幕間 王と宰相2
「そなたがマルセリオの息子か」
高い上背を折りたたみ、男は片膝をついた。
『獅子王』とあだ名される由縁になった金がかった茶色い髪が風になびく。飴色の瞳は柔らかく微笑んでいたが、『優しい人』という印象はまったく感じられなかった。ただそこにいるだけで、人を平伏させる威圧感。油断すれば首を噛み砕かれてしまいそうな獰猛な空気。けれど仰がずにはいられない光を、その男は――王は纏っていた。
――…王とは…。
王とは、これほど恐ろしく、そして強いものなのだと、ファニアスは初めて知った。
「…俺を見据えるか。いい度胸だ」
にやりと王は笑うと、立ち上がる。そして自らの背後に立つ宰相を、機嫌よく振り返った。
「マルセリオ、いい息子だな。羨ましいぞ。私の息子もこうあって欲しいものだ」
「何を言われますか。王子殿下がご成長の暁には、我が愚息など足元にも及ばぬ名君になられましょう」
「はは、そう願うとしよう」
王はもう一度、宰相の息子に視線を注いだ。
「名はなんと申す?」
震えを噛み潰して、答えを喉から放り出す。
「ファニアス。…ファニアス・マルセリオでございます。アルバカーキ国王陛下」
「医官を呼ばぬか!早く!」
「…ファニアス…」
リヒャイルドの右瞼から吹き出るように流れる赤い血が、絨毯に黒々と染みをつくっていく。
――…出血が多すぎる…!
ファニアスは、自分の血の気が、リヒャイルドの血と同じように失われていくのを感じた。
「……大丈夫。切れてるのは…瞼だけだよ」
荒い息遣いの中から、唸るようにリヒャイルドが言う。
「そういう問題ではございません、王太子殿下!…ひどい出血です!」
早く手当てをしなくてはならない。リヒャイルドは、アルバカーキのただ一人の息子であり、王太子だ。万が一のことがあっては、決してならない。
「…ルト…」
リヒャイルドがファニアスの背後に微笑みかけたので、そこに幼い王子がいることにファニアスはようやく気が付いた。
「…父上…」
凍りついたように顔面を蒼白にした息子に、リヒャイルドは微笑みかける。
「…怒鳴ってしまって…すまなかったねルト。怖かっただろう?」
ルトヴィアスは勢いよく、何度も首を横にふる。その様子に、リヒャイルドは笑みを深くした。けれど瞼の傷口を覆う手の指の間からは、新しい血が流れ続けている。
「…父上と…部屋を交換しよう。ルトは今日は父上の寝台で眠るといい。ルトの寝台をかりてもかまわないかな?」
リヒャイルドの言葉に、ファニアスは彼が限界なのだと思い至る。自室に戻る気力さえないのだ。ただでさえもともと体調が悪かった彼は、意識を今保っているだけで、きっと精一杯なのだろう。
「………ごめんなさい」
その、低い大人びた声に、ファニアスは驚いてルトヴィアスを凝視した。
美しい天使のような顔からは想像がつかないほど、やんちゃで活発な王子。外を飛び回るのが好きで、父親に甘やかされたせいか少しばかり我儘なこの王子は、毒を見分け、皇国語の読み書きをほぼ習得し、祖父から大きな期待を寄せられる存在だった。そんな優秀な王子の目に仄暗い闇が見え隠れし、ファニアスは眉を寄せる。
「ごめんなさい…父上…っ」
この悲壮な表情は何なのだろう。彼の謝罪の言葉が、妙に深く胸に突き刺さるの何故だろう。
謝らなければならないのは、ファニアスの方だった。
ファニアスは怒り狂うアルバカーキを宥めることは出来ても、子供を子供らしく外で遊ばせてやる、そんな簡単なことをルトヴィアスにさせてやれない。いくらファニアスが進言してもアルバカーキは孫への常軌を逸した教育をやめようとはしなかった。
リヒャイルドも、ルトヴィアスのことを何度も父王に嘆願してはいたが、アルバカーキは聞く耳をもたず、王と王太子の関係は日に日に悪化の一途を辿っていた。
「大丈夫だよ。大丈夫だから、母上と行って」
リヒャイルドは息子にそう言い聞かせると、息子の後ろに立つ妻に目配せする。リーナも、息子に負けないほどに青い顔で、目には涙をためていた。
「…あなた…っ」
「大丈夫。行って」
リーナが、息子を引きずるようにして部屋から出ていった途端。
「殿下!!」
リヒャイルドは意識を失いその場に崩れ落ちた。
あの頃には既に手遅れだったのかもしれないと、ファニアスは今にして思う。
獅子王と呼ばれたアルバカーキ。誇り高く勇敢で、皆眩しい思いで彼を仰いだ。ファニアスもその一人だった。彼の手足になりたいと、夢中で学び、励んだ。父が急死した時、宰相の任を継ぐには、まだファニアスは若すぎるという声の中、アルバカーキだけはファニアスの力を疑わなかった。彼の鶴の一声で、ファニアスは宰相になり、やがて国の内外から宰相としての才を認められるに至った。
けれど、いつからだろう。何かが軋み始めたのだ。
リヒャイルドがアルバカーキに鞘で打ち叩かれた時からか。
アルバカーキの、孫に対する異常なほどの教育が始まった時からか。
それとも、ルトヴィアスが生まれた、その時だっただろうか。
とにかく、軋みは気付かぬうちに酷くなった。そして、気付いた時、それはもはや手の施しようがなかったのだ。
「――陛下。降伏いたしましょう」
謁見の間は、静まり返っていた。
皇国との戦争が始まり、既に三つの季節が過ぎ去った。国土は焼かれ、民は逃げ疲れ、このままでは四つ目の季節が終わる前に、騎士団は壊滅するだろう。
「…何と言ったファニアス」
玉座に座すアルバカーキが、ぎろりとファニアスを睨み付ける。けれどその目には、かつての射抜くような鋭さはない。髪は白くなり、頬はこけ、目元には深い皺が刻まれている。連日届く自らの軍の敗走の知らせに、アルバカーキの目の下には濃いくまがうかび、髪はぼさぼさに乱れていた。まるで亡霊のような彼を、獅子王、と呼ぶ者は誰もいない。彼がそう呼ばれていたと知る人間も、もはや少数派だ。人々はアルバカーキのことを陰で『暴君』『独裁者』と謗り、恐れている。
ファニアスは、主君の前に進み出て、先程と同じ進言をした。
「皇国に、降伏いたしましょう」
王都に近い主要な砦が堕ちた報せが入った。もう王都を守る術はない。10日もすれば、この歴史ある王宮は皇国の軍に踏み込まれ、ルードサクシードは滅びるだろう。
「…この痴れ者が…っ!」
アルバカーキは目を血走らせて立ち上がると、跪くファニアスの肩を力一杯蹴り落とした。
玉座が置かれた最上段から、ファニアスは転げ落ちる。唇がきれ、錆びた味が咥内に広がった。
玉座より一段下段に座していたリヒャイルドが、王太子の椅子から立ち上がる。
「ファニアス!」
宰相に駆け寄ろうとする息子を押し退けて、アルバカーキは倒れているファニアスをまたも蹴り上げる。
「降伏だと!?この私に皇国に頭を下げろというのか!?」
「…っもはや皇国は講和に応じはいたしません!我が国が生き残るには皇国に降伏し恭順するのみにございます!」
痛む腹部を押さえながら、なおもファニアスはアルバカーキに進言した。けれど、アルバカーキにその声は届いてはいないようだった。アルバカーキは腰に提げていた愛用の長剣を鞘から抜き、ファニアスに近づく。
「貴様までそのような腑抜けたことを申すか!息子同然に可愛がってやったものをよくも…!」
ファニアスは目を瞑り項垂れた。
――…やはり駄目か…。
年老いたアルバカーキには、既に誰の声も届かないのだ。今までも、反戦、停戦を訴えた者達は何人もいた。けれどその殆どが、アルバカーキにより手打ちにされ、そうでなければ地下牢に繋がれた。リヒャイルドの首席秘書官だったファニアスの妹の夫も、無謀な戦だと停戦を進言し、ファニアスの目の前で止める間もなく叩き斬られてしまった。何とかアルバカーキを説得しようと試みてきたが、結局この日まで何も出来ずにこのざまだ。
――…何が名宰相か…。
主君の暴走を止められず、国を滅ぼしてしまう。
勝ち気な妻の怒りの声が聞こえた気がして、ファニアスは自嘲に唇を歪めた。
『だから、早く離宮に逃げてくればよかったのよ!』
離宮にいる妻から、娘と妹親子を離宮まで避難させてはどうかと再三手紙が来ていた。離宮は、王都を挟んで皇国とは反対側にある。いざとなれば国境を越えて逃げることも可能だろう。けれど、リヒャイルド達、主な王族が王都にとどまっている手前、ファニアスが自分の親族だけを避難させるわけにはいかなかったのだ。
――…すまん…。
最後くらい、妻の言うことを聞いてやればよかった。
屋敷に残してきた娘は、そして妹と甥のオーリオはどうなるか。それだけが心残りだ。
「父う…陛下!」
リヒャイルドが、剣を構える父王とファニアスの間に滑り込んだ。
「そこをどかぬかリヒャイルド!」
「…っ殿下!」
何と危ないことをするのだ。マルセリオはリヒャイルドの腕を引いて下がらせようとしたが、リヒャイルドは振り返りもせず、ファニアスの手を乱暴に振り払った。
「マルセリオを斬れば、周辺諸国からの謗りはまぬがれません!あの名宰相を斬るとは獅子王も老いたものだと、陛下は嗤われてもよいと申されますか!?」
いつも穏やかなリヒャイルドとはかけ離れた鋭い口調に、ファニアスは息を飲む。
家庭教師として、リヒャイルドと出会って既に二十五年。寝台の上で地図を広げ、父王の治める国土を眺めていた幼い王子は、その背にファニアスを庇うほどに成長した。
「リヒャイルド、貴様…!」
「ファニアスを…マルセリオを殺してはなりません、陛下。この国に必要な男です。殺してはなりません」
「…し、職をといて…屋敷に、き、謹慎させることにいたしては…」
リヒャイルドの後ろに、大臣の一人が跪いた。すると次々と、今まで黙っていた要職にある者達が、ファニアスの助命を乞うて膝をつく。
結局、ファニアスは更迭され、自邸に軟禁されることになった。リヒャイルドのおかげで命拾いしたものの、またいつアルバカーキの気が変わるかも知れないし、皇国が攻めて来るかもしれない。娘達を逃がす算段をひそかに整えていたファニアスだったが、軟禁生活は意外にも2日で終わりを告げた。
リヒャイルドに呼び出されたファニアスは、王宮の謁見の間に通された。扉を開け、その光景に絶句する。
大理石の床には見慣れたあの背中が、血にまみれて沈んでいた。リヒャイルドは一人玉座に座り、血濡れた手を額にあてて俯いている。
「……リヒャイルド殿下…」
「……違うよ。『殿下』じゃない」
リヒャイルドは、玉座の手摺の影に下していた左手を、掲げて見せた。
その手に掴まれたものは――。
「……私が王だ」
顔を上げたリヒャイルドの頬は、返り血と涙に汚れていた。
リヒャイルドより改めて宰相の職を任されたファニアスは、皇国へ降伏、恭順を示し、国内の復興へ心血を注いだ。
それは罪滅ぼしだった。――獅子が死んだという事実から、目を背け続けた罪への。
アルバカーキは、もはやファニアスが慕った獅子王ではなかった。
彼は老いた。
自制を放棄し、義務を捨て、いつからか彼は王ではなくなっていた。獅子は人知れず死んだのだ。
ファニアスはそれを認められなかった。認めたくなかった。
そのせいで、多くの命を犠牲にし、リヒャイルドには実父を殺す大罪を犯させた。
「同罪だよ。私も」
終戦から何年もたって、リーナの真新しい墓前の前でリヒャイルドが言った。
「戦争のことだけじゃない。ルトヴィアスへの仕打ちも…息子として…王太子として私こそがあの方を止めなければならなかったのに『明日は目を覚ましてくれるかもしれない』『明日こそは…』と…」
風が吹き、小米花が揺れる。
ファニアスとリヒャイルドの黒い外套も、ばさばさと音をたててはためいた。
「…でも貴方を殺そうとする父を見て、私こそが目が覚めた。『ああ、もう駄目だ』と。…父は…貴方のようになれとよく私に言っていて…きっと貴方のような息子がほしかったのだろうね。…あまりに言うので苛ついて、貴方に良くない態度をとったこともあったな。悪かったと思っています」
リヒャイルドはそう言うものの、ファニアスにはいつのことだかわからなかった。家庭教師時代、リヒャイルドは素直で実直で、いつだって良い生徒だったからだ。
「その貴方に剣を振り上げた時…父は、もう父ではないのだと、ようやく私は気が付いた。…ようやくだ。ルトヴィアスをあれほど追い詰めて…あれだけ人命を犠牲に払って…それこそ為政者として私は致命的な間違いを犯し続けていた」
小さな足音に、ファニアスとリヒャイルドは振り返った。
栗色の髪を三つ編みにして両肩から下げた未来の王妃が、長くて重い喪服の裾と戦いながら石畳をこちらに歩いてくる。
「…アデライン嬢は背がのびたね」
「ええ。近頃急激に」
「あの子も大きくなっているだろうね…」
遠く離れた一人息子を見つけたかのように、リヒャイルドの目が優しく凪いだ。
「お父様」
「…おいでアデライン」
両腕を広げれば、アデラインは少し驚いたような表情で立ち止まる。
「…恥ずかしいです…」
「そう言うな」
ファニアスが言うと、アデラインは今度は大人しく抱き上げられてくれた。まんざらでもなさそうな顔で。
普段から厳しくしつけ、人前ではこんなことはしたことがないが、たまにはかまわないだろう。ここには、リヒャイルドの他には墓石と花が並ぶだけだ。
ずしりとした愛しい重さに、ファニアスは娘を遠からず抱き上げられなくなるだろうことを悟る。まだまだ赤ん坊だと思っていたのに、いつの間にこんなに大きくなってしまったのだろう。
『生まれた赤ん坊が女なら、ルトヴィアスに嫁がせよ』
遠い日の声が聞こえた気がした。
強く、気高く、憧れ仰いだ少年の日の心のままに追い続け、そして失った光。
『そなたの娘ならよい王妃になるだろう』
それは光の残滓だった。
その残滓にすがるようにファニアスは生きてきた。
娘を王妃に。
ただの王妃ではない。良い王妃に、人の心と歴史に名を残す王妃に。
「…お父様。苦しい…」
「…すまない」
謝りはしたが、ファニアスは娘を抱く腕の力を緩めはしなかった。
「娘をお茶にお呼び頂いたようですが」
報告書を渡すついでに、ファニアスは年下の主君に話題を振った。
「うん。ちょっと娘さんをかりたよ」
「それはかまいませんが」
リヒャイルドはにこにこと上機嫌だ。
「ルトヴィアスとアデライン嬢がシヴァに乗っているのを見かけてね。二人が何だか本当に恋人同士みたいに見えて…」
「…余計なことをすると馬に蹴られますよ」
「ああ、恋路を邪魔すると…て言うからね。…応援するのも駄目かな?蹴られると思う?」
「…貴方はルトヴィアス殿下が成人したことをどうにも忘れがちですね」
応援・反対に問わず、親に恋人との仲を色々と詮索されるのを思春期の子供が――しかも男が好むはずもない。
――…まぁ、思春期と呼ぶには随分と遅い思春期だが…。
だが、ようやくそういう成長過程をルトヴィアスが踏んでいるとするなら喜ばしい限りだ。最近のルトヴィアスは、目に見えて落ち着いてきた。隣にアデラインがいる作用なのかもしれない。
アデラインの方も、ルトヴィアスとの関わりからか、随分と明るい顔をするようになった。
二人が二人でいることが、お互いの好ましい成長につながっているのだとしたら、嬉しい誤算だ。
――…それにしても…。
息子の成長にリヒャイルドが喜ぶのもわかるが、下手に口出しして親子関係が崩れないかが、ファニアスは心配だった。
リヒャイルドは机の上に、上半身をくたりと預ける。
「だって…帰ってきたら背丈はぬかされてるし、他人行儀だし…子育ての醍醐味をゆっくり味わえなかったのが悔しくて…」
「…『だって』って…いくつの子供ですか、貴方は…」
この国王は、幼い頃から素直で実直で真面目で、それからとんでもなく天然…いや、独特な感覚の人間なのだ。
ファニアスは溜め息をついた。
リヒャイルドの手元から落ちた書類を屈んで集めて、もとあった場所に戻す。
「醍醐味なら、今味わってらっしゃるじゃないですか」
「え?」
「男が反抗期に親と会話なんてするわけないでしょう?」
「………なるほど」
リヒャイルドの目が、嬉しそうに輝く。
「反抗期かあ…かわいいなあ…」
「………」
反抗期に『大きくなったね』と親や大人に目を細められるほど煩わしいことはない、とファニアスは自らの実体験から学んでいた。このままでは、ただでさえ良好とは言いがたいリヒャイルドとルトヴィアスの親子関係にひびがはいりかねない。
「…陛下。何事にも用法、用量というものがございます。殿下をかまうのもほどほどになさいませ」
「ええー!?」
「孫が出来たら思いっきりかまえばよろしいではないですか」
「孫!」
リヒャイルドは両手の指をからませ、うっとりとした顔で呟いた。
「楽しみだねえ」
「左様ですな」
その点に関しては、ファニアスにも異論はない。
王の執務室では、王と宰相が孫の性別について、長いこと議論を続けていた。