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第三十七話 青つぐみの卵

ルトヴィアスの執務室の前では、オーリオが抱えた書類を部下に割り振って、何かしらの指示をだしている。その忙しそうな様子にアデラインは声をかけて良いものかと躊躇ったが、オーリオはすぐに気がついてくれた。

「アデラインお嬢様」

「オーリオ。ルトが呼んでいるときいたのだけど」

リヒャイルドの私室を辞してすぐ、ルトヴィアス付きの侍官がアデラインを呼びに来たのだ。執務室に寄るように、ルトヴィアスの言付けをもって。

「ええ。先程からお待ちです」

オーリオは頷くと、扉を叩き、中に声をかけた。

「殿下、お嬢様がお越しです」

「どうぞ」

すぐに返ってきた返事をきいて、アデラインは扉を開いた。ルトヴィアスがいつも座っている執務机には、誰もいない。

「…ルト?」

「こっちだ」

扉と並んでいる書棚の死角から、ルトヴィアスが顔を出す。こいこい、と手招きされるままに、アデラインは近づいた。

「どうしたの?こんなところで」

「外。見てみろ」

促されて、アデラインは窓から外を覗く。

夏の陽射しをあびた鮮やかな緑の中。枝が重なったその影に、小枝を細かく組んだ鳥の巣があった。その中に青つぐみが一羽、静かに(うずくま)っている。

「…もしかして…卵を抱いているの!?」

アデラインは興奮してルトヴィアスを振り仰いだ。ルトヴィアスは、アデラインの反応が良いことに満足したのだろう。ニッと笑って答えてくれた。

「今朝見つけたんだ」

「すごい!私初めて見たわ!」

アデラインは窓にへばりついた。

本の挿し絵ならともかく、鳥の巣を実際に見たのは生まれて初めてだ。

「いつ孵るの?」

「いつから卵を抱いてたかわからないからな…まぁ10日と少しってとこだな」

「10日…」

この位置からなら、餌を欲しがって鳴く雛鳥も見えるはずだ。雛鳥を見るのも初めてのアデラインは、期待で頬を紅潮させた。

「ここなら風も雨もあたらない。いいところを見つけたものだ」

「ルトは巣を見つけたのは初めてではないの?」

「昔、大神殿の大搭の屋根の隙間でも見つけたことがある。カラスにやられて一羽しか巣立たなかったが…」

「…大搭の屋根…?」

そんなところの鳥の巣を、どうやって見つけたのだろう。下から見上げて見つけられるとは思えない。大神殿の大搭は、王宮の中で最も高い搭だ。王族の冠婚葬祭時に鐘を鳴らす鐘楼であり、窓も少ないし、凹凸のある建物ではない。中からなら掃除用の階段があるので登れるはずだが、危ないのは間違いないし、まず誰も幼い王子には登らせないだろう。

はたと、先程のリヒャイルドの話を、アデラインは思い出した。

確かルトヴィアスはリヒャイルドの天馬で、どこかに乗り付けたと言っていなかったか。

「………陛下の天馬で…大搭の屋根に乗り付けたの?」

ルトヴィアスは、きょとんと不思議そうな顔をした。それから頷く。

「そうだ。カラスがたかってるのが気になって」

目眩がした。

子供一人で、あの高さに、天馬を勝手に連れ出して…。まさに子供だからこその、怖いもの知らずな行動だ。

「何でわかった?」

まだ首をかしげているルトヴィアスに、リヒャイルドと会ったことを話すかどうかアデラインは迷った。けれど隠すのもおかしな気がして、おずおずと打ち明ける。

「…陛下に呼ばれて…昔の話をきいたの。…ルトが…神がかった悪戯っ子だったって」

「…………あのクソオヤジ…」

ルトヴィアスが横を向いて舌打ちした。

まずい、とアデラインは狼狽えた。これがきっかけで、ルトヴィアスとリヒャイルドの仲が悪化してしまっては困る。

「あ、あの!ルトをね、心配してらっしゃるみたいだったわ。息子をよろしくって私に頭まで下げられて」

花嫁(おまえ)の父親ならともかく、どうして花婿(おれ)の父親がそういうことを言うんだ!?」

ルトヴィアスが(わめ)く。

――…た、確かに…。

言われてみれば、アデラインが受け取ったのは普通なら花嫁の父親が花婿にかける言葉に類似している気がする。

「過保護もいいかげんにしろ。あのくそ親父…」

ボソリと呟くルトヴィアスの背中に、仄かな怒りが見える。

――…こ、こんなつもりじゃ…。

何とか話を軌道修正して、さっさとこの話は畳んでしまおう。リヒャイルドがルトヴィアスを大切に思っていることだけでも、何とか伝えられればいいのだが。

「あの…陛下は貴方が帰ってきてホッとしたって…立派になってとても嬉しかったって仰られて…」

うまい言葉が出てこない。焦れば焦るほど、頭の中では言葉が衝突しあって崩れていく。

「……ふっ…」

「え?」

ルトヴィアスが口元に拳をあてて、笑いをこらえている。

「…いや…お前は本当にわかりやすいな」

「わかりやすい?」

「どうせ、父上と俺の仲が(こじ)れやしないか焦ってるんだろう?頭の中が顔に書いてある」

「………」

アデラインは両手で頬を覆うと、恥ずかしさで俯いた。

ルトヴィアスがアデラインの心を覗いているような気がしてくる。そんなに顔にでているのだろうか。

――…ルトを好きだって…このままじゃばれてしまうわ…。

彼のそばにいるために、ルトヴィアスに恋していることは絶対に隠し通さなくては。

ルトヴィアスは、窓辺に軽く腰をおろした。

「そんなに心配しなくても、俺は父上を尊敬してるし、感謝もしてる。腹がたつことはあっても、

それくらいで謀叛なんか起こさないさ」

「謀叛なんて…」

アデラインはそこまで考えていた訳じゃない。ルトヴィアスが父王を大切に思っていることはわかっている。ただ、ちょっとした誤解で二人がケンカでもしたらと、いらぬ心配をしただけだ。

ルトヴィアスは鼻で笑った。

「そういう噂もある、て話だ。勿論有り得ないがな」

硝子越しにつぐみを見る碧の瞳が、やや色が変わったようにアデラインには見えた。

「…昔の話を聞いたなら…じいさんの話も聞いたか?」

「…うん」

「俺の代わりに殴られる父上をずっと見てきた。熱があろうと血がでようと、かまわず俺をかばってくれた。お陰で俺は、一度もじいさんに殴られたことはない」

「……」

「父上が俺を人質にだしたのは、皇国への臣従を示すためだが……じいさんを盲信してた奴等に子供の俺が利用されないように皇国に避難させる意図もあってのことだった。母上が死んだ後、周りの薦めや他国からの縁談も全て断って、側室すら迎えず子供をもうけなかったのは、俺の『唯一の直系男子』という価値を守るためだ。そうすれば、皇国は俺を邪険に扱わないからな。むしろ次期国王を手なづけようと下にも置かない扱いをされた。…まぁ、少なくとも表向きは」

彫刻のような横顔を見上げて、アデラインは尋ねた。

「…つらかった?」

訊いてはいけないような気がして、今までアデラインは、皇国での日々のことをルトヴィアスに尋ねたことはない。尋ねたとしても、ルトヴィアスははぐらかすような気もしていたのだ。だがルトヴィアスは答えてくれた。

「つらくなかったとは言えないな」

けれど、やはり話しづらいのか、彼は少し眉を寄せた。

「行動を制限されて、監視されて…どうしたって敗戦国の王子だ。侮辱されることも多かった」

ルトヴィアスは唇の片方だけを上げる。苦い笑いだ。

「けれど救いが、なかったわけじゃない…」

刹那、ルトヴィアスの目が、遠くを駆けた。駆けた先にいる『誰か』が見えた気がして、アデラインは咄嗟に俯き、目を閉じる。

――…私…なんて酷い女なんだろう…。

孤独だったルトヴィアスの人質時代。一時でも、ルトヴィアスのそばで、誰かが彼を癒してくれたのなら、それに感謝するべきだ。それとも、ルトヴィアスがずっと救いもなく、癒されず、一人でいてくれたらよかったとでも言うのか。

過去を振り切るように、ルトヴィアスが首を振った。

「…話がずれたな。とにかく、父上は俺を守ろうと、あらゆる手段を講じてくれた。そして俺はそれを知ってるし感謝してる。きっと俺が知らないところでも、色々としてくれたんだろう。あの人はそうやって俺を守ってくれた…」

だからアデラインが心配することはないと、ルトヴィアスは話をまとめるつもりだったのだろう。

けれど瞳が揺れた。

言葉が途切れ、唇が小さく震えている。言うつもりがなかったであろう心が、ポロリと、彼の唇から零れ落ちた。

「でも時々…あの人はそれでいいのかと、思う時がある」

アデラインは瞬いた。ルトヴィアスの呟きの意味が、よく分からない。

父親が息子を守ることが、何かおかしいことだろうか。現実には、親が子を害すことや、親子が憎みあうことは少なくない。けれどリヒャイルドとルトヴィアスは違う。たった今、ルトヴィアス自身がそう言ったではないか。

「どういう意味?」

アデラインの問いに、ルトヴィアスは淀みなく答える。

「憎んだり恨んだりするのが普通だと思わないか?」

「…陛下が貴方を?まさか…」

「どうして『まさか』と思う?体が少し弱いくらいで、じいさんは父上を蔑ろにした。俺が…後継ぎが生まれてからは特に…もう、用なしだと言わんばかりに邪険にされていた。俺を庇って殴られ蹴られ…ようやく王位についたのに、俺が戻ってきたことで面倒事は増える一方だ」

淡々と、おそらく心の内にずっと沈んでいただろう本音を、ルトヴィアスは吐き出していく。

「父上は孫がどうのと言ってるが、その気になればまだ実子を望めるはずだ。…俺を…邪魔だと思ったことは本当にないんだろうか」

ルトヴィアスは、もうつぐみを見ていなかった。かと言って、アデラインを見るわけでもなく、碧の瞳は何もない虚空に、視線をさ迷わせている。アデラインがここにいることさえ、忘れているようだった。

「ルト…」

「…俺が、いなくなれば…」

冷たい、冬の湖のような瞳だった。

アデラインは、ルトヴィアスの目が、その色に染まるのが嫌いだ。

見ているこちらが、寒さに震えあがってしまう。なのにルトヴィアス本人は、寒さなど感じていないかのように平気そうなのだ。痛みを痛みと感じられないほど、凍てついてしまっているがゆえに。

「俺なんて…」

言葉と一緒に、ルトヴィアスの形の良い唇から、真冬のように白い息がでてきそうだった。

横顔が、雪のように白い。

「…俺なんて切り捨てて、新しく生まれた王子を後継ぎにした方がよっぽど…」

「ルト!」

アデラインは、ルトヴィアスの言葉を遮った。遮らずにはいられなかった。

そうでもしないと、ルトヴィアスの瞳から、今にも血が流れ出すような気がしたのだ。

ルトヴィアスの瞳が、ゆっくりとアデラインを映し、氷解した。

「……少し、思ってみただけだ。悪かった。そんな顔するな」

アデラインを安心させるための微笑みは、泣き出す寸前の表情に酷似している。

アデラインは、ルトヴィアスに抱きついた。

不意だったせいか、やや後ろによろけながらも、ルトヴィアスはアデラインを受け止めてくれた。

ルトヴィアスの心臓の音がする。その音に、アデラインは耳を傾けた。

「…お前からは初めてだな」

ルトヴィアスが、少し戸惑ったように言った。

確かに、手を繋ぐのも、抱き締めるのも、口づけも、いつもルトヴィアスからで、アデラインは逃げ回ってばかりいる。けれど、アデラインだって、ルトヴィアスに触れたくないわけではないのだ。ただ恥ずかしくて、そしてそれ以上に、手を離すのが嫌なのだ。

――…この手を…いつか離さなければいけないかもしれない…。

だからルトヴィアスの手の心地よさも、胸の逞しさも、本当は知りたくなかった。手を離すときに、喪失感で打ちのめされてしまうから。

けれど今、アデラインはルトヴィアスから手を離すつもりはなかった。

――…今だけ…。

瞼の裏を、見知らぬ『誰か』がかすめていく。でも、アデラインはそれを見なかったことにした。

今だけでいい。ルトヴィアスを暖めるのは、自分でありたい。

「……いけない?」

アデラインの言葉に、ルトヴィアスが微かに首を振る。

「いいや」

ルトヴィアスの腕にゆっくりと力がはいり、アデラインの背中を覆った。

ルトヴィアスの感じている寒さが、皮膚を伝ってくる気がする。早く早く、少しでも早く、彼の心が暖まりますように。アデラインも、腕を伸ばして彼を包んだ。

――……ルトは…何故。

父親に恨まれているなどと、考えるのだろう。リヒャイルドが自分を守るためにどれほどのことをしたかわかっているのに、その上で何故、父親の愛情を疑うんだろう。それが愛情ゆえだと、どうして信じきれないのだろう。

――…だから、陛下の前で猫が脱げないのかしら…。

何故、信じきれないのだろうか。何だろうこの違和感。

――…信じきれないと言うよりは…まるで…。

ルトヴィアスの口振り。リヒャイルドとの奇妙な距離感。すれ違い。

――…まるで、愛されるはずがないと、諦めているような…。

では何故、愛されるはずがないのか。ルトヴィアスが、そう思う理由は何だ。

ルトヴィアスが猫をかぶるのは、周囲が信じられないから。彼はリヒャイルドとリーナの前でも、猫をかぶっていた。

――…リーナ…様…?

アデラインの頭の中で、積み木がカタリと、一つ積み上がった。

墓前で母親への侮蔑をちらつかせたルトヴィアス。

積み木が、もう一つ。

短気で、直情的なルトヴィアスの性格。

また、積み木がもう一つ。

アデラインは、わずかに身を起こした。

「…アデライン?どうした?」

「…………」

見上げた、母親似の美しい顔。

顔が母親似なら、では、性格は?

――…陛下より…むしろ……。

チチチ、と鳥が鳴いた。

それに気をとられ、アデラインは我に返る。

「アデライン?」

「あ…」

ルトヴィアスが、アデラインを覗きこんでくる。

「あ…ううん。何でも…」

――…まさか…そんなこと…。

あるはずがない。積み上がった積み木を、アデラインは霧散させた。そんな、馬鹿なことがあるわけない。

――…こんなこと考えるなんて…。ルトへの冒涜だわ。

ルトヴィアスだけではない。リヒャイルドに、リーナに、そして前王への冒涜だ。

窓のむこうで、青つぐみがまた鳴いた。アデラインは首を回し、視線を外にやる。巣の傍に、もう一羽つぐみがとまり、卵を温める母鳥と、会話をするように鳴き合い、頭を寄せあっている。

「父親?」

「みたいだな」

「…父親も卵を温めるの?」

「温めない代わりに餌を運ぶ鳥もいるけどな」

「…孵ったらどのくらいで巣立ち?」

ルトヴィアスは少し考え込むふうだったが、やがて答えた。

「20日前後」

「……本当によく知ってるのね」

アデラインは、感心して何度も頷いた。

本から学んだのか、それとも少年時代から観察していたのか、鳥に関することで、彼の知らないことなどないのではないかという気がしてくる。

自由がなかった幼い日々。

そして自由を制限された皇国での日々。

空を自由に飛ぶ鳥を、窓の中で、ルトヴィアスはどんな思いで見ていたのだろう。

そして今、自由を手にしたはずの彼が、誰より不自由に見える理由は…。

意識の端に転がる積み木を、アデラインは意識せずにはいられなかった。

「何考えてる?」

ルトヴィアスの額が、アデラインの額に軽くぶつかる。

「…わかりやすいんでしょう?」

「魔術師じゃあるまいし、全部わかるわけじゃない」

ああ、よかったと、アデラインは安堵した。今、心の内を読まれては困る。

「それで?さっきから思案顔なのはどうしたんだ?何を考えてる?」

もう一度尋ねられて、半分上の空だったアデラインは口がすべった。

「あなたのことを」

「……何?」

ルトヴィアスが眉を寄せ、アデラインは口を押さえた。

――…わ、私ったら…。

まるでルトヴィアスに恋しているような口ぶりだった。このままではルトヴィアスに誤解されてしまう。

「ち、違うの、あの…」

慌てるアデラインの唇を、ルトヴィアスの唇が(ついば)んだ。

「…ル」

「今のはお前が悪い」

「え?ちょっ待…」

言葉と口を塞がれる。

強張ったアデラインの唇を割るようにして、ルトヴィアスの舌が咥内にはいってきたので、アデラインは驚いてルトヴィアスの肩にしがみついた。

舌が絡まり、息があがる。

瞼の裏の暗闇の中で、唾液の混ざる音が、妙に響く。

こんな口付けは初めてだ。

――…どう…して?

どうしてルトヴィアスの唇が、手が、眼差しが、こんなに熱いのだろう。

熱くて溶けてしまいそうだ。

背筋を、不思議な痺れが駈けていく。

すると、体から力がぬけて、アデラインはルトヴィアスに全体重をかけざるを得ない。

――…落ち…る。

足下が崩れて、どこかに落ちてしまう。

ルトヴィアスに助けを求めようと必死に指先に力をこめるが、何故か口づけが深くなった。

「……ん…」

唇の間から、アデラインは吐息をこぼす。

すると突然、ルトヴィアスは勢いよくアデラインから身を離した。

「………」

「ル…ルト?」

酸欠で今にも座り込みそうなアデラインは、潤んだ瞳でルトヴィアスを見上げた。

ルトヴィアスは、気まずげに顔を背けると、アデラインの腕をひいた。そして、すぐ傍にあった客用の椅子に座らせる。

「……悪かった」

ルトヴィアスは謝りながら、自らの袖口でアデラインの口元を拭う。

何を拭っているのかと、不思議に思いながらされるままにしていたアデラインだが、ルトヴィアスの口許を見て、理解した。

――…く…口紅…。

薄い色ながら、アデラインの唇を彩っていた紅が、ルトヴィアスの唇に付着している。じわじわ、と恥ずかしさが込み上げる。

「ルト…あの…」

ルトヴィアスの口元を拭こうと、腕をあげ、アデラインは戸惑った。今日着ているドレスは白に近い。それで口紅を拭こうものなら、間違いなく後々染みになるのではないか。いや、そもそも袖口に口紅などつけては、衣装を管理するミレーは見逃しはすまい。勘のいいミレーのことだ。口紅を拭いた理由に、すぐ気付いてしまうのではないか。

――…は、恥ずかしくて…死ぬかも…。

完全に固まったアデラインの前で、ルトヴィアスがかまわず自分の袖で口を拭った。

「あ…服が…」

ルトヴィアスの服が汚れてしまった。アデラインが慌てる一方で、ルトヴィアスは気にする様子もない。

幸い袖口は濃い色で、紅の汚れは目立たなかった。

「…ルト」

アデラインはルトヴィアスを見上げた。

「どうした?」

「……」

「アデライン?」

――…どうして、こんな口づけをしたの?

初めてでもわかる。これは、恋人同士で交わされるものだ。

「……あの…」

もしかして、少しは期待していいのだろうか。

恋や、愛とまではいかなくとも、ルトヴィアスにとって多少は大事だと思って貰えているのかもしれない。

だから、あんな深い口づけをしたのかもしれない。

そうなのか?と尋ねてみたいが、答えが返ってくるのが怖くて、疑問を声に出せない。それに、もしもアデラインの勘違いなら、きっとお互い気まずくなる。それが何より怖いし、恥ずかしい。

「アデライン?」

「何でもない、の」

すべて誤魔化すために、アデラインは無理矢理微笑んだ。 ルトヴィアスは特に訝しがることもなく、アデラインから青ツグミへと視線をすべらせていく。母鳥と交代した父鳥が、巣の中に踞っている。巣の枝や葉を嘴でつついて、直しているのが可愛らしい。立ち上がり、ルトヴィアスの隣でそれを眺めながら、けれどアデラインはまだ思考の切り替えが出来ない。

恋人の口付け。

熱い眼差し。

優しい腕。

ルトヴィアスへの想いと、少しでも女として見てくれているのかという哀れな期待は、日に日に膨れてアデラインを苦しめる。

――…もう、これ以上好きになりたくない…。

抑えて、隠しておけなくなってしまう。そうしたら、アデラインは彼の手を離せなくなる。ルトヴィアスを独り占めしたくて、きっと『妃』としての立場を忘れてしまう。

そうなったら、終わりだ。妃の義務を果たさないアデラインを、ルトヴィアスは見捨てるに違いない。

――…そばにいられなくなる…。

それだけは嫌だ。

愛されなくてもいい。 他の女性を想い続けていてもかまわない。 ただ、そばにいたい。

アデラインは、そっとルトヴィアスの腕にすり寄った。

「…本当に…今日はめずらしいな」

ルトヴィアスが小さく笑って、アデラインを腕の中に招いてくれる。その顔が嬉しそうに見えるのは、そうであって欲しいというアデラインの願望ゆえだろうか。

ルトヴィアスの腕に包まれたアデラインの意識からは、積み木の存在は跡形もなく消え去っていた。


2018.6.21 ルビを訂正しました。

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