第四話 再会
昼過ぎと言われていたルトヴィアス王子の到着を待って、国境では騎士団が隊列を組んで並んでいる。
アデライン達貴族は、そこより少し離れて、それぞれ日除けの大傘の下で休んでいた。
日差しはやや強いが、風が出てきたので過ごしやすい。
「少し遅れているな」
アデラインの隣で、父の宰相が懐中時計を確認しながら、小さく呟いた。アデラインは父を見上げた。
「お父様お座りになったらいかがです?やっと正午を回ったところですもの。お昼過ぎというのは目安でしょう?」
「それはそうだが…」
宰相は懐中時計を長衣の内側にしまったが、すぐにまた出して時間を確認する。そわそわとアデラインの周りを歩き回り、実に落ち着きがない。騎士団の旗がバタバタと音をたててたなびいている。アデラインは花帽が飛ばされないように、そっと手で抑えた。
――…このまま風が嵐を呼ばないかしら。
そうすればきっと王子の到着は遅れるだろう。往生際が悪いとは自覚しつつも、王子との対面が憂鬱で仕方ないのだ。
そんなアデラインの周りには多くの貴族がひしめき合っていた。
若い女性が目立つのは、ルトヴィアス王子の目にとまることを期待して、多くの貴族が娘を同伴したからだろう。名のある貴族の多くは自らの娘をルトヴィアス王子の側室にと、宝石を磨くように野望を育てている。アデラインごときでは、結婚したところでルトヴィアス王子を満足させられはしないだろうというのが、大方の貴族達の考えだ。アデラインにしても、その考えはまったくだと思う。ルトヴィアス王子はきっとすぐに美しい側室を迎えるだろう。アデラインにそれをとやかく言う権利はない。
その時、強い横風が吹いて、あちこちで小さな悲鳴が上がった。
「花帽が…」
アデラインが気付いた時には、ミレーがハーブを縫い付けてくれた花帽は天高く舞い上がっていた。アデラインの他にも、幾人かが持ち物を飛ばされたり、日除けの大傘が倒れて慌てているところもある。
アデラインの花帽は、その大傘が倒れた向こうに弧を描いて落ちていく。アデラインはその行方を目で追いかけながら、椅子から立ち上がった。
宰相が娘を振り返る。
「アデライン?」
「花帽を取ってきます」
「誰かに行かせなさい」
「大丈夫よ、すぐそこだもの」
侍従を呼ぼうとする宰相に構わず、アデラインは花帽を追いかけた。
いったい花帽はどこまで飛ばされたのか。
少し身を屈ませ探していると、クスクスと小さな笑い声が聞こえた。
「ねえ、アデライン様よ。這いつくばって何してらっしゃるのかしら」
「王子殿下をお出迎えするっていうのに、相変わらず辛気臭い装いよね」
「侍女でももうすこしまともなドレスを着るわ」
振り返ると、流行りの縦縞模様の鮮やかなドレスに身を包んだ令嬢が数人、少し離れたところに固まっていた。
アデラインと目があっても、悪びれる素振りさえせずに意地悪く笑っている彼女達は、いずれも名家の令嬢で、華やかで美しい。きっと王子の側室に選ばれるのは彼女達のような娘だろう。
彼女達は、元はアデラインの親しい『友人』だった。
けれど婚約解消騒動の後、あからさまにアデラインを侮蔑しはじめた。そして、最近では堂々と物笑いの種にしてくる。
彼女達の態度の急変に当初混乱したアデラインだったが、やがて悟った。友人のふりをして笑いながら、彼女達が内心ではアデラインを見下し、馬鹿にしていたことを。彼女達は、ただ自家の繁栄のため、または自らの良縁のため、アデラインに近づいてきたに過ぎなかったのだ。そして、たとえ未来の王妃であっても、夫たる王子に捨てられかけるようであっては、お友達を装ったところで何の得にもなるまいと判断し、アデラインを見限ったのだ。
彼女達はアデラインに友情を感じて傍にいて優しく親しくしていたわけではなかった。そのことに気づかず、彼女達を友人だと信じ、そして彼女達が離れていったことに傷つく自分の何と愚かしいことか…。
「見て。花帽を飛ばされたみたいよ。恥ずかしい」
「あの髪型。まるで田舎娘よ」
アデラインは顔を伏せると、足早に嘲笑から逃げ出した。
名家の令嬢なら、宝石を縫い付けたり金で縁取ったりと花帽に意匠をこらすので、花帽は重く、風にとばされるなどまずあり得ない。花帽を風に飛ばされるということは、花帽が軽い、つまり花帽を飾り立てる財力がないということでもあり、そういう意味でも女性にとっては恥ずかしいことなのだ。勿論、マルセリオ家には十分な財力がある。問題はアデラインの方だ。
甘ったるい香水の匂いがしないほどに離れてから、アデラインはほっと息をつく。
そして自らの姿を見下ろした。
『侍女でももうすこしまともなドレスを着るわ』
確かに、亜麻色のドレスは地味を通りこして、もはや年寄り臭い。ドレスと同じ生地で仕立てた花帽も刺繍も飾りもなく、もはや『花帽』とは呼べないほど華やかさに欠けている。
――…田舎娘、か。
田舎娘にも失礼かもしれない。
――…でも、私はこれでいいの。
アデラインが俯くと、頭の後ろで一つに編んで垂らしただけの栗色の髪が揺れた。
せっかく美しい髪なのだからとミレーは飾り付けたがるが、アデラインは決してそれを許さない。女性は結婚すると花帽に垂布をつけ、髪を花帽の中に結い上げるのがならわしだ。その為、髪型を楽しめるのは未婚の若い娘だけの特権であり、他家の令嬢はドレスや花帽以上に髪型に力をいれていた。編み込んだり、香油を使って髪を波立たせ、真珠や花を散らしたり。
アデラインも、以前はそうしていた。艶のある栗色の髪を、アデラインは自分の容姿の中で一番、そして唯一気に入っていたのだ。けれど『宝の持ち腐れだ』と囁かれるのを聞いて以来、アデラインにとって美しい髪は地味な顔と同じくらいに疎ましいものになってしまった。
装うことを一切しなくなった娘に、宰相はいつも溜め息をつく。
父親の言いたいことは分かっている。マルセリオ家と王家の権威を示すためにも、アデラインはそれなりの装いをしなければならない。
――…でも、無駄だもの…。
昔は、アデラインも足掻いた。
権威はともかく、ルトヴィアス王子に少しでも釣り合いたいと、流行のデザインをとりいれたり、髪の為に香油をとりよせたり、あれこれとしたものだ。けれど、もともとそういったセンスに乏しかったのだろう。最先端のドレスを着てもどこか浮いて見え、髪型も凝れば凝るほど顔の地味さを強調してしまった。
そしてそこへルトヴィアス王子との婚約解消騒動。周囲の態度が変わり、そしてアデラインも変わった。
鏡から、自分から、現実から目を背けた。
どんなに着飾ったところで、アデラインの地味な顔が美しくなるわけでもない。必死に着飾ったところで、今度はきっと『悪あがき』と嗤われるに決まっている。
地味でいい。目立たなくていい。いっそ侍女のドレスを着てしまえば令嬢達に見つかることもないかもしれない。とにかく目立たないこと。それがアデラインが自分を守る、ただ一つの方法だった。
背後で騎士団のラッパが高らかに鳴った。
人々がざわついて、次々と椅子から立ち上がる。ルトヴィアス王子が到着したのだ。
アデラインは青ざめた。
何て間が悪いのだろう。
アデラインは慌てて花帽を探した。落ちたと目算した場所の近くの茂みに、それを見つけて拾うと、大急ぎで宰相のもとに戻ろうとする。しかし移動を始めた人々に阻まれ、なかなか前に進めない。無理矢理進むことも出来ず、人混みの間をぬうようにして、ようやく王子が乗っているらしい馬車が見える所までたどり着いた。馬車を護衛していたらしい皇国の騎士達は、すでに馬を降りて整列している。本来なら馬車から降りる王子を、宰相の隣で一番に出迎えるべきであるのに、アデラインにはこれ以上進むことは不可能だった。アデラインは、肩を落とした。
まさか帰国した王子を出迎え損ねるとは。なんて失態を犯してしまったのだろう。宰相にひどく叱責されるのは間違いない。宮廷ではまた色々と噂されるだろうし、何よりルトヴィアス王子は、出迎えなかった婚約者をきっと不快に思うだろう。ただでさえ疎まれているだろうに、その上出迎えさえしない無礼な女と思われるなんて…。
花帽ではなく、アデライン自身が空の彼方に飛んでいきたい気分だ。見えない風を、アデラインは恨みがましく睨みつけた。
宰相が、皇国側の責任者らしい若い男性と言葉を交わしているのが見えた。書類に互いにサインし、捺印すると握手して頷きあっている。おそらくルトヴィアス王子の帰国についての、取り決めの書類なのだろう。
「剣を捧げよ!!!」
ルードサクシードの騎士団長のかけ声と同時に、ルードサクシードの騎士のみならず、皇国の騎士達も一斉に剣を地に立て、軍靴を鳴らして跪いた。それを合図にしたように、人垣が前方から波が広がるように次々と折れて、頭を垂れる。
アデラインも観念して、その場で膝を折った。
ガチャリ、と御者が馬車の扉を開ける。静まり返った場で、馬車の踏み台を降りる靴音だけが響いた。
靴音は迷うことなく歩を進め、国境を、越える。
宰相の声が聞こえた。場が静かなせいか、だいぶ離れているのにおかえりなさいませ、と言っているのがわかる。そして…。
「留守中苦労をかけました」
落ち着いた、低い、成人男性の声。
アデラインは震えた。アデラインが知るルトヴィアス王子の声は、高い、少女のような声だった。今更ながら、ルトヴィアス王子にもアデラインと同じく10年という年月が流れたのだと実感する。
「出迎え礼を言います。どうぞ立ってください」
許され、人々は立ち上がる。首をあげ、帰国した未来の主君を仰ぎ見て、---皆、息を飲んだ。
王子の母親は、ルードサクシードの宝石と謳われた。大陸で最も美しい王妃だ、と人々はその美貌を賞賛した。彼女が生んだただ一人の王子も、母によく似た美しい顔を、幼い頃から讃えられた。
そして、10年の時を経て、王子は故国に帰ってきた。あまりにも美しい青年となって。
母妃から受け継いだ端正な顔立ちはそのままに、成人男性らしい逞しさと若々しさを兼ね備えて、その美しさは壮絶ですらあった。強い風に青碧色の外套が翻る様が、あまりに美しく、凛々しい。
アデラインは、体の前で両手を組み合わせ、痛いほど握り締めた。呼吸が止まりそうな感覚には覚えがある。爪先から全身に駆け抜ける痺れ。それらがアデラインの胸を叩くのを、アデラインは俯くことで必死に無視した。
ルトヴィアス王子は、皇国の責任者と言葉を交わしているようだった。この後ルードサクシード王家専用の馬車へ乗り込み、今日の宿泊先である屋敷に向かう予定だ。アデラインが数日前から泊まっている領主の屋敷である。
しかし、いっこうに馬車が動き出す気配がない。何か不備でもあったのだろうかと、おそるおそる、アデラインは窺った。ルトヴィアス王子は周囲を少し見回して、それから宰相に何か尋ねている。何を話しているのかは、アデラインにはまったく聞こえない。
宰相との会話が終わると、ルトヴィアス王子は今度は人々の顔を見渡し始めた。
誰かを探している様子だ。一体誰を探しているのだろう。
ルトヴィアス王子の目が、順々に出迎えの人々を確認する。そして遂にアデラインの顔を見ると、その表情が少し揺れた。
アデラインは息をのんだ。
まさか自分を探していたとでもいうのか。念の為アデラインは後ろに立つ人物を確認したが、背後にいたのは、宰相ほどの年齢のどこかの家の侍従であるようだ。ルトヴィアス王子と面識があるとは思えない。
――…私?
10年前に一度会っただけのアデラインの顔を、ルトヴィアス王子が覚えているとは思えなかった。けれどルトヴィアス王子は歩を進めている―――アデラインに向かって。
王子が誰を探し、そして見つけたのか興味を持った人々が、王子に道をあけながら、その先にアデラインを見つけて意外そうな顔をする。けれど一番驚いているのはアデライン本人だ。
王子が自分の元へ歩いてくる。誰かと間違っているのだとしても、長い睫に縁取られた宝石のような碧色の瞳が、今この瞬間、アデラインの小さな黒い目を真っ直ぐに捉えていることには間違いない。
人々の注目が集まる。
逃げ出したいのに、足は震えていうことをきかない。
何故、王子が自らの元へ来るのかアデラインにはさっぱり分からなかった。
親が決めた、政略的な婚約者だ。恋の為に、一度は捨てようとした女だ。それでも、まがりなりにも婚約者であるアデラインを気遣ってくれるのだろうか。
そうだとしても、アデラインは戸惑わずにはいられない。
「アデライン…ですよね?ひさしぶりですね」
確かめるように、ルトヴィアス王子はアデラインの名を呼んだ。そして黄金比に整った彼の顔を、柔らかく綻ばす。
初めてあった日も、10歳の王子はこんなふうに、アデラインの名を呼んだ。そして8歳のアデラインは返事どころか、瞬きさえできなかったのだ。今の、17歳のアデラインのように。
頬を、スルリと涙が流れた。
「…アデライン?」
ルトヴィアス王子は困惑し、アデラインの顔を覗きこんだ。
「泣いているんですか?」
アデラインの瞳から、涙が後から後から溢れ、こぼれた。
名前を呼ばれた、ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しい。
どんな顔で出迎えればいいのかと、悩んで落ち込んで、出来れば逃げ出したいとまで思っていたのに。
立場や、矜持や、そんなものを全て削ぎ落としてしまえば、残るのは純粋な思慕だけだった。
ルードサクシード宮廷の主だった貴族の面々が立ち竦むなかで、ルトヴィアス王子に恋をする17歳の少女が、ただそこで、再会の歓喜に泣いていた。