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ミレーのはなし ④

「ねえ、きいた!?あの話」

「何?何?」

ミレー達下女が懸命に床を磨く目と鼻の先で、数人の女官が楽しげに世間話に花を咲かせている。

貴人に付き従う高位の女官でもなく、かといって実務の大部分を担う下級の女官でもない中間層の彼女達は、その殆どが嫁入り前の社会見学感覚で王宮に上がった下級貴族か商人の娘だった。女官としての出世欲もないため、仕事に対する意欲も低く、真面目に仕事をしているのは騎士団相手にお茶を出すときくらいのものだ。

(女官が多すぎるんだわ)

ミレーは思う。だから、こんなふうにお喋りで時間を潰す女官がいるのだ。彼女達に払われる給金を下女に回してもらいたい。税金の無駄遣いもいいところである。

そう思っているのは隣にいるメルサも一緒らしい。さっきから冷たい視線をちらちらと女官達に送っているが、女官達はそんなこと気にせず女官達はお喋りを続けている。

とりあえず、どいて欲しい。女官達がいるその場所も、ミレー達が担当する床なのだ。

「国王陛下が王太后陛下のお部屋まで、わざわざヴァルヴルガ様に会いに行ったんですって」

ヴァルヴルガの名前に、ミレーは微かに反応し、耳をそばだてる。

女官の一人が期待はずれだと肩を落とす。

「何だあ。そんなの、よくあることじゃない」

「本題はここからよ。国王陛下はその時に工房の侍官を連れていって……」

「え?」

「まさか!?」

「そのまさかよ!!陛下は侍官にヴァルヴルガ様の足の採寸を命じたそうよ!!」

ミレーは思わず顔を上げた。隣のメルサも、床磨きをしながら女官達の話を聞いていた数人の下女も、同様に顔を上げる。

「それってつまり靴を作るってことでしょ!?」

「ヴァルヴルガ様がご側室に上がる日も近いのね!」

きゃっきゃと女官達は騒いで、やがて話題は女官の一人の縁談が決まった話に移行する。

「……」

「ねえ、聞こえた?」

ひそひそと話しかけてきたメルサに、ミレーは無言で頷いた。

「いよいよご側室になるんだねえ。おめでたい日って私達も何か美味しい物とか食べられるのかな」

「……」

ミレーは答えなかった。メルサの話を聞いていなかったのだ。

男性が求婚の際に女性に靴を贈る習慣は、貧富を問わない。ミレーの母も、父に求婚された際に贈られた靴を大事に大事に戸棚の上にしまってあった。

国王がヴァルヴルガの足の採寸を侍官に命じたのなら、目的はヴァルヴルガに贈る靴を作ることしか考えられない。

(ヴァルヴルガ様……)

いいのだろうか。

彼女は、本当にそれでいいのだろうか。

側室になるために、ヴァルヴルガは多くの努力してきたはずだ。つらい思いをしてきたはずた。それらの苦労がもうすぐ報われるというのに、ミレーはそれを祝う気にちっともなれない。

水が満ちた桶の中に投げやりに刷毛を放り入れると、バシャリと汚れた水面が揺れる。

肩を落としたミレーは、ため息をつきながら目を上げた。

「……あれ?」

回廊の向こうを走る人影。あれはヴァルヴルガではないのだろうか。

随分と急いでおり、制服の長い裾をたくしあげ、花帽が落ちないように片手で押さえながら走っている。完璧な礼儀作法を誇る彼女らしくない。

(何かあったのかも)

ミレーは立ち上がった。

「……ちょっと行ってくる」

「え?ミレー!?」

メルサが呼び止めるのにもかまわず、走り出す。

仕事を放り出すなど、罰として夕食を抜かれるかもしれないし、給金を減らされるかもしれない。

けれどミレーはヴァルヴルガを追いかけるのに夢中で、そんなことを考える余裕もなかった。もともと同時に色々考えることが出来ない性質(たち)だ。

いつも床ばかり見ているミレーは、どの廊下がどこの回廊に繋がっているのかすら、定かではない。遥か前を走るヴァルヴルガの背中を見失えば、完全に迷子になる。

ミレーはヴァルヴルガを必死に追いかけ、回廊を抜け、騎士団の兵舎の横を通り過ぎ、見たこともない場所に出た。

垣根に囲まれたその庭に人気はなく、もう使われていないらしい古い小さな小屋が一つある。

「ヴァルヴルガ様?」

ミレーは小声であたりを窺ったが、返事はなく、誰もいない。

(確かにこっちに来たと思ったのに……)

ヴァルヴルガを見失ってしまったらしい。

戻ろうにも、どう戻ればいいか分からない。

「どうしよ……」

一人立往生していると、声が聞こえた。

「……っ返して!」

ヴァルヴルガの声だ。

(小屋の中……?)

あんなところで何をしているのだろう。

ミレーは足音を忍ばせて小屋に近づいた。

壁板と壁板の隙間から中を覗くと、ヴァルヴルガとあと数人、女官の姿が見える。ヴァルヴルガは両脇を下級の女官に抱えられ、跪かされている。

「大人しくなさいな。みっともなくてよ」

ヴァルヴルガを見下してクスクス笑うのは、ミレーが泥水をかけてしまった女官だ。

「それを返して!クリスティアナ!」

ヴァルヴルガは必死な様子で手を伸ばすが、クリスティアナには到底届かない。

「いつもすました顔の貴女がこんな顔が見れるなんて嬉しいわ。ねえ、どうして貴女がこんな物を持っているの?」

クリスティアナが焦らすようにヴァルヴルガの鼻の先でひらつかせたのは、あの青い手巾(ハンカチ)だった。

「これはマルセリオ家の紋章よね?何故これが貴女の部屋の引き出しから出てきたの?しかも宝石と一緒に箱にいれて、鍵までかけて」

「それは……っそれは拾ったものよ!」

ヴァルヴルガはクリスティアナを睨み付けて叫んだ。その様子に、クリスティアナは怯えるどころか楽しそうに微笑む。

「拾ったなら何故返さないの?教養深い貴女がまさかマルセリオ家の紋章を知らないはずないわよねえ? そこらへんの侍官をつかまえてマルセリオ家へ届けさせればよかったじゃない」

クリスティアナは、手巾を両手で広げて掲げて見せる。

「マルセリオ家の誰のものかしら?リヒャイルド王太子殿下の首席秘書官は確か『マルセリオ』だけど……まさか『マルセリオ』宰相閣下の手巾なんてことはないわよね?」

ニヤリ、とクリスティアナは口元を歪める。クリスティアナは手巾がマルセリオ宰相のものだと確信しているようだった。

『宝石と一緒に箱にいれて、鍵までかけて』とクリスティアナは言っていたが、まさかヴァルヴルガの私物を漁ったのだろうか。高位女官のヴァルヴルガは個室を与えられているはずだ。他人の部屋に勝手に入り込んで持ち物を物色するなど、泥棒と変わらないではないか。

国王がヴァルヴルガに靴を贈ると聞いて、クリスティアナはなりふりかまっていられなくなったのかもしれない。

だが、クリスティアナの所業を糾弾する勇気はミレーにはなかった。相手は間違いなく貴族だ。平民として貴族にかしずき頭を下げて生きてきたミレーは、本能的にクリスティアナを敵に回すことが怖い。

(ど……どうしたら……)

ミレーは助けを呼びたくておろおろと周囲を見回すが、人影はない。いや、むしろ今人が来るのはまずいのではないか。下手な人物に小屋の中の話を聞かれたら、そしてそれを言いふらされたら、ヴァルヴルガとマルセリオ宰相の立場が危うくなる。ミレーにもそれくらいはわかった。

ミレーがヴァルヴルガを助けるより他ない。

(で、でも、どうやって……)

小屋の扉の錠前は開いていたから、中に入るのは簡単だろう。

だが、そこからどうすればいいのだろう。

あの青い手巾を取り返さなければならないことは分かる。でも、背丈で劣るミレーでは、例え勇気を振り絞ってクリスティアナに掴みかかっても取り返せるとは思えなかった。

「側室に上がるお話を辞退なさいな」

クリスティアナの声に、ミレーは急いでまた壁板の隙間から中を覗く。

クリスティアナは青い手巾を指でつまみ、ヴァルヴルガの頭上でヒラヒラと回している。ヴァルヴルガが顔を歪めた。

「辞退……?」

「『ご側室には上がれません』と陛下に申し上げなさい。そうしたら、この青い手巾は返してあげるわ」

側室辞退など、国王からの求婚を断るようなものだ。それをしてしまえば国王の不興を買うことは免れられない。本人は勿論、家ごと没落することもあり得る。辞退など、出来るはずがない。

ヴァルヴルガは眉を寄せる。

「……私が辞退したからって、貴女が側室に選ばれるとは限らないわよ」

「そうとも限らないわよ?貴女との関係を国王陛下にばらされたくなければ私を推挙して欲しいと宰相閣下にお願いすればいいだけだもの」

つまり、クリスティアナはヴァルヴルガとの関係をネタにマルセリオ宰相を脅すつもりらしい。

ヴァルヴルガは目を吊り上げて叫んだ。

「関係って……あの方は何の関係もないわ!あの方を巻き込まないで!!あの方は私のことなんて何とも思ってないんだから!ただ私が一方的に……っ」

「貴女が宰相閣下の手巾を持っていたのは事実よ。側室にするつもりの女が、息子のように可愛がる寵臣に想いを寄せているなんて知ったら……あのご気性が粗い国王陛下がどう思うかしら?」

クリスティアナは隣にいた下級の女官達の顔を見た。下級の女官達はクリスティアナと同じように楽しげに口元を歪ませる。

「お怒りになるでしょうね。ヴァルヴルガ様だけではなく、宰相閣下のことも」

「密通を疑うのが普通ですわ」

「免職、更迭……悪くすれば……」

女官が濁した言葉の先を想像して、ミレーは青くなった。

国王が汚職をした臣下を切り捨てたという話を聞いたことがある。街で聞いた時は強い王様が悪者を懲らしめた英雄譚に聞こえたのに、今は違った。大理石の美しく冷たい床に血まみれで横たわるヴァルヴルガが見えた気がして、ミレーは震え上がる。

ヴァルヴルガも真っ青な顔だ。彼女の脳裏に浮かんでいるのは、マルセリオ宰相の死体なのかもしれない。

「……やめて!お願い……っあの人は……ファニアスは関係ないの!」

「なら側室を辞退なさい」

「するわ!するから!!」

ヴァルヴルガが叫ぶと、クリスティアナは満足げに微笑んだ。それを合図にしたように、ヴァルヴルガの両脇を抑えていた女官達が手を離す。

ヴァルヴルガは崩れ落ちるように、その場に手をついた。

「有意義な話し合いが出来てよかったわ。さぁ、国王陛下の元へ行くわよ。すぐに辞退を……」

「……それを返して!」

ヴァルヴルガがクリスティアナに飛びかかった。

「返して!返して!!」

「な、何するのよ!!」

二人は手巾を巡って揉み合い、埃だらけの床に転がる。回りの女官達は予想外の展開に驚いて飛び退いた。

「返して!!」

「離しなさいよ!!」

垂れ布がついた花帽は、既にヴァルヴルガの頭から落ちてもみくちゃだ。だが、ヴァルヴルガはそんなことおかまいなしに、髪を振り乱してクリスティアナの持つ手巾に手を伸ばす。いつも優雅なヴァルヴルガからは考えられない暴挙だ。マルセリオ宰相を守ろうとヴァルヴルガは必死なのだろう。

「は、早くこの女をどかして!」

「返して!お願いだから返して!」

ようやく回りで見ていた女官達がヴァルヴルガを押さえ、クリスティアナは這うようにしてヴァルヴルガから離れた。

「側室にはならないわ!だからその手巾を返して!ファニアスは関係ないの!お願い!」

ヴァルヴルガは泣いていた。泣いて、それでも手巾を返して欲しいと叫んだ。

「お願いクリスティアナ!」

「うるさいわね!」

クリスティアナはヴァルヴルガに同情する気は一切ないらしく、金切り声でヴァルヴルガを怒鳴りつけた。

「この私に掴みかかるなんて……!なんて野蛮な女なの!」

「お願い!手巾を……」

女官達の手を振り払いすがり付くヴァルヴルガを、クリスティアナは思いっきりひっぱたいた。

床に、ヴァルヴルガは倒れ伏す。

「まだ自分の立場がわかっていないみたいね!頭を冷やすといいわ!」

クリスティアナと女官達はヴァルヴルガを中に残したまま小屋から出て、錠前をかけてしまった。

ミレーはクリスティアナ達から見えないように小屋の裏側に回り込み、息をひそめる。

ヴァルヴルガは、小屋の扉を内側からバンバン叩いている。

「クリスティアナ!クリスティアナ!開けて!!」

「騒いでも無駄よ。ここは滅多に人も来ないわ。大人しくなった頃に出してあげるから、それまで私に謝る言葉を考えていることね」

勝ち誇ったように笑いながら、クリスティアナと女官達は立ち去った。

「…………」

ミレーは小屋の影からクリスティアナの去った回廊を窺う。誰かが戻ってくる様子はないのを見てとり、ミレーは錠前がかかった扉に飛び付いた。

「ヴァルヴルガ様!大丈夫ですか!?」

壊してもかまわないと上下左右に乱暴に揺すったが、錠前は古ぼけているくせにびくともしない。

「開かない……っ」

「……ミレー?」

扉の隙間から、ヴァルヴルガの声がした。

「ミレーなの?」

「そうです!ミレーです!ヴァルヴルガ様!」

「あなた、どうして……」

「ヴァルヴルガ様のお姿を見て心配で……」

「……そう……心配して来てくれたの……」

ヴァルヴルガが、扉の向こうで膝をついた様子がした。

「私……どうしよう……ファニアスに迷惑をかけてしまう」

ヴァルヴルガの声は震えていて、泣いているのがよく分かった。あの気丈な女性が肩を震わせ泣いている様を思い、ミレーは胸が痛くなった。

「ヴァルヴルガ様……」

「……話を聞いていた?私……私本当に密通なんてしていないのよ?あの冷血漢は私のことなんて小賢しい小娘くらいにしか思ってないし……なのにどうしよう…」

悲痛な嗚咽が、扉の向こうから聞こえてくる。

(……本当に)

本当にそうだろうか、とミレーは疑問だった。ヴァルヴルガとマルセリオ宰相の密通を疑っているわけではない。 ヴァルヴルガは自分の片想いだと、マルセリオ宰相は自分を特別に想っているわけではないのだと言ったが、本当にそうだろうか。

手巾の貸し借りくらい、誰でもする。

けれど側室候補の女性にそれをする勇気がある男性が、どれほどいるだろう。

信じられないほど小さな失敗で失脚する上流社会の頂点にいるマルセリオ宰相が、下手すれば密通を疑われても仕方がないような行為をするだろうか。

疑われるかもしれないことを承知で、それでもヴァルヴルガを放って置けなかったから手巾を渡したのではないのか。

(……もしそうなら……)

マルセリオ宰相がヴァルヴルガを憎からず想っているのかもしれない。

「……は……」

扉の隙間なら漏れ聞こえるヴァルヴルガの呼吸が粗い。

ミレーは扉を叩いた。

「ヴァルヴルガ様?どうしたんですか?」

「大丈……夫。はぁ、ちょっと苦手なだけ……は」

ヴァルヴルガは息も絶え絶えだ。とても大丈夫そうではない。

「苦手って?」

「はぁ……こういう狭くて暗い場所……は……お義母様に昔……閉じ込められて……はぁ、誰かいればいいんだけど……ひ、一人だ、と……」

「だ、大丈夫ですか?」

「大……大丈夫……ケホ」

娼館で、同じような症状を見たことがある。初めて客をとった若い娼婦が手足の痺れを訴えて、すぐに呼吸が出来ないと倒れた。

「だ、誰か……誰かを呼んで来ます!」

走り出そうとしたミレーに、ヴァルヴルガの悲痛な声が追い縋った。

「だめ!だめミレー!はぁ、お願い行かないで……はぁ」

「でも……!」

「行かないで……!一人にしないで!」

小屋の中に閉じ込められているのは幼い子供であるという錯覚にミレーはとらわれた。

一人で残して行くのは躊躇われる。だが、すぐに日が暮れる。そしたら、ここは真っ暗闇だ。

「……っヴァルヴルガ様!」

「ミ……ミレー……」

「助けを呼んで来ます!必ず帰ってきます!私を信じて待っていて下さい!」

ヴァルヴルガの青い目のかわりに扉の板目を見つめて、ミレーは走り出す。

「ミレー!!」

ヴァルヴルガが悲鳴のようにミレーを呼んだが、今度は立ち止まらなかった。

ここがどこか分からない。

クリスティアナの歩いて行った方向に、ミレーはとにかく走った。

だが広い回廊にはまったく人影がない。

「……どうして誰もいないの……っ!?」

ミレーは泣きたくなった。

こうしているうちにもヴァルヴルガが苦しんでいるというのに、方向すらわからない。

「方向……」

ミレーは回廊から身をのりだし空を見上げた。木々の向こうに、大聖堂の大塔の屋根が見える。

「あっちだ!」

大聖堂の方向にさえ行けば、誰かがいるはずだ。

庭を横切り、垣根の下を這うようにして進み、小米花の長い枝を転がるように抜けると、突然視界が開けた。

「わっ」

「……誰?」

立派な東屋の下で、椅子に座っていたその人と目があう。

ミレーは息を飲んだ。

美しい人だった。

春の若葉のような瞳。陶器のような白い額にかかる金糸のような前髪が、風にふわふわ揺れている。

目も鼻も桃色の唇も、すべての形が完璧で、そしてこれ以上ないというほど美しく配置されていた。

(この……人……)

溢れかえる人に押し潰されそうになりながら、弟達と見上げた大塔の露台。

歓声の向こうに小さく見えた白い顔の花嫁。

「……リーナ……王太子妃……殿下……」

「何者だ!!」

少し離れて護衛をしていたらしい騎士が駆けつけ、ミレーに剣を突きつける。

「ひっ」

ミレーは小さく悲鳴をあげて後ずさった。

騎士が眉を寄せる。

「子供?どこから入ってきた!?」

「子供だからと油断するなよ。幼くとも立派に刺客がつとまる年だ」

数人の騎士がミレーを囲むように立ちはだかる。

「し、刺客なんて……私」

鋭い剣先に怯え、ミレーは口ごもった。

やたらと走るうちに、王族が生活する内宮の敷地内に入り込んでしまったらしい。

許可なく立ち入ることは許されない場所だ。ミレーなど、本来なら一生縁がなかっただろう。

「妃殿下。奥へお下がり下さい」

黒髪の男が、王太子妃を促す。王太子妃は頷き立ち上がった。

「ええ、マルセリオ」

その言葉を、ミレーの耳は逃さなかった。

(『マルセリオ』!?)

ミレーは、一歩を踏み出す。

「ファニアス・マルセリオ宰相閣下ですか!?」

よく考えれば王太子妃の前で頭を下げもせず、跪きもせず、揚げ句に宰相を名指しするなど不敬罪でその場で切り捨てられても仕方がない。

けれどその頃のミレーは幼く、物知らずだった。頭の中はヴァルヴルガのことでいっぱいで、保身を含めて他を考える余裕はなかったのだ。

女官達にかしずかれながら建物に入っていく王太子妃を見送っていた男が、振り向いた。

「……君は?」

「ヴァルヴルガ様を助けてください!!」

ミレーはようやく跪いた。両手の指を組み、女神に祈るように懇願する。

「閉じ込められているんです!早く……早くしないと」

「どこに?」

男に尋ねられ、ミレーは固まった。

無茶苦茶に走ってきたせいで、ヴァルヴルガの閉じ込められた小屋へ戻る道がわからない。

「わ、わかりません。ごめんなさい。つ、使われていない古い小屋で……あの、物置のような」

男が背後に控えていた騎士に目配せする。

「探せ。それから、宰相閣下を呼びに行ってくれないか。いくらあの人でもヴァルヴルガ様が行方不明だと言えば飛んでくるはずだ」

「……宰相閣下じゃ……ないんですか?」

ミレーはポカン、と口をあけた。

黒髪の男は、そんなミレーを見て柔らかく笑った。

「マルセリオに違いはないけどね。私は閣下の義弟なんだ。私はオーレイ・マルセリオ」

「オーレイ……マルセリオ……様」

クリスティアナがリヒャイルド王太子の首席秘書官も『マルセリオ』だと言っていたが、彼のことだろうか。

男は空を見上げてボソリと呟く。

「早く帰って息子と遊ぼうと思っていたのに……無理そうだな」

日は西の空に傾き、雲は赤く染まり始めていた。


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