ミレーのはなし ③
早朝の床磨きが終わり、朝食を終え、ミレーは走っていた。
僅かな自由時間に、自分の衣類の洗濯をしてしまわなければならない。女官の衣類の洗濯を請け負う下女に金を渡して洗ってもらうことも出来るので、他の仲間はそうしているが、ミレーは節約して家族に仕送りをしたかった。
それに、末の妹のためにも、お金を貯めておきたい。あのままあの街で育てば、妹もいつかミレーと同じような危ない目にあうかもしれない。つてはないが、手に職を持たせてやれば、あの治安が悪い街から抜け出すことが出来るはずだ。縫製か何か、妹が技術を身に付けるための弟子入りの口利き料だけでも、ミレーは何とか用意するつもりだった。ダリアにもう一度頼めば妹も王宮の下女になれるかもしれないが、そこまでダリアに頼るわけにはいかない。
洗濯専用の水場は、人がひしめき合っていて、まだ小さなミレーは押されて洗濯物を抱えたまま右往左往した。
「邪魔だよ」
「ご、ごめんなさい」
洗濯用の大きな桶と洗濯板は水場に備え付けられていたが、数には限りがある。
ミレーは何とか空いた桶と板を確保して、水場から人目につかない垣根の裏にこそこそ移動した。人が多い場所では、目を離した隙に桶と洗濯板を横取りされてしまう。水場から離れていて水をくみにいくのは億劫だが、垣根の裏なら安心して洗濯が出来る。
だがその場所に、今日は先客がいた。
「……え」
ミレーは目を見張る。
栗色の髪に空色の目。
「……ヴァルヴルガ様?」
「え?」
名前を呼ばれ、膝を抱えて座り込んでいたヴァルヴルガが顔を上げる。
勝ち気な目元は、疲れて落ち窪んでいて、頬は少し痩けていた。
ヴァルヴルガは怪訝な顔でミレーを頭のてっぺんから足の先まで眺めると、その硬い表情を少し緩めた。
「どこかで……会ったわね」
「は、はい。あの……廊下で……」
「ああ!私の代わりに性悪女に泥水をかけてくれた子ね!」
ヴァルヴルガは笑った。すると、少し青い目に生気が戻ったように見えた。
ミレーは迷いながらも、ヴァルヴルガに近づき、隣に屈み混む。
「ど、どうかしたんですか?」
「私?ああ、うん。そうね。少し疲れちゃって……あと洗濯をしたかったんだけど……」
込み合う水場を見て諦めたらしい。
ヴァルヴルガは、何かをきつく握りしめていた。手巾らしい。
ミレーはそれを見て首を傾げた。
ヴァルヴルガは、自分で手巾を洗おうとしたのだろうか。
どうして下女に頼まないのだろう。
他の人に見せたり、触らせなくないほど大切な手巾なのだろうか。
「……あの……使います?」
ミレーは持っていた桶と洗濯板を、ヴァルヴルガに差し出した。ヴァルヴルガは、それを見て目を瞬かせる。
「え?」
「どうぞ。洗い物って……その手巾でしょう?」
どんなに丁寧に洗っても、大した時間はかかるまい。ミレーの自由時間も、まだ余裕がある。
ヴァルヴルガは、表情を歪ませた。 青い目から、ポロ、と涙がこぼれる。
ミレーはあわてふためいた。
「あ、あの……っ」
何か悪いことをしただろうか。
「ごめんね。……緊張の糸がきれちゃって」
ヴァルヴルガは声を震わせてそう言うと、俯き、深呼吸した。
そして顔を上げた彼女は、いつもの堂々としたヴァルヴルガだった。
「ありがとう。でも実は洗いかたがわからないの。良ければ洗ってくれない?」
さもあらん。ヴァルヴルガの手は、水仕事など一度もしたことがないというくらい滑らかで美しい。
ミレーは戸惑った。
「でも……大切なものなんじゃ?」
「貴女なら大切に扱ってくれそうだから」
ヴァルヴルガは、ミレーの腕を優しく掴むと掌を上にむかせ、そこへ青い手巾を置いた。
「お願いできる?」
「は、はい」
ミレーはその手巾を握り締める。
「じゃあ……」
と頷いてから、ミレーは困り果てた。
「あの……石鹸が安物なんですが……」
「いいのよ。適当に洗ってちょうだい。何なら石鹸を使わなくてもいいの。勿体ないわ」
ヴァルヴルガはヒラヒラと手を振り、カラカラと笑った。
石鹸を使わないで洗ったことになるのだろうか。ミレーは口元をひきつらせた。
「た、大切な……ものじゃ?」
「大切というか、借り物なの。使ってないから汚れてはいないはずよ」
ヴァルヴルガは曖昧に笑いながら視線を落とす。
「……涙をふけ、て貸してくれたの。私、泣いてなかったのよ?だから返そうとしたんだけど、あの冷血漢、さっさと行っちゃったから返しそびれちゃって」
青い目が、一気に潤む。
また泣くのではと、ミレーは身構えた。
けれど睫毛から涙の一滴が落ちようとしたその瞬間、ヴァルヴルガは瞬いて、雫を散らした。
「……返すには、一応洗った方がいいかなと思ったの。だけど本当に適当でいいわ。出来ればなるべく皺がつくように洗って?」
にっこりと、ヴァルヴルガは無理難題を言ってきた。皺がつくように洗う……これまでの人生、洗濯物に皺がつかないように努力してきたミレーには、逆に難しい。
「は、はあ……」
とりあえず、ミレーは手巾を水に浸して広げた。ヴァルヴルガが言ったとおり、汚れはない。ただずっと握り締めていただろうと思わせる細かな無数の皺がついている。
そして、隅に何かが刺繍されていた。
(……王家の紋章に似てるけど)
弓矢と天馬を象る王家の紋章は、無学なミレーでも知っている。王家の紋章は祝日に掲揚される国旗にも描かれており、王都のいたるところで見ることが出来るからだ。
その王家の紋章が、盾の形の図形の中におさめられている紋章。
(見たことがあるような、ないような……)
使わなくても良いといわれたが、ミレーは持ってきた石鹸をとりだし、泡立てた。
手慣れた洗濯だが、万が一にも生地を傷付けてはいけないと、いつもより少し優しめに扱う。
洗濯板を使い手巾を洗うミレーの手元を見て、ヴァルヴルガが感心した。
「上手いのね」
「小さい頃からやってますから」
「あなた幾つ?」
「もうすぐ12です」
「そう。立派ね」
褒められて、ミレーは内心有頂天だ。
石鹸の優しくて仄かな匂いが、風にのって鼻をくすぐる。
「……返さなきゃ……私は側室になるんだから」
ボソとヴァルヴルガがこぼした。
ミレーはそっとヴァルヴルガの顔を見た。
ヴァルヴルガは何を見るともなしに、虚空をじっと見つめている。
その横顔には、何だか悲愴感が漂っているようにミレーには見えた。
「あ、あの……いじめられてるんですか?」
だから、ヴァルヴルガは疲れた様子なのだろうか。少し痩せたようだし、噂に聞いた側室や側室候補達からの嫌がらせは、彼女をひどく苦しめているのかもしれない。
「そうね」
ヴァルヴルガはあっさり頷いた。
「国王陛下の側室になりたくて王宮に上がった女官はけっこういるの。だから王宮に上がった時から色々と嫌がらせはされてきたわ。あなたが泥水をかけてくれた女とかもそう」
「虫の死骸を部屋の前にばらまかれたとか……」
「ばらまかれたのは部屋の前じゃなくて寝台の上よ。翌朝『よく眠れた?』て言ってきた同僚に敷布ごと返してあげたわ」
「……」
ミレーの想像は、あたらずしも遠からずだったらしい。
ヴァルヴルガは、抱えた膝に頬杖をついた。そして、視線を巡らす。
「嫌がらせなんて平気よ。私は母が早くに死んで、その後父の妻になった人に育てられたんだけど……結構色々されてきたの。だから、教養を身につけて女官になって国王陛下の側室になって王子を生んで、あの家をぶっ潰してやろうって思ってた」
ヴァルヴルガの青い目が、揺れる。
ミレーは手をとめて、それに見いった。
「でも、友達だと……味方だと思ってた同僚が実は裏切ってたことがわかってね。さすがに……ちょっと参っちゃったわ……それに」
「それに?」
「……ううん、いいの」
おそらく一番肝心なことを、ヴァルヴルガは言わずに飲み込んだようだった。
「…………」
ミレーは、泡だらけの手巾を見下ろす。
友人の裏切りに涙を堪えるヴァルヴルガに、『冷血漢』はこの手巾を渡したのだろう。
ミレーは新しい水をくんでくると、それで手巾の泡を綺麗に濯いだ。一度畳んで固く水を搾ると、また開いてぱん、と皺を伸ばした。
「……綺麗に干せば、皺は殆ど消えるはずです」
ヴァルヴルガに、ミレーは手巾を手渡す。
ヴァルヴルガは笑った。
「本当に上手ね。皺がないわ」
「……ごめんなさい」
出来るだけ皺をつけて欲しいというヴァルヴルガの希望には応えられなかった。
「ううん。ありがとう」
ミレーの目を見てそう言うと、ヴァルヴルガは立ち上がる。
「名前を教えてくれる?」
「あ。ミレーです」
「ミレー。色々つまらない話をしてしまってごめんなさい。けれどお陰で心が軽くなりました」
ヴァルヴルガは、その場で片膝を軽く曲げて、ミレーに向かって頭を下げた。指先で少しだけ持ち上げた濃緑の制服が、蝶の羽のようにひらりと揺れる。
優雅な貴婦人の立礼。
「感謝します。ありがとう」
ミレーはまず見とれて、それから舞い上がった。
「そ、そんな……っ」
「私が話したことを内緒にしてくれると嬉しいんだけど」
「勿論です!」
「……不思議ね」
ヴァルヴルガは、膝を伸ばし真っ直ぐ立ち直すと少し困ったように笑った。
「裏切られて……もう誰も信用できないと思ってたのに、あなたのことは信じられる気がするわ」
ヴァルヴルガは、そう言うと手を軽く上げた。
「じゃあ、またね。ミレー」
まるで親しい友人に対する打ち解けた仕草に、ミレーも思わず手を振り返す。
「じ、じゃあ、また……」
相変わらず綺麗な歩き方で、ヴァルヴルガは去っていった。
「……」
結局、『冷血漢』とは……あの手巾を貸してくれたのは、一体誰だったのだろう。
知る由もないと思っていたミレーだが、後日思わぬところで事の真相に辿り着くことになった。
「……ねえ、メルサ。あれ」
「なあに?」
弓矢と天馬が盾におさまる紋章が扉に描かれた馬車を、ミレーは指差した。
ミレーは、貴族達の馬車が止められている場所のすぐ横の回廊の床磨きをしていた。本来は他の班の担当なのだが、その班から病欠が出て応援にきたのだ。
「宰相様の馬車がどうかしたの?」
「宰相?」
「ファニアス・マルセリオ様だよ。知ってるでしょ?」
その人の顔は、ミレーもメルサも知らない。 だが、若くして宰相の任につき、外政、内政においてあらゆる手腕を発揮した名宰相ファニアス・マルセリオの名は、王家の紋章と同様にこの国の誰もが知っている。
「ファニアス……マルセリオ?これはマルセリオ家の紋章?」
「弓矢と天馬は王家の象徴。マルセリオ家は王家を守る盾。間違いないよ。これはマルセリオ家の馬車。それが、どうかしたの?」
「う、ううん」
ミレーは首を振った。
名宰相、と名高いファニアス・マルセリオは、その裏で『冷酷』『血も涙もない』などと恐れられてもいる。
手巾を貸してくれた相手を、ヴァルヴルガは『冷血漢』と呼んだ。もっともその声音には愛情や信頼がこもっていたが……。
(あの青い手巾は、ファニアス・マルセリオ宰相のものだったんだ)
泣きそうだったヴァルヴルガに手巾を貸してくれたのなら、名宰相も噂に聞くほど冷血なわけではないのかもしれない。
「…………」
床を磨く手が止まる。
手巾についていた、握り締めた痕。
『……返さなきゃ……私は側室になるんだから』
ミレーはヴァルヴルガの悲愴な横顔を思い出した。
働いていた娼館で、恋人がいるのに別の男に身請けされていく娼婦が、同じような顔をしていなかったか。
(……もしかして)
とんでもない想像だ。
だが、ミレーは女だ。まだ子供と呼ばれる年だが、娼婦達が食事しながらする色恋の話を、ずっと聞いて育ってきた。 幼いながら鋭敏な女の勘が、とんでもない想像が、真実と大して違わないことを訴えている。
(だから……)
だから、ヴァルヴルガは自分で手巾を洗おうとしたのだ。
誰かに頼むには、あの青い手巾はあまりに大切だった。そして、危険だった。もし手巾の紋章を見られたら、何故宰相の持ち物を持っているのか勘ぐられる。
マルセリオ宰相がヴァルヴルガをどう思っているのかは分からないが、ヴァルヴルガのマルセリオ宰相への気持ちは、ヴァルヴルガの言葉や表情を思い返せばミレーにも簡単に想像がつく。
ヴァルヴルガが『それに』と言いかけ、飲み込んだ言葉が分かる気がした。
彼女は窶れるほどに、恋に疲れていたのだ。
国王の側室になることが決まっている身で、けれど彼女は国王の一番の忠臣に恋をしてしまった。
「ミレー!手を動かしな!」
下女頭に怒鳴られて、呆然としていたミレーは慌てて刷毛を水に浸けた。
(そんなはずない!)
国王の側室候補の女官。国王への忠誠心厚い名宰相。下手をすれば双方が厳しく処罰される事態に発展する。ヴァルヴルガや、マルセリオ宰相がそれに気付かないはずがない。
(……黙っていればいいんだ)
ヴァルヴルガは側室になる。
マルセリオは今まで通り国王に仕える。
(私は、ただ床を磨いていればいい)
それが、あるべき姿だ。




