第三十五話 厩舎の昼食
少し前の話だ。
初めての口づけに大混乱し、ルトヴィアスから逃げ回っていたアデラインが、とうとうルトヴィアスに捕獲された日のこと。
いつものように、アデラインは三角巾に丈の短い簡素なドレスと前掛け姿で、シヴァの厩舎に昼食を持っていった。厩舎の扉をそっとあけて、パンとスープが入った籠をルトヴィアスに渡して、右向け右で脱兎のごとく走り出す。そんな逃走劇に、それまで3回アデラインは成功していた。というよりは、ルトヴィアスが見逃してくれていたのだ。仕方がない、というような苦笑でアデラインを見送ってくれていた彼は、けれど4回目をそうはしてくれなかった。ルトヴィアスは、籠ではなくアデラインの手首を握り、離さなかったのだ。手首から伝わるルトヴィアスの手の熱に、アデラインはあっけなく抵抗する気力を失い、赤面して項垂れる。
「で、殿下…手を」
「ルト」
「え?」
「人を呼ぶときは名前でと教わらなかったか?」
つまり、彼は名前で呼べと言っているのだ。けれど夫になるとはいえ、王族を名前で呼ぶなど畏れ多過ぎる。
「で、でも殿下…」
「ル・ト」
頑なに彼は名前を主張する。こうなると、アデラインに勝ち目はない。
「…ル…ルト?」
「ん?」
満足げに返事をする、その微笑みが眩しすぎる。
アデラインは、慌てて俯いた。直視しつづけたら、絶対に目が溶ける。
「ルト。て、手を放して…」
「嫌だ」
「えええ?」
アデラインは絶望して情けない声を上げたが、ルトヴィアスは少し苦笑しただけで、手を緩めない。
「離したら逃げるだろう?」
「…に、逃げませんから」
「約束できるか?」
「し、しますから…」
お願いだから放して欲しい。このままだと目に続いて、手首も溶ける。
ルトヴィアスは、疑わしげにアデラインを見下ろしていたが、やがて手を放してくれた。アデラインが逃げたところで、すぐ捕まえられると思ったのかもしれない。
「座れ」
「…はい」
いつも椅子替わりにしていた踏み台に、アデラインは腰掛けた。間違ってもルトヴィアスを真正面から見ないように、注意深く。
ルトヴィアスは樽の上に籠を置くと、中を物色し始めた。
実は彼はいつも立ったまま食べている。樽や柵に寄りかかっている時もあり、その様子はまったく大国の王子らしくない。ところが、行儀悪い立ち食いまで、彼にかかれば絵画のように美しい光景に見えるから不思議だ。画名『厩舎の昼食』。
ルトヴィアスはやはり立ったまま、スープを飲み始めた。
ああ、金の額をつけて、自室の暖炉の上に飾りたい。朝な夕なに眺めて愛でるのに。
「すっかり料理上手になったな。手を切ることもなくなったし」
食事作りを始めた当初、包丁による切り傷だらけだったアデラインの手は、今はすっかり綺麗だ。ただ洗い物のせいか乾燥気味なので、寝る前に香油を塗り込むことにしている。
アデラインは両手を胸の前で、こすりあわせた。
「でも…まだ山羊はさばけなくて…」
「……何でそこにこだわるんだ……」
ぶるる、とシヴァがいなないた。
しばらくルトヴィアスは黙って食べていたが、少し口ごもりながら話し始めた。
「食事の…ことなんだが」
「はい?」
琥珀色のスープを眺めていた彼の目が、アデラインへと向けられる。
「食事を作るのは今日で終わりにしてくれ」
「…え?」
「今日で最後だ」
ルトヴィアスは、悟すように繰り返す。
「…何故…」
彼は、食事を作ることでアデラインが忙しくなることを心配していた。けれど、結局アデラインの好きなようにさせてくれていたのに、何故。
「…あ。犯人がつかまったのですか!?」
食事に毒を盛る黒幕が捕まったのなら、確かにアデラインが作る粗末な食事を食べる必要はない。
だが、ルトヴィアスは首を振った。
「いいや」
「なら…」
「終わりだ」
「でも殿下」
素早くルトヴィアスの手が伸びてきて、アデラインの鼻をつまみ上げた。
「い!?痛…いたっ殿…」
「人を呼ぶときは?」
「な、名前でと教わりました!ルト!」
笑顔で脅され、アデラインは戦々恐々として要求に応じた。
「よし」
ルトヴィアスが手を放すと、アデラインはすぐに鼻を確認した。大丈夫だ。伸びてはいない。
「今後は、毒味した食事を食べることにした。お前にも毒味係をつける。悪かったな、俺がいないときに何も口にするななんて言って。窮屈だっただろう?」
「窮屈なんて!」
アデラインは慌てて否定した。
「そんなこと思ったことありません!でも…あの…何故です?食事もしないとまで仰られていたのに…」
一体何が、彼に決意をさせたのだろう。
ルトヴィアスは、再びスープに目を落とした。浮いていた野菜を、匙でかき混ぜて沈める。
「…俺の母親が毒で死んだのは?」
「…存じています」
「毒を鍋にいれたのが、母の毒味係の女官だったことは?」
ルトヴィアスの言葉に、アデラインは息を飲む。
「………知りませんでした…」
――…女官が…捕らえられたのは知っていたけど…。
リーナ妃が毒殺された時、アデラインも葬儀に参列した。11才になったばかりのアデラインに、事件の詳細を語ってくれる人は誰もいなかったが、それでも大人達の囁きに耳をそばだてればある程度のことはわかる。犯人が女官で、その女官も死んだらしいことも、聞くともなしに聞いた話だ。
その女官が毒味係だったなら、ルトヴィアスが毒味係を厭うのも納得出来る。彼に毒味係を信用しろという方が難しい。
けれど、だから尚更何故、彼は毒味係を受け入れたのか。
「俺は…毒見係が嫌なのは毒見係が信じられないからだと思ってた」
「…はい」
「でも、多分違ったんだ。俺は…俺の為に誰かが死ぬのが…怖かったんだ。あんな思いを誰かが味わうんだと思うと、怖くなったんだ…」
「え?」
首をかしげるアデラインに、ルトヴィアスは困ったように笑う。
「毒味係には…子供がいるかもしれない。夫か妻もいるかもしれないし、親や兄弟もいるだろう。もし俺の代わりに毒を飲んで毒味係が死んでしまえば、彼らは大切な人を失う。彼らにとって替えがきかない親を、子供を伴侶を、俺は奪うんだ」
矢で心臓を射たれたような気がして、アデラインは胸の辺りを押さえた。
――…私…そんなこと考えたことなかった…。
これまでアデラインは、ルトヴィアスが毒味係を受け入れさえすれば 事は解決するのだと、ずっと思っていた。でも、そんな簡単な事ではなかったのだ。
――…ルトが毒を飲む危険がないから安心、なんて思っちゃいけないんだ。毒味係が…ルトの代わりに毒を飲むかもしれないのだから…。
顔も名前も知らない誰かが、ルトヴィアスの代わりに死ぬかもしれない。
ルトヴィアスは、アデラインの表情の変化に気づいたようで、続きを話すかどうか迷う素振りを見せた。けれど、それでも口を開いてくれた。
「…俺が…人より多少顔形が良くて、読み書きが優れていたところで、俺が奪った『誰か』の替えになれるわけじゃない。…母上の替えが、誰にもつとまらないように」
誰かから、大切な誰かを奪ってしまうかもしれない。大切な誰かを奪われる痛みを知っているからこそ、ルトヴィアスはそれを恐れている。
――…オーリオが言うとおりなのかもしれない…。
ルトヴィアスは、人の痛みがわかる人だ。優しい人だ。そして、彼がそうであるほど国王という重責は、ルトヴィアスに重くのしかかるに違いない。
国王になったところで、ルトヴィアスは重責に苦しむだけかもしれない。重みに耐えられず潰れてしまうかもしれない。
――…でも…。
でも、彼に王になって欲しいと、アデラインは心から思った。王冠の重みを理解している彼こそが、国王に相応しいはずだ。
「それでも、俺は自分を優先しなくちゃいけない。それが義務だ。俺が死ぬのを許されるのは国の為になるときだけ。…と言いつつ、結局俺は自分が可愛いだけなのかもしれない。 けれど、そういうことを全てひっくるめた覚悟を俺は背負うべきなんだろうな。…俺は、多分その覚悟を背負うことを無意識に怖がって、ずっと毒見係をつけることを避けてたんだ」
その穏やかな口調とは裏腹、彼の表情は悲痛なほどの覚悟をすでに飲み込んでいるように見えた。
「………ご立派です」
「……やめろ」
眉を寄せて、ルトヴィアスは顔を背ける。
ルトヴィアスは本当に、自分が立派だとは思っていないのだ。
『卑下するな』とアデラインに言っておきながら、ルトヴィアスこそが、どこか自分を卑下しているように見えた。何故だろう。彼ほど美しく、高潔な人など、きっとどこにもいないのに。
目が熱い。 今にも涙が出てきそうだったが、何とか堪えた。何の涙なのか自分でも説明できないものを、ルトヴィアスに見せて心配させたくない。
自分はどれほどの覚悟が出来ていただろう。アデラインは己を省みた。
婚約した日。幼い頃は感じなかった王妃としての重圧。成長するにつれて感じるようになったその重さを、けれど今ほど重いと思ったことはない。 こんな重いものを、ルトヴィアスはずっと背負ってきたのだ。そしてこれからも背負っていくのだ。
「俺は…人より背負うものが多い…正直言って、重すぎると思う時もある」
アデラインから目をそらしたまま、ルトヴィアスが呟いた。
「…はい」
アデラインは相槌をうつ。
オーリオの言葉を、アデラインは思い出した。『国王の重責』『それを支えもなしにたった一人で背負えるとは思えない』。オーリオはそう言っていた。
ルトヴィアスが、目線を遠くに泳がせる。自分の心を探っているようだった。
「重いからと捨てるような無責任なことはしたくない。背負う覚悟もなく、欲しいからくれと安易に言う奴にくれてやりたくもない」
「はい」
「けれど…俺は多分、一人では背負いきれない。それらを背負って立つために、支えが必要だ。…だが、誰が支えになってくれるのか、俺にはわからない。誰を信用していいのか、見分けがつかない」
アデラインを見ていないその碧の目を、アデラインは食い入るように見つめた。彼が心のうちを話してくれるのは初めてのことだ。言葉に込められた彼の感情を、一欠片でさえも取りこぼしたくはない。
「はい」
「…だから、とりあえず手の届くところに寄りかかってみることにした」
「…つまり、ルトは…信じようとなさっているんですね?」
アデラインが確認すると、ルトヴィアスは顔をしかめた。
「その言い方はやめろ。体が痒くなりそうだ」
そんなルトヴィアスに呆れて、アデラインは笑った。
「またそんなことを言って」
お付きの侍官や騎士の前で、一度は猫を脱いだルトヴィアスだが、結局はかぶりなおしてしまっている。侍官達はルトヴィアスが品行方正な王子に戻ったことで安堵し、先日の彼の暴走などもう忘れてしまったようだ。
けれどオーリオの前でだけは、ルトヴィアスは相変わらず猫をぬいだままだ。あれだけ険悪だったというのに、昨日は執務室でまるで幼馴染みの喧嘩友達のように、互いに好き放題言い合っていた。オーリオが手配する毒味係だからこそ、ルトヴィアスも信じる気になれたのかもしれない。オーリオが、ルトヴィアスの『とりあえず』なのだ。
手探りでも、そうやって少しずつ信じられる人を見つけていけたなら、ルトヴィアスが猫をかぶる必要も、いつかなくなるだろう。勿論、警戒心が強いルトヴィアスにとっては、簡単なことではないはずだ。でも、彼は踏み出した。
「…悪かった」
「え?」
突然、ルトヴィアスが謝ってきたので、アデラインは戸惑った。
一体何に対する謝罪だろう。ルトヴィアスは言いだすのを躊躇ってか、口許に手をあてた。
「以前。お前の食事を毒見した」
「はい」
「悪かった」
「…え?」
今?と正直アデラインは思わないではなかった。
けれど、自分が毒見係を嫌がっていた理由を自覚したからこそ、ルトヴィアスはかつての自分の行為を省みることが出来たのかもしれない。もしくは、ずっと謝ろうと今まで機会を探っていたのかもしれない。そうだと考えると、アデラインはルトヴィアスが可愛らしく思えてしまった。
「もういいんです」
「それからもう一つ」
「まだ何かあるんですか?」
アデラインは身構える。そんなに謝られることをされた覚えがない。
「ある。基本的に、お前への要謝罪案件は日に日に増えている」
「ええ!?」
「話が進まないから、とりあえず差し迫った件を謝る。実は…第3部隊のまかないが宰相令嬢に似ていると噂がたっている」
「…ええ!?」
自分で言うのもおかしいが、どこからどう見ても農村出身の娘にしか見えなかったのに。一度だけだが、この格好で執務室まで行ったのがまずかったのかもしれない。それとも他の部隊と共用の裏井戸を使った際に、女官にでも顔を見られたのだろうか。
とにかく、王子の婚約者がお端仕事など外聞が悪すぎる。だからこそ、他に気付かれないように注意していたというのに。
アデラインは慌てて立ち上がると、勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありません!注意がたりませんでした!」
「いや、俺は責めてるわけじゃない。だが…面倒くさいことに王室にも守るべき面子があって…」
「はい!わかっています!まかないはすぐ辞めます!」
噂が広がっては困る。ルトヴィアスを困らせたくて始めたわけではないのだ。
「…悪いな」
「とんでもありません!悪いのは私で…」
「そうじゃなくて…料理」
「え?」
「…結構、楽しんでいただろう?」
あまりにおどろいて、アデラインはすぐには返事が出来なかった。
「今日は焦がさずに上手くいったとか、明日は何を作るとか…嬉しそうに話してただろう?なのに…面子だとか立場だとか、そんなつまらないもののせいで、お前にやりたいことの一つもさせてやれない」
申し訳なさそうに、ルトヴィアスは肩を落としている。
その姿が無償に愛しくて、アデラインは微笑んだ。
「違います。ルト」
「え?」
「私は確かに料理を楽しんでいました。最初は時間がかかった皮剥きも早く出来るようになって…火打ち石も使えるようになりました。出来なかったことが出来るようになるのは、やっぱり嬉しいものです。騎士達に美味しいといってもらえるのも嬉しかった。でも、私が楽しそうに見えたのなら、その一番の理由はルトの役に立っていることが嬉しかったからです」
ルトヴィアスが瞬いた。
「……俺の?」
「はい」
アデラインは、小さく何度も頷き反す。
「私は、毒の犯人探しは出来ません。政務のお手伝いも出来ません。私に出来るのは食事を用意することくらいですけど…でも、少しでも役に立っているのだと思うと嬉しかったんです」
アデラインは目を伏せた。
本当に、この一ヶ月あまりは楽しかった。忙しくて目が回りそうだったが、充実していた。
「だから、私から何か奪ったかのように謝るのはよしてください。…何かまた、私でもお役に立てそうなことを見つけます。私に出来ることはたかがしれてますが…」
「本気でそう思ってるのか?」
アデラインは目を上げた。
ルトヴィアスが、まっすぐにアデラインを見つめてきた。もどかしそうに、歯がゆそうに。
「…ルト?」
「お前が俺の役に立たないだって?馬鹿言え。お前は十分すぎるくらいやってくれていると言ったはずだぞ。忘れたか?」
「え?あ…い、いえ。でも…」
「でもじゃない」
器と匙を樽の上に置くと、ルトヴィアスは躊躇うことなく、アデラインの手をとった。そしてもう片方の手で、アデラインの頭を自らの肩に引き寄せる。
流れるような自然な動作に逃げることさえ出来ず、アデラインはされるがままだ。ルトヴィアスの肩に顔を埋め、緊張と羞恥心と、それからあふれるほどのルトヴィアスへの想いで、今にも失神しそうだった。
「……ルト……」
「十分だ。お前がただそこにいて、笑ってるだけで、俺には十分だ」
直接脳を撫でるようなルトヴィアスの甘い声に、アデラインは震えた。神殿の鐘のように、けたたましく鳴る心臓の音をルトヴィアスに聞かれたくない。胴の横にぶら下がったままの腕を動かし、甘い拘束から逃げ出そうとルトヴィアスの肩を力一杯押す。けれど実際には、アデラインの指はルトヴィアスの長衣を握りしめていた。離さないでと、アデラインの心の奥底の願望を表すかのように。
「…一つ。頼みをきいてくれるか?」
耳元で話すのはやめて欲しい。首から背筋にかけてが、痺れてしまう。
「…な、何でしょう?」
アデラインが必死に返事を絞り出すと、ルトヴィアスは少しだけ身を離した。今にもアデラインの額に口づけしそうなほど近くに、ルトヴィアスの唇がある。木漏れ日のように優しいルトヴィアスの瞳に、アデラインの目は捕らわれてしまった。
「いつかまた、玉葱のスープをつくってくれ」
それは、アデラインが食事を作り始めた最初の日に、ルトヴィアスに差し入れたスープだ。
今から思えば、味付けも微妙だったし、具の大きさもてんでばらばらだった。けれどそれが飲みたいと、ルトヴィアスが望んでくれたことが、アデラインは嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
「かしこまりました」
はにかみながら笑顔で了承するアデラインを見て、ルトヴィアスは困った顔をした。
「……お前、騎士達に給仕していた時もそんな顔していたんじゃないだろうな…」
「…いえ、調理を担当する者は化粧や薬はつけてはいけない決まりなので…」
「…化粧の話じゃない」
ルトヴィアスは憮然と言った。
そしてもう一度、アデラインを引き寄せて、腕の中に閉じ込めた。
「……他の男に見せたくない」
そういえば、晩餐会の夜にも、ルトヴィアスは同じようなことを言っていた。
「……そんなに酷い顔ですか?」
さすがに傷ついて、アデラインがしょげると、耳元でルトヴィアスがふっと、笑った。
「違う。可愛いすぎるから他の男に見せたくないんだ」
「……!?」
――…そんなことを、そんな声で、しかも耳元で、言わないで…っ!
まさか、以前も同じ意味合いでそう言っていたのだろうか。 だとしたら、ルトヴィアスの目はかなり重い眼病にかかっているにちがいない。眼の専門医官の診察を早めにうけるように勧めなければ…と思うものの仰天のあまり腰が砕けたアデラインは、意識を失わないようにするだけで精一杯だった。




