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第四十五話 婚約解消

部屋に戻るとどっと力が抜けて、その場にへたりこんだ。

「お嬢様!」

駆け寄ってきたミレーに支えられ、なんとか椅子まで辿り着いたが、アデラインはもう一歩も歩ける気がしなかった。

「一体何があったのです!?」

「殿下が賊に襲われたのです」

デオがミレーに、弓技会であったことをかいつまんで説明する。

「まぁ、何てことかしら…。けれど殿下がご無事で良かったこと」

「お嬢様はひどく驚かれたようで…後をお願いします。何かありましたら、私は外にいますので」

「ええ。ありがとう、デオ」

デオが部屋から出ていく時も、アデラインは見送りさえ出来なかった。

頭の中には、剣を持ったビアンカの姿と、ルトヴィアスの『ビビ!』という叫び声が、代わる代わる渦巻いている。

今から思えば、何故気付かなかったのだろう。

ビアンカが言っていたルードサクシード出身の恋人とは、ルトヴィアスのことだったのだろうし、シヴァの厩舎の近くにビアンカがいたのは、ルトヴィアスを待っていたのだろう。

ビアンカの流暢な口調を思いだし、アデラインの目元に涙が滲んだ。

「お嬢様?どうなさいました?」

「……」

心配するミレーに、返事をすることさえ出来ない。

ビアンカが通訳官を務められるまでにルードサクシードの言葉を操れるようになったのは、ルトヴィアスが言葉を教えたからなのだ。ルトヴィアスは、どんな思いでビアンカに言葉を教えたのだろう。いつか母国に連れて帰るために、彼女を王妃にするために教えたに違いない。

叫びだしたい衝動を、アデラインは必死に堪えた。けれどあふれだす涙はどうしようもない。

「お嬢様。よっぽど恐ろしかったのですね。もうご心配いりませんよ」

「ミレー…あの件…」

「え?」

「人探しの件…もう、いいわ」

「…よろしいのですか?」

「ええ、見つかったから」

ミレーの顔色がかわった。

「…なんと仰いました?」

「もう、いいの」

「お嬢様!」

コンコンと扉が鳴り、デオの声がした。

「殿下がお見えです」

「だめ!!」

思わず叫んだアデラインに、ミレーが狼狽えた。

「お嬢様?ですが…」

「入ってこないで!」

もう一度叫んで立ち上がると、アデラインは扉でつづく隣の部屋に飛び込んだ。

「お嬢様!?」

寝所であるその部屋の扉を、アデラインは内側から力いっぱい閉める。

「お嬢様!どうなさったんです!」

「入ってこないで!一人にして!」

涙がどうしてもとまらない。今ルトヴィアスに会ったら、何を言ってしまうかわからない。

「ミレー、はずしてくれますか」

扉のむこうで聞こえた声に、アデラインは凍りついた。扉で隔てたすぐそこに、ルトヴィアスがいる。

「かしこまりました…」

ミレーが戸惑いながらも、遠ざかっていく気配がした。

「…っだめよ!ミレー!行かないで!」

アデラインの必死な叫びもむなしく、ミレーの靴音は遠ざかり、扉の閉まる音がした。ミレーは出ていってしまったようだ。

――…どうしよう…。

扉が開かないようにしっかりと両手で押さえながら、アデラインはおろおろと逃げ道を探すが、勿論どこにもそんなものは見つからない。

「…あけてくれ」

静かな声に、アデラインは慄き、首を振った。

「…っい、いや!」

「アデライン」

「お願いだから…っ」

もう少し時間が欲しい。そうしたら、冷静に、落ち着いて、妃らしいふるまいができる。

でも今のアデラインは、ただの嫉妬に狂った女だ。きっと、とんでもないことを言い出してしまう。ビアンカを貶め、ルトヴィアスを責めたててしまう。

――…落ち着いて、落ち着いて。

呼吸を整えようとしても上手くいかない。喉が重苦しくて、涙があふれ出る。

「アデライン?泣いているのか?」

「…っ」

ルトヴィアスのこの言葉を、聞いたのは何度目だったか…。

この先何度繰り返すのだろう。何度、こんな胸が潰れるような思いを繰り返すのだろう。

――…もう、いや…。

苦しむのは、嫌だ。何より、ルトヴィアスの幸せを願えない自分が、殺してしまいたいほど憎い。

「私…」

唇が、震えた。取り返しのつかないことを、言おうとしている自覚はある。けれど、喉で音になった言葉を、飲み込もうとは思えなかった。

「私、貴方と結婚できない」

涙が、止まった。

――…ああ、私…。

ずっとこう言いたかったのだと、アデラインは悟った。肩から重荷が降りた気がする。ずっとずっと、重くて重くてたまらなかった。けれど、ルトヴィアスの傍にいたいがために、背負い続けていたそれを――愛されていないのに、結婚しなければならない義務を、ようやくアデラインは降ろす覚悟が出来た。そして、一度下ろしたそれは、もう二度と抱え上げることは出来ない、

「……どういうことだ?」

ルトヴィアスの声が、低くなった気がした。現実ではないような、浮遊感がする。ぼんやりと、アデラインは答えた。

「婚約を…解消して」

不思議だった。その言葉をルトヴィアスに言われるのが、ずっと怖くてたまらなかったはずなのに、今その言葉を、ルトヴィアスを相手に口にしているのはアデラインの方なのだ。

「…理由は?」

尋ねるルトヴィアスの声が、かすかに震えている気がしたが、アデラインは気にしなかった。結婚式は数日後だ。今更婚約解消など、大騒ぎになるのは目に見えている。ルトヴィアスはそれが恐ろしいのだろう。

「…理由…?」

「何故、突然そんなことを言い出すんだ?理由があるだろう?」

「……」

理由は、ある。ルトヴィアスに愛されないのがつらいからだ。愛されずに結婚して、ビアンカを愛し続けるルトヴィアスを、誰より傍で見続けることに耐えられないからだ。

――…そんなこと…言えない。

そんなことを言えば、アデラインがルトヴィアスに恋をしているとばれてしまう。アデラインの気持ちがルトヴィアスに知れれば、きっと彼はビアンカを遠ざけてしまうだろう。分不相応な立場と地位を与えられた婚約者を憐れんで、自分の幸せよりも、アデラインの気持ちを優先しようとする。もう、そんな憐れみには堪えられない。愛がないなら、アデラインに優しくしないでほしい。抱きしめないで欲しい。もう、笑いかけないで欲しい。

「…ビアンカのせいか?」

「え?」

「もう、気づいているんだろう?ビアンカが俺の……恋人だったんだと」

「……っ」

突きつけられた真実に、アデラインの潰れた胸から、新たに血が噴き出した。わかっていたことなのに、ルトヴィアスの口から直接言われるだけで、痛みは例えようのないほど膨れ上がる。

「だから、婚約解消なんて言い出したのか?俺がお前をないがしろにするとでも思って?」

そんなことは、心配したことがない。きっと彼は、愛していない妻でも、愛している側室と同じように大切に扱うだろう。それが嫌なのだと、どう言えばルトヴィアスに伝わるだろう。

――…でも、もう…伝える必要もないわ…。

婚約は解消するのだから。

「…聞け」

扉の向こうから聞こえる声から、苛立ちを感じた。ルトヴィアスは懸命に、己の感情を抑えている。

「すぐに話さなかったことは…悪かった。すまない。だが、俺とビアンカはもう何でもないんだ。それでもビアンカのことが気になるなら……」

「ルト。もう、いいの」

「…アデライン?」

アデラインに対する苛立ちを、無理に抑えようとしなくていい。ビアンカへの想いを、噛み殺さなくていい。もう、いいのだ。ルトヴィアスには、心のままに愛する人と手を繋いで欲しい。それを心の底から祝福できない自分は消えるべきだ。

――…ああ、あの花…。

金英花の花言葉を、ルトヴィアスは知っていたに違いない。

だからアデラインに贈ったのだ。

ビアンカを、忘れられないから…。その想いが消えないから、それをアデラインに理解してほしくて。

「父にお願いして…ビアンカ様をマルセリオ家の…養女にしてもらうわ」

「…何だと?」

「大丈夫。結婚式までには手続きもすませるようにするから…」

そうすれば、ルトヴィアスとマルセリオ家の娘が結婚するという体裁は整う。婚礼も予定通り挙げられるし、ルードサクシード国内の政治均衡も保たれる。父はきっと怒り狂って大反対するだろうが、アデラインが額を土に擦り付けて頼み込めば、きっとわかってくれる。

――…貴方のために私が出来るのは…もうそれだけだから…。

「…そこまでするほど…」

ルトヴィアスの声音に、アデラインは顔を上げた。何故、そんなに暗い声をしているのだろう

「…ルト?」

「…そこまでするほど…俺と結婚するのが嫌か?」

その言葉は、湖面に投げられた石のように、アデラインの心に波紋を描いた。止まったはずの涙が、ポロリと目尻から落ちる。

――…嫌な、はずがない…。

嫌なわけがない。ルトヴィアスの花嫁になることが、幼い頃からのアデラインの夢だった。でもそれは、ただルトヴィアスの隣で、純白の衣装を身に付けて、にっこり笑いたいという意味ではない。

――…私はただ、愛されたかった…。

ルトヴィアスが愛してさえくれれば、王妃の地位などいらない。人々の祝福も、命さえいらない。

涙を飲み込んで、アデラインは言葉を振り絞る。

「……嫌も…何も…」

顎からぽたぽたと滴ったアデラインの感情は、床に小さな小さな水溜まりをつくっていく。

「…私達、政略結婚じゃない」

愛など、必要ないのだ。なのに、求めたアデラインが悪い。これはすべてアデラインの自業自得だ。ルトヴィアスに恋さえしなければ、すべてうまくいったのに。恋さえしなければ、傍にいられたのに。

「…開けろ」

どん、と扉が鳴った。

「い、いや…」

アデラインは首を振る。ルトヴィアスの顔を見るのが恐ろしかった。これ以上、彼を好きになりたくない。

「開けろ!」

どんっ、とより強く、扉が叩かれる。

「…っいや。お願い、来ないで…っ」

「いいから開けろッ!!」

バンッ!

扉を叩きつける衝撃に、アデラインは思わず手を放した。抑えをなくした扉は軋みながらわずかな隙間をゆるし、その隙間に綺麗な指が差し込まれる。

「ル…」

次の瞬間、扉は一気に開かれた。土埃と血に汚れた外套が揺れ、ルトヴィアスがアデラインにむけて踏み出す。その一歩が、アデラインの涙でできた水溜まりを踏みしめた。

――…血?

ビアンカや騎士達が、ルトヴィアスを護ってくれたのだと思っていたのに、どこかに傷を負ったのだろうか。

「…怪我…を…?」

「しょせん、お前にとって俺は政略結婚の相手でしかないんだな」

アデラインの問いかけなど、ルトヴィアスには聞こえていないようだった。

「ル…ト?」

「…無駄なんだな…俺が、どんなに想っても…」

ルトヴィアスが何を言っているのか、アデラインにはわからなかった。

ルトヴィアスは足早にアデラインに近づき、そして後ずさりするアデラインの腕を掴んだ。その力が強くて、アデラインは眉をしかめる。

「いっ…」

揺するようにして上を向かされたアデラインは、目を閉じる暇もなく唇を奪われた。

――…な…に?

ルトヴィアスは一度離れたが、角度を変えて、すぐにより深く口付けてくる。

「や…っ」

アデラインは抵抗したが、細くみえるだけでアデラインよりずっと堅く太い腕はびくともしない。

「……っん…」

手を振り払おうともがくが、ルトヴィアスの指に力が込められアデラインの腕に食い込むだけだ。いつの間にか首の後ろを掴まれており、頭を反らせることさえ出来ない。

「…デライン…」

「…っ」

息継ぎの合間に掠れた声で名前を呼ばれ、背筋がぞくりと甘く痺れた。厚い舌がアデラインの歯列をなぞる。酔いが体に回り始め、アデラインの膝がかくりと力を失う。

「きゃ…」

床に落ちると思いきや、背中に感じたのは柔らかい敷布の感触だった。途端に、アデラインの意識が覚醒する。ルトヴィアスが何をしようとしているのか察したのだ。

「やめて!」

起き上がろうとするが、両手首をそれぞれ耳の横で固定され、肩すら上がらない。

「ルト!」

「…さない」

「お願いはなして…っ」

「手放すものか…っ!」

見上げたルトヴィアスの表情に、アデラインは愕然とする。

――…どうして?

何度も見たことがある。今にも泣きそうな、寂しそうな表情。

アデラインがいうように、ビアンカをマルセリオ家の養女にすれば、ルトヴィアスはビアンカと結婚できる。愛し焦がれた女性を妻に出来るのに、何故、こんなつらそうな顔をするのだろう。

ルトヴィアスの舌がアデラインの首筋を這った。

「…っルト…」

「…まだ消えてないな」

ルトヴィアスが安堵するように言ったのを聞いて、一昨日の夜、その場所に痕をつけられたことをアデラインは思い出した。薄い唇がそこに吸い付き、アデラインは痺れに似た痛みに声をあげる。

「…あっ」

震えが止まらないアデラインの指に、美術品のような長い指が絡まった。

「…めて…やめてル…ん…」

懇願さえも、口づけに飲み込まれてしまう。

このままでは、ルトヴィアスにまた新しい重い枷をはめてしまうことになる。彼はアデラインの為に自らその枷をひきうけようとしているのだ。そんなことはさせられない。

「…っん…いやあ…」

アデラインは腕を振り、足をばたつかせる。だが、全体重をかけているわけではないだろうに、アデラインに覆いかぶさるルトヴィアスの体はどうやっても揺らがない。目尻を伝い、涙が耳を濡らした。

「お願い…っ」

ルトヴィアスは、もうアデラインから解放されていいのだ。解放されるべきなのだ。ようやくアデラインが手を放せたのだから、好きな場所へ飛んでいって、幸せになって欲しい。幸せになって欲しい。幸せになって欲しい。それだけは、本心だから。

「…やめ…やめてルト!」

悲痛な叫びに、ルトヴィアスの手が、止まった。

長い前髪から覗く碧の瞳が揺れて、そこに宿っていた狂気的な熱が一気に冷めていく。

「……ルト…」

「………俺は…」

ふ、とルトヴィアスが唇を震わせる。嗤っているようで、泣いているようでもあった。

「俺は…お前を泣かせてばっかりだな…」

頭を抱えるように、ルトヴィアスは片手で顔を覆う。いつもの、例の癖だ。

「…泣かせたいわけじゃないのに…」

本当に泣いているようなか細い声音に、アデラインは咄嗟に彼へ手を伸ばした。けれどその手は空をきる。アデラインの指がルトヴィアスの髪を撫でる、ほんの僅か前に、彼は膝を立てて起き上がったのだ。

「…すまない」

ぼそりと謝罪して、寝台に横たわるアデラインをそのままに、ルトヴィアスは寝所から、そしてアデラインの部屋から出ていった。ひき止めることも出来ず、見送ることも出来ず、アデラインはぼんやり天蓋を見つめる。

自分でそう望んだのに、ルトヴィアスが去ると堪えがたいほど心が空虚になった。

――…あのまま…ルトのものになってしまえば…。

責任をとるという形で、ルトヴィアスはアデラインを花嫁に迎えただろう。アデラインは彼と結婚できたのだ。でも、何の意味があるのだ。憐れみに変わって、償いのつもりで結婚してもらったところで、結局は同情ではないか。アデラインの欲しいものでは、やはりないのだ。

「…ふっ……う…」

涙が、あふれる。これで、お別れなのだ。ルトヴィアスとは、きっともう会うこともない。慟哭が喉をせり上がったその時。がちゃがちゃと鍵穴を回す音が聞こえた。

「…え?」

アデラインは起き上がる。開けっぱなしになっている寝所の扉をくぐり、部屋を横切り、廊下へ続く扉の取っ手に手をかけ――…。

「……ルト!?」

取っ手が動かない。廊下側から鍵をかけられているのだ。

「ルトなの!?どういうこと!?」

「私の許可なくアデラインを部屋から出さないで下さい」

ルトヴィアスの飼い猫の声が聞こえた。けれどそれは、アデラインに対して発せられたものではなかった。

「ですが殿下…お嬢様の午後の公務のご予定は…」

ミレーの狼狽する声に対して、ルトヴィアスの声は身震いするほど冷たく、平静だ。

「宰相令嬢は体調を崩して寝込んでいる。必要なら私の名前を出してかまいません」

「殿下…ですが…閉じ込めるなんて…」

ミレーの必死の訴えを、ルトヴィアスは聞く気はないようだ。聞き慣れた靴音が、大理石の廊下を遠ざかる。

「あ、あんまりでございます!殿下!」

「ルト!ルト!待って!」

追いすがるミレーの声に重ねて、アデラインも叫んだ。

「ルト!待って!ここから出して!」

バンバンと扉を叩いて訴えるも、ルトヴィアスの足音はやがて聞こえなくなった。

「…うそ…」

先程のルトヴィアスの『すまない』は、これのことだったのだ。

「お嬢様…」

「ミレー?ミレーお願い。ここをあけて!」

「で、ですが…」

ミレーなら合鍵を調達出来るはずだが、やはり王子の命令に逆らうのは畏れ多いようだ。彼女には、前にも一度ルトヴィアスを欺かせている。

「で、殿下に、もう一度お許しを頂けるようにお願いして参ります」

パタパタと、足音が遠ざかる。

扉に手をついたまま、アデラインはその場にずるずると座り込んだ。

――…どうして…こんなことに…?

首筋に、手をあてる。見ることは出来ないが、ルトヴィアスが口づけた痕がそこにあるはすだ。目頭が熱くなり、アデラインは瞼をおろす。

『俺は…お前を泣かせてばっかりだな…』

暗くなった視界に、ルトヴィアスの呟きが落ちてきた。

『…泣かせたいわけじゃないのに…』

何を、一体自分は間違ったのだろう。アデラインだって、ルトヴィアスにあんな顔をさせたかったわけではないのに。

あふれた涙が、また、床に水溜まりをつくった。





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