。
視界の端に、若葉色の靴がしまわれている木箱が映った。
彼に愛されて、大切にされて、だから自分も自分のことを粗末にしてはいけないと思ったはずだったのに。
――……信じたい、けど。
心が揺れる。決意が揺らぐ。
「お嬢様。お食事を用意いたしますので、少々失礼いたしますね」
「え、ええ。お願い」
ミレーが部屋から出て行くのを見届けてから、アデラインは思い切って腰を上げた。
部屋を早足で横切り、浴室として使っている部屋の隣の扉を開く。
落ち着いた色合いのドレスや花帽がよく整理されて並んでいる衣装部屋。そこに足を踏み入れる。
世間一般の貴族令嬢が所有している衣装としては、数も少なく見栄えも地味だが、どれもアデラインのお気に入りばかりだ。
そのドレスの奥に、アデラインは目的の衣装を見つけた。
手にとり、それを見下ろす。
今、アデラインはとんでもないことを考えていた。
――……だって、どうしても。
どうしても、どうしても、どうしても、噂の『ハーミオーネ嬢』が気になるのだ。
もうすぐ始まる舞踏会にむけて、王宮のあちこちで慌ただしく準備が進む中、ルトヴィアスは控えの間で足を組み、椅子に深く腰かけていた。
同伴者を待っているのだ。
そう、ニールドーソン家のハーミオーネ嬢である。
その令嬢の顔も人となりも、ルトヴィアスは知らなかった。
王族筋の名家の令嬢となれば立太子式にも参列していたであろうが、何せ広い大聖堂に所狭しと人が詰まっていたのだ。一人一人の顔など、さすがに確認していない。
――……晩餐会にそんな娘いたか?
ニールドーソン卿と挨拶を交わした記憶はあるが、その隣にいたのは狸顔の夫人だけだった気がする。
この狸夫人はニールドーソン卿の後妻で、前妻の子であるアデラインの母とは折り合いが悪く、今では絶縁状態なのだと聞いている。
ハーミオーネ嬢は、この後妻の娘ということだろうか。
――……アデラインと年が近い令嬢なんて、家系図にはいなかった気がするが。
主要な家の系図は頭に入れておいたつもりだったが、見落としたのだろうか。仮にもアデラインの母方の家系だ。少なくとも他の家系より注意して見たはずなのだが。
――……もしかしたら。
ニールドーソン卿が、親戚筋の娘を自分の娘と偽っている可能性もある。
アデラインが流行病で臥せっている隙に、ルトヴィアスの気をひいて側室にでもなれれば儲けもの。そんなふうにニールドーソン卿が思ったとすれば、有り得る話だ。
それにしては、晩餐会での挨拶でニールドーソン卿が娘の『む』の字も口に出さなかったのが気になる。普通なら、ここぞとばかりに娘を売り込みそうなものを。
実際、多くの者が夫人ではなく娘を伴って晩餐会に出席していた。正妃になれずともせめて側室にと考える者は、呆れるほど多くいる。
「はあ……」
大きく溜息をつき、ルトヴィアスは足を組み直した。
――……とにかく、一曲。
一曲目だけ踊ればいいのだ。
ニールドーソン卿の娘がどんなにルトヴィアスの気をひこうとまとわりついてきても、一曲だけ我慢すればいい。
「……殿下」
隣に立っていたオーリオの声は、ルトヴィアスを咎めていた。足を組むのは行儀が良くないと言いたいのだろうか。だが、オーリオの前で足を組むなど今更だ。机に足を乗せたこともある。
一体何を咎めたいのだと、ルトヴィアスはオーリオを睨むようにして見上げた。
「何だ」
「顔」
オーリオは端的に答えた。
そっちか、とルトヴィアスは視線を前方に戻す。
「褒め讃えたいなら好きにしろ」
「自覚がないんですか?鏡が必要ならお持ちしますよ」
「……」
勿論、ルトヴィアスは自分の形相が魔物も逃げ出すほどに凄まじく凶悪である自覚があった。
「疲れてるんだ。大目に見ろ」
今日も朝から友好国との交流を兼ねた公務に次ぐ公務で、ひと時も猫を脱ぐ暇がなかったのだ。
オーリオは顔を顰めた。
「いくら国内の諸公方には既に猫かぶりがばれてるとは言え……貴方を見てハーミオーネ嬢が泣き出したらどうするおつもりですか」
「知るか。お前が慰めてやればいい」
「まったく……」
手元の書類をパラパラと確認しながら、オーリオは溜息をついた。
ルトヴィアスは、また苛々と足を組み直す。
――……火事でもおこればいい。
不穏なことを、ルトヴィアスは考えた。
火事か、そうでなければまた暗殺騒動が起こって、舞踏会を滅茶苦茶にしてくれればいい。そうすれば気が重い公務から解放される。出でよ、暗殺者。今なら許す。
頬杖をつくために腕を持ち上げると、それにともなって外套がズルリと引きずられ、飾りがチャリチャリと鳴った。
――……重い。
正装は重くて苦手だ。しかも動きにくい。これで微笑みながらワルツを踊るなど、何かしらの刑罰としか思えない。
ふと、オーリオが立っている場所とは反対側にある椅子が目にはいる。誰も座っていないそれは、ルトヴィアスの同伴者のために用意された椅子だ。言わずもがな、ニールドーソン家のハーミオーネ嬢の為に用意されたものである。
しかし本来であれば、純白の花嫁衣装に身を包んだアデラインが、そこに座っていたはずだった。
そうであったなら、このやたら重くて豪奢な衣装も、大して気にはならなかっただろうに。
「…………」
そこに座るアデラインを、ルトヴィアスは夢想した。
――……よく似合ってたな……。
というのも、花嫁衣装のことである。
できあがった花嫁衣装をアデラインが試着する際には、ルトヴィアスも同席した。
隣室で着替えたアデラインはおずおずと扉から出てくると、照れながらもルトヴィアスの前でくるりと一回りしてくれたのだ。その様子の、壮絶に可愛かったことと言ったらない。
いつもの彼女なら好まない華美な衣装は、けれど柔らかな真珠色であったので自然とアデラインの白い肌に馴染んでいて、はにかみながらもアデラインは嬉しそうに微笑んだ。
あの時は、まさか婚礼が延期になるなど考えてもいなかった。
「……お前は」
ルトヴィアスが口を開くと、書類を確認していたオーリオが目線を上げる。
「はい?」
「お前は、アデラインが俺のどこが好きなのかわかるか?」
「…………」
何も言わないオーリオを、ルトヴィアスは頬杖をついたまま横目に見た。
「何とか言え」
「何を言えっていうんですか」
額に青筋を浮かべながら、オーリオは頬をピクピクさせている。
「知りませんよ。知りたくもありませんよ、お嬢様があなたのどこがいいかなんて」
言い捨てて踵を返そうとするオーリオの長衣を、ルトヴィアスは鷲掴んだ。
「話し相手にくらいなれよ。秘書官だろ」
「話し相手が必要なら壁に向かって話して下さい」
「お前に訊くことじゃないことはわかってる。でも仕方ないだろ、お前くらいしか話す相手がいないんだから」
ルトヴィアスの言葉に、オーリオは目を僅かに見開いた。
そして小さく嘆息し、腕を組む。
「では逆にお訊きしますが、あなたは自分のどこがアデラインお嬢様のお気に召したのだと思われるんです?」
「顔」
「……何ですって?」
自らの耳を疑うように、剣呑に目を細めたオーリオを、ルトヴィアスは至極真面目に見つめ返した。
「顔くらいしか思いつかない」
アデラインは自分の容姿に劣等感を抱いているせいなのか、顔立ちが整った相手に対して無条件に好意を向ける節がある。
美しいものへの、純粋な憧れと羨望。
その傾向が、アデラインは普通よりも強いような気がする。本人に自覚があるかどうかは分からないが、ハーデヴィヒやビアンカがいい例だ。そして自らもその例外ではないだろうとルトヴィアスは思っている。
――……さすがに顔だけってことはないとは思うが……。
ルトヴィアスは、自分という人間をよく知っていた。
短気で幼稚で卑小で、人に誇れるものなど何もない。
できがいいと思われがちだが、それは幼い頃から徹底した英才教育を受けた賜物だ。讃えられるべきはルトヴィアスではなく、利かん気が強かった腕白王子を投げ出さずに、根気よく教え諭した教師達だろう。
もっとも、彼らは教育者としての情熱に突き動かされてそうしたわけではなく、授業の成果を出さなければ前王に罰せられるので、それを恐れて必死だっただけなのだが。
「……自己評価が低いんですね」
意外だという顔でオーリオが呟くのに、ルトヴィアスは苦い顔をする。
「自己評価も何も、実際顔の他に俺に何がある?アデラインが自分を卑下するのは俺のせいだし、人から侮られるようになったのも俺のせいだ。それに……」
数え上げたらきりがない。
睨みつけたことも、怒鳴りつけたこともある。
怖がらせて、傷つけて、泣かせてばかりだ。
本当にアデラインのことを想うなら、手を放してやった方がいい。――そう思っていたのに、結局それもできなかった。どうしても、アデラインを失いたくなかった。傍にいて欲しかった。
『貴方が好きなの』
アデラインがそう微笑んでルトヴィアスの求婚を受け入れてくれた時は、本当に嬉しくて、生まれて初めて本気で女神に感謝したし、絶対に大切にしようと心に誓った。
それなのに、婚礼は延期。
それどころかアデライン以外の女と舞踏会に出席しなくてはならない。このことで、またアデラインを貶める噂が流れるのは目に見えている。
「……あいつが苦しむのは、全部俺のせいだ」
零れ落ちたその呟きは、自分でも驚くほど弱々しい。
誰も座っていない椅子を見つめていると、オーリオの声が耳に落ちてきた。
「……てっきり、昨日からお嬢様とお会いしてないことで不貞腐れてらっしゃるのだと思っていましたが、落ち込んでいらっしゃったんですね」
「……落ち込んでる?俺が?」
ルトヴィアスはオーリオを振り仰いだ。オーリオは切れ長の目を見開いて、呆然とした風情だ。
「落ち込んでいるではないですか。あなたの口からそんな気弱な言葉を聞くなんて、想像したこともありませんでした」
「……」
ルトヴィアスは、目をしばたく。
――……落ち込んでる?俺が?何に?
物心つく前から、自分の心の痛みを無視してきた。悲しみもつらさも全部噛み砕いて、猫をかぶって微笑んできた。
だからだろうか、ルトヴィアスは自らの心の機微に疎かった。
今、自分が不機嫌である理由も、疲れているからだと決めつけて大雑把にくくっていた。
――……ああ、でもそうか。
唐突に、思い至る。
――……俺は、落ち込んでいたのか。
婚礼が、延期になったことに。
――……けれどアデラインはそう不満そうでもなくて……。
誘拐されるという大変な経験をしたアデラインにしてみれば、生きているだけで女神に額づきたい気持ちなのだろうし、謙虚な彼女がルトヴィアスの婚約者という立場に満足しているだろうことも手に取るようにわかる。
だがルトヴィアスとしては、自分一人だけが早くアデラインと結婚したいと思っているような気がして、アデラインはそうでもないのだと思うと、寂しくて……。
そこへニールドーソン家のハーミオーネ嬢のエスコートをすることが決まり、アデラインにはあっさりと『私は平気よ』と言われた。
アデラインがそう言ったのは仕方がないことなのに、彼女にしてみればそれ以外のことを言うことは許されないのに、そしてそう言わせてしまったのは他でもない自分なのに。
――……俺は、お前以外の女の手なんて握りたくないのに。
ルトヴィアスが他の誰と踊っても、アデラインは平気なのかと――……そう感じてしまったのだ。
そして思考が、仄暗い方へと偏ってしまった。
この“落ち込んでいる”精神状態を、オーリオに晒してしまったことが、ルトヴィアスは無性に恥ずかしくなった。
「……かっこわる」
額に手をあて、俯く。
少し前までは、こんなことは絶対なかった。
弱みを誰かに見せるなんてありえなかったのに、いつのまにかアデラインに弱さも卑しさも見透かされ、それどころかオーリオにまで醜態を晒してこの始末だ。
オーリオが、小さく笑う。
「そんなの今更でしょう。見目はともかく、あなたが格好良いことなんて今までありましたか?」
「……ないな」
思わず、ルトヴィアスは笑った。
王太子相手に、こんな無礼な物言いをいうのはオーリオくらいだ。けれど不思議と、不愉快だとは思わなかった。
オーリオはルトヴィアスが短気で幼稚で卑小であることを承知の上で、それでも仕えてくれる。それが純粋に有難い。
――……本当に、アデラインは俺なんかの何がいいんだろうな。
彼女が何を考えてルトヴィアスを選んでくれたのか、全く想像ができない。それでも、アデラインはルトヴィアスを選んでくれた。ルトヴィアスとともに歩くと、決めてくれた。
その奇跡を、手放してなるものか。
――……会いたいな。
アデラインに会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。
「オーリオ。発煙筒を仕込んで騒ぎを起こして、舞踏会を取りやめにするのはどうだ?」
「いつもの調子が出てきて何よりです――が、その案は却下です。一曲目が終わってある程度したら適当な理由で退席して結構ですから、アデラインお嬢様に会いに行かれるならそれからになさってください」
「言ったな?いいんだな?」
「それくらいの時間帯なら、まぁ問題ないでしょう」
コンコン、と扉が鳴った。
書類を片手にまとめて、オーリオが答える。
「はい」
「ニールドーソン家のハーミオーネ嬢がお出でになりました」
侍官の取り次ぎの言葉に、ルトヴィアスは刹那、目を閉じた。
――……税金分働いて、アデラインに会いに行く。
彼女はきっとまず驚いた顔をして、けれど嬉しそうに笑ってルトヴィアスを迎え入れてくれるだろう。
深呼吸をし、瞼に父親の顔を思い浮かべた。
――……同じように。
父と同じように。穏やかに、理知的に。
それは、猫をかぶる時の、ルトヴィアスの秘密の儀式だ。
瞼を、あける。
それを確認したオーリオが、令嬢に入室を促す。
「どうぞ」
その時には既に、ルトヴィアスの頭上には毛並みが良い猫が鎮座していた。
ルトヴィアスの頬に滲むのは、穏やかで理知的な聖なる微笑み……のはずだったのが、実際にはルトヴィアスは驚愕に表情を歪めざるを得なかった。
オーリオすら、驚きで思わず声を漏らす。
「……え?」
ゆっくりと部屋に入ってきたその令嬢の姿に、ルトヴィアスもオーリオも意表を突かれて完全に凍りついた。
揺れるドレスは、裾にむかって濃くなる榛色。
白い鎖骨と柔らかげな耳を彩るのは、柘榴石を垂らした二連の真珠。
花帽から流れる絹のような栗色の髪。
小さめの口。
高くはない鼻。
大人しげな印象をあたえる、控え目な目もと。――――そして、榛色の瞳。
「…………アデ、ライン?」
ルトヴィアスは思わず呟いた。
別人だということは、わかっていた。
立ち方が違う。
歩き方が違う。
纏う空気が違う。
目の色が違う。
愛するアデラインと、ルトヴィアスが見間違うはずもない。
よくよく見れば、顔立ちもすこし違うようだ。けれど『よくよく見ると』程度の『違う』である。
並んで比べればどちらがどちらなのか一目瞭然だが、もし女官や侍官が廊下で彼女と擦れ違えば、皆アデラインだと思って頭を下げるだろう。
アデラインそっくりのその令嬢――ハーミオーネは、ゆっくりルトヴィアスの前に進み出ると、ぎこちない手つきでドレスを軽くたくしあげ、膝をおった。
「……お、お初にお目にかかりやす。ハーミオーネ・ニールドーソンでごぜえやす」
「……え?」
オーリオが、また声を漏らした。
ルトヴィアスは微動だに出来ない。
「王太子殿下におかれまずては、ご機嫌麗しく存じたてまづりやす」
ハーミオーネは、ぺこりと頭を下げた。
「あ……」
思わず、ルトヴィアスは椅子から腰を浮かせる。
――……そんなふうに頭を下げたら……。
危惧したとおり、ハーミオーネの頭上の花帽が、ころりと床に転がった。
「……」
「……」
「……」
コロコロコロコロと、花帽は壁際まで転がっていく。
ハーミオーネが舌をぺろ、と出して言った。
「やっべ」
「…………」
アデラインなら絶対にやらない。
アデラインなら絶対に言わない。
それらの言動に、ルトヴィアスの腹の中で何かが爆発した。
「……っは、あははははっ!」
ルトヴィアスは身を捩って笑った。
呼吸が出来ない。涙が出る。
「あーはっはっは!!っあははは!」
自分の中と外の懸隔も凄いが、ハーミオーネも凄い。一味違う。これを笑わずにいられるか。
オーリオは、呆然と立ち尽くしていた。無理もない。彼の中でのアデラインは完璧な貴婦人で、やや神格化されている。そのアデラインとそっくりな容姿を持ちながら、中身がてんで違う存在の突然の登場に、オーリオの優秀な頭は混乱を収集出来ないのだ。
「ひー!やばい!死ぬ!笑い死ぬ……っ!あはは!」
「……」
椅子の手摺を叩いて盛大に笑い続けるルトヴィアスと呆然自失のオーリオを横目に、ハーミオーネが「こりゃすまねぇ」と、花帽を拾いに駆け出した。




