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第四十三話 王子の謝罪

半年前に15才になったルトヴィアスは、園遊会や夜会などに頻繁に出席するようになった。終戦から5年。まだルードサクシードに対する敵意が強い皇国で、社交の場に出るのは気が進まなかったが、それがルードサクシードと皇国の友好に繋がるのだと、時々顔を見せる母国の外交大使に言われれば、未来の国王としては努力せざるを得ない。

けれど、実際に夜会に顔を出せば、一体何が両国の友好に繋がるのか、ルトヴィアスにはさっぱり分からなかった。『あれがルードサクシードの王子か』と値踏みされるようにジロジロと見られ、好きでもない酒を無理に飲まされ、面白くもない話に楽しんでいるふりをする。しかも、ルトヴィアスの無駄に上等な容姿にやたらと女達が群がって、煩わしくてしかたがない。まるで道化か見世物小屋の孔雀にでもなった気分だ。

――…見下されても馬鹿みたいに笑っているのが友好か? 

そう苛立ちつつも、その夜もルトヴィアスは、頭からすっぽりと猫をかぶって、ある貴族の邸宅で催された夜会に足を運んでいた。

貴婦人方に我先にと押しかけられ、本心ではげんなりしつつ適当に笑顔と世辞をふりまいていたところに、男から声をかけられた。

「これはこれは、ルトヴィアス王子殿下。先日はお相手をしていただいてありがとうございました」

わざとらしいほど丁寧な言い回しで、馴れ馴れしく近付いてくる男に、ルトヴィアスは内心辟易した。

男はルトヴィアスよりいくつか年上で、皇国の高位貴族の嫡子だ。

年が近い為、皇帝から定期的に会う『学友』として紹介されたのだが、実際にはご学友とは程遠い関係である。

男はルトヴィアスの何が気にいらないのか――いや、きっとルトヴィアスがルードサクシードの王子というだけで彼はルトヴィアスを憎んでいるのだ――初めて会った時から、ルトヴィアスに敵意をぶつけてくる。

先日も、数人の友人を連れてルトヴィアスの元を訪れた男は、『王族の男子たる方が剣を扱えないのでは下々に示しがつきません。教えて差し上げますよ』と親切なことを言いながら、模擬剣でルトヴィアスを散々にいたぶった。

剣を持つことを、ルトヴィアスは禁止されている。10歳以来修練もしていないから、剣を持っても基本的ないくつかの型くらいしか出来ない。しかも相手が複数である上に、怪我でもさせてしまえば問題になるだろう高位貴族の子弟であれば、むやみに剣を振ることも出来なかった。とにかくその日も、男は剣の修練とは名ばかりで、仲間たちと寄ってたかってルトヴィアスを殴り、蹴った。――服を着てしまえば見えないところばかりを狙って。

侍官や女官や、その他にも現場を目撃した者はいるはずだが、誰もそれを皇帝には上奏しない。ルトヴィアスも出来ないのだ。模擬ではあっても剣を持ったことが皇国の議会に知れれば、大ごとになる。それに、

たとえ本物ではなくても、剣を触れる数少ない機会。いつか王太子に、国王になった時、剣の握り方すら忘れてしまっていては、ルードサクシードの恥だ。

自分で手当てした腕の打ち傷を、そっと庇いながら、ルトヴィアスは男に親しげに笑って見せた。

「こちらこそ。またの機会を楽しみにしています」

「ご婦人方とドレスの相談ですか?貴方でしたら流行りの小花柄のドレスも着こなしておしまいになるでしょうね」

くっくっと、男はルトヴィアスを小馬鹿にしたように笑う。

――…好きでこの顔に生まれたわけじゃない。

苛立ちを隠して、ルトヴィアスは曖昧に笑いだけを返した。

男は、ルトヴィアスがこんなふうに言われても言い返さないのも、殴られるままになり、しかも皇帝に上奏しないのも、自分を怖がっているからだと思い込んでいるようだった。ルトヴィアスが、ただ外交問題にならないように耐えているだけとも知らずに。

――…馬鹿な男だ…。

ルトヴィアスが敗戦国とはいえ大国の国王にいつかなることを忘れているあたりが、甘やかされてぬくぬくと育った御曹司だ。ルトヴィアスがその気になれば、彼の家は対ルードサクシードの交易の利益から遠ざかることになるというのに。

ルトヴィアスの周りにいた女達が、口々に男を責め立てた。

「まぁ、ルトヴィアス殿下にドレスが似合うなんて、無礼ですわよ」

「そうよ。殿下は私達とお話をしてますのよ。あちらに行ってくださらない?」

「おやおや、失礼いたしました」

嫌みなほど恭しく頭をさげると、男はくるりと体の向きをかえて去っていく。男の隣に、見覚えがある男がいた。先日、ルトヴィアスの背中を模擬剣で打った男だ。

「言い返しもせず、女に庇われて恥ずかしい奴さ。ルードサクシードも堕ちたものだ」

「腰抜けなんだよ。父親の首と引き換えに命乞いするような王が治める国だからな」

わざわざ、ルトヴィアスに聞こえるように言ったようだった。

怒りがこみあげる。何故、馬鹿にされなければならない。国のために苦渋の選択をしたリヒャイルドが、何故腰抜け呼ばわりされなければならないのだ。

「ねぇ、ルトヴィアス殿下。ですからね、ずっと申し上げているじゃないですか」

しなだれかかるように、女はルトヴィアスの腕に、自らの腕を絡める。

「私をもっとお側にあげてくだされば、あんな侮辱させやしませんわ」

「私だって、殿下のお力になれますわ。ねぇ、殿下。お妃にして欲しいなんていいません。殿下がルードサクシードに帰るまで、私と親しくして下さればそれでいいんです」

「………」

強すぎる香水の匂いに、吐き気がした。彼女達は、夫や婚約者がいる。つまり、ルトヴィアスに自分達の愛人になれと言っているのだ。皇国では、後継ぎさえ生まれれば愛人を持つことに寛容な国だ。権力がある男性――あるいは女性の愛人になり、配偶者の出世の助けとすることもあり、それはある意味政治的駆け引きだ。確かに、彼女達の家や配偶者の持つ権力を味方につければ、表だってルトヴィアスを侮辱する輩はいなくなる。けれど、そもそも彼女達が一番ルトヴィアスを侮辱しているのではないか。

――…俺に男娼の真似事をしろと?

ルトヴィアスは立ち上がった。

「殿下?」

「…申し訳ありません。今日は他の方と約束があるのです」

嘘だった。その場から離れたい時に、いつも使う口実だ。

「まぁ、どなたですの?」

女達の機嫌は見る間に急降下する。ルトヴィアスは一人の女の手をとり、その手の甲に軽い口づけをした。

「それは秘密です。ご一緒出来て光栄でした」

にっこりと、ルトヴィアスは笑った。聖人のようなその微笑みに、女達は頬を染める。

「まぁ…」

「殿下を独り占めするなんて…羨ましい方ね」

拗ねたように言う女の手にも口づけを落すと、ルトヴィアスはもう一度だけ微笑んで、そして踵を返す。

誰かに呼び止められないように、足早にその場を後にした。

――…馬鹿にしやがって!

袖で、女達の手に口づけした口を、乱暴に拭う。

今の女達も、さっきの男共も、まとめて殴り倒してやりたい。けれど、ルトヴィアスにそれは許されない。ルトヴィアスの一挙手一投足が、母国にどんな影響を及ぼすかわからないからだ。ただ戦争に負けたというだけで、それだけで、誇りを踏みにじられてもただ堪えるしかない。ルトヴィアスは馬車に飛び乗ると、女達に触られた外套を肩からむしりとり、窓から外に放り投げた。

皇宮の奥にある内宮の一角に、ルトヴィアスの居室はある。本来ならあるべき女官や侍官の出迎えはなく、けれどそれを気にもせず、ルトヴィアスは自ら扉を開けた。

「……またか……」

誰もいない暗い部屋に、舌打ちする。冬だというのに暖炉には火がなく、おまけに窓は全開で部屋は冷えきっている。

ルトヴィアスには、身の回りの世話をする幾人かの女官と侍官がついているが、その全員が身内か友人をルードサクシードとの戦争で亡くしていた。そのせいでか、彼らはルトヴィアスへの地味な嫌がらせを繰り返す。火の気がない暖炉はよくある嫌がらせの一つだ。出迎えがないのは当たり前。呼んでも滅多に来ないし、用事を頼んでも忙しいからと、まともに取り合ってくれない。豪華な食事は、見た目に反して塩辛かったり、完全に冷めていたりすることもあり、スープに虫がはいっていた時は、さすがに絶句したものだ。食事に関しての嫌がらせは、ルトヴィアスが毒見係をつけないこともあり、やや大胆だった。

皇帝に上奏して嫌がらせをやめさせるのは簡単だが、あまりに地味で細かい嫌がらせだ。下手に上奏して、逆にルトヴィアスの方が我儘であるとか神経質であるとか言われるのではないかと、上奏するのを躊躇ううちに5年が過ぎてしまった。

もはや嫌がらせにも慣れ、身の回りの大抵のことは女官達がいなくても自分で出来る。食事は冷たかろうが熱かろうが、毒さえ入っていないのなら味付けなどどうであろうとかまわないし、暖炉に火をいれるのも、もうお手のものだ。大陸広しと言えど、こうまで火打石の扱いに長けた王族は自分くらいだとルトヴィアスは自負している。

けれど、その夜は色々なことが重なって、とにかく疲れていた。部屋が寒いくらいなんだと、常なら鼻で笑ってしまうほど慣れた嫌がらせが、妙に身にこたえる。火打石一つがやたらと重く、腕が持ち上げられない。せめて窓をしめた方が良いと頭では分かっていたが、それもあまりに億劫で動けなかった。火のない暖炉を、ルトヴィアスはじっと見つめた。

――…寒い…。

吐く息は白く、指先が赤くかじかむ。そのまま、息が止まればいいと思った。そうすれば、痛みなど感じずにすむ。

「ルト!」

開け放たれた窓から、ビアンカが顔を出す。

「やだ。また窓あけっぱなし?いいかげん皇帝陛下に言いなさいよ。給金泥棒がいますって」

「……その呼び方、やめろ」

低い声と鋭い眼光で、ルトヴィアスはビアンカを威嚇した。けれどビアンカに怯える様子はない。

「何で?いいじゃないべつに。呼びたいのよ、『ルト』って」

にっと、ビアンカは笑った。

――…この女は…。

いつもそうだ。ルトヴィアスの言うことなど聞かない。最初に会った時からそうだった。『ビビ』と呼べ、私も『ルト』と呼ぶと、勝手にルトヴィアスを愛称で呼び始め、勝手に押しかけ、自分の言いたいことを言う。でもその言葉に偽りや蔑みはなく、世辞や侮辱に慣れてしまったルトヴィアスの耳に、彼女の発する言葉は清々しく聞こえた。

「ルト?」

「…やめろ」

その名で呼ばれると、普段殺し続けている感情が波打つのを感じるのだ。それが嫌だ。帰りたい、助けてほしいと、泣き叫びそうになってしまう。

『ルト』と、ルトヴィアスをその名で呼んでくれた人達とは、今、遠く遠く離れていた。一人はもう会えないほど遠くへ旅立ち、もう一人は、果たしてまた会うことが叶うだろうか。

――…いや…あの人は…俺のことなど待ってないかもしれないな…。

なら、ルトヴィアスを待つ人などこの世のどこにも、もういない。帰りたいと嘆いたところでルトヴィアスに帰る場所などないのだ。

いつのまにか、窓枠を越えて室内に入ってきたビアンカが、ルトヴィアスの頬に手をあてた。

「やだ、冷えきってるじゃない。大丈夫?」

白い息が、口から零れた。

寒くて寒くて、たまらなかった。

けれど、ビアンカの手が触れるそこだけは温かい。その温かさにすがるように、ルトヴィアスはビアンカを抱き締めた。そうしなければ、きっと凍え死んでいただろう。







「何ですって?」

今聞いたことが信じられないと、オーリオの顔には書いてあった。無理もない。従妹を大切にしている彼にとって、今、ルトヴィアスが頼んだことは、その従妹を軽んじ裏切る行為ととられかねないものだ。けれど、彼の協力がどうしても必要だった。ルトヴィアスはもう一度、同じ頼みを口にする。

「ビアンカに会いたい。手筈を整えてくれ」

「何を考えてるんですか!?」

オーリオはルトヴィアスの胸元に掴みかかった。勢いが強く、ルトヴィアスは背後の壁に背中を強かに打ち付ける。誰もオーリオを止めなかった。ルトヴィアスが人払いをしたため、執務室の中には二人きりだったからだ。

「貴方は言ったはずだ!お嬢様を大切にすると!だから私は……なのに、またお嬢様を傷つける気なんですか!?」

「違う!」

痛みに眉を寄せ、ルトヴィアスはオーリオの手を振り払った。

「アデラインを傷つける気はない!ただビアンカと話がしたいだけだ!」

「それをもし女官にでも見られたら!?たちまち噂は広まって、お嬢様の耳に届くんです!」

「だからお前に頼んでる!お前なら誰にも知られないように出来るだろう!?」

「…っ」

オーリオの目に、戸惑いの光が滲む。その光に、ルトヴィアスは懇願した。

「頼む、オーリオ」

婚礼を目前に控えたこの時期に、ルトヴィアスが婚約者以外の女と二人で会っていたとなれば、また世間は騒ぐだろう。以前のようにアデラインを侮辱する輩も出てくるはずだ。そんなことになれば、アデラインがどれほど傷つくか…。だから、オーリオに頼むしかない。オーリオなら、ぬかりなく手回しをしてくれる。

怒りを制御しようと、オーリオは努力しているようだった。目を閉じ、何度か深呼吸を繰り返し、ようやく瞼を上げたオーリオの目は、いつもの冷静な色だった。

「…ビアンカ…様を使節団に加えたことについては、国王陛下と宰相閣下から内々ではありますが厳重に皇国の大使殿に抗議をしてあります」

「…わかっている」

ルトヴィアスは頷いた。

昼食会の後、オーリオに渡された通訳官の名簿の中に『ビアンカ・エムハンブラ』の名前を見つけた。

ビアンカの本来の家名は『オーレン』だ。いや、元々は『エムハンブラ』だったのだが、伯父である皇国の騎士団長に養女に入ったことから、彼女は『オーレン』を名乗っていた。三年前の騒動後に、身を隠す為に元の家名に戻したのかもしれない。オーリオが通訳官の名簿を見て事に気づけたのは、『エムハンブラ』が皇国の騎士団長の母方の家名だという無駄に広い知識を有していたからこそだ。

その後、すぐさまリヒャイルドと宰相を通して皇国側に抗議を申し入れた。新王太子妃への配慮があまりになさすぎる、と。

「つまり…」

ルトヴィアスを見据えるオーリオは、どこか宰相の姿に似ていた。冷酷なほど冷静で、けれど、皮膚のすぐ下に熔岩のような熱い感情を秘めている。

「つまり、貴方がビアンカ様にお会いに行く必要は、もうないということはお分かりですか?それでも行くと言うなら、その理由は何です?」

「…アデラインに、ビアンカのことを話したい」

ルトヴィアスの言葉に、一度は冷静になったオーリオの目が、また燃え上がる。

「馬鹿ですか貴方は!『例の恋人がこの人だ』とわざわざ言う必要がどうしてあるんです!何のために初対面を装ってやり過ごしたんですか!!」

「何も言わなくても、あいつはもう全部わかってる!」

オーリオが息を飲む。

「…どういうことです」

「…もう俺の猫はあいつには通用しない。…あいつは、たぶん全部気づいてる」

ルトヴィアスが苦々しく言うと、オーリオは眉をひそめた。

「そんなはずありません」

三年前の騒動の際、ビアンカの名前は表沙汰にならなかったし、その絵姿なども出回らなかった。ルトヴィアスやビアンカが話さないかぎり、アデラインにはビアンカが『例の恋人』だとは気づかないはず。オーリオはそう言いたいのだろう。けれど、ルトヴィアスは、ゆっくり首を振った。

「何を隠してるかはわからなくても、俺が隠し事をしていることは、あいつにはお見通しだ」

三年ぶりの再会で、ビアンカは初対面のふりをして、ルトヴィアスも咄嗟にその芝居にのった。正直、助かったと思った。卑怯なことは百も承知だ。それでも、過去など知らんぷりでやり過ごせれば、それが一番だと思ってしまった。けれど、完璧だったはずの演技に、アデラインは違和感を抱いた様子だった。

――…いつからだろうな…。

ルトヴィアスの戸惑いや苛立ちや、ルトヴィアスがうまく隠しているはずの心の動きは、アデラインには筒抜けだ。仕草や目の動き、そんな僅かにこぼれた感情の欠片を、彼女はいとも簡単に見つけて拾い上げてしまう

アデラインがそれだけルトヴィアスを見ているということだろうか。そうであれば、嬉しいのだが。

――…だが、こういうときは不便だな…。

ルトヴィアスは自嘲した。何故、ルトヴィアスとビアンカが初対面のふりをするのか。アデラインなら、少し考えればビアンカの正体にいきついてしまうだろう。その時、アデラインはどう思うだろう。

「…俺は…自分が弱いことを…卑怯なことを…ずっと認められなかった」

「………殿下?」

訝しげなオーリオに、ルトヴィアスはもう一度向き直る。

「あの頃は、ああするしかなかったとか、そんな言い訳に逃げるのはやめる。俺は弱くて、そのせいでアデラインを傷付けた。アデラインだけじゃない。ビアンカもだ。アデラインには一生かけて償う。けれどビアンカには、償うことは出来ない。だから…だから、せめて謝りたい」

自己満足だということはわかっている。でも、ビアンカと初対面のふりをしたときに感じたアデラインに対する苦い後ろめたさ。このままではダメだと思った。自分の弱さと向き合わなければ、アデラインの目を見て婚姻の宣誓が出来ない。

ずっと、目を背けてきた。向き合う機会もなかったのだけれど、だからこそ、この機会を逃したくない。

「…わかりました」

オーリオは、大きなため息をこぼした。

「オーリオ…」

「手筈を整えます。それでよろしいのでしょう?」

怒ったように言い捨ててオーリオは部屋から出ていった。









夜も更けて、女官達も寝静まった頃。ルトヴィアスはオーリオに指示されたとおりに、ある部屋にむかった。騎士や侍官達は少し離れた場所に待機させ、途中で合流したオーリオに案内されて、先を急ぐ。ルトヴィアスの執務室に程近いその部屋は、オーリオや他の秘書官が膨大な書類を整理するのによく使うのだと言う。中に入ると、いくつも並んだ机の上に、書類や本が乱雑に重ねられていた。とりあえず片付けた、という具合だ。

「では、少々お待ちください」

軽く頭を下げて、オーリオは扉をしめた。室内を照らすのはたった一つの燭台だけで、隅の方は闇がうずくまったように薄暗い。

皇国にいた頃。自分の部屋がこんなふうに薄暗かったことを、ルトヴィアスはぼんやりと思い出した。ルトヴィアスの部屋の燭台は、何故かいつも油も蝋も切れていた。

コンコン、と扉が叩かれる。ルトヴィアスの返事を待たずに、扉はゆっくりと開いていく。そのむこうにいたのはオーリオではなく、薄い灰色の外套を頭からすっぽりとかぶって、真っ白な顔をしたビアンカだった。

「ビビ…」

思わず呼び慣れた愛称で呼びかけたが、ビアンカから返事はない。薄氷を踏むような足取りで、ビアンカは歩を進め、その背後でパタリと扉が閉まる。

「………」

「………」

何から話し出せばよいのかわからず、ルトヴィアスは口ごもる。

ビアンカは俯いたまま、ぴくりともしなかった。こんな彼女を見るのは初めてだ。ビアンカの笑顔は、ルトヴィアスの薄暗い部屋に灯るたった一つの光だった。

――…けれど……。

結局、その光のような笑顔を彼女から奪ったのはルトヴィアスなのだ。

「…お許しください!」

突然、ビアンカは叫ぶと、ひれ伏しかねない勢いで跪いた。

「ビビ?」

「今回のこと…大使様は反対しておられました。ようやく正常に動き始めたルードサクシードとの国交を破綻させかねないと…けれど皇国内にはいまだ私を利用してルードサクシードの内政に干渉しようという派閥もあり…」

そういうことか、とルトヴィアスは得心した。優れた外交手腕を持つ皇国の大使が、ビアンカを使節団に入れることを承諾したのが不思議だったのだ。

「誓って申し上げます!私は殿下のご婚礼を邪魔するつもりはございません!ただ…」

ビアンカの肩が震えていた。

「ただ…お元気なお姿を…拝見できればと……」

か細い声が、床に落ちる。

彼女は、こんなにも小さかっただろうか。もっと自信に満ちて、胸をはって輝いていたはずだったのに。

ルトヴィアスは、一歩一歩ビアンカに近づき、片膝をついた。

「…ビビ」

「ただそれだけで、私は決して…お、お嬢様に邪な思いで近づいたわけではありません…決して…」

「ビビ」

もう一度、強くその名を呼ぶと、ビアンカはビクリと肩を揺らした。おそるおそるルトヴィアスを見上げる蒼い眼に、ルトヴィアスは笑いかける。うまく笑えず、ぎこちないものになってしまった。

「…元気そうだな」

「……は、は…い」

「今はどうしてる?今も修道院にいるのか?」

「いえ…修道院は……い、居心地が悪く…」

「…居心地が悪い?」

ルトヴィアスは眉をひそめた。ルトヴィアスとの仲が公になり、ビアンカは周囲から孤立した。それも騎士団を退団した一つの要因ではあるのだろうが、逃れた先の修道院でも、ルトヴィアスとの関係が原因で孤立しているということだろうか。

けれど、ビアンカはまた俯き、濁しながらも実情を明かした。

「あの…修道院のような静かな場所は…その…私のような……じゃ、じゃじゃ馬には…ちょっと…」

「…つまり、逃げ出したんだな…」

「…まぁ…」

情けなくも頷くビアンカの様子に、ルトヴィアスは思わず吹き出した。

「…お前、あいかわらずだな」

くくっと笑うルトヴィアスを見て、ビアンカも幾分か緊張がほぐれたようだった。

「…今は…伯父様の紹介で、ある方に私兵として仕えています…」

「困っていることは?」

「ありません」

「なら…よかった…」

再び、室内に静寂が訪れる。その静寂を破っていいものかどうか、ルトヴィアスは迷った。

――…逃げるな。

目を閉じる。瞼にうかぶアデラインの面影。大きく息を吸い込み、吐き出す。

「お前は、俺の救いだった」

驚いたように、ビアンカは顔を上げた。

「あの頃、お前といる時だけ、俺は俺でいることができた」

最初、ビアンカはルトヴィアスの容姿に群がるその他大勢の女達と同列だった。あまりにしつこくまとわりついてくるビアンカを追い払うため、ルトヴィアスはわざと彼女の前で猫を脱いだのだ。ところが、『詐欺だ』『騙された』とひとしきり騒いだ後、ビアンカはけろりと笑った。『まぁ、そもそも顔に惚れたんだし』と。その屈託ない笑顔に、ルトヴィアスは毒気を抜かれた。

「お前の前ではありのままでいられた。お前がいたから俺は…あの日々を生き抜けた」

あの日、目の前にあらわれてくれたビアンカに、ルトヴィアスは感謝するしかない。けれど、今だから思う。いや、今だからわかるのだ。

「でも…わかったんだ」

ビアンカの目が、揺れた。今にも蒼い宝石が溶けて頬に流れだしそうな様は痛々しかったが、ルトヴィアスは目をそらすことなく、真正面からビアンカを見つめた。

「…アデラインに出会って…アデラインを愛して…だからわかった。あれは、お前に対する感情は、恋じゃ…なかった」

アデラインの涙に目を奪われた瞬間。ルトヴィアスの世界は鮮やかに色づいた。そして、それまでの世界が、どれほど寂しく冷たいものだったか、思い知らされたのだ。傾いていく感情に抗ったこともある。けれど、そんなこと無駄だった。本能が、アデラインを求めた。抗いようのない濁流のような感情のうねり。それが恋なのだと、ルトヴィアスは知った。同時に、ふと疑問が頭に浮かぶ。これが恋なら、では三年前のあの恋は、果たして恋だったのだろうかと。

「…俺はお前を愛してた。あの頃は、愛してると思ってた。でも、たぶん違ったんだ。俺は…お前を利用した」

旅人が寒さに堪えるために外套で身をくるむように、ルトヴィアスはビアンカにすがりついた。弱かった。寂しかった。何かにすがらずにはいられなかった。そんな自分の弱さを認めたくなくて、ビアンカと結婚しようとしたのだ。傍にいて欲しいのは、愛しているからだと。だから結婚したいのだと、自分を誤魔化して。弱さから目を背けて。

大陸中で大騒ぎされた『世紀の醜聞』の真相が、これだ。あまりに情けなくて、恥ずかしすぎる。

「…すまない。俺を想ってくれるお前の気持ちにつけこんで、俺は…お前をふりまわして、傷つけて、騎士の称号まで捨てさせた。お前の人生をめちゃくちゃにした」

頭を下げた。祭壇の前で懺悔する罪人のように。

「すまない」

謝ってすむことではないのはわかっている。ビアンカはもう騎士団に戻れないし、この謝罪も、突き詰めればルトヴィアスの自己満足だ。何をしたところで、償いにはならない。なら、ルトヴィアスにはもう、謝るしか出来なかった。

「…やめてよ」

震える声は細く小さく、けれど、かつてのビアンカの口調に戻っていた。

「…謝らなきゃいけないのは…私なんだから」

ペタリと、ビアンカは床に座り込む。そこにあった見えない壁が音もなく崩れ、身分も生まれた国も関係なく、ルトヴィアスを愛してくれた人が、そこにいた。

「ビビ?」

「私、全部気づいてた」

両手で顔を覆って、ビアンカは俯く。

「あんたは寂しいんだって…寂しいから、私に傍にいて欲しがってるんだって…。私じゃなくても…傍にいてくれるなら誰でもいいんだって…。でも私…あんたが欲しかった。好きだった。だから私…あんたと結婚しようと思った。あんたは寂しいから、絶対断らないってわかってた。あんたと結婚して、あんたに大切なものを捨てさせて、そしたらあんたはやっと私のものになるんだって思ってた」

「………」

忘れたくても忘れられない、耳をつんざくような金切り声。

『私を愛してるなら国を捨てて!』

『国よりも王位よりも私を選んで!!』

『どうして出来ないの?私を愛してないの!?』

―――あれはビアンカの悲鳴だったのだ。愛して、と。不実な恋人に対する、悲痛な訴えだったのだ。

「あんたが私の想いにつけこんだというなら、私はあんたの寂しさにつけこんだ。あんたにすべて捨てさせて…国も、王位も、お父様も…婚約者も。そしたら、あんたには私しかいなくなる。私だけになる…」

どれだけ彼女を苦しめたのか、ルトヴィアスはようやくその一片を垣間見た気がした。唇を噛み締める。なんて自分は罪深いことをしたんだろう。どうしてこれだけ愛されていて、ビアンカを愛せなかったのだろう。それでも、ルトヴィアスはアデラインに出会った。アデラインがルトヴィアスを愛していなくても、義務感でしか傍にいてくれなくても、それでもルトヴィアスは、もうアデライン以外を選べない。

「けっこう、私酷いでしょう?」

ビアンカが顔を上げた。頬は濡れていなかったが、けれど笑顔は歪んでいた。

「…私、どんどん醜くなる自分に嫌気がさしたの。だから、別れも言わずに逃げ出した。貴方を置き去りにして…」

ビアンカの左の目から、すうっと涙が落ちた。途端に、出来損ないの笑顔さえもぐしゃりと潰れる。

「ごめん。ごめんね。私と結婚するために、ルトが大変な思いをしているのを見ていたのに、政治的な信用をなくしてしまったことも、非難の矢面に立っているのもわかってたのに、なのに、結局私、貴方を含める全部をほうりだしてしまった。ごめん…ごめんなさ…」

言葉を飲み込むように泣きじゃくるビアンカの肩に、ルトヴィアスは手を伸ばしかけ、やめた。今のビアンカに、ルトヴィアスの優しさは、苦しいだけだ。

「…もう、謝るな」

ルトヴィアスが言うと、突っ伏して泣いていたビアンカは、しゃくりあげながら、顔を上げた。

「…ルト?」

「俺に謝る必要は、もうない。…俺も謝らない。それで、いいか?」

本当は、ビアンカが謝るべきことなど、何一つないのだ。彼女はただ、ルトヴィアスを愛してくれただけだ。けれどこう言わなければ、きっとビアンカはずっと自分を責め続けるだろう。責め続ける間、ビアンカはルトヴィアスを忘れられない。新しく踏み出せない。もう、彼女を解放してやりたかった。

「……っ」

ビアンカはまた突っ伏して泣き始める。しばらくそうして泣き続け、やがて、赤くなった目元を手で拭いながら、ゆっくり起き上がった。

「ルト…変わったね…」

「え?」

「昔のあんたなら、私に謝ったりしなかったと思う。私に謝らせてくれるなんて…許してくれるなんて、絶対ありえなかった」

すん、と鼻をすすると、ビアンカは笑った。

「優しくなったね。ああ、違う。間違えた。あんた昔から優しかったもん。……優しくするの、上手になった。優しくしたい人ができたから?」

「……」

どう答えていいのかルトヴィアスにはわからず、仕方なく無言を返すと、ビアンカは予想外にくすくすと楽しそうに笑った。

「アデライン様、素敵な人だね。人が大切にしているものを、自分も一緒に大切にしようとしてくれる。ルトが好きになるのわかるよ。……ルト」

ビアンカに、その名前で呼ばれるのはきっと最後だと、そんな直感がした。何度も何度も、その名で呼ぶなと言ったのに、今日まで結局ビアンカは呼び続けた。『ルト』と。今更だが、彼女がそう呼び続けてくれたから、ルトヴィアスは自分を見失わずにすんだのかもしれない。

「よかったね。もう、寂しくないでしょう?」

ビアンカの、確認するような問いかけに、ルトヴィアスは答えた。

「……ああ」

ゆっくり、頷く。

もう、寂しくない。寒くない。アデラインがいるから――…。

ビアンカはにこりと笑うと、改めて膝をつき、いずまいを正した。

「あらためまして、ご成婚おめでとうございます。ルトヴィアス王子殿下。御多幸を心よりお祈り申しあげます」

深く、ビアンカは頭を下げた。

やがては帝国騎士団の一翼を担うと言われた彼女は、ルトヴィアスのせいで剣を失った。けれどその姿は、誇り高い騎士以外の何者でもない。

いつかもう一度、ビアンカが剣をその胸に掲げる日がくることを、ルトヴィアスは心から願った。

「…元気で」

「殿下も。どうぞ、お健やかに」

ビアンカが笑った。ルトヴィアスも笑った。今度は、上手く微笑むことが出来た。


2018.7.6 間違えを訂正しました。

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