ミレーのはなし ⑤
日が急激に傾き、あたりは薄暗くなってきた。
「義兄上」
オーレイが声をあげ、ミレーも顔を上げる。
立派な石の階段を降りてあらわれたファニアス・マルセリオという人は、口の中の何かが逃げ出さないようにしているのかというほど、堅く唇を引き結んでいた。
義弟のオーレイの姿を見つけ、早足で近づいてくる。
「……わざわざくだらないことで呼び出すな」
「くだらないと思うなら来なければよかったでしょう?」
茶化すように笑うオーレイから視線を滑らせ、ファニアスはミレーを見た。
鋭いその目差しにミレーは怯えて肩を揺らしたが、ファニアスは片膝を地につけて、ミレーと目の高さを合わせてくれた。それが何だか意外で、ミレーは目を見張る。
黒い夜のようなファニアスの瞳は、夕陽の赤い光のせいか、暖炉で熱を抱えて燻る炭火のように見えた。
「ヴァルヴルガが閉じ込められたと?」
「は、はい」
「場所は今探させてるよ。でも王宮は使われていない場所が多いからね」
オーレイが横から補足してくれたのに、ミレーは頷いた。
「ご、ごめ……すみません。私場所が分からなくて……」
「それはいい。聞きたいのはヴァルヴルガを閉じ込めたのは誰なのかだ」
「に、女官様でした。あの……クリスティアナ……様とヴァルヴルガ様は呼んでらっしゃいました」
ファニアスは目をすがめる。
「……クリスティアナ。ケープタイル家の末娘か」
「側室候補の一人だね。彼女に呼び出されたんだろうけど……おかしいな。ヴァルヴルガ様は呼び出すくらいなら会いに来いって言いそうなのに」
オーレイが首を傾げるのをミレーは見上げて言った。
「脅されていました。だから……」
「脅されていた?」
ファニアスがミレーの肩を掴む。
「どういうことだ?」
「それは……」
言っていいものか、ミレーは迷い口ごもる。
ヴァルヴルガはファニアスを巻き込むまいとしていた。自分の一方的な想いなのだからと。
(でも……)
ファニアスの目は、必死だ。
冷静に見えるが、その顔の皮を一枚めくれば、そこでは焔が燃え上がっている。ミレーはそれを肩を掴むファニアスの手の強さから感じていた。
ヴァルヴルガは密通などしていないと言っていたが、だからといってヴァルヴルガの一方通行とも限らない気がする。
なら、言うべきな気がした。
ヴァルヴルガを助けられるのは、ファニアスだけだ。
「……青い……手巾を、クリスティアナ様は持っていました。返して欲しければご側室になるのを辞退しろって。だからヴァルヴルガ様は……」
ミレーの言葉に、ファニアスの堅かった顔が歪んだ。悲しむように、苦しむように、泣き出すのではないかとさえ、ミレーは思った。
「……捨てろと言ったのに……」
彼が消え入るように呟き俯くのと同時に、一人の騎士が息せき切って走ってきた。
「見つけました!」
「……どこだ!?」
ファニアスは弾けるように立ち上がり、走り始める。
ミレーも後を追いかけた。
ヴァルヴルガが閉じ込められている小屋が見えて、ミレーはホッとした。
「ここ!ここです!」
だがミレーと並んで走っていたオーレイが、小さく舌打ちする
「……ぎりぎり内宮か。まずいな」
「え?」
ファニアスとオーレイに気付いた騎士が、駆け寄って来た。
「中にいらっしゃるようですが、返事がありません。鍵がなくて……」
騎士は困ったように言葉を濁した。
古い小屋だ。ミレーでは無理だが、騎士が本気で体当たりすれば、鍵がなかろうと錠前がかかっていようと、蝶番が壊れて扉ごとはずれる。何故それをしないのか。
やきもきするミレーの心の家を読んだように、オーレイが言った。
「内宮の敷地内だから、壊せないんだ」
「え?」
「内宮は云わば王族の私邸だ。その庭にあるものを勝手に壊してはまずいだろう?」
個人の庭にある小屋を壊せば、普通に問題になる。しかもその個人が王族ともなれば、おそらく『緊急事態で壊してしまいました。ごめんなさい』と、頭を下げるだけではすまないのだろう。
理屈は分かる。分かるが、ミレーは地団駄を踏みたい思いで手を握り締める。
「……でも……でも」
ヴァルヴルガは暗い小屋の中で一人苦しみに耐えている。
ファニアスは騎士の報告を聞いたままの姿勢で、小屋を見つめている。
オーレイがその横顔に提案する。
「義兄上。ケープタイルの娘を呼びましょう。鍵を出させて……」
「……待てん」
ぼそ、とファニアスは言った。
「え?義兄上?」
オーレイとミレーが瞬くのを尻目に、ファニアスは歩き出す。小屋の扉の前にいた騎士達の前で、ファニアスは無言で立ち止まった。
「閣下?」
「どうかされ……」
不思議そうに首を傾げる騎士達の腰から下がる剣の柄を、ファニアスは掴むと一気に引き抜いた。
「閣下!?」
「義兄上!ダメです!それはまずいです!」
オーレイが慌ててファニアスを止めようとしたが、遅かった。
ミレーが驚きの声をあげる間もなく、ファニアスは剣を扉の錠前に振り下ろす。
ガキン、と金属と金属がぶつかり合う音が響き、錠前が激しく揺れた。けれど壊れてはいない。
「あ、義兄上……!」
オーレイの声が聞こえないのか、いや聞こえていてわざと無視しているのか、ファニアスは両手で剣の柄を握りこみ、錠前めがけてまた振り下ろす。
火花が散るような音と共に、古い錠前は不満そうに地に落ちた。
取っ手を掴む僅かな時間すら惜しいのか、ファニアスは足で扉を蹴りつける。木の扉は、吹き飛ぶ勢いで中へ向かって開いた。
「……ヴァルヴルガ!」
ファニアスは剣を投げ捨て膝を折ると、扉の脇に踞るヴァルヴルガを助け起こした。
「……やっちゃったぁ……」
頭を抱えて深いため息をつくオーレイにはかまわず、ミレーも走り出た。
「ヴァルヴルガ様……!」
ファニアスに抱かれて小屋から出てきたヴァルヴルガは、かろうじて意識はあるようだが、引き付けを起こしたように、不自然な呼吸を繰り返している。
ファニアスはヴァルヴルガを下ろすと、その頬を軽く叩いた。
「ヴァルヴルガ!しっかりしろ!」
「……ファ……ニ……」
焦点の定まらない瞳でファニアスの姿を捉え、その名前を呼ぼうとする。その紫色に変色した唇を、ファニアスが自らの唇で塞いだ。
ミレーの背後で、集まってきた騎士達が狼狽え、ざわめく。
ファニアスは一度唇を離し、またヴァルヴルガに口づけた。
(……息を……)
ファニアスがヴァルヴルガに息を吹き込んでいるのだ、とミレーは分かった。
呼吸困難で倒れた娼婦に、医者が麻の袋を頭からかぶせていたのを思い出す。吐いた息を吸うといいのだと、医者は言っていたような気がする。
「……落ち着け。大丈夫だ。息を吐け。ゆっくり」
ファニアスはヴァルヴルガを抱き締めて、背中をさすった。
「大丈夫だ」
「……な、にが、大丈夫……よ」
落ち着いてきたヴァルヴルガが、ファニアスから体を離そうとする。だがふらついて、結局ファニアスの胸にしがみつく形で、自分に口づけた男を睨んだ。
「こ、こんなこと、人前でして……私が、私がせっかく……」
「……捨てろと、言ったはずだぞ」
ファニアスは、ヴァルヴルガを見下ろして言う。
「あんな布切れ、さっさと捨てればこんなことにはならなかった!側室に、なりたいんじゃなかったのか?側室になって実家をつぶしたかったんじゃないのか!?」
「そうよ!側室になりたかったわ!側室になって王子を生んで、あのクソババアと私を省みなかったクソ親父を這いつくばらせてやりたかった!」
ヴァルヴルガの青い瞳からボロボロと涙が零れて、土埃に汚れた白い頬はぐちゃぐちゃだ。
ゼエゼエと、まだ呼吸は荒い。
血色が戻らない唇を、ヴァルヴルガは歪めて力なく微笑んだ。
「……でも、もういいの」
ヴァルヴルガは、細い腕をファニアスの首に回し、そのまま引き寄せるようにしてファニアスに口づけた。
応急処置の為の口づけではない。
けれど、恋人達が交わす一般的な甘い口づけでもなかった。
ミレーが、オーレイが、騎士達が、他にも騒ぎに気付いて集まってきた衛兵や女官達。
誰もが彼らの口づけを見ていた。
国王から靴を贈られるのを待っている筈の女と、国王から息子のように可愛がられている寵臣。
その二人の口づけが、彼らの破滅を決定付けることを、ヴァルヴルガがわからないはずがない。
唇が離れる。
「……っヴァ……」
「……もう、いいの。側室にならなくても、実家を叩き潰す方法を思い付いたから」
ファニアスが驚愕に目を見張ったのとは対照的に、ヴァルヴルガは微笑んでいた。
すべて覚悟している微笑みだった。
「何をしているのです!?」
その声に、ミレーは振り返る。
ミレーだけでなく、オーレイや騎士達。集まっていた人々が振り返り、皆一様に身を凍らせる。
薄暗い中、侍官や女官を従えてそこに立っていたのは、アルバカーキ王その人だった。
「陛下……っ」
「国王陛下……!」
皆が慌ててひざまずき、ミレーもその場に踞るようにして膝を折った。
「……あああ……ますますまずい……」
隣で膝まずいていたオーレイが、絶望したように呟く。
「マルセリオ宰相!何ということをするのですか!!ヴァルヴルガは陛下の側室になる身ですぞ!」
アルバカーキ王の隣にいた痩せた男が顔を怒りに歪めて、こちらに走ってきた。そしてファニアスの首に回っていたヴァルヴルガの腕を乱暴に引く。
「そなたも早く離れよ!陛下の御前だぞ!」
「……私は側室にはなりません!」
ヴァルヴルガが、痩せた男の手を振り払う。どうやら彼はヴァルヴルガの父親ーーーニールドーソン卿のようだ。
「ヴァルヴルガ!?何を言うのだ!」
「陛下!」
ヴァルヴルガはアルバカーキ王に向き直った。
背筋を伸ばし真っ直ぐ君主を仰ぐ姿は、花帽がなくても、あちこち汚れていても気品に満ちている。
「ご覧になられた通り、私は陛下から靴を賜るのを待つ身でありながら、陛下以外の殿方に唇を許した重罪人です。首を刎ねるも実家をとり潰すも、どうぞ陛下のご随意になさって下さい」
「な、何を言い出すのだヴァルヴルガ!」
ニールドーソン卿は真っ青な顔で娘を見下ろす。
ヴァルヴルガは、そんな父親を一瞥すらせず、尚も言った。
「ですが!宰相閣下は無関係です!私が一方的に閣下をお慕いしているだけで閣下に罪はありません!」
「い、いいえ陛下!ヴァルヴルガは……娘は宰相閣下にたぶらかされたのです!」
ニールドーソン卿は必死だ。娘が国王の側室になるという栄誉を目の前にして、それを失おうとしているのだから無理はない。
「ヴァルヴルガ!そなたは宰相閣下にたぶらかされたのだ!!そうだな!?そう陛下に申せ!」
「いいえ!!私が勝手に……一方的にお慕いしているだけです!この方には何の咎もありません!死罪になるのは私だけ……」
ヴァルヴルガの体が傾ぐ。
ファニアスが、ヴァルヴルガの腕を引き、腰に手を回したのだ。
「ファニアス!?」
「お前は私のものだ」
低く言って、ファニアスはヴァルヴルガに口づけた。
驚いたヴァルヴルガは瞼を閉じる余裕もないらしく、目を見張ったままだ。
口づけは長くて、深かった。
角度を変え、まるでヴァルヴルガを飲み込んでしまうかのような口づけを目の前にして、ミレーは瞬きも出来ない。
自分が口づけしているわけではないのに、体が熱くなる。
喉から飛びだそうとする奇声を、ミレーは口を両手で覆うことで何とか抑えた。
多分、人生のうちで他人の口づけをこんな至近距離で、こんなに何度も見る日は二度と来ないだろう。来なくていい。心臓に悪い。
ファニアスの唇から開放されたヴァルヴルガは、頬を真っ赤に染め、涙目で唇を震わせた。
「あ……あなた、馬鹿じゃない?王家が大事なんでしょ?国を守るんでしょ?どうするのよこんな……折角私が」
「私を、惚れた女をみすみす死なせる能無しだとでも?」
「え……」
ヴァルヴルガをその場に残し、ファニアスは立ち上がった。
ミレーとオーレイの横を、そして呆気にとられて立ち尽くすニールドーソン卿の前を通りすぎ、アルバカーキ王の前に静か跪く。
王は、それを黙って見下ろした。静かな表情は、怒りの裏返しだろうか。
誰もが言葉を失ったように、その場は静まり返っている。
「……陛下 」
ファニアスが、アルバカーキ王を仰ぐ。
「この娘に、求婚する御許しを頂きたい」
人々が固唾を飲んだ音が、夕闇の中で妙に響いた。
ヴァルヴルガが側室になることは、もう公然の秘密だった。ミレーのような下女でさえ、アルバカーキ王が彼女に靴を用意していると知っているのだ。この場にいる誰も彼もが、当然知っている。
そのヴァルヴルガに、アルバカーキ王の目の前で口づけし、求婚したいなど、ファニアスがしたことはとんでもないことだ。国王から女を横取りしようというのだから。
アルバカーキ王が、口を開く。
「ファニアス、自分が何を言っているかわかっているのか?」
「勿論です。死を賜ってもおかしくない」
ファニアスの声は冷静だった。
彼も、ヴァルヴルガと同様に覚悟を決めている。
「陛下。貴方に、尽くしてきました。国に尽くしてきました。財が欲しいとも領地が欲しいとも言わず、ただひたすら貴方にお仕えして参りました。それが私の喜びでした。それは、陛下にもお認め頂けるはずです」
「そうだな、認めよう。宰相の任について10年。そなたは身を粉にしてよくやってきた」
アルバカーキ王が頷く。
ミレーは手を握り締め、横目でヴァルヴルガを見た。
ヴァルヴルガは、呼吸すら忘れて愛しい男の背中を食い入るように見つめている。
ファニアスの背中が、小さく揺れた。深呼吸したのだろう。
覚悟は決まっているとはいえ、おそらく相当緊張しているに違いない。
「褒美を頂きとうございます。この一度で結構です。二度と褒美が欲しいなどとは申しません。必要であれば私の地位も、私がお預かりする土地のすべても、返上してもかまいません。どうか……ヴァルヴルガ・ニールドーソンを我妻に頂きとうございます」
言い切り、ファニアスは頭を垂れる。
ミレーは国王が腰に下げる長剣を盗み見た。普通、王は帯剣しないものらしい。けれど、アルバカーキ王は戦でも騎士達の先頭に立って戦う武断の王であり、気に入らない臣下をその手で切り殺す。
『獅子王』と人々は彼を呼んだ。勇猛果敢な獅子王。
ファニアスの首など、獅子王の剣なら一振りで切り落としてしまうだろう。
ミレーは祈った。
女神に、必死に祈った。
どうか、どうか、どうか、どうか……。
「許そう」
その短い言葉は、短すぎて誰もが認識出来なかったらしい。
十拍近くの沈黙の後、ファニアスが問い返した。
「…………はい?」
「許す。まったく、ようやく重い腰を上げたかファニアス。待ちくたびれたぞ」
アルバカーキ王は、やれやれというふうに笑った。
その太い笑いは意外にも暖かくて、ミレーは肩から力が抜けるのを感じた。
「へ、陛下!ゆ、許すなど……っ何を言われますか!わが娘は陛下の側室に」
ニールドーソン卿が、アルバカーキ王の足元に慌てて跪く。だが、アルバカーキ王はケロリとした顔で言った。
「側室にするなど一言もいっておらん」
「は!?」
「確かにヴァルヴルガはよい娘だ。頭もよい、教養もある。わがルードサクシード王室に相応しい娘だ、が。如何せん、私の好みではない。私は口答えする女は嫌いだ」
にやり、とアルバカーキ王はまた笑う。
「その点、ファニアス。そなた常々『頷くだけの女はつまらない』と言っておったな」
ミレーは目撃した。
ファニアスの背中から、湯気のように無色の怒りの炎が立ち上るのを。
「陛下……もしや私を……ずっと玩具にしておられましたか?」
「実に愉快だったぞ!ヴァルヴルガを褒めるたびにそなたの体温が下がっていくのを手に取るように感じたし、私がヴァルヴルガを散歩に誘った時のそなたの顔と言ったら……!だがやはり一番はあれだな!足の採寸をした時の死んだ目!!療養で離宮に行ったリヒャイルドにも見せてやりたかった!!」
アルバカーキ王は腰に手をあて、わっはっはと豪快に高笑いした。
「…………陛下……」
ファニアスの背中が燃えている。凄まじい勢いで燃えているが、アルバカーキ王は意に介さない。
「まあ、そう怒るな。根回しはしておいてやったぞ。苦労して説得した甲斐があって、ようやく王太后がヴァルヴルガが女官を辞することを了承してくれたし、靴も作ってやったから、あとはそなたがヴァルヴルガに渡すだけだ。いつでも結婚出来るぞ!」
「こんの……っ余計なことを!!」
ファニアスが喚いて立ち上がる。普通なら不敬罪で投獄されるべきその行為を、アルバカーキ王は咎めはしなかった。
「何が余計だ。ヴァルヴルガを意識してるのに、年が離れてるだ、側室になる娘だと、言い訳ばかりで動かぬそなたを見る私の身にもなれ。もどかしくて張り倒してやりたかったわ。もどかしすぎて『ヴァルヴルガと結婚しろ』と命令するつもりで色々と準備してやったのに、土壇場で男になりおって」
「何が『色々準備』ですか!貴方がややこしいことをしなければ……っ!!」
ミレーからファニアスの顔は見えないが、きっと彼は凄まじい顔で主君を睨んでいることだろう。
「で、では側室は」
いつの間に来たのか、貴族らしい太った男が跪いたまま声を上げた。
「ヴァルヴルガ嬢が側室に上がらないなら、ぜひわが娘を側室に」
「いえ!わが娘を……」
あちこちから上がる声を、アルバカーキ王は笑いながら制した。
「ああ、側室は必要ない」
「え?」
「え?」
「ど、どういうことで……」
「そうであろう?オーレイ」
アルバカーキ王が、オーレイに視線を送る。ミレーの隣で、オーレイが小さく咳払いした。
「……はい。医官も確認しました。王太子妃殿下、ご懐妊でございます」
人々がざわめいた。
「ご懐妊!」
「何ておめでたい」
そもそもリヒャイルド王太子とリーナ妃の間に子供が望めそうもないという見解から、アルバカーキ王に新しい側室をという話になったのだ。リーナ妃が王子を生むとすれば、アルバカーキ王が側室を迎える必要はない。
アルバカーキ王は嬉しそうに言った。
「冬には王子が生まれよう。ああ、ファニアス。そなた早々にヴァルヴルガとの間に娘をもうけよ。そなたの娘なら未来のルードサクシード王妃に相応しかろう」
「……ありがたいお言葉ですが」
ファニアスはまだ怒りがおさまらないらしい。眉間に皺を寄せて、アルバカーキ王の隣に立っている。
「お生まれになるのが王子殿下とは限りませんし、娘をどうこう決める以前の問題として私はヴァルヴルガとまだ夫婦ですらありません」
「なら、さっさと婚礼をあげよ」
「ええ!言われずともそうします!私が婚礼による休暇を頂く間にどなたかが書類を溜め込まないと約束して頂けるなら!」
「約束でいいのなら幾らでもしてやるが?」
「出来ぬ約束は結構です!!
ファニアスが喚き、アルバカーキ王はそれを鼻で笑い飛ばしている。
さきほどまでの、世界が崩壊する直前のような緊張感は一体なんだったのだ。
ミレーは、呆然としているヴァルヴルガににじり寄った。
「よかったですね!ヴァルヴルガ様!」
ヴァルヴルガは、ミレーを見返して何度か瞬いた。
「……ミレー」
「よかったですねえ、ヴァルヴルガ様あ」
ミレーの目から、ポロリと涙が流れる。ヴァルヴルガがゆっくり微笑んだ。
「……ミレー」
「よかったあ……」
「ありがとう、ミレー」
ヴァルヴルガは優しくミレーを抱き締めてくれた。
「落ち着いたところで、申し訳ありませんが帰ります。息子に早く帰る約束をしたので」
オーレイが片手を挙げる。
「私は義兄上と違って仕事より家族が大事ですから」
ファニアスの代わりに、アルバカーキ王がオーレイに答えた。
「かまわんが、リヒャイルドにリーナの件は伝えたか?」
「離宮に使いを送ってあります。そのくらいの仕事はしますよ」
言うが早いか、オーレイはさっさと退出していく。
アルバカーキはそれを咎めることもなく笑った。
「オーレイ。溺愛しすぎで馬鹿息子になっても知らんぞ」
「大きなお世話です」
そのやり取りは、主君と臣下と言うよりは、親族などごく近しい間柄のものに見えた。
その場の誰も、思わなかっただろう。
この獅子王と呼ばれた賢君が、いそいそと帰る王太子秘書官を切り殺す日が来ようとは。
豊かなルードサクシードの国土が、戦火に飲まれるとは。
リーナ妃に宿った新しい命が、やがて敵国へ人質として赴くことになろうとは。
誰も、思わなかっただろう。
オーレイの息子がオーリオ。
2018.12.11 誤字訂正しました。




