第五話 初恋の残骸
「―――私の婚約者は、私の帰りを泣くほど喜んでくれているようです」
自分に向けたものにしては、やや不自然な言い回しのその言葉に、アデラインは自分が置かれた状況をやっと思い出した。留学から帰った王子を出迎える貴族の面々とその従者達。そしてそれを見物しに来た付近に住む多くの住民。その全ての注目が、今アデラインとルトヴィアス王子に注がれている。
ルトヴィアスの言葉は、彼らに向けられて言われたものだ。
再会の喜びも、涙も、一気にふっとんだ。
「あ…あの…」
状況をどう収拾したらいいかわからず、アデラインは慌てふためいた。
人目もはばからず泣くなど、王子殿下の前でなんて醜態をさらしてしまったのだろう。
だって、と混乱するアデラインは誰にともなく言い訳をした。まさかルトヴィアス王子が、こんなに優しく笑いかけてくれるなんて、夢にも思わなかったのだ。
だから思わず泣いてしまったが、泣いている娘の扱いにさぞかし王子は苦慮しただろう。それに、興味津々の衆人環視にさらされて、さぞかし不快な思いをしたに違いない。
「もっ…申し訳ございません。わ、私、きゃっ」
ぶわっと、体が浮き上がる感覚。
どこからともなく、若い婦人の黄色い声が交差した。
「…え」
視線の高さがいつもと違うのは何故だろう。
「宰相、アデラインは私の馬車に乗せますが、かまいませんね?」
輝くような微笑みが、アデラインが見上げる、すぐ、そこにあるのは何故だろう。
アデラインは今度こそ、状況が把握出来ない。
ルトヴィアス王子の背後に控えるように立っていた父親の頬を、異常な量の汗が滴り落ちていた。
「し、しかし殿下のお手を煩わしては…」
「心配は無用です。アデラインは蝶のように軽いですから」
アデラインはようやく自らの置かれた状況を理解した。
「で、殿下っ!」
思わず上擦った声をあげる。
「殿下!わ、私歩けます!歩きます!」
けれどその体はルトヴィアス王子の両腕に抱え上げられたまま移動している。
「殿下っ!私…!」
「じっとして、つかまっていなさい」
耳元で囁かれた美声に、アデラインは瞬時に沸騰する。
王子はアデラインを下ろすつもりはないようだった。
強引に下りることも出来ず、かと言って、言われるままに、王子の首に手を回すことも出来ず、アデラインは不自然に固まったまま王子に運搬される。
真っ直ぐ前を見据えて歩く王子の、その横顔が眩しすぎて直視出来ない。
鏡は見ていないが、間違いなく林檎より赤い顔をしているだろう自らの顔を、アデラインは持っていた小さな
手提げ袋で必死に隠した。口から飛び出しそうな心臓は、呼吸を止めることで何とか喉に留めている。御者が、恭しく頭を垂れて馬車の扉を開けた。王子は長身を屈めるとようやくアデラインを地に下ろし、その手をとって背後を振り返った。
「では王宮で」
出迎えた人々に穏やかに微笑むと踵を返し、手でアデラインに先に馬車に乗るよう促した。拒否など出来るわけもなく、アデラインは見守る衆人から逃げるように馬車に乗り込む。次いでルトヴィアス王子が乗り込み、扉が閉まった。そうして、ややあってから馬車はゆっくり動き出す。
衆人の無遠慮な視線から解放され、ほっとするのも束の間、ルトヴィアス王子と2人きりの狭い空間である。アデラインの紅潮していた顔は、一転して青ざめた。
ガタガタ揺れる車内で、向かいあって座ったまま、王子は何も話さない。アデラインには、王子の表情を窺う勇気は持ち合わせていなかった。顔さえ上げられず、体は硬直して、全く予想していなかった状況に恐れおののくばかりだ。
俯いたまま、アデラインはオロオロと考えを巡らす。
王子は無言で、どう考えても上機嫌ではない。
あんなふうに泣くなんて、きっと煩わしい娘と思っただろう。
公衆の面前で泣くなど、公人としては有り得ない。アデラインはやがて王妃になる身として、とんでもない失敗をした。そしてその尻拭いを、王子にさせてしまったのだ。
謝らなければ、とようやくそこに思い至るも、混乱状態のアデラインの脳みそは、もはや収拾がつかなくなっていた。
何から謝ればいいのだろう?泣いてしまったことからか?貴重な労力を使わせたことか?
「アデライン」
そもそも自分なんかが婚約者でよかったのだろうか。けれどそれはアデラインが生まれる前に前王と宰相の間で決められたことだ。
「アデライン?」
むしろ生まれてきたことを謝罪すべきなのかもしれない。 生まれてきて申し訳…。
「俺を無視するとはいい度胸だな。お前」
暴走した思考が、ピタリと停まる。
今の声は、誰の声だろう。
この馬車に乗っているのはアデラインとルトヴィアス王子の2人。アデラインでないなら、ルトヴィアス王子の声だということになるが、聞こえてきた声は穏やかで品行方正なルトヴィアス王子のものとはおおよそ思えないものだった。冷たく、鋭い、まるで刃のような…。
気のせいだったのだろうか。
アデラインは恐る恐る、目線を上げる。
正面に座すルトヴィアス王子は、長い足を組み、静かな表情で窓の外を眺めていた。それがまた何とも絵画のように美しくて、アデラインはまたぽぉっと見惚れる。しかし次の瞬間…。
「あんな場所で泣く気がしれない。お前、王族になる自覚が足りないんじゃないのか?」
気のせいでは、ない。言葉の端々に刺々しさを感じる言い回しは、酷く冷徹だ。しかしそれらがすべて、目の前のルトヴィアス王子の整った唇から発せられている。
アデラインは皿のように目を丸くした。凍りついた思考は、なかなか回復しない。しかし異常事態は更に進行する。
ルトヴィアス王子は不機嫌そうにわしゃわしゃと前髪を掻き乱すと、まぁいい、とボソッと一人言ちた。
「あそこまですれば、俺達の不仲説も吹っ飛ぶだろうし」
窓枠に肘をつき、王子はようやくアデラインに目を合わせた。
「災い転じてってやつか」
ニヤリと笑ったその顔は野性味が溢れ、馬車に乗る前のあの神聖な微笑みがたたえられた顔と同じとは、到底思えない。
――…どういうこと?
アデラインの頭の中は崩壊寸前だった。
優しくて、穏やかな、アデラインが恋する『王子様』はどこへ行ったのだ。
アデラインが気付かぬ間に、王子は誰かと入れ替わったのだろうか。何か魔物の類が乗り移ったのかもしれない。それとも…。
「…あの…」
おずおずと、アデラインは尋ねてみた。
「何だ?」
ルトヴィアス王子は肘をついたまま、聞き返してきた。
アデラインは、ゆっくり言葉を絞り出した。
「長旅で…お疲れで…熱とか…」
「熱?あるように見えるか?」
眉をひそめたルトヴィアス王子は、組んでいた足を解くと、片方を椅子へ持ち上げる。その様子は、アデラインが17年の人生で出会った誰よりも粗雑で、荒々しい。
目の前の人物はいったい誰だ。アデラインのあいた口は塞がらない。目は皿の形のままで形状維持されてしまった。
「何だ?その顔」
ぷっ、とルトヴィアス王子が吹き出す。
「ああ、そうか。さっきのな。さっきのアレ。アレは猫だから。」
「…ね、猫?」
「そう。猫。」
クックッと、それは楽しそうに、ルトヴィアス王子は笑った。
「…ずっと…猫をかぶって、いらっしゃられたのですか?」
「残念だったな」
何が、と尋ねるより早く、王子の手が伸びて、アデラインの顎を乱暴に引き寄せる。痛みにアデラインは顔をしかめたが、彼の手は緩まない。
息づかいがわかるほど近くに寄ったルトヴィアス王子の顔はやはり美しく、けれどその微笑みは凍てつくほど冷たかった。
「で、んか…?」
「俺のちょっとばかり立派な見てくれから、さぞやご立派な聖人君子だろうと夢を膨らませてたか?」
「そんな…」
否定しかけて、アデラインは口をつぐんだ
否定は出来ない。
幼い日から10年。神話の中から出てきたようなそれは美しい王子に恋焦がれ続けた日々。才気煥発、優美巧妙、天馬に乗る姿は、まさに神代の聖サクシードの再来だと王子を誉めそやす周囲の言うことを、アデラインは真に受けて期待を膨らませてきた。
「だが現実はこれだ。ざまあみろ」
ルトヴィアス王子の唇が歪み、アデラインを嘲る。
その壮絶な美しさ。
悪魔だ、とアデラインは思った。
人間を惑わし、堕落させ、それを見て高笑いする恐ろしい悪魔。
ルトヴィアス王子は突き飛ばすようにして、アデラインから手を離した。
狭い馬車の中、アデラインは背中を軽く打ち付ける。
骨が砕けた、と思った。
痛かったからではない。
アデラインの中で、何かが粉々に割れるような、そんな感覚がしたのだ。そして全身から力が抜けていく。
理想を絵にしたような完璧な王子。それがすべて虚像だとも知らず心を寄せていたなんて。
呆然とするアデラインが顔を上げると、氷の微笑みは消え失せ、その碧の瞳は業火のように燃え上がっていた。まるで憎しみのように激しい感情の渦に、アデラインは震え上がる。
「お前を見ていると虫酸が走る」
嫌悪感を鋭く纏った言葉が、アデラインの胸を貫いた。心から、ドロリと血が流れる。
ルトヴィアス王子はそれを見届けると、座席に座り直し、まるでアデラインなど忘れてしまったかのように、また窓の外を眺め始めた。
その横顔は冬の湖のように静かで、地獄の業火の片鱗さえもない。
悪い夢でも見たのだと、アデラインは錯覚してしまいそうだった。
――…これも失恋と言うのかしら。
いや、失恋なら3年前に既に味わった。今粉々に砕かれたのはその残骸なのかもしれない。
涙さえも出ない。
王室専用の豪華な馬車の車内は、まるで世界の終末を迎えたように静まり返った。