第三十二話 夜の露台と朝の花
10年前、ただ一度だけ履いたその小さな靴を、アデラインは手にとった。
細かな刺繍に、煌めく水晶。
新品同然の靴は、内側に少しだけ小さな染みがあった。靴擦れの出血でついた汚れは、ミレーが懸命に洗ってくれたものの、完全にはとることはかなわなかったのだ。
「…婚約を解消したら…返さなきゃいけないのかしら…」
未練に、アデラインは深く溜め息をついた。
「―…『どうぞお好きな方をご側室に迎えてください。』『どうぞお好きな方を…』」
明日こそ言えるだろうか。いいや、言わなければいけない。
言わなければ、ルトヴィアスに婚約を解消されてしまう。
「…『どうぞ』……っ…」
何度目か繰り返したところで、言葉がつまった。
――…言いたくない…。
ルトヴィアスは優しい。だからきっと、恋人を側室に迎えたとしても、正妃であるアデラインを蔑ろにすることはないだろう。アデラインのことも、恋人のことも、同じように大切にしてくれる。けれど、アデラインが欲しいのは、そんなことじゃない。
あの金の髪に触れるのは、自分だけであって欲しい。碧の目でみつめられるのも、長い指に導かれて歩くのも、広い胸に抱き締められるのも、アデライン一人でありたいのだ。
ルトヴィアスを誰かと分けあうなんて出来ない。けれど、分けるもなにも、ルトヴィアスはアデラインのものではない。ルトヴィアスの心は彼の恋人のもので、分けて欲しいと乞い願うのはアデラインの方だ。けれど分けてもらっただけで満足出来るだろうか。我慢できるだろうか。
「…堂々巡りだわ…」
結局は、アデラインはルトヴィアスを独り占めしなければ気がすまないのだ。
「お嬢様?お湯の用意が出来ましたよ。あら、懐かしいものが出ていますね」
隣の部屋から顔を出したミレーは、アデラインの手元に目を止めて懐かしそうに頬を緩めた。
「…私…自分がこんなに欲張りだったなんて知らなかったわ…」
「お嬢様が欲張り?」
「私…殿下が側室を迎えるのは嫌なの…」
「……殿下が、ご側室を迎えられるのですか?」
ミレーが眉をひそめる。
アデラインはそれに気付き、慌てて否定した
「あ、ううん。殿下がそう言ったわけじゃないの。迎えたいんじゃないかな、て私が思っているの」
「驚かさないで下さいまし!ご結婚前なのに、もうそんな話が出ているのかとびっくりいたしました…」
「…」
ホッと胸を撫で下ろしているミレーには、側室どころか婚約解消の話がでているなんて、とても言えそうにない。
「夫が妾をもつのが平気な女などいません。お嬢様は欲張りではありませんよ。ごく普通でございます」
「……」
「……一つ、いい方法がございます」
「いい方法?」
アデラインが僅かに身を乗り出すと、ミレーはアデラインの隣に屈み込み、顔を寄せた。
「お泣きなさいませ」
「……………え?」
「男は女の涙に弱いものです。殿下に側室をとらないで欲しいと泣いてお願いなさいませ」
「……それがいい方法?」
「はい」
自信満々にミレーが頷く。
「……でも、それ…ずるくない?」
「ずるいものですか。持っている武器を使わないでどうします」
「……それはそうだけど…」
「お嬢様は真っ直ぐなお方です。常に正々堂々とありたいとされているお姿はご立派で、私の誇りでございます。けれど、正しくありたいと考えるあまり、ご自分の云いたいことも言えないのでは、本末転倒でございますよ。ご自分に嘘をついてはいけません」
ミレーはアデラインの肩を撫でた。
「ずるくても、欲張りでも、お嬢様がしたいようになさいませ。私はお味方いたします」
にっこりと笑うミレーに、アデラインも笑い返した。
「…ミレー…ありがとう」
「さぁ、お湯につかって疲れをとりましょう。疲れているから、変なことを考えてしまうんです」
「少しだけ風にあたりたいの。いい?」
ミレーは少し顔を渋くさせたが、結局アデラインの好きにさせることにしたらしい。
「では、肩掛けを羽織って下さいまし。夜風は冷たいですからね」
「ええ、わかったわ」
ミレーに渡された薄い桃色の肩掛けを羽織って、アデラインは露台に出た。夜空には少し欠けた月が浮かんでいる。
「…婚約は…解消したくありません…」
小声で呟いた本音は、すぐに闇に消えた。
けれど、言いたくもない言葉を練習していた時より、胸が軽くなった気がした。
「……婚約は解消したくありません」
少しだけ、声を大きくしてみる。
「側室はいらないって言ったじゃないですか…」
なのに、恋人を側室にするためにアデラインとの婚約を解消するなんて、横暴だ。ひどすぎる。
「で、殿下の……ウソつき―――っ!!!」
「俺がいつ嘘をついた?」
背後から聞こえた声に、アデラインはギョッとして振り向いた。
アデラインの部屋とつづく露台は、大型の馬車が3台は停まれるほど広いのだが、その広い露台に、純白の翼をはためかせて、今天馬が降り立とうとしていた。
「…っシヴァ…」
飛んでいるのを初めて見た。思ったとおり、なんて優美なのだろう。
風のように露台に降りたシヴァの背から、ルトヴィアスが降りてきた。
「……殿下……」
「……」
月明かりで、金髪と碧眼が鈍く光っている。まだ怒っているのか、ルトヴィアスの顔に表情はない。
外套を羽織らず、長衣も着ず、白い中衣だけのひどく身軽なルトヴィアスの格好を、アデラインは心配した。ミレーが言っていたとおり夜風は冷たいのに、風邪をひいたらどうするつもりだろう。
「…あ!こ、これを…」
アデラインは肩掛けをはずすと、ルトヴィアスの首に回そうとした。
その手を、ルトヴィアスの手が止める。
「いらない」
拒まれた、とアデラインは固まった。けれど、ルトヴィアスがアデラインを止めたのは、拒絶したからではなかった。
「お前が風邪をひく。俺はいい」
そう静かに言って、軽く肩掛けを押し戻してくる。
拒まれたわけではないとわかり、アデラインは勇気を握りしめてルトヴィアスに言い返した。
「い、い、いけません!大切なお体です。大事になさってください」
強引にルトヴィアスの首に肩掛けを回す。最初こそ困ったようだったルトヴィアスも、観念したのか首を下げてアデラインがやりたいようにさせてくれた。
彼の綺麗な横顔があまりに近くて、アデラインの指が緊張で震える。その指を握り込んで隠し、アデラインは数歩下がった。
「……よ、よく…私の部屋がわかりましたね」
「わからなかった。仕方ないから正門に回ろうとしたら…お前が出てきた」
「ああ…なるほど…」
不意に沈黙が落ちてきた。
風が吹き、夜の黒い雲が流れていく。
――…そういえば…。
ルトヴィアスの専従の騎士はどうしたのだろう。正門に待っているのだろうか、いや、まさかとは思うが…。
「………お一人で?」
「一人だ」
「………」
あっさり言い放つ彼に、アデラインは軽くよろめく。
王太子になろうという身分の、しかも王家のたった一人の直系王子が供もつけずに、何かあったらどうするのだ。今頃王宮は大騒ぎになっているのではないか。
しかし、ここでルトヴィアスの一人歩きを咎めれば、お前に言われたくないと返ってくるに決まっている。
「それで?俺がいつ嘘をついた?」
「え?」
促され、アデラインは狼狽えた。
「俺が、いつ嘘をついた?」
「……っ」
何を考えているのか、ルトヴィアスの表情からはわからなかった。
何のためにここに来たのだろう。 婚約解消を言いに来たのだろうか。
弱気にまた俯きかけたアデラインを、先程のミレーの声がはげましてくれた。私はお味方いたします、と。
拳を握りしめる。
「う、嘘つき、です」
「だからいつ嘘をついた?」
「殿下は…殿下は、妃は私一人だと仰ってくださいました!あれは嘘だったのですか?」
勢い余って声を張り上げてしまった。ルトヴィアスは驚いたのか、少し目を見張る。
「嘘じゃない」
「なら、何故婚約解消なんて言うんです!」
「どうして妃の人数と婚約解消の話が繋がるんだ?…俺は…お前が俺との結婚を嫌がっているから……だから…」
目を見張ったのは、今度はアデラインだった。
「私が?」
ルトヴィアスが眉をひそめる。
「…嫌がっていただろう?」
「嫌がってなどおりません!」
「晩餐会の後からお前は俺と目を合わせなかった。話もしなかった」
責めるようなルトヴィアスに、アデラインはたじろいだ。
「あれは……っ」
「……あれは?」
「……あれは…」
どう説明すればいい。
ルトヴィアスへの恋心を自覚してしまい、どうすればいいのかわからなかったなど。
そもそもそんな説明すれば、ルトヴィアスに想いを告白するようなものではないか。
正直に言ったらどうなるだろう。
恋人が忘れられないルトヴィアスに、アデラインの気持ちなど煩わしく思われるのではないか。
でも、ではどう説明すればいい。一体何を言えばいいのだ。
「……待つ」
ルトヴィアスは言うと、腕組みをして、露台の手すりにもたれ掛かった。
「え?」
「待つから、ちゃんと言え」
「……」
ああ、この人の、こういうところが好きなのだ。 強引に見えて、それでいて相手の言葉に耳を傾けようと努める実直なところが。
まっすぐに、アデラインを見てくる碧の瞳が綺麗だった。
――…好きです。貴方が好き。
好きすぎて泣きたくなる。
「……殿下のせいです」
「……俺?」
「で、殿下が…抱き締めるから…恥ずかしくて…どんな顔をすればいいかわからなくて…」
嘘ではない。
あの抱擁は、アデラインの正常な思考能力を完全に溶かしてしまった。
「……それで俺を避けてた?」
「……はい」
「…前に…抱き締めた時は避けたりはしなかったよな?」
ルトヴィアスが毒を飲んでしまった時のことだ。
「それはっ」
恋心を自覚する前と後では、大違いだ。だが、勿論そんなことは言えない。
「それは……前はその…緊急事態でしたし…」
「…」
ルトヴィアスは納得できないようで、すこしばかり考え込んだ。
「…とりあえず…俺が嫌いで…避けてたわけではない、と?」
「も、もちろんです!そんなことありません!」
アデラインは勢いよく首を振る。ルトヴィアスが嫌いなどと、とんでもない誤解だ。まさかそんな誤解がもとで、婚約が解消されかけていたなんて。
――…たしかに誤解されても仕方ない態度だったけど…。
「き、嫌いなんかじゃありません…私は…」
貴方のことが好きなのだと、言ってしまいたかった。
けれど勇気が足りなかった。もし言ってしまったら、そしてそれを聞いたルトヴィアスが、アデラインの想いを煩わしいと思ったらと考えると、どうしても言えなかった。
――…煩わしいと…思われるならまだいいかもしれない…。
ただでさえ、ルトヴィアスはアデラインに償おうとしている。3年前のことが、自分のせいだとルトヴィアスは責任を感じ、妃は一人と言ったのもその償いに決まっている。その上、アデラインがルトヴィアスを慕っていると知ったら…。それは彼を必要以上に縛り付けることになりはしないだろうか。心がそこに伴わないのに、彼を縛り付けても意味がない。アデラインは確かにルトヴィアスを独り占めしたいけれど、縛り付けることとは違う。そんなことになっても、虚しいだけだ。
「私は…き、妃としてお役に立ちたいんです、殿下の。嫌いだなんてそんな…畏れ多い…」
「……妃として、ね」
ルトヴィアスの呟きが自嘲めいて聞こえ、アデラインは目を瞬かせる。
「え?」
「いや…」
ルトヴィアスは腕組みを解いて、アデラインに近づくと、念を押すように言った。
「…婚約は…解消しなくていいんだな?」
「は、はい!」
アデラインは何度も頷いた。
途端に、ルトヴィアスが脱力したようにしゃがみこむ。
「……っはぁ――――…っ」
「で、殿下!?」
アデラインも、ルトヴィアスの向かいにしゃがみこんだ。
「……よかった……」
ルトヴィアスは両手の指を絡め組んで額にあて、心底ほっとしたという具合に呟いた。
「……」
『よかった』とは、どういう意味なのだろうか。
二人の結婚式は国内外に周知されている。それを今更撤回するなど大事だ。彼の目指す借金繰り上げ返済どころではなくなるだろう。そうならなくて『よかった』なのか。それとも、少しはアデラインを気に入ってくれていて、だから婚約解消なんてことにならなくて『よかった』なのか。
いや、後者はないだろうと、アデラインは首を振った。
――…だって…殿下は…まだ忘れてはいらっしゃらないんだもの…。
皇国に置いてきた恋人を。
「…ドレス」
ルトヴィアスが俯いたまま呟く。
「え?」
「晩餐会で着たドレス。もう着るな。二度と」
ボソボソと、ルトヴィアスは言った。
そういえば、ドレスの話が何故か婚約解消という方向に向かったのだった。
「でも…」
ルトヴィアスが、よく似合っていると褒めてくれたドレスだ。もう着ないなんてもったいない気がした。
「…頼むから、俺以外の男が選んだドレスなんて着ないでくれ」
今度ははっきりと、ルトヴィアスは言った。
――…なんだか…まるで…。
まるでオーリオに嫉妬しているようにきこえる。
――…そんな…まさかね。
ルトヴィアスがオーリオに嫉妬する理由などない。ルトヴィアスがアデラインを好きだというならともかく。
しかし、よくよく考えてみれば、婚約者以外の男性が選んだドレスを着るというのも、外聞が悪い気がする。ルトヴィアスはそのことが気に入らなかったのかもしれない。
――…ああ、やだわ。私ったらすぐ妙な期待をしてしまうんだから。
アデラインは素直に頷いた。
「わかりました。すみませんでした。色々気が回らなくて」
アデラインの返事に満足したのか、ルトヴィアスは顔を上げると小さく笑った。
「よかった」
「え?」
今度の『よかった』は、何のことかすぐに答えがわかった。
「俺の顔を見て、話が出来るようになったな」
「……あ…」
そういえば彼の顔を直視出来ないでいたのだったと、アデラインは思い出す。
婚約解消されるのではと不安になっていたから、すっかり忘れていた。
「す…すみませんでした…」
「もう大丈夫なのか?」
その質問はつまり、アデラインがルトヴィアスを避けたり俯いたり逃げ出したり赤くなったり奇声をあげたり踊りだしたりしないか、と言う確認だろうか。
少し離れて彷徨いていたシヴァが、ヒヒン、と嘶く。
「……はい」
「……何だ。今の間は」
ルトヴィアスの鋭い眼差しから、アデラインは目をそらす。背筋に冷や汗が浮かんだ。
絶対大丈夫、とは言えない。恋という感情はやっかいで、ただでさえ美しいルトヴィアスが、更に上等な人間に見えてしまうのだ。
ルトヴィアスが目を伏せたり髪をかきあげたりする、そんな何でもない仕草に、アデラインの胸はいちいち高鳴って呼吸が出来なくなる。
心臓の保護を最優先に考えるなら、まずルトヴィアスには近づかない方がいい。
「お前…一応聞いておくが…」
ルトヴィアスが、少し口ごもる。
「はい?」
「…結婚する意味。わかってるよな?」
「…意味、ですか?」
アデラインとルトヴィアスの結婚は、国内の政治均衡を考えた政略結婚だ。それからアデラインの血筋と家柄が王妃に相応しいからに他ならない。
「政治均衡と…血筋が…」
「そういう意味じゃない」
ルトヴィアスは立ち上がると、庭の方に目線をやった。どことなく、照れているように見える。
「…結婚したら…抱き締めるくらいじゃすまないんだぞ?」
「……………………」
抱き締めるくらいじゃすまない…、と口の中で反芻して、その意味を正確に理解したアデラインは動揺を隠せなかった。
「え、ええええええええええええっと…」
顔は耳まで真っ赤に染まり、呂律もうまく回らない。
「……わかってはいるみたいだな」
「ああああ、あの」
「……俺がさわるたびに…お前、恥ずかしいからと逃げるのか?」
「そ、それは…」
逃げたい。ルトヴィアスと同じ寝台で、など想像するだけで絶叫して逃げ出したい。
けれどそんなわけにはいかないだろう。アデラインはルードサクシードの王太子妃になるのだ。王太子夫婦の不仲説など噂になろうものなら大問題だし、アデラインはルトヴィアスの息子を生むという責務がある。 恥ずかしいなどと言っている場合ではない。
アデラインはぐっと顎をひいた。
頬はまだ上気しているが、挑むようにルトヴィアスを見据える。
「に…逃げません…。逃げないように……が、がんばります…」
そんなアデラインを、ルトヴィアスはしばらく眺めてから、一歩を踏み出した。
「……要は慣れじゃないかと思うんだが」
「え?」
慣れ、とはどういうことか。
アデラインは首をかしげた。
「…例えば」
ルトヴィアスがアデラインの頬にふれた。
綺麗な手だ。
爪先は細くて、指は細い。けれど男性の手の特徴もしっかりもっている。大きくて、節ばっていて。
その手にアデラインが気をとられていると、唇が塞がれた。
一呼吸するかしないかの、ほんの僅かな時間だった。
目をとじる余裕などなかったアデラインは、あまりにも間近にあったルトヴィアスの綺麗な顔が、自分からゆっくり離れていくのを、呆然と見守った。
瞬きを、どうやってしていたのか思い出せない。
アデラインの黒い瞳を、碧の瞳が覗きこむ。
「何度もするうちに慣れると思わないか?」
ようやく、アデラインは状況を理解した。
驚きでひいた血の気が、一気に沸騰してアデラインの全身を駆け巡る。
火傷したというくらい、顔が熱い。特に唇が。
「おも、おも、思いません!」
「いや、きっと慣れる」
「慣れません!」
「なら試そう。その価値はあると思うぞ」
楽しそうに笑うと、ルトヴィアスはアデラインの額に、自らの額をこつんとあててきた。
喉までせり上がってきた奇声を、アデラインは何とか飲み込んだ。大声を出したら、ミレーに気づかれる。ミレーに気づかれたら、他の召使いにも気づかれ屋敷は大騒ぎになってしまう。
ルトヴィアスの睫毛が、すぐそこにあった。
身体中から血が吹き出しそうだ。
今すぐ逃げ出したいのに、足がいうことをきかない。
――…こんなことに慣れるはずがないわ!
慣れるどころか、心臓が破裂して飛び散るに決まっている。
「で、殿下…っ」
「ルト」
「え?」
「名前で呼べ」
「…っル、ルト…様?」
「 ルト」
「ル…ト」
嬉しそうに、ルトヴィアスは微笑んだ。
さっきまで、怒っているかのように無表情だったのに、何て顔で笑うのだろう。何なのだこの人は。この顔の前で、アデラインがとれる手段は無条件降伏ただ一択しかない。
「もう一度いいか?」
これにはさすがのアデラインも何を、とは聞き返さなかった。恥ずかしさと心臓の破裂という命の危機に、アデラインがオロオロと逡巡している間も、ルトヴィアスはじっと待ち続けている。その視線すら正面から受け止められず、アデラインは逃げるように俯いた。
それでもルトヴィアスは待ってくれている。
眩暈がした。
発熱したのかもしれない。
いつの間にか繋いだ手に、アデラインは少しだけ力をこめた。するとルトヴィアスの指が、優しく握り返してくれた。
意を決して、アデラインは顔をあげる。
今度は、目を閉じるのを忘れなかった。
翌朝。
公務の為に出かける仕度をしていたアデラインのもとに、昨日ルトヴィアスに渡した肩掛けと、花が届いた。
白と赤橙色の金英花は珍しい八重咲きで、飾り紐で簡単に束ねただけにもかかわらず、十分に見応えがあった。
「…本当に殿下からなの?」
ルトヴィアスが花を贈るなど、柄ではない気がする。怪しむアデラインとは対照的に、ミレーは大喜びである。
「勿論ルトヴィアス殿下からでございます。ほら、お手紙も」
ミレーに手渡された手紙を開くと、流麗な字で『庭に咲いていた』とたった一行。アデラインは吹き出した。これは間違いなくルトヴィアスだ。
「殿下は何と?」
尋ねてくるミレーから、アデラインは手紙を隠す。
「内緒」
「まぁまぁ」
ミレーは気を悪くするふうでもなく、くすくすと笑った。
――…『庭に咲いていた』なんて…。
花を贈るのが照れ臭くて、わざと素っ気ないふりをする彼の姿が目に浮かぶ。彼の書く字を見るのは初めてで、そうか、こんな字を書くのかと、アデラインは文面をしげしげと眺めた。
公務が終わったら、花のお礼を言いに王宮に行こう。
ルトヴィアスはきっと忙しいだろうけど、政務が落ち着くのを待っていれば、きっと彼は時間を作ってくれる。
――…お傍にいさせてください…。
書いた本人同様に綺麗な字体を、アデラインは指先でなぞった。
口づけをして、花を贈られて、まるで彼の恋人にでもなった気分だ。束の間、アデラインは目を閉じその気分を胸一杯に味わった。それは幸せで、落ち着かなくて、そして苦い味がした。
まるで恋人のような扱いは、きっとルトヴィアスの罪悪感のせいだ。3年前のことを、彼は一生かかってでもアデラインに償い続ける気なのだろう。アデラインを大切に大事に、愛する妻として扱うことが、彼のアデラインへの謝罪なのだ。
それは、アデラインにとっては残酷な優しさだ。
――…それでも、それでもそばにいたい。
愛されたいなど、そんな高望みはしない。
ルトヴィアスが恋人を呼び寄せたいのではないかと、それはアデラインの邪推ではあったけれど、でも、彼が今も恋人を想っているのなら、その想いまで取り上げるなんてことはしない。
だって、ルトヴィアスは、アデラインのために婚約を解消しようとしてくれた。それはまったくの誤解からではあったけれど、国益よりも、自らの体面よりも、ルトヴィアスはアデラインの気持ちを優先してくれた。
それで十分だ。
もういい。これ以上を望めば、きっと女神の罰が当たる。
「本当に綺麗なお花ですこと」
ミレーはうきうきと、花瓶に差した金英花を整えている。
「…殿下は花言葉を知ってらっしゃって、この花を選ばれたのかしら…」
「え?何か仰いました?」
ミレーに、アデラインは笑いかけた。
「ううん。なんでもないの」
――…知っているわけないわ。
ルトヴィアスが花言葉に詳しいとは思えない。手紙にあったとおり、庭にたまたま咲いていたのだろう。
――…偶然だけれど、私にはお似合いの花言葉だわ。
可憐で華やかな花が自分にお似合いなど、口にはとても出せない。窓際に飾られた金英花を、アデラインは眩しい思いで眺めた。
「…ねぇ、ミレー。一つお願いがあるんだけど」
「はい。なんなりと」
ずっと『王子』という義務と責任に忠実で、誠実であり続けた貴方の、そしてこれからもそうであろう貴方の、きっと生まれて初めての、たった一つの我儘だったから―…。
「…殿下の…3年前、別れた恋人を探して欲しいの」
私が、貴方に恋人を返してあげる。
6月12日の活動報告に小話『愛称』を書きました。
短いですがよろしければ…。




