第三十一話 男の矜持
ルトヴィアスが、その綺麗な手を額にあて、俯いている。
考え事をするときの癖、と思っていたルトヴィアスのその仕草は、おそらく自らの感情を隠すために、彼が無意識に手で表情を隠しているのかもしれないと、アデラインは思った。
彼は自分の感情の動きを、他人に読まれるのを嫌う。そこから心に踏み入られるのを警戒しているのだろう。
「…殿下…あの…?」
アデラインは一歩踏み出した。
それから逃げるように、ルトヴィアスは一歩退いた。
「…殿下」
「……」
踏み込むことは許さないと、見えない一線をひかれた気がした。
アデラインは泣きたくなる。
その線の向こう側に、自分は入れるのではないかと、ルトヴィアスは入れてくれるのではないかと、とんでもない自惚れをしていた。それが恥ずかしい。
「殿下…」
自分はまた何かしでかしてしまったようだ。しかも、何をしでかしたのかが、またしてもわからない。
以前ルトヴィアスを怒らした時の原因も、未だに分からずじまいだ。
細かい気遣いが出来ると母に褒められたこともあるのに、ルトヴィアスに対してだけは何故かアデラインのその能力は発揮できない。
「……お前が…もし」
ルトヴィアスの声は、燭台の揺れる火のように小さく、震えているように聞こえた
アデラインは耳をそばだてる。一音でも聞き逃さないように。
「……もし、婚約を解消したいのなら…そうしても…いい」
「…………え?」
耳が、おかしくなったのだろうか。
アデラインは凍り付いた。
足が震える。
3年前味わった感覚が、再びアデラインを襲った。
――…どうして…?
最近、ルトヴィアスに対する態度が悪かった自覚はある。
目をあわせず、話もろくにせず、常にルトヴィアスから数歩の距離を保ち、近づかなかった。
晩餐会の夜。
自分がルトヴィアスに恋をしていると知ったアデラインは、おかしくなってしまったのだ。
ルトヴィアスを見ると呼吸が苦しくなるから、目をそむけた。
気が利いたことを話さなければと、妙に意識してしまい、結局言葉を見失う。
ルトヴィアスの隣にいるだけで、血液が沸騰しそうで、距離をとった。
最初は戸惑っていたルトヴィアスが、徐々に苛立ちはじめていることには気付いていたが、彼が忍耐強く苛立ちを我慢してくれていることに甘えて、アデラインはルトヴィアスに向き直ろうとしなかった。
ルトヴィアスの堪忍袋の緒が切れても、仕方がないかもしれない。
――…でも、いくらなんでも婚約解消なんて……。
「殿下。御迎えにあがりました」
外から声がかかった。
声でオーリオだということはわかったが、ルトヴィアスは微動だにせず、返事をしようとしない。
アデラインも、どうすればいいのかわからず立ち尽くした。
「殿下?お早くなさいませんと、議会に遅れま…」
「今行きます」
二度目の呼びかけで、ルトヴィアスが顔を上げた。
けれど、一切アデラインをかまうことなく扉へ向かったため、やはり彼がどんな顔をしているのかはアデラインにはわからなかった。
――…見送りを…。
しなければ、と、ルトヴィアスの背中を追う。ところが、地に足がついている感覚がせず、アデラインは危うく転がりそうになった。立っているのがやっとだ。
――…聞き間違いでは…なかったのかも…。
厩舎に入るとき、アデラインはルトヴィアスが、誰かの名前を呼ぶのを聞いた。誰の名前なのかは知らなかったし、扉が軋んだせいではっきりとはききとれなかった。厩舎の中にはルトヴィアスとシヴァ以外に誰もおらず、聞き間違えたのかもしれないと、アデラインは思い込んだ。
けれど、遠くに呼びかけるようなルトヴィアスの声――。
あれは、きっと恋人の名前だ。
国に、身分に、政治に引き裂かれた恋人を、ルトヴィアスは忘れられないのだ。
――…後悔しているのかも…。
晩餐会の夜、アデライン以外に妃をもたないと言ったことを。
本当は、彼は恋人を呼び寄せたいのではないだろうか。
二人は別れたと噂に聞いていたが、もしかしたら密かにまだ会っていて、帰国し、落ち着いたら呼ぶと、恋人と約束をしてきたのかもしれない。
――…なのに私のせいで…。
女官にまで蔑まれるアデラインの哀れな現状に、ルトヴィアスは責任を感じているようだった。償いのつもりで、言ったのだろう。側室はいらないと。
でも、やはり恋人を諦めきれなかったのだ。
――…ああ、きっとそうだ。
だから、婚約解消などと言い出したに違いない。
アデラインが妃では、負い目から側室をとれないから、恋人を迎えられないから、だから…。
――…大丈夫だと、言わなきゃ…。
アデラインは、ルトヴィアスの背中を目で追った。
――…言わなきゃ…。
大丈夫です。愛されているなど、勘違いはしていません。政略上の妻として、あつかっていただいて結構です。
「……で…んか…」
聞こえないのだろう。ルトヴィアスは振り向かない。
「…で…」
喉に何かがつまって、唇は空気を吐き出しただけだった。
厩舎の扉がひらき、ルトヴィアスが外へ踏み出す。オーリオが、侍官が、外に待たせていたライルが、控えているのが見えた。
――…言わなきゃ…。
お好きな方を側室にお迎えになってください。私への遠慮はご不要です。
「……ん…か」
早く言わないと、ルトヴィアスは行ってしまう。なのに、声が出ない。
――…言わなきゃ!
言わなければ、婚約を解消されてしまう。そうすれば、もうルトヴィアスの傍にいられなくなってしまう。傍に、いられなくなってしまう!
「お嬢様?」
オーリオに呼びかけられ肩が揺れた拍子に、アデラインの頬に一滴、涙がこぼれた。
「………オーリオ」
アデラインの従兄は、いつのまにかアデラインのすぐ傍らまで来ていた。
アデラインの顔を覗きこみ、頬の涙に気付いて眉を寄せた。
心配をかけてはいけないと、アデラインは慌てて涙を拭ったが、遅かった。
「殿下!」
オーリオは、アデラインを背に庇うように立つと、ルトヴィアスにむけて声を荒らげる。
「お嬢様に何をなさったんです!」
侍官と話をしていたらしいルトヴィアスは、ゆっくりと、振り向いた。
「何、とは?」
ルトヴィアスは、笑っていた。
形のいい唇は弧を描き、金糸のような睫で飾られた目は、確かに微笑みの形をとっていた。けれどその奥の碧の瞳は、冷たく無機質で、動物の剥製のそれに似ている。
アデラインはおそろしさに身震いしたが、オーリオは気付いていないのか、気付いていてなおも、自らを止められないのか、ルトヴィアスへ近づいていく。
「いいかげん、お嬢様をふりまわすのはやめていただきたい」
「何が言いたいのかよくわかりません」
ルトヴィアスが、首を傾げる。
美しい微笑みだった。大輪の花に例えられるのが相応しい、本当に美しい微笑みだった。
けれど、ルトヴィアスの本当の笑顔を知っているアデラインには、出来のいい人形が顔を歪めているようにしか見えない。
「オーリオ殿、一体どうなさったのです?」
「おわきまえ下さい。無礼ですぞ」
侍官や騎士がオーリオの前に立ち塞がったが、それを押し退けて、オーリオはルトヴィアスを睨み付ける。
「この方は少し内向的な性格ではありましたが、思いやりがある賢明な女性でした。それが3年前、あなたに婚約破棄されかけたことで、まるで冬の庭のように萎れてしまった。アデライン様がどれだけあなたに振り回され、傷ついたか…。いつまでこの方を振り回す気ですか?あなたは…」
「……秘書官ごときが何様のつもりだ」
地を這うような低い声に、その場の空気が凍りつく。
ルトヴィアスの専従騎士は信じられないという顔で、侍官は驚き過ぎたのかぽかんと口を開けたまま、瞬きを忘れている。
「だまれ。耳障りだ」
そこで微笑んでいたはずの大輪の花は、もうどこにも見当たらなかった。剥製のようだった瞳は、獲物を喰い殺そうとする肉食獣のように獰猛に光り、今まさにオーリオに飛びかからんとするかのようだった。
ルトヴィアスの全身から凄まじい殺気が漂い、あまりの気迫に、さすがのオーリオもたじろいでいる。
アデラインは、こくりと、固唾を飲みこんだ。
――…猫を…。
アデライン以外の人間がいる場所で、ルトヴィアスか猫を脱ぐのをアデラインは初めて見た。以前毒を飲んだ時も猫が脱げてしまったことがあるが、それは『脱げてしまった』だ。それも一瞬。
今は違う。ルトヴィアスは自分で猫を脱いだ。 自ら猫を脱ぎ捨てるほど、それほどにルトヴィアスは怒っているのだ。オーリオに、いや、きっとアデラインに対して。
一瞬気圧されたオーリオは、けれどすぐに落ち着きを取り戻した。オーリオも、目で周囲を威圧出来る部類の人間だ。
ルトヴィアスからの射殺されそうな睨みを、臆せず睨み返す。
「…なるほど、完璧すぎて胡散臭いと思ってました。それが、本来の貴方というわけだ。つまりあなたは猫をかぶって、まわりを騙しているのですね」
「オ、オーリオ」
アデラインはオーリオの長衣の袖を引いた。不敬罪でこの場で投獄されかねない言動だ。
ルトヴィアスは顔をしかめるようにして、不敵に笑った。聖人に似つかわしくない、狂暴さが潜んだ微笑みだった。
「だからどうした?父上に上奏するか?俺が王太子に相応しくないと」
「この際はっきり申し上げます。王位を継ぐのはお辞めになったほうがいい」
アデラインは驚いて、オーリオを見上げた。
「オーリオ!?何を…」
突然、何てことを言い出すのだ。
オーリオは淡々と、けれど強い口調で続けた。
「玉座は中途半端な覚悟で座れるものではありません。今の貴方が王位を継げば、間違いなく国が傾きます」
「俺が国を滅ぼすと?」
ルトヴィアスが、鼻で笑う。
オーリオの眉間の皺が深まった。
「…上手く隠しているようですが、貴方はそっくりです」
ぴくりと、ルトヴィアスの横顔が反応したことに、アデラインはすぐに気がついた。
――…殿下?
様子がおかしい。 彼の頬に、怒りに交じって、かすかに違う感情が見え隠れしている。あれは…。
――…怯え?
「…だまれ」
ルトヴィアスの低い制止の命令を、オーリオは無視する。
「専横的で傲慢で冷酷で」
「オーリオ!」
アデラインは止めようとした。けれどオーリオは止まらなかった。
「横暴な―――――に、あなたは瓜二つだ!」
誰に瓜二つか、アデラインには聞こえなかった。オーリオが言い終わらないうちに動いたルトヴィアスの靴音が、高く響いてオーリオの声をかき消したからだ。けれど、それが誰だったのか、何故ルトヴィアスがその指摘に激昂したのか、考えるような余裕はアデラインにはなかった。ルトヴィアスはオーリオに素早く近づくと、右手でオーリオの喉を掴み、そのままの勢いで後ろの厩舎の壁にオーリオを叩きつけたのだ。
「殿下っ!」
アデラインは悲鳴をあげるが、ルトヴィアスにはきこえていないようだった。
オーリオの首を、そのまま締め付けている。
「…だまれ、と言ったのがきこえなかったか?」
碧の瞳が、怒りと憎悪に燃えている。
オーリオが苦しげに顔を歪め、ごほっと咳き込んだ。
騎士も、侍官も、青ざめて動かない。
オーリオの首をしめる指に、力がはいるのを見てアデラインは血の気が引いた。
「殿下!」
ルトヴィアスは放さない。
オーリオの首筋に、ルトヴィアスの爪が食い込み血が滲む。
アデラインは、無我夢中でルトヴィアスの腕に飛びついた。
「オーリオが死んでしまいます!殿下!」
美術品のような指が、ぴくりと反応し、やがてルトヴィアスはオーリオから手を放した。
途端、オーリオはその場に崩れ落ち、ひどく咳きこむ。
アデラインも隣に屈みこみ、従兄の背中をさする
「オーリオ!オーリオ大丈夫?」
「…だいじょ…です…」
咳こむオーリオの首筋には、赤く痕がのこっている。明らかにやりすきだ。
アデラインはルトヴィアスを諌めようと口を開いた。
「殿下!オーリオも口が過ぎたかもしれませんが…」
言おうとした言葉を、アデラインは忘れてしまった。
見上げたルトヴィアスが、泣きそうな顔をしていたからだ。
すべてを焼き尽くしてしまいそうなほどの、あの怒気はどこにもなく、 家路が分からない迷子の子供のように、ルトヴィアスは立ち尽くし、アデラインとオーリオを見下ろしている。
晩餐会の夜にも、同じ様な表情をしていた。
見ている方が、切なくなるほどの…。
「…殿下?」
アデラインは立ち上がり、手を伸ばす。けれど、その手が届く前にルトヴィアスは後ずさり、そのまま何も言わずに外套をひるがえして行ってしまった。
呆然と立ち尽くす騎士と侍官に向かって、オーリオが掠れた声で言った。
「殿下は…機嫌が悪かっただけだ。機嫌が悪いところへ、秘書官と口論になっただけだ。いいな?」
「え…あの、でも」
口ごもる騎士を、オーリオは怒鳴った。
「何をしている!殿下に何かあったらどうするつもりだ!お傍をはなれるな!」
「は、はい!」
慌てて、騎士達はルトヴィアスの後を追った。
「…ライル」
「…はい」
無言で控えていた自らの専従の騎士を、アデラインは傍らに呼んだ。 帽子がわりに頭に巻いていた三角巾をとると、それをライルに渡す。
「水に濡らしてきてくれる?それから…」
「誰にも言いません」
アデラインの言葉の先を読んでか、ライルは誓いを口にした。
「誓います。今見たことも聞いたことも、誰にも言いません。…言ったところで、きっと誰も信じないでしょうが…」
「……ありがとう」
アデラインが礼を言うと、ライルは一礼して、井戸の方に歩いていった。
「…あの騎士は…察しがいいですね」
オーリオが、ライルの背中をみて言った。アデラインは頷く。
「ええ。よく助けてもらっているの」
立太子前のこの時期に、ただでさえ微妙な立場のルトヴィアスに、王太子の資質が疑われるような噂が流れるのは避けなければならない。
アデラインは、ふたたびオーリオの横に屈みこんだ。
「……オーリオ、殿下を許してください。……あの方は本当はこんなことをする方ではないんです」
「わかっています。挑発したのは私です。殿下にばかり責任があるわけではない」
オーリオは厳しい言葉で人を傷つけてしまう短所がある。
アデラインの家庭教師を始めてすぐの頃は、アデラインも彼の悪気はないが厳しい言葉によく傷付いたものだ。本人もその短所を自覚し、自制を心がけてはいるようだが、時にはその歯止めが利かない。だからこその短所なのだが。
「……殿下は…王位に相応しくないのですか?」
アデラインは、声をひそめてオーリオに訊ねた。
アデラインから見れば、ルトヴィアスは血筋も、そして器量も、猫をかぶっているにしろ王太子に十分だと思う。彼に恋をしている贔屓目なのだろか。
「いいえ、そんなことはありません」
オーリオは、あっさりと首を振る。
あまりにあっさりとしたその様子に、アデラインは面食らった。
「……え?だって…」
ついさっき、オーリオはルトヴィアスに王位を継ぐのをやめろと言ったはずだが。
オーリオは首もとをさすりながら、顔をしかめた。どうやら痛むらしい。
「殿下は…教養も知識も、ありあまるほどお持ちです。自らの立場や義務も十分自覚しておいでだ。補佐はまだ必要ですが、国王陛下の代行も立派にこなしていらっしゃる。政務への取り組みも意欲的で飲み込みも早い」
アデラインは、目を丸くした。
「……あなたは…殿下のことが嫌いなのだと思っていたわ…」
オーリオがこんなふうに人を褒めるのを、初めて聞いた気がする。
オーリオは少し憮然とした。
「…私の個人的な感情は今は置いておきましょう。とにかく、私から見て、殿下は国王に相応しい方だと思います。どうやら本来は激しい気性のお方のようですが…だから国王に向かないというわけではないですし、少なくとも殿下に次ぐ王位継承順位をお持ちの能無しどもよりはよっぽどましです」
「…オ、オーリオ…」
アデラインは思わず周囲を見回し、誰もいないことを確認した。王族を能無し呼ばわりとは…。
あたりに人影がないことを確認し、アデラインは更に質問を続ける。
「あの…なら何故王位を継ぐのをやめろなんて…」
「…あの方は…『人間』というものを信じておられない」
アデラインはドキリとした。
オーリオが言ったのは、まさにその通りだ。だからこそ、ルトヴィアスは猫までかぶって周囲と距離をとっている。
「人質という環境でお育ちになられれば、そうなるのも仕方ないとは思いますが…誰も信じられないということは、誰も頼れないことと同義です。国王の重責は私達が考えるよりずっと重いでしょう。それを支えもなしにたった一人で背負えるとは私は思えません。仮に背負えたとして、いつか必ず限界がくる。その時、倒れるのは殿下お一人ではないのです。この国は、不安定な主君を仰げるほど磐石に復興したわけではない」
「……あの方は…」
アデラインは、ルトヴィアスが行った回廊の奥を見つめた。
「……あの方は…人を信じるのが怖いのです…」
オーリオは眉をひそめた。
「そうだとすれば、余計に王位につくべきではない。国のためにも…ルトヴィアス殿下自身のためにも」
「………」
――…教えて差し上げられたらいいのに。
信じるにあたいする人は、ルトヴィアスのまわりにたくさんいるのだと。 けれど、アデラインが何を言ったところでルトヴィアスに届くとは思えない。ルトヴィアスの心に、アデラインは立ち入ることすら出来ないのだから。
ルトヴィアスの心にいるだろう人物は、ただ一人。
『彼女』なら、ルトヴィアスの頭上から猫を追い払うことができるだろうか。
「……殿下をお好きですか?」
「……えっ!?」
アデラインは、思わずオーリオを見返した。
腰をおろしているオーリオの目線は、膝で立っているアデラインのそれより少しばかり低い。
オーリオはアデラインを見上げて、今度は確認をするように、もう一度言った。
「お嬢様は、殿下をお好きなのですね?」
「あ、あの…」
アデラインは口ごもる。そうこうするうちに、じわじわと顔が熱くなってきた。
ルトヴィアス王子に夢中だった幼いアデラインを、オーリオは知っている。今更オーリオ相手に誤魔化す必要はないのだが、けれどあらためて言うとなると、恥ずかしさでアデラインの口は重くなった。
アデラインの様子で、オーリオはもうアデラインの心の内を確信したようだった。
「殿下が猫をかぶっていることはご存知だったのでしょう?」
「それは……はい。あ、いいえ。殿下がご帰国なさるまでは知らなくて…」
「知って、嫌にはならなかったのですか?あのご気性ですよ?昔の貴女は、穏やかでお優しい王子殿下に恋していたはずだ」
オーリオの問いに、アデラインは考え込んだ。答えを探して、自らの心を探る。
「…………殿下は、穏やかでお優しい方です」
ふわりと、口許が自然とほころんだのを、アデライン自身は気付いていなかった。
「…あの方の笑った顔が好きです。シヴァの世話をするときの生き生きした顔も。歩きにくい時は必ず手をひいてくれます。…なくした花帽を探してきてくれたこともありました。怒ると怖いけれど…本当のあの方は、穏やかでお優しい方だと私は知っています」
アデラインの顔を眩しげに見ていたオーリオも、少し表情を緩めた。
「……貴女がそばにいるなら、殿下はきっと大丈夫ですね」
「…そうでしょうか?」
「私はそう思います」
「でも…殿下はあんなに怒ってらっしゃって…」
「あれは、私やお嬢様に対して怒ったわけではないと思いますよ。私に痛いところを突かれて…ご自分に腹がたったんじゃないでしょうか」
「…何故、そんなことがわかるのです?」
「…まぁ、男同士ですから」
「…?」
どういうことかわからずアデラインが首をかしげると、オーリオは曖昧に笑った。彼が笑うのは滅多にないことだ。
「男はくだらない矜持の固まりだということです」
「…よくわかりません」
「わかられては困ります。私の矜持が傷つく」
「…」
やはり、よくわからない。何かの謎かけだろうか。
オーリオは手をつくと、ゆっくり立ち上がる。アデラインはそれを見上げた。
「…まぁ、あの一言は…言い過ぎでした。殿下には後程謝ることにいたします」
そう言うオーリオの横顔は、どこかすっきりしたように見える。
そういえば、うまく聞き取れなかったがオーリオは最後に何と言ったのだろう。尋ねようとしたが、ライルが戻ってきたことに気をとられ、アデラインはまた失念した。
「お嬢様」
「ありがとうライル」
濡れた三角巾を手渡され、アデラインはオーリオの首に滲む血を拭おうとした。けれどオーリオは、それをアデラインにさせようとはしなかった。
「オーリオ?」
「自分でします。お借りしても?」
「ええ、勿論」
黙って首を拭っていたオーリオは、やがてその手を止めた。
「…殿下は…誰も信じようとなさらない。でも、お嬢様だけは別です」
オーリオは、アデラインを見ない。
開いた厩舎の扉の隙間から、ルトヴィアスの為にアデラインが用意した食事を眺めているようだった。
「…少なくとも、信じようとしていらっしゃる」
「……でも…」
言いかけて、アデラインは言葉を飲み込んだ。
「何か?」
「い、いいえ。何でもありません」
アデラインは、慌てて誤魔化した。
言えば、またいざこざが起こる気がしたのだ。
――…言えない…。
ルトヴィアスに婚約解消を言い出されているなんて…。
木の器にはいっていたひよこ豆のスープは、きれいに飲み干されていた。