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第五十一話 魔法の靴

ルトヴィアスからの求婚に、しばらくアデラインは涙が止まらなかった。

その涙も落ち着いた頃、ずっとアデラインを抱きしめていたルトヴィアスが、アデラインの肩を軽く叩いて立ち上がった。

「ルト?」

「少し待ってろ」

ルトヴィアスは部屋から出て行くと、ほどなくして箱を手に戻ってきた。

そしてその箱をアデラインの膝の上に置いた。

黒紅色のその木箱は蓋や側面に花の彫刻が施され、重厚な造りだ。が、見た目に反して、まったく重さはない。片手で持ち上げるには大きすぎるが、両手で持つほど大きくもない。

「…何?」

「誕生日に渡すつもりで用意してた」

誕生日の前日に、ルトヴィアスが『渡したいものがある』と言っていたのを、アデラインは思い出した。

「開けていい?」

「どうぞ」

ルトヴィアスが頷いたので、アデラインは早速蓋に手をかけ、持ち上げる。

「…これ…」

中にあったのは、一足の靴だった。

ただの靴ではない。10年前のアデラインの8才の誕生日に、婚約の証としてルトヴィアスから贈られたあの若葉色の靴だ。繊細な刺繍と光輝くクリスタルのビーズの細工もそのままに、けれど大きさだけが18才のアデラインの足の大きさにあわせたものになっていた。

「ルト。ねえ、これ…」

「………」

ルトヴィアスは額に手をあてて顔を隠している。どうやら照れているらしい。表情を読まれたくない時の彼のこの癖は、本人は無自覚らしいが、アデラインにはわかりやすすぎて、もはや可愛らしく見えてしまう。

――…可愛いなんて言ったら、きっと怒り出すわ…。

込み上げる笑いを噛み殺し、アデラインはルトヴィアスに礼を言う。

「ありがとう。すごく嬉しい。……履いてもいい?」

途端に、ルトヴィアスが手を下した。

「出歩くのは駄目だ。熱がぶり返したらどうする」

「大丈夫よ、ちょっとだけ」

「駄目だ」

「…じゃあ、履くだけ」

アデラインは、上目遣いでルトヴィアスに懇願する。すると、ルトヴィアスは片眉をピクリと上げ、渋い顔をしながら呟いた。

「…その顔に俺が弱いとわかっててやってるんじゃないだろうな…」

「え?弱いって…?」

「履くだけだぞ!歩かないと約束しろ?」

「ええ!約束するわ!」

アデラインが上掛けから足を出すと、ルトヴィアスはその足にそっと靴をはかせてくれた。

輝く靴に、アデラインはうっとりと見とれる。

「…ぴったり」

若葉色の靴は、幼いアデラインにとって魔法の靴だった。靴を履けば、自分にも魔法がかかるのだと信じていた。魔法の靴を履き、金髪の王子様の花嫁になるのだと夢見ていた、愚かな初恋を思いだし、アデラインは目を細める。

夢に恋をして、何て自分は愚かだったのだろう。愚かで、そして純粋だった。

もうあの頃のアデラインではない。夢に恋が出来るほど物知らずではないし、世界がどれほど残酷かを、身をもって知っている。

でも、それは必ずしも不幸な事ではないだろう。何故なら、ルトヴィアスが隣にいるのだから。

「…前のは、じいさんが用意したものだからな」

ルトヴィアスの言葉に、アデラインは靴から顔を上げた。

「じいさんが命令して職人に作らせた。婚約式でお前が履いてるのを見るまで、何色の靴が贈られたのかすら俺は知らなかった」

「そう…」

それも仕方がないだろう。婚約が成立した時、ルトヴィアスは10才、アデラインは8才。王家と国の為の婚約で、そこに個人の意志が入り込む余地などなかったのだから。

「だから…お前に靴を贈りたかった」

ルトヴィアスの碧の瞳が、優しく光って木漏れ日のように瞬いた。

「じいさんも、国も政治も関係なく…俺の意思で、靴を贈りたかった。求婚からやり直したかった」

「……」

アデラインは、もう一度若葉色の靴を目に映した。

幼い頃に贈られた若葉色の靴は、アデラインの足には僅かに大きく、アデラインを傷つけた。

それは自分がその靴を履くに値しない人間だからなのだと、思ったこともある。

けれど今、ルトヴィアスに贈られた靴はアデラインの足にぴったりだった。

――…魔法が…。

本当に、魔法がかかったのかもしれない。こんな幸せ、魔法としか思えない。

「…やっぱり、信じられない…」

「何が?」

アデラインの視界の端で、ルトヴィアスが首をかしげる。

「貴方が…私を好きだなんて…」

夢か魔法か、女神の御慈悲か。残酷な世界には、けれど奇跡も確かに存在するのだ。

「…まだ、そういうことを言うのかお前は…」

舌打ち混じりのルトヴィアスの声に、アデラインは慌てた。

「ち、違うの。信じてないわけじゃなくて、夢みたいだなって…」

弁解するアデラインの唇を軽く押すように、ルトヴィアスが口づけた。

「いい。お前が思い知るまで、俺はお前を愛しぬくだけだ」

「……」

体温がみるみる上がる。首筋がむずむずして、アデラインはそこを手で押さえた。

そこには消えてしまった痕の代わりに、先程ルトヴィアスが落とした新しい口づけの痕がある。

幸せで、でも恥ずかしくて、どうすればいいのかアデラインは分からなかった。

それからしばらく、ルトヴィアスはアデラインの話相手をしてくれていたが、やがてこくりこくりと船をこぎはじめた。

――…眠いのかしら?

部屋に戻って休んだらどうかと、アデラインが言うより先に、ルトヴィアスはアデラインの横にどさりと半身を倒した。

「ルト!?」

驚いて起き上がるアデラインをよそに、規則正しい寝息が聞こえ始める。

「………寝てるの?」

返事は返ってこなかった。すうすうと、気持ち良さそうに眠るその寝顔は、何だかあどけなくて思わず笑ってしまう。

「ルト。私はもう大丈夫だから、部屋で休んで?」

肩を揺するが、ルトヴィアスは起きない。

どうしたものか。このままでは彼が風邪をひく。かといって、以前のように寝台に引っ張りこむわけにもいかない。ミレーや宰相夫人がいつ顔を出すか、わからないのだから。

「ねえ、ルト…」

もう一度肩を揺すろうと手をかけると、扉が鳴って、遠慮がちにミレーが顔を覗かせた。

「ミレー」

「お嬢様!」

起き上がっているアデラインに、ミレーは仰天して駆け寄ってきた。

「起きてはいけません!2日も熱でうなされてらしたんですよ!さあ、早く横になってくださいまし!」

「で、でも…熱は…もう大分下がったみたいなの」

アデラインはおろおろと訴えた。体は大分軽くなったし、ルトヴィアスも微熱だと言っていた。訝しみながらミレーはアデラインの額に手をあて、一転して涙ぐんで喜んだ。

「…よかった…よかったこと…。一時はどうなることかと…」

「心配かけてごめんなさい。ミレー」

「いいえ。ご無事で本当にようございました。湿布をお変えいたしましょうね」

いそいそと用意するミレーを、アデラインは引き止めた。

「待ってミレー。その前にルトを起こさなきゃ。休むならちゃんと部屋で休まないと…」

「…寝台が狭くなりますが…そのまま寝かせてさしあげてください。このところろくに休んでいらっしゃいませんでしたから、ちょっとやそっとじゃ起きないと思います」

「え?」

アデラインの横で眠るルトヴィアスは、アデラインとミレーの会話にも起きる気配がない。

ミレーはふふ、と笑った。

「お嬢様の捜索指揮を自らとって、合間合間にご公務。普段の政務もこなされて…お嬢様が戻られてからは、寝る間を惜しんで付き添ってらっしゃいましたから」

「………」

アデラインはルトヴィアスを改めて見下ろした。目の下の隈や、随分と疲れた様子だったのは、その為か。

「お嬢様が目を覚まされて、ようやく安心なさったんでしょう。何か体に掛けるものをお持ちいたしますね」

「…そうね。お願い」

金の髪を撫でる。幼くみえる寝顔に、愛しさが込み上げた。

「…ありがとう、ルト」

諦めずに、アデラインを追いかけてくれた。

ルトヴィアスがアデラインを諦めてしまっていたら、アデラインがここにいることも、彼と想いが通じることもなかっただろう。

アデラインは、とにかく傷つくまいと、逃げてばかりで、ルトヴィアスと向き合おうとしなかったのだから。

彼がこうまで疲れ果てるほどの価値が、自分にあるとは思えなかった。依然として地味な顔も、貧相な体も、やはりアデラインは好きにはなれない。でも、ルトヴィアスはアデラインを大切にしてくれる。守ってくれる。なのにアデラインが、自分を粗末に扱っていいはずがない。

――…もう少し…自分を好きになってみよう…。

ルトヴィアスが愛してくれた自分を、大切にしたいから。






「ご公務とアデライン様の前以外では、近頃にこりともされません。あれは露骨すぎます」

「ああ!あの聖なる微笑みが偽りだったなんて…」

泣き崩れる女官達に、アデラインは深く同情した。彼女達の絶望感は、アデラインにも覚えがある。

熱が下がり、しばらくして、アデラインはルトヴィアスが、ミレーやアデラインの両親、それから他の女官や侍官達の前でも、猫をかぶるのをやめていることに気が付いた。

宰相夫妻はルトヴィアスが昔からそうだったと言わんばかりに自然に受け入れているが、ミレー達はそうもいかなかったらしい。

「私、あまりもの衝撃に女神様の腕に抱かれたいとまで思いました」

遠い目で言うミレーの姿に、アデラインは数ヵ月前の自らの姿を重ねた。こう聞くと随分大袈裟に聞こえるものだが、当時のアデラインは本気だったので、ミレーの気持ちはよくわかる。

アデラインの体を湯で濡らした布で拭いながらも、女官達のおしゃべりはとまらない。

「誰しも多少の裏表はありますが…あれは詐欺の範疇ですわ!」

「密かに殿下を慕っていたご令嬢の中には寝込んでしまわれた方もいるとか」

「そうでしょうとも。あの清らかな微笑みを心の拠り所にしていた乙女がどれほどいたか」

「間違いなく、涙で王宮の堀の水位が上がりましたわね」

はあ、と女官達は一斉に溜め息を落とす。

ルトヴィアスの変貌は、やはり王宮に激震を走らせたらしい。

オーリオが『外交問題になったら困ります』とルトヴィアスに言ったため、諸外国からの国賓の前ではにこやかにしているようなのだが、御前会議や貴族議会などの対国内の政務では、仏頂面で大臣相手に毒舌を吐きまくっているそうだ。ただその直接的な物言いのおかげで、停滞していた議題がざくざく片付くと、宰相や議長などは喜んでいるという。

ミレー達召し使いに対しても、受け答えが素っ気なくなったものの、横柄な態度をとるわけでも傲然とするわけでもなく、むしろ『雨が降ってきたから窓を閉めたら感謝された』『燭台の蝋燭を交換しただけで、気が利くと褒められた』など、細かい仕事を評価してくれると、相変わらず評判はいい。

にもかかわらず、女官達を落胆させているのは聖人のように神々しい微笑みが、仏頂面にとって代わられたせいであるらしい。

汗ばんだ体を拭いてもらい、新しい夜着に着替えさっぱりしたアデラインは、また体を横に休めた。まだ体が本調子ではないらしく、ずっと起き上がっているとつらい。

「でも…あのね」 

アデラインは、寝台の中から女官達に話しかけた。

「今までが張りつめていただけで、あれが本来のルトなの。皆が戸惑うのもわかるけど…優しかったり、責任感があったり、それは今まで通り変わらないから…皆にも受け入れて欲しいの。お願い」

どうしてルトヴィアスが猫を脱いだのか、アデラインにはわからない。けれどようやく、重い鎧を脱げたのだ。これからは笑いたい時に笑わせてあげたい。

女官達は、それぞれ顔を見合わせた。

「…それは…まぁ…お嬢様がそう言うのでしたら…」

「あの冷たい態度も…悪くありませんし…」

「美形は美形ですものね」

「ちょっと!」

「す、すみません…」

一人の女官が、好奇心に目を輝かせてアデラインににじり寄る。

「お嬢様は殿下が猫をかぶっていたとご存じだったのでしょう?猫をかぶった殿下とかぶらない殿下、どちらの殿下にお心を奪われたのです?」

「………え?」

目を丸くしたアデラインを、女官達は興味津々といった具合で見つめた。逃げるのは無理だ。答えるしかない。

「えっと…」

アデラインは顔を赤くした。

「どっち、と聞かれても…ルトはいつだって優しいし…笑うと目がきらきらして…」

女官達の唖然とした顔に、アデラインは慌てた。何か変なことを言っただろうか。

「あ、あれ…?」

「これが世に言う『のろけ』ですわね!」

「聞きしに勝るすさまじい破壊力!」

「耐えます!耐えて見せます!これくらい耐えられないでは未来の王妃陛下の女官は務まりませんわ―っ!」

この後、女官長が現れなかったら、きっといつまでも女官達の阿鼻叫喚は終わらなかっただろう。

――…でも、本当にどうして猫をぬいだのかしら?

ルトヴィアスの心境に何かあったのだろうか。

アデラインが尋ねると、ルトヴィアスは『べつに』とだけ答えて、言葉をにごしてしまう。

「つまりは余裕が無くなられたのですよ」

教えてくれたのは見舞いにきてくれたビアンカだった。ルトヴィアスが賓客との茶会に出席しているのを見計らって、密かにアデラインを訪ねてくれたのだ。

会うかどうかアデラインは正直迷った。

だがどうしても会いたいと言うビアンカを無下にも出来ず、寝台の上に身を起こして、ビアンカを迎えることにした。

どういった態度をとればいいのか困ったアデラインだが、部屋に入ってきたビアンカは屈託ない様子でルトヴィアスの話題を口にした。『とうとう化けの皮が剥がれましたね』と、愉快そうに。

アデラインは訊き返す。

「余裕がなくなったとは…どういうことです?」

「殿下の猫は…なんといったらいいかしら。自分を守るための…」

「…鎧?」

「ああ、いい例えです!さすがアデライン様」

ビアンカは朗らかにアデラインを讃えた。

「大切な貴女の身が危ないときに自分を守るための鎧を着こむ余裕なんてなかったのですわ」

フフ、と楽しげにビアンカは笑う。

それからビアンカが教えてくれた出来事に、アデラインは目が回りそうだった。

曰く、ルトヴィアスは国王の前でぶちキレて、大臣連中を『ジジイ』呼ばわりし『くたばれ』と罵ったらしい。

「……何故、ビアンカ様はそんなことご存じなんです?」

「我が国の大使様には内々に事情の説明がございましたから。もしもの時の皇帝陛下へのとりなしをリヒャイルド陛下から頼まれました」

「もしも?」

「…3日、と期限をもうけられたそうです。3日でお嬢様を助けられなかった場合、殿下が王位継承権を放棄するので、その承認を皇帝陛下に頂きたいからと」

「え!?」

驚いて、アデラインは身を乗り出した。そんなこと、ルトヴィアスや宰相からは一言も聞いていない。

――…そんなことになっていたなんて…。

アデラインは、ゾッとした。これは後で確認したのだが、アデラインが助け出されたのは、拐われてから3日目の夕方。つまり、期限ぎりぎりだったのだ。きっとアデラインが気に病むからと、誰も教えてくれなかったのだろう。

――…ルト…私のために何てことを…。

嬉しさより、恐怖が先にたった。アデラインのせいで、ルトヴィアスに継承権を捨てさせてしまうところだった。

ルトヴィアスは、弓技大会で刃を向けてきた犯人を自ら締め上げ、そこから得た情報をもとに大臣達の私兵を使ってアデラインの監禁された小屋を捜し、挙げ句に騎士団を自分で率いて犯人のアジトにのりこんだのだという。

「猫なんてむしろかなぐり捨てた、といった様子でしたよ。お嬢様が見つかるまでは、笑顔も殺気だっていましたから」

「…」

アデラインは青ざめた。これまでルトヴィアスを品行方正な王子様だと信じていた者達が、その変貌に仰天し、立太子に異議を唱え始めるのではと心配になったのだ。

だが、アデラインの心の内を汲み取ったビアンカは、心配いらないと笑った。

「確かにジジイ呼ばわりされた大臣の方々は品格がどうのと騒いでいましたし、女官にもショックをうけている者は多かったようです。実際、リヒャイルド陛下へ殿下の立太子を疑問視する上奏文も提出されたそうですが、宰相閣下やリオハーシュ大臣が中心となって、上奏文を棄却させたとか」

「リオハーシュ大臣が?」

リオハーシュ夫人の夫は、国庫の財務管理に秀でてはいるが夫人同様浮世離れしたところがあって、権力争いとは関わりたがらない人物だ。そんな彼が動いてくれたということは、きっと夫人が何かしら働きかけてくれたのかもしれない。

「それに今回直接殿下の指揮下で動いた騎士団を中心に、むしろ強力な支持者は増えたようです。大臣達の私兵の中にも、殿下に心酔して騎士団を目指したいと言い出す者もいたと聞きましたし…それだけ、殿下の能力を目の当たりにしたということでしょう。殿方は強さに惹かれずにはいられない生き物ですから」

「では、立太子には…」

「ええ。まずなんの影響もないはずです」

「よかった…」

アデラインは、胸を撫で下ろす。

そんなアデラインを見ていたビアンカが、気遣わしげに目を細めた。

「…本当にご無事で良かった…お体はもう大丈夫なのですか?」

「あ、はい」

アデラインは頷く。

今回アデラインが拐われたことは、国の上層部と極近くに仕えてくれている召し使い達だけが知るところで、一般にはアデラインは流行病で面会謝絶、ということになっている。ルトヴィアスが豹変したのは、アデラインを心配するがゆえだという美談まで、まことしやかに噂されているらしい。当たらずしも遠からじではあるが。

扉が鳴り、ミレーが入ってきた。

「お茶をどうぞ」

円卓に焼き菓子と茶器を並べ、にこやかにミレーは言う。ミレーはアデライン専属の女官として、王家から正式に任命された。女官の制服を着て部屋から出ていくミレーは、胸をはって嬉しそうだ。

ビアンカは、ミレーがいれてくれたお茶を一口飲むと、茶杯を円卓に置き、アデラインに向き直った。

「今日は…アデライン様に謝りたくて参りました。…私が何者か、お気づきですよね?」

ビアンカの視線に、アデラインはたじろぎながらも応じる。

「……はい」

「以前申しあげたように、この国に来たのは…昔の恋人の…ルトヴィアス殿下のお姿を遠くから一目見られればと思ったからです。お嬢様と殿下の仲を邪魔するつもりはありませんでした。思いがけずお嬢様と親しくさせて頂いて、本当に感謝しています……私は女友達が少ないので」

「……え?」

ビアンカの告白は意外だった。

美しくて、賢くて、そんなビアンカにはきっと性別問わず友達が多いだろうとアデラインは思っていたのに。

ビアンカは、少しだけ俯いた。

「…面白くもないでしょうが、暇潰しに私の話をきいてくださいませんか?」

彼女の言う通りに、暇潰しにしていいような雰囲気ではない。けれどそれを指摘はせず、アデラインは神妙に頷いた。

「私でよければ」

「ありがとうございます」

ビアンカは一度真顔になると、深呼吸して話し始めた。

「…殿下と私の出会いは…従兄がシヴァの厩舎で下働きをしていて…私の一目惚れでした。あの見た目ですから殿下に言い寄る女は多くて、最初は私も他のご令嬢達と同じくうまくあしらわれていたのですが…殿下は相当私がうざかったようです。ある日、私を睨み殺さんばかりの目でこう言いました…」

ビアンカは、宙に浮かぶ明後日の方角を眺める。

「『近づくなブス』って…」

「………」

ああ、ここにも被害者がいたのか。遠い目のビアンカに、アデラインは何も言ってやれなかった。

ビアンカは明後日を見つめたまま、話を続けた。

「まさか聖人サクシードの生まれ変わりとまで吟われた王子様が猫をかぶっていたなんて…しかも無駄に毛並みが良くて立派な猫…あれは詐欺で訴えたら勝てますね…」

「…それ、そのあとどうしたんですか…?」

「でも、まぁ…べつにかまいませんでしたよ。驚きはしましたけど…そもそも顔が好みだったので」

「…」

あっさり言うビアンカに、アデラインは今度こそ何も言えない。

ビアンカという女性の真髄を垣間見た気がする。ルトヴィアスは別格だが、ビアンカも相当上等な猫をかぶっているようだ。

ふと、ビアンカの頬が懐かしむように緩んだ。

「負けずにまとわりついて、少しずつ、笑ってくれるようになって…」

まるで手のひらにのせた宝物をそっと眺めるような顔だった。けれどすぐに目元が歪む。

「でも、あの方が私を愛していないことは、よくわかっていました」

「……ビアンカ様……」

ビアンカは顔を上げると、痛みを耐えるように微笑んだ。

「殿下からお聞きになりましたか?私のことを」

「…ええ。少し」

アデラインは曖昧に頷いた。

ビアンカを愛してはいなかった――。ルトヴィアスはそう言った。

3年前の婚約解消騒動で、アデラインは深く傷ついた。けれどビアンカも、やはり同じように、いや、もしかしたらアデラインよりずっと深く傷ついたのかもしれない。

「いつか愛してくれるのではないかと、そう思っていました。けれど、一緒にいた2年。あの方が本当の意味で私を見てくれることはありませんでした。こう言うと殿下が悪者のようですが、私もあの方の寂しさにつけこんで散々振り回して…結局は置き去りにしてしまいました。それを謝りたくて…でもきっと責められるだろうと尻込みしていたのですが…逆に謝られました。『悪かった』と。びっくりしました。昔のあの方なら話も聞いてくれなかったと思います。それが…あんな風に真摯に謝ってくれるなんて……」

にっこりと、ビアンカは笑った。

「貴女に恋をして、あの方は変わったんですね」

その笑顔には一欠片の陰りもなく、彼女もまた、苦しい恋から解放されたのだとアデラインは悟り、安堵した。

だが、ルトヴィアスが変わったと言われても、アデラインにはぴんと来ない。彼は警戒心が強いだけで、もともと優しい人だ。

「そんなに以前のルトとは違いますか…?」

「ええ、別人のように変わりました。貴女が変えたんです。お嬢様」

「私は何も…」

アデラインは薄く笑って首を振った。いつだって、アデラインは自分のことで精一杯で、ルトヴィアスのためになるようなことは何一つ出来ていない。

けれどビアンカは引き下がらなかった。

「いいえ!間違いなく貴女の功績ですよ。あの人間嫌いに恋をさせたんですから。お気づきじゃないのですか?一睨みで人を殺せるあの方が、お嬢様の前ではそれこそ借りてきた猫のように大人しいわ」

「やだ、ビアンカ様ったら」

「ふふ」

二人は肩を揺らして笑いあった。

ビアンカと、こんなふうにまた笑えるなんて思わなかった。やはり、彼女と話をしていると楽しい。貴重な友人をなくさずにすんだことを、アデラインは素直に喜んだ。

「猫といえば、猫を脱いだ殿下は前王陛下のお若い頃によく似ていらっしゃるようですね」

ビアンカの言葉に。アデラインの血液がどくり、と脈打った。

「……え?」

「容姿ではなくて、内面的に……自分が率先して動いて、周りを動かすようなところなんて特に似ていると、大使様が仰られていました。やはりお血筋は争えないと。大使様はお若い頃のアルバカーキ陛下にお会いしたことがあるそうです」

「……似て、ますよね。やっぱり」

「ええ。ですから、前王陛下を今も敬愛している派閥などは遠からず殿下を支持するだろうと…お嬢様?どうなさいました?」

「……」

やっぱり、似ているのだ。ルトヴィアスは、前王アルバカーキに似ている。アデラインの思い過ごしではなかった。

――…前王陛下…。

幼い頃見た、老王の姿を思い出す。

傲慢で冷酷。晩年は暴君と囁かれた前王は、かつては『獅子王』と呼ばれ、馬上姿も凛々しい武断の王として讃えられた。

孫が祖父に似るなど、珍しいことではない。なのに、何故これほど違和感を感じるのだろう。

アデラインの意識の中に、積み木がころりと転がった。

かつて『まさか』と、意識の外に追いやった積み木だ。その積み木が、カツリと積み上がる。

墓前で見せたルトヴィアスの母・リーナへの侮蔑。

彼は、両親の前でさえ猫をかぶっていた。

そして、リヒャイルドに愛されることを、諦めているような口ぶり。

むしろ愛されることへの遠慮…いや、罪悪感と呼んでもいいかもしれない。

カツカツと、積み木は高く積み上がる。

――…ルトの…猫をかぶっている時の笑い方…。

穏やかな微笑み方が、リヒャイルドによく似ていると思ったことがある。あれは…。

――…ルトは、猫をかぶっていたわけではなかったんだ…。

いや、最初のきっかけは、祖父の過剰な教育から逃れるためのすべだったのかもしれない。大人しく、従順に、それだけがルトヴィアスが自分を守るすべだったのだから。

――…でも、本当は…。

最後の積み木が積み上がり、出来上がった、その歪で悲しい形に、アデラインは呆然とする。

――…ルト…。

アデラインに『卑下するな』と言っていた彼が、本当は誰より自分を卑下していたのではないだろうか。自らを嫌って、蔑んで、軽んじていたのではないだろうか。

「お嬢様?」

「え?あ…」

ビアンカの存在を、すっかり忘れていた。慌てて、アデラインは笑顔を取り繕う。

「す、すみません…」

「いいえ、私の長い話に付き合わせてしまって、お疲れでしょう?私は下がらせて頂きますので、どうぞ休んで下さい」

ビアンカはそう言うと立ち上がった。数歩下がり、でも立ち止まる。

「…私」

窓の外を見ながら、まるで独り言のように、ビアンカは言葉を落とした。

「私…次に恋をするときは、アデライン様のような恋をします」

「私のような…ですか?」

どういう意味なのだろうとアデラインがとまどっていると、ビアンカはアデラインと目を合わせて優しく微笑んだ。

「相手が大切にしているものを、一緒に大切にして…そしてきっと、恋した相手を幸せにしてみせます」

少し開けていた窓の隙間から風が入り、ビアンカの黒髪を揺らす。

ビアンカは膝を少し折って礼をとると、別れの挨拶もなく、そのまま部屋から出て行った。

その姿を、アデラインはやはり何も言わずに見送る。

貴重で大切な友人。けれど、おそらく彼女とは二度と会うことはないだろうと、アデラインは何とはなしに感じていた。

そして次の日の朝。

「そう…ビアンカ様が…」

「はい。体調が思わしくないからと、夜が明けるうちにご帰国なさいました」

アデラインは見舞いに来てくれたオーリオから、ビアンカの帰国を知らされた。

――…どうぞお元気で……。

遠い地で、ビアンカが幸せな恋を見つけられることを、アデラインは心から願った。

「ところでお加減はいかがなのです?起きていていいのですか?」

心配げなオーリオに、アデラインは寝台の上から笑顔を返した。

「ええ。大丈夫よ」

本当はもう歩いても大丈夫なのだが、ルトヴィアスやミレーが寝台から出してくれないのだ。

「忙しいのに来てくれてありがとう、オーリオ」

「とんでもございません。お顔を見て安堵いたしました」

オーリオが静かに微笑んだ。この従兄にもどれほど心配をかけたことだろう。迷惑ばかりかけて、心苦しいばかりだ。いつか彼にも何か恩返しができればいいのだが。

「リオハーシュ夫人も心配されていましたよ。落ち着いたら部屋に招いて差し上げて下さい」

「ええ。そうするわ」

ルトヴィアスが王太子に相応しくないという上奏文を棄却してくれたことについても、リオハーシュ夫人にはお礼を言わなければならない。

「…………ねぇ、オーリオ」

アデラインは少し迷いながらも、思い切って従兄に尋ねてみることにした。

「はい?」

「訊きたいことがあるのだけれど…」

オーリオが、小さく首を傾げた。



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