第三十六話 空の散歩
シヴァが大きな翼を力強くはばたかせると、みるみる地上が遠くなる。アデラインとルトヴィアスを乗せて、まるで草原を駆け抜けるように、シヴァは空を駆けた。 頬にあたる風が気持ちいい。 王宮の屋根を上から見下ろす日が来るなんて、今まで想像したこともなかった。
「…すごい!」
アデラインが興奮して声を上げると、背後のルトヴィアスが、軽く笑った気配がした。
「怖くないか?」
「ちっとも!」
怖いものか。幼い頃からの夢が現実になったのだ。
『議会が休会の日にシヴァに乗せてやる』とルトヴィアスが約束してくれてから、アデラインは今日この日を指折り数えて待ち焦がれていた。だが、休会だからとルトヴィアスの仕事が減るわけではない。ルトヴィアスへの謁見の希望者はいつだって列を作るし、御前会議は今日も長引いた。しかも、どうやら今日のこの時間をつくるために、ルトヴィアスは昨夜遅くまで執務室にこもっていたらしい。そんな負担をかけてしまったのが申し訳なくて、アデラインはルトヴィアスに謝った。シヴァに乗せてもらうのはまたの機会でいい。どうか休んで欲しい、と。けれどシヴァに馬具をつけていたルトヴィアスは、少し怒ったように『だまってろ』と言うとアデラインを強引にシヴァの背に放り投げた。普通の馬にも乗ったことがないアデラインが狼狽えている隙に、ルトヴィアスは自らもシヴァに飛び乗る。そしてシヴァに横乗りしているアデラインの腰を片手で抱えこみ、もう片方の手で手綱を強くさばいたのだ。急激な浮遊感に、アデラインはきつく閉じ…そして恐る恐る開いた時には、既にシヴァは風にのっていた。
アデラインのすぐ横を、青っぽい鳥が数羽追い抜かして行く。
「あれは…何て鳥です?」
アデラインは尋ねた。
先程までの遠慮などもはやすっかり忘れている。
「ああ、ツグミだな」
「ツグミ?」
アデラインはルトヴィアスを見上げた。
「でも青いわ」
「お前の知ってるのは多分冬鳥のツグミだ。茶色くて首に斑点模様があるやつだろう?」
アデラインは頷いた。そういえば、彼は鳥に詳しいのだ。
「青ツグミは初夏に山越えしてきてルードサクシードで卵を育てる。ツグミより体も大きい」
そう説明するルトヴィアスのすぐ頭上を、また青ツグミが飛んでいく。
ルトヴィアスが悪戯を思い付いたような顔で笑った。
「しっかりつかまってろよ!」
シヴァの腹を、ルトヴィアスが軽く蹴る。白い翼が風を掴んで、大きくばさりと鳴った。
「え?…きゃ――っ!」
青ツグミを追いかけるように、猛然と駆け始めたシヴァに、アデラインは歓声を上げて喜んだ。そんなアデラインにつられたのか、ルトヴィアスも声を上げて笑っていた。
ルトヴィアスに支えられてシヴァから降りたアデラインは、地上に足をつけるなり、その場にへたりこんでしまった。
「あ…あれ?」
「大丈夫か?」
ルトヴィアスが腕を引っ張ってくれたので何とか立てたが、彼に寄りかからなければ立っていられない。足に力が入らないのだ。
「あの…何だかふわふわして…」
「飛んだあとは誰でもそうなるんだ。しばらくつかまってろ。自然になおる」
とはいえ、彼の言うとおりにするわけにはいかない。端から見れば、アデラインがルトヴィアスに抱き付いているようにしか見えないだろう。
近くにはいないが、ライルやデオ、それにルトヴィアス専従の騎士や侍官が、こちらを見ているはずだ。それに、ここは内宮に接した中庭だ。回廊を通る女官も多い。悪いことをしているわけではないが、やはり見られるのはまずい気がするし、恥ずかしかった。
アデラインは僅かにルトヴィアスから身を離す。
「も、もう大丈…っきゃっ」
ルトヴィアスと距離をとろうとしたアデラインだったが、またよろめいてしまい、結局ルトヴィアスの腕に支えられた。
「無理するな。つかまってろ。さっきはべったりくっついてただろ」
「べ、べったりって…っ!」
みるみるアデラインの頬は紅潮していく。確かにシヴァに乗っている間、アデラインはルトヴィアスにしがみついていた。でもそれは、そうしなければ落ちてしまうからだし、それに空の上では人の視線を気にする必要がない。
ルトヴィアスが呆れたように言う。
「そろそろ慣れそうなものだがな…」
というのは、ルトヴィアスに触られることに馴れれば、アデラインの過剰反応もなくなるはずだという、ルトヴィアスの持論のことだ。
「だから…っ絶対無理だと言ってるのに…!」
アデラインは必死に反論した。当初から、ルトヴィアスの持論にアデラインは否定的だ。百歩譲ってルトヴィアスに触られるのに慣れる日が来ても、アデラインがルトヴィアスに恋する限り、触られて平気な日など未来永劫訪れない。
「いや、まだ触る程度が足りないだけかもしれない」
「十分に足りてます!」
ルトヴィアスはいつのまにかアデラインをからかって遊ぶ体勢だ。早く逃げなくては、また蜂蜜に溺れながら釜茹でにされる。ルトヴィアスの胸を押しやり、アデラインは必死に足を踏ん張って歩こうと試みる。が、やはりガクリと膝をついてしまった。
ルトヴィアスが笑いを堪えながら、アデラインに手を差し出した。
「ほら、つかまれ」
「…っ苛めるから嫌!」
「わかった。もう遊ばない」
「やっぱり遊んでた!」
差し出された手を払いのけ、アデラインは自分で立ち上がる。今度は立ち上がれたが、まだふらつく足では満足に歩けない。
背後でルトヴィアスが、くっくっと笑う。
「…生まれたての小鹿よりひどいぞ」
「黙っててください!」
「ほら」
ルトヴィアスが笑いを噛み殺しながら、アデラインの前に手を出す。
「悪かった。謝る。だからつかまれ」
「…」
「アデライン」
その声は優しくて、そして甘かった。
――…悔しい…っ!
こんな声で名前を呼ばれたら、ルトヴィアスを怒れなくなってしまう。
「…ルトのいじわる…」
「悪かった。ほら」
促すように揺れた手に、アデラインは唇を噛み締めながらも、自らの手を重ねた。途端に胸に広がる熱と安心感に、今日はむしろ腹が立つ。
「…バカ」
「はいはい」
ルトヴィアスは笑いながら頷いている。反省していないことは、一目瞭然だ。
――…ずるい!
彼が何気なく笑う度に、アデラインは自分の恋を自覚させられる。好きになった方が負け、とはよく聞くが、あの言葉は真実だ。きっとこれから先一生、アデラインはルトヴィアスに苛められてもろくに文句も言えず、この美しいのに無邪気な笑顔で丸め込まれてしまうだろう。
「そろそろ機嫌直…」
ルトヴィアスの言葉が不自然に途切れ、アデラインは不思議に思って彼を見上げた。ルトヴィアスの顔からは、既に表情が削げ落ち、視線はアデラインを通りすぎてずっと向こうにそそがれている。その視線をアデラインも追いかけた。
背の高い木も、目を楽しめる植物もない、乗馬用の広い庭。その庭の内宮側にある回廊に、10人ほどの人影がいた。侍官や女官を従えたその人は…。
「…国王陛下…」
アデラインは呟いた。
背中にかかる長めの髪を結うこともなく、裾の長い上着を羽織った軽装で、リヒャイルド王はこちらをじっと見ている。遠目だが、驚いたように目を見張っているのが見てとれた。
「…あの…ルト。ご挨拶に…」
行った方がよいのではないかと、アデラインが口を開いた時、シヴァがばさりと翼を羽ばたかせた。
「…行ってこい。遠くには行くなよ」
ルトヴィアスの声に返事をするようにいななくと、シヴァは走りだし、いくらも助走しないうちに飛び立った。ルトヴィアスとアデラインを乗せない分身軽になり、自由に飛べるのを楽しんでいるように見える。それをアデラインが見送っていると、ルトヴィアスが歩き始めた。
「ルト?」
「…」
繋いだ手がそのままだったので、アデラインもついていく。
リヒャイルドの立つ回廊の手前で、ルトヴィアスは跪いた。アデラインもそれに倣う。
「―…父上」
顔を上げたルトヴィアスは、それはそれは立派な毛並みの猫をかぶっていた。
「お加減はよろしいのですか?ご気分が優れないとききましたが」
「優秀な後継ぎが私の代わりに会議に出てくれたので、ゆっくり休めたよ。ありがとう。少し外の空気が吸いたくて歩いていたんだ」
リヒャイルドは穏やかに微笑んだ。
――…この笑いかた…。
ルトヴィアスが猫をかぶった時の笑い方に良く似ている、とアデラインは思った。ルトヴィアスは完全な母親似だ。リヒャイルド王にまったく似ていないからと、親子関係を疑問視する心ない噂もあるが、こんなところが良く似ているなんて。
「そうですか。では私どもはこれで失礼いたします」
「…え?」
アデラインは驚いて声を上げた。
――…これだけ?
世間話の一つもしないでは、挨拶が形だけのものだと言っているようなものではないか。
「行きましょう。アデライン」
「あ、あのでも」
引き止めようとしたが、ルトヴィアスは強くアデラインの手を引いて、会釈すらする余裕すらアデラインには与えてくれない。
「アデライン嬢。ルトが飼っている猫を君は知っているのかい?」
「―――え?」
背中に投げられた疑問に、アデラインはびっくりしてリヒャイルドを振り向いた。ルトヴィアスも肩を揺らして立ち止まる。
「あ、あの…」
何と答えればいいのかわからない。リヒャイルド王は、ルトヴィアスが猫をかぶっていることを知っているかと、アデライン問うているのだ。知っていると、正直に肯定してもいいのだろうか。それを問うということは、ルトヴィアスが猫をかぶっていることを国王も知っているはずだ。でも、それなら何故わざわざ、侍官や女官の耳もあるこの場所で、そんなことを言い出すのだろう。
「失礼します!」
ルトヴィアスが怒鳴るように再度言って、アデラインを引っ張った。速足で歩く彼の表情は見えない。リヒャイルドに声が聞こえないだろうほど離れた頃、アデラインはルトヴィアスに話しかけた。
「ねえルト」
「…」
「ルト」
もう一度呼びかけると、ルトヴィアスの歩みがやや緩やかになる。
「ねえ、ルトは陛下の前でも猫をかぶってるの?それを陛下は知ってるの?」
「…」
ルトヴィアスが立ち止まるのにあわせて、アデラインも立ち止まった。ルトヴィアスとリヒャイルドの不仲説は、やはり噂話の定番だ。けれど公務や政務で顔をあわせる彼ら親子を見る限り、少なくともアデラインの目には不仲には見えなかった。
――…でも…確かににルトが陛下の前で猫を脱いでいるのも見たことがないわ…。
猫を脱がない、つまりルトヴィアスは父親を信頼していないということか。
「どうして?お父様がお嫌い?」
アデラインは、ルトヴィアスの顔を覗きこんだ。拗ねた子供のような表情をしている。
ぼそぼそと、ルトヴィアスは口を動かした。
「…べつに……成人男子が父親にベタベタする方がおかしいだろ」
何だか言い訳に聞こえて、アデラインは笑ってしまった。
「…おい」
「ごめんなさい」
睨まれて、アデラインは謝った。込み上げた笑いを何とか飲み込み、アデラインはルトヴィアスに向き直る。
「ベタベタしなくても…一緒にお酒を飲むとか」
世間一般では、父親は息子とお酒を飲むのが楽しみだときいたことがある。アデラインの父親でさえ、いい葡萄酒が手にはいるとそれを口実にオーリオを呼び出す。そんな時、オーリオは緊張して酔えないらしいが、宰相は終始機嫌がいい。お酒に強ければ自分も同席を許されただろうかと、羨ましかったこともある。
「父上は酒が飲めない」
ふてくされたような横顔に、アデラインは笑いをこらえるのがむずかしかった。でもここで笑えば、きっと彼は機嫌を損ねる。ごほんと、わざと咳払いすることで、アデラインは平静を装った。
「ルトってお父さん子なのね」
「…………………はあ?」
ルトヴィアスが、盛大に顔を歪ませる。
「だって、本当は陛下が好きなのでしょう?お酒がダメならお茶にお誘いしたら?」
「バカ言え!この年で父親と二人並んで茶会なんて気色悪い!」
「照れなくてもいいのに。私もお父さん子よ?」
「やめろ!一緒にするな」
ルトヴィアスが珍しく狼狽するのが何だか可愛らしくて、アデラインは散々彼を苛めて楽しんだ。アデラインで遊ぶルトヴィアスの気持ちが、少しわかる。ルトヴィアスも遊ばれる側になって、その悔しい気持ちが少しはわかっただろう。
赤くなったり青くなったり、年齢より幼いくらい素直な反応を見せる息子と、彼に屈託なく笑いかける息子の婚約者を、リヒャイルドが嬉しそうに眺めていたのを、アデラインとルトヴィアスは知らない。
翌日。
自邸で朝食をとっていたアデラインのもとへ、侍従が慌てて一通の手紙を持ってきた。
「手紙?どなたから?」
アデラインは、手紙の裏に押された封蝋の印章を見て仰天した。国王の紋章だ。国王から手紙が届くなど、初めてのことだ。父親にあてられた手紙と間違えているのではと心配したが、おそるおそる確認した手紙の中身には、確かにアデラインの名前とお茶に招待したい旨が記されている。
――…お茶?
昨日のルトヴィアスとの話が聞こえていたわけではあるまいに、絶好の機会の到来だ。しかし、国王とお茶がしたいのはルトヴィアスだ。アデラインではない。
リヒャイルドと個人的に親しく話を交わしたことなど、今までまともになかったのに、何故自分がお茶に招かれたのか、まったく理解できない。
「お父様!」
「アデライン?」
王宮に向かおうと馬車に乗りかけていた父親をつかまえ、アデラインは相談した。
手紙を読んだ宰相は、アデラインと同じく怪訝な顔で首を傾げた。
「何故そなたが呼ばれたか私にも見当がつかん。けれど個人的な用事のようだな」
「何故わかるんです?」
「陛下の自筆だ」
「え!?」
アデラインは手紙を見返す。国王の自筆。何て畏れ多い。
「国王としての手紙なら、陛下は秘書官か私に代筆をお任せになる。自筆ということは個人的にそなたと話したいことでもおありになるのだろう。穏やかなお方だし、あまり気負わずにお伺いしなさい」
それだけ言うと、宰相は馬車に乗り込んで行ってしまった。残されたアデラインは、悩んだ末に意を決して王宮に向かうことにした。
「こちらでお待ちください」
女官に通されたのは、内宮の奥の国王の私室だった。豪華な調度品の数々は、けれど日常的に使われている気配があり、その部屋が完全な私的空間だと物語っている。
円卓の上には既にお茶の用意がされていたが、アデラインは席についていいものか、今更ながら迷っていた。
――…ルトと私をまちがえたのではないかしら?
あの手紙はルトヴィアスに渡されるべきもので、今日ここにいるべきなのはルトヴィアスだったのではないか。
――…ルトに一言言ってくればよかったかも…。
ルトヴィアスの執務室には寄ったのだが、ちょうど来客中でルトヴィアスにもオーリオにも会えなかった。
けれど一言、言伝てをしておけばよかったのかもしれない。
ガチャリと隣室の扉があき、リヒャイルドが姿を現した。
「突然呼び出してすまなかったね、アデライン嬢」
にこやかな国王は、外套こそつけていないが、髪を結い、きちんと長衣を着ていた。
「とんでもございません。お招き頂き嬉しく存じます」
「さぁ、座って」
促されるままにアデラインは椅子に腰を下ろし、リヒャイルドは円卓を挟んで向かい側に座った。
「ありがとう。下がっていいよ」
一緒に入ってきた女官に、リヒャイルドは退出を命じた。女官が頭を下げて部屋から出ていく。アデラインは緊張で体を固まらせた。
病弱な国王は、ルトヴィアスが帰国してから頻繁に寝込むようになったらしい。昨日も気分が優れないようなことを、ルトヴィアスが言っていた。それなら今日も本調子ではないのかもしれない。起きていてもいいのだろうか。
「あの…お具合は大丈夫なのですか?」
アデラインが訊ねると、リヒャイルドは穏やかに口角を緩めた。
「ありがとう。心配いらないよ」
病んで老け込みそうなものを、既に四十路だというのに、リヒャイルド王はルトヴィアスの父と言うよりは兄のように見える。すっきりとした輪郭に鼻筋、薄い唇。穏やかな茶色の瞳は、初めて会った10年前と変わらない。
「昨日は実際大したことはなかったんだ。少し食欲がないのを侍官が大袈裟に騒ぎ立てたせいで、仕方なく寝ていただけだから」
困ったような口ぶりで、リヒャイルドは言った。
「…ルトヴィアスが帰ってくるまではと…ずっと気を張っていたものだから、無事に帰ってきたあの子を見て安心して気が抜けてしまってね。本当に立派になって……もう心配ない。いつでもリーナのところに行ける」
目を伏せた国王の弱気な発言に、アデラインはどきりとした。本当に今すぐ消えてしまいそうな、そんな儚さを感じたのだ。
「陛下、そんな…」
「…と思っていたのだけれど」
「え?」
アデラインは目を瞬かせる。
ヘラっとしか形容出来ないような能天気すぎるほどの笑顔を、リヒャイルドから向けられたからだ。さきほどのあの儚さはどこへ行ってしまったのか。
「予想より早く孫が見れそうだから、もうちょっと長生きしようと思ってるんだ」
リヒャイルドの孫発言に、アデラインはおののいた。
「…そ、そうで…すか…」
とてもではないが、以前同じ話題が飛び出た時のルトヴィアスのような返事は、アデラインにはできない。不用意な返答をすれば、間違いなく恥をかく。
「ああ、孫孫とうるさいね。せかすつもりはないんだが、この年になると楽しみも少なくて。老人のたわごとだと受け流してくれてかまわないから」
ひらひらと、顔の前で手を振って笑うリヒャイルドは、とても老人には見えない。アデラインはもはや何と答えていいかわからず、曖昧に笑うにとどめた。
アデラインはリヒャイルドをずっと、物静かで穏和、そして賢明な人物だとばかり思っていたが、実際は物凄く独特で自由な人物なのかもしれない。そんな天然…、いや独特な自称老人が、一体アデラインに何の話があって呼び出したのだろう。
かちゃんと、紅茶の茶器が鳴った。
突然訪れた沈黙に、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえる。
その窓を眺めていたリヒャイルドが、静かに話し始めた。
「ルトは―…あの子は子供の頃、手のつけられないやんちゃ坊主でね」
「…そうだったのですか?」
アデラインの記憶が正しければ、確か聖サクシードの生まれ変わりと讃えられていなかったか。
「あの…神童…とか…」
「ああ、言われてたね。実際、出来はよかったよ。何をさせても大抵人並み以上に出来たし……やんちゃぶりはまさに神がかっていた」
リヒャイルドの目が、急に細くなる。げっそりと、やつれたふうに。
「本当にすごかったよ。リーナの…妻の鏡台を泥だらけにするなんて朝飯前。シヴァを室内にいれて鬼ごっこをしたり、歴史の講師が嫌だからと二階の窓から飛び降りて逃げ出したり、私の天馬に勝手に乗って大神殿の大搭の屋根にのりつけたこともあった。結局、何故あんなことをしたのかは分からず仕舞いだな…」
「…」
大神殿の大塔は、とてつもない高さを誇る。10歳にもならない子供があの高さに天馬でのりつけたのかと思うと、アデラインは眩暈がした。
「一番強烈だったのはカエル事件かな」
「カエル事件?」
「ルトヴィアスが寝台の下にカエルの卵をいれた桶を隠していて…生き物が好きな子だったから観察していたんじゃないかな。そのうちに雨季になって、カエルだらけで部屋中足の踏み場がなくなって…」
その惨状を想像して、アデラインは背筋を凍らした。カエルは大の苦手だ。
「妻は卒倒するし、扉の隙間からカエルが廊下に脱走するし…あの時はさすがに参ったよ」
フフ、とリヒャイルドは笑った。
いつの間にか、思い出を懐かしんでいる顔だ。
優しい顔だった。満ち足りたような、見ているアデラインの心まで温まる気がして、アデラインは微笑んだ。
「陛下はお叱りになったのですか?」
きっとリヒャイルドは、ルトヴィアスに甘い父親だったのではないか、とアデラインは思った。リヒャイルドが子供を叱る姿が想像できない。アデラインの思ったとおり、リヒャイルドは苦笑いしながら首を振る。
「いいや、ろくに叱れなかったな。私は子供の頃からこうだから、外を飛び回るルトヴィアスが眩しくて、丈夫に育ってくれたのが嬉しくて…それに…」
そこで、リヒャイルドの顔が曇った。
「鬱憤を晴らしているのだろうと考えると…私もリーナも、強く叱れなかった」
「…鬱憤、ですか?」
アデラインは首を傾げた。
リヒャイルドは、何か苦いものを噛み砕くような顔を、また窓の外にむけた。
「情けない話だが…私はろくに剣も握れないし、弓をひく腕力もない。他に男兄弟がいなかったから立太子されはしたが…先王から見れば本当に頼りない、不甲斐ない後継ぎだっただろう。それもあって、ルトヴィアスが生まれた時、父は大層喜んでね。その期待たるや、ルトヴィアスが気の毒になるほどだった。帝王学、剣術、弓術、語学の他にも、行儀作法をはじめとするあらゆる教養を、つめ込めるだけあの子に詰めこもうとしていた。…臭いや味で毒を判別出来るように、毒の勉強もさせて…試験だと、わざと食事に毒を混ぜることもあった」
アデラインの心臓が、大きく脈打った。ルトヴィアスが毒に詳しいのは、そんな経緯があったのだ。
――…いくらなんでも…子供に毒を食べさせるなんて…。
常軌を逸している。
リヒャイルドが言った『鬱憤』とは、そんな異常なほどの英才教育で積もり積もったものなのだろう。その鬱憤を、幼いルトヴィアスは数々の悪戯で解消していたのかもしれない。そう思えば、リヒャイルドがルトヴィアスを叱れなかったのも頷ける。
「…前王陛下を止めることは…出来なかったのですか?」
国王に対して無礼だとは思いつつ、アデラインは尋ねた。リヒャイルドは、当然、というふうに頷く。
「止めたよ。何度も。けれど私の言うことなど、聞いてくれる方ではなかったからね。…あの子が誤って毒を飲み込み、二晩意識が戻らなかった時は、さすがの父も少し反省したらしい。以来食事に毒をいれることはしなくなった。あの頃は何て無茶苦茶なと憤ったが……皮肉なことに役にたつとはね」
リヒャイルドが、アデラインをまっすぐに見つめた。
「…食事をつくってくれたそうだね。ルトのために」
「え?あ…はい」
「ありがとう」
リヒャイルドは、深々と、頭を下げた。慌てたのはアデラインだ。まさか国王に頭を下げられるなんて、考えてもみなかった
「こ、困ります陛下!お顔を上げてください!」
「本当にありがとう。あの子にとって何の心配もなく食べれる食事は、本当に嬉しかったはずだ」
玉葱のスープをまた作って欲しいと言ったルトヴィアスの声が、耳に甦った。どんな思いで、ルトヴィアスはああ言ってくれたのだろうか。もしかしたら彼は、アデラインの作る食事を、アデラインが思っていた以上に喜んでいてくれたのかもしれない。
「……私は…ただお役に立ちたかったんです…ルトの」
アデラインは目を伏せた。
両親に守られ、何不自由なく育てられたアデラインの子供時代。忙しい両親と食事が出来ないことを、寂しがってミレーを困らせたこともある。
けれど2才しか年の違わないルトヴィアスは、食事に毒がはいっていないか怯えるような生活を送っていたのだ。それを考えると胸が痛い。
リヒャイルドは、淡々と話を続けた。
「父は―…ルトヴィアスの周囲の女官や侍官にルトヴィアスを見張らせた。ルトヴィアスが勉強や修練を少しでも怠けたり、行儀作法に反すると、すぐに報告させ、ルトヴィアスを厳しく仕置きした。食事を抜いたり、地下牢に閉じ込めたりね。少しでも失敗すれば告げ口されて、罰を与えられる。ルトヴィアスが周囲を信用できなくなるのも無理からぬことだ。悪戯をすることも、監視の目をくぐって遊びに行くことも、だんだん減って…。あの子の目が少しずつ冷たくなっていくのを、私は見ているしかできなかった」
あわせた両手で眉間を押すようなリヒャイルドの仕草は、まるで神殿で女神に讒言「懺悔」 する罪人だった。
「もとはやんちゃなあの子が、神経を張り詰めて一挙手一投足まですべて期待される『後継ぎ』であらねばならないと自分を律して…。君と婚約する頃には私と妻の前でも猫を脱がなくなっていた」
「……リーナ様が原因ではなかったんですね…」
「リーナが何か?」
不思議そうなリヒャイルドに、アデラインはただ笑った。
「いえ、私の勘違いだったようです…」
ルトヴィアスが人前で本来の自分を晒さないのは、誰も信用出来ないからだ。けれど根本的な原因は、母親のリーナ妃が関係しているとばかりアデラインは思っていた。だが、リヒャイルドの話を聞く限りでは、どうやら違うらしい。
――…なら、あれはなんだったのかしら。
リーナの墓前で、ルトヴィアスが一瞬見せた蔑みのような感情は。
「その上、国のためとはいえ私はあの子を人質にしてしまった。それにリーナも…私は守れなかった。ルトが噂通り私を恨んでいても仕方がない。あの子は私が許せないのだ。だから、私の前で猫を脱いではくれないのだろうね…」
寂しそうに、そして諦めたように呟くリヒャイルドに、アデラインは思わず大声を上げてしまった。
「いいえ!いいえ陛下!」
――…恨むだなんて、とんでもないわ!
アデラインの大声に、リヒャイルドはきょとんと目を見開いている。
「アデライン嬢?」
誤解を解かなければ。アデラインはその場で身を乗り出すようにして、リヒャイルドに訴えた。
「ルトは陛下を恨んでなんていません。ルトが陛下の前でも猫をかぶっているのは…何か理由があるんです。それが何なのか…私にも分かりません。でも、陛下を恨んでいるからじゃありません。ルトは…陛下を…お父上を大切に思っています。恨んでいるなんて…お願いします陛下。ルトを誤解しないでください。ルトを信じてください」
こんなふうに、親子が擦れ違うなんて切なすぎる。悲しすぎる。
二人に足りないのは何だろう。それさえ補えば、分かり合えるはずなのに。
黙って聞いていたリヒャイルドが、安心したように、大きく息をついた。
「―…リーナが…」
「え?」
リヒャイルドは、アデラインの中に亡き妻を見つけたように、懐かしそうに目を細めた。
「君が側にいるならルトヴィアスはきっと幸せになれると言っていた」
「…リーナ様が…そんなことを…」
遠いあの日、リーナ妃は言った。 『ルトヴィアスは果報者』と。あの時はその意味が分からなかったが、リーナ妃はアデラインを、ルトヴィアスの妃として認めてくれていたのかもしれない。
「ルトが…君の前では猫を脱いでいるとわかって、本当に嬉しかったよ。これから長い年月、夫婦として共に歩む君があの子を理解してくれるなら…こんなに嬉しいことはない」
「陛下」
「アデライン嬢、どうか私の大切な息子をよろしくお願いします」
リヒャイルドは、そこでまた、頭を下げた。
深く、深く。
個人的な用事のようだ、と今朝アデラインの父は言った。その言葉通り、今そこで頭を下げているのは、国王ではなかった。
国や身分など関係なく、ただただ息子を心配する一人の父親に、アデラインも深く、頭を下げた。
2018.6.21 カエルについて不自然な描写があったので訂正しました。(ご指摘ありがとうございました。)




