第六話 王子の戸惑い
『そなたの妃が決まったぞ』
祖父は上機嫌でルトヴィアスにそう告げた。
『私の妃ですか?』
ルトヴィアスは驚いた顔をして見せた。
けれど内心ではそう驚いてもいなかったし、大してその話に興味もなかった。
ルトヴィアスはまだ10歳。『妃』と言われたところで、興味を持てと言う方が難しい。彼はとにかくこの気難しい祖父の機嫌を損ねないように、相応しい態度と受け答えをすることに集中した。
『それはどなたなのですか?』
ルトヴィアスは、妃が決まって嬉しい、とでもいうような表情で祖父に尋ねた。
背筋を伸ばし、顎を引く。両手は体の横にぴったりとつけて、上官の前に立つ騎士のようなその姿勢はおおよそ子供らしくはなかったが、祖父の前ではいつもルトヴィアスはこの姿勢を崩さないようにしていた。
孫の態度に満足したのか、祖父は最近では珍しいことに、ルトヴィアスを抱き上げた。そうすれば孫は喜ぶと思ってしたのだろうが、ルトヴィアスは体を固める。祖父に抱かれるのは慣れていない上に、祖父はもう高齢だ。もし無理に抱き上げたことで腰でも痛めれば、祖父はルトヴィアスをひどく叱責するだろう。ルトヴィアスからすれば理不尽ではあるが、それが彼の祖父であり、ルードサクシードの国王という人間なのだ。
ルトヴィアスの緊張をよそに、祖父は重くなった孫を軽々と抱えた。
『お前の妃はマルセリオの娘だ』
―――数か月後の婚約式。
初めて会った婚約者を前にして、ルトヴィアスはなるほどな、と思った。
挨拶どころかルトヴィアスの言葉に返事すら出来ず、俯く少女。
ルードサクシードが誇る名宰相ファニアス・マルセリオの一人娘。
マルセリオ家は代々ルードサクシード王家に仕え数々の名だたる政治家を輩出した名家だ。数代前の国王は当時のマルセリオ家の当主に王女を降嫁させており、つまり彼女には王族の血も流れている。まさに家柄も血筋も、未来の王妃として申し分ないというわけだ。けれど祖父は娘の気が弱く、大人しそうなところを最も気に入ったに違いない。祖父のアルバカーキは、口ごたえされることが何より嫌いなのだ。
臣下から礼をされるたび『ありがとう』と繰り返す婚約者は、まるでからくり人形のようだ。心の片隅にあった婚約者への淡い期待を、幼いルトヴィアスは早くも丸めて捨てることにした。結婚したところで、話し相手にすらならないだろう。政略結婚なんてそんなものだ、と。
「国境まで宰相閣下とご令嬢がお迎えにこられるそうです」
20歳になり帰国することになったルトヴィアスは、皇国まで迎えに来た母国の大使にそう聞いて、内心舌打ちした。
――…面倒だな。
ろくに話したこともない婚約者。
この10年、手紙のやりとりさえしなかった。もっとも、母国との手紙のやりとりは皇国に制限されていたので、仕方がないのだが。
会ったのは婚約式での一回のみ。ルトヴィアスは婚約者である宰相令嬢の顔を、正直あやふやにしか覚えておらず、親しみなどまったく感じていない。
だがルトヴィアスはルードサクシード王家の、ただ一人の王子だ。やがて王太子、そして国王になる身として、跡継ぎたる子供をつくることは重要な責務。その為には宰相令嬢とは良好な関係を築く必要がある。
――…まぁ、そのくらい簡単だ。
ルトヴィアスは自分の顔がすこぶる出来が良いことを自覚しており、そして頭上に飼う猫がたいそう毛並みが良くて、貴婦人方にうけがいいことを知っていた。皇国では既婚未婚問わず、多くのご婦人方に言い寄られ、適当に相手をしなければいけなかったおかげで高貴なご婦人の扱いも熟知している。彼女達は美しいものが大好きで、愚かにも自分もそうだと思いこんでいる。その醜い自尊心を満足させてやればいい。
ましてや世間知らずの宰相令嬢一人、どうとでもなるだろう。
宰相令嬢が、どんなに高飛車だろうが、下品だろうが、愛してると微笑みかけ、それを死ぬまで続ける自信がルトヴィアスにはあった。それが自分にとって、そして婚約者にとっても、本当の意味で幸せな結婚生活ではないことはわかっていたが、所詮は政略結婚だ。
だから、ルトヴィアスはアデラインの前で猫を脱ぐつもりなど、欠片もなかった。
……彼女と再会するまでは。
「おかえりなさいませ」
「留守中苦労をかけました」
頭を下げる宰相に、にこやかに声をかける。
「出迎え礼を言います。どうぞ立って下さい」
居並ぶ貴族達が顔を上げ、そして息を飲むのをルトヴィアスは感じた。
けれどその反応はルトヴィアスにとっては新しいものではない。母親譲りの美しい顔を見て、驚かない者に今まで会ったことがないからだ。
加えて、今日はいつにもまして猫の毛並みを整えている。ご婦人の数人が恋に落ちていてもおかしくない。責任をとるつもりはないが。
馬車に乗り込む段になって、ルトヴィアスは例の宰相令嬢がいないことに気が付いた。宰相と共に、ルトヴィアスを国境で出迎えるはずではなかったのか。
名前はなんだっただろう。 思い出せない。
ルトヴィアスは宰相を振り返ると、にっこりと笑った。
「マルセリオ。あなたの娘はどうしたのですか?」
「は、それが…」
ルードサクシードが誇る冷静沈着な名宰相が、額に冷や汗を浮かべていた。完璧主義の宰相にとって、娘がルトヴィアスを出迎えられなかったことは、大きな失態のようだ。確かに、これは貴族達が大好きな噂話の種になるだろう。
「風に花帽が飛ばされまして…アデラインは帽子を探しに行ったまま…まだ戻らず…」
「…」
――…ああ、そうだ。アデラインだ。
ようやく婚約者の名前をルトヴィアスは思い出した。それにしても何とも間が悪い娘だ。ルトヴィアスは少々同情しながら、周囲を見回した。そして少し離れたところに、遠い面影と重なる少女を見つけた。
派手に着飾る面々の中で、間違い探しのように一人だけ大人しいドレスを着こんだ婚約者。
丁度いい、とルトヴィアスは思った。
未来の夫を出迎え損ねた失態に、きっと彼女はこの場から逃げ出したい思いだろう。それを許し、慰めれば、彼女はたちまちルトヴィアスに心を許すはずだ。ちまちま機嫌をとるより、手っ取り早くていいではないか。
それに、この衆人環視の中で親しく話すルトヴィアスとその婚約者を見れば、不届き者が例の醜聞を引っ張り出してくる防止になるかもしれない。あのことを蒸し返されるのは、もう二度とごめんだ。
ルトヴィアスは立ち尽くす婚約者にまっすぐ歩みより、そして…。
「アデライン…ですよね?」
極上の微笑みを、頬に浮かべた。
まるで、ずっと会いたかった恋人に再会したかのように、ルトヴィアスは目を細める。
「久しぶりですね」
ありがたく思え。これからお前が息絶えるその瞬間まで、夫に愛されている夢を見させてやる。美しい、愛してる、と耳元で囁やかれ有頂天になるお前を、陰でひっそり嘲笑せてくれ。
そんなルトヴィアスの心のうちなど知るよしもなく、婚約者の少女は頬を赤く染め、嬉しそうに微笑み返す―――はずだった。
ポタリ、と雫が落ちた。
一瞬、雨かと思った。けれど違った。
「…………アデライン?……泣いて…いるんですか?」
ルトヴィアスの問いに、彼女は答えない。
そしてルトヴィアスも、重ねて問うことは出来なかった。
婚約者の――…アデラインの見開かれた瞳に溜まった涙が、自らの重さに耐えられず、白い頬を滑り落ちていく。
まるで朝露のように純粋で透明な涙が、彼女の顎からポタリポタリと地に落ちるのに、ルトヴィアスは瞬きも忘れて見いった。
涙が落ちたそこから、小さい波の円が生まれ、その波は徐々に大きく広がりながら、世界の色を塗り替えていく。
それまで立っていた世界が白黒だったのかと思うほど、鮮やかに色づいた世界に、ルトヴィアスは呆然とした。
アデラインは、すでに恋を知っていた。涙を見れば、それは明らかだ。
誰に、など考えるまでもない。 彼女が恋しているのは『ルトヴィアス王子』だ。
会ったのは10年前の一度きり。 たった一度で、アデラインは『ルトヴィアス王子』に恋をしたということか。ルトヴィアスは、心のうちでせせら笑った。
――…会話もろくに出来ない相手に、よく惚れられたものだな。
会話どころか、目もあわなかった。
それで恋が出来るなんて、何てお幸せな娘だ。
その恋は、果たして恋と言えるのだろうか。ルトヴィアスが猫を脱いでも、彼女はルトヴィアスに恋をしていられるのだろうか。いいや、きっと彼女は夢から覚めるように、恋から醒める。
ルトヴィアスの中で、どす黒い感情が渦巻く。
――…何故、俺は苛立ってる?
アデラインが『ルトヴィアス王子』に恋をしているなら、好都合ではないか。それが目的だったはずだ。
なのに、沸々と煮えるこの怒りは一体何だ。
――…俺じゃ、ない。
アデラインが恋しているのは『ルトヴィアス王子』だ。
ルトヴィアスであって、ルトヴィアスではない。ルトヴィアスを見ているようで、彼女はルトヴィアスを見てはいない。
それは彼女に限ったことではなかった。長い間、誰もがルトヴィアスの美しいみてくれに、勝手に夢を抱いて、それをルトヴィアスに押し付けてきた。誰も本当のルトヴィアスに気付くこともなく、知ろうともしない。
ルトヴィアスは、それでかまわなかった。優しく穏やかな、絵に描いたような立派な王子様を人々は求め、ルトヴィアスはそうであろうとした。 そうであらねばと、自らを縛っていたとも言えるが、そもそも本当の自分を知って欲しい相手などいなかったのだ。
けれど…。
――…この女だけは…。
アデラインだけは、嫌だ。
見て欲しい。
まっすぐに、惑わされずに。
「アデライン」
こちらを見ろ。
「アデライン」
俺を見ろ。
けれど俯き続けるアデラインに、ルトヴィアスは…なりふりかまっていられなくなった。
「現実はこれだ、ざまあみろ」
ルトヴィアスは、猫を脱いだ。
アデラインは仰天し、頬をひきつらせる。それを見て、ルトヴィアスは僅かばかりだが溜飲が下がる気がした。
――…そらみろ。
猫を脱いだ途端、彼女の恋は醒めたではないか。そんな恋、恋の数にも入るものか。
きらきらと光る飴玉のようなその恋を、踏み潰せたことがルトヴィアスは嬉しくてたまらなかった。夢見た麗しくて優しい王子様と『めでたしめでたし』になど、誰がさせてやるものか。
けれど、そんな楽しい気分はすぐに薄れる。アデラインがルトヴィアスを恐れて凍りつき…また、俯いたのだ。
――…俺を見ろ。
けれど、彼女は見ない。 アデラインの行為は、ルトヴィアスの怒りを煽った。
よく考えればアデラインが怖がって当たり前の仕打ちをルトヴィアスは彼女にしているのだが、暴走した感情は、ルトヴィアスから冷静な思考を完全に奪い去っていた。 普段は借りてきた猫をかぶって、行儀よく微笑むルトヴィアスだが、本来の彼は感情の自制を得意とする人間ではない。
荒れ狂う感情を、ルトヴィアスはそのままアデラインに叩きつけた。
「お前を見ていると虫酸がはしる」
どうして俺を見ないのだ、と、それは憎悪にも似た感情だった。
…こちらを、向いてほしかった。
どうにかして、向かせたかった。
けれどその方法も、どうして彼女にそうさせたいのか、その理由さえも、ルトヴィアスにはわからない。
考えもしなかった。
吹き出るような怒りを、彼は噛み潰す。
それが、自制が苦手なルトヴィアスの、自分の感情を制御する唯一の方法なのだ。
噛み潰し、飲み込む。 悲鳴をあげる自分の心の痛みなど知らんぷりで。
そうしなければ、10年の人質生活など耐えられなかった―…いや、人質になる前から、彼は自分の心の軋みを無視し続けてきた。
そんなルトヴィアスが、自分が自分自身に嫉妬していることになど、自らの心の複雑な機微に気づけるはずもない。
アデラインの涙で色づいた世界に、彼はただ、戸惑うばかりだった。