第三十話 王子の後悔
『ビビ』と、そう呼んでいた。 本人がそう呼べと言ったのだ。
煩い女だった。
大きな声で話し、王子相手に遠慮することもなく彼女は付きまとってきた。
あまりに煩かったため、ルトヴィアスは猫を脱いで彼女を追い払おうとしたのだが、素のルトヴィアス相手に、『まぁ、そもそも顔に惚れたんだし』と彼女は屈託なく笑って見せるような女だった。
『顔が好き』と言う割に、彼女はルトヴィアスの顔に執着するわけでもなく、喧嘩をすれば思いっきり頬を引っ叩いてきた。シヴァに乗りたいと自分から言ってきたくせに、高さと速さに絶叫し、もう二度と乗りたくないと目を回していた。ルードサクシードの言葉を覚えたいからと、ルトヴィアスは強引に教師役をやらされた。
煩くて、強引で、大雑把で―――そんな彼女といる時だけ、ルトヴィアスは人質でもなく、理想的な王子様でもなく、ただのルトヴィアスでいられた。
『結婚してあげようか?』
明日一緒にでかけようか、というくらい軽い彼女からの求婚を、ルトヴィアスは最初は冗談かと思った。
『冗談だと思ってる?』
『…本気なのか?』
『ええ、本気』
笑って頷いた彼女のはにかんだ表情を、今でも覚えている。
彼女との結婚を、反対されるだろうことはわかっていた。
婚約者をどうするか――一度しか会ったことのない政略結婚の相手だ。ルトヴィアスとの婚約が破談になったところで、宰相の娘として結婚相手には困らないだろう。むしろマルセリオ家の娘は彼女だけだから、彼女は本来、嫁ぐのではなく婿を取るべき立場だ。あるべき形に戻るだけだ。
だからと言って、簡単に婚約解消できると考えていたわけではない。
かなり綿密な根回しが必要だ。下手な形で婚約解消をすれば、ルードサクシードの名前に傷がつく。全てを秘密裏に行う為、ルトヴィアスは皇国に駐在している母国の外交大使を通じて、何度か父王や宰相に連絡をとろうとした。けれど、大使が動かなかった。何度言っても、宰相に話を通さず、『女遊びもほどほどになさいませ』とにやにや笑うその母国の大使に、ルトヴィアスのただでさえ短い導火線に火が付いた。事前の謁見希望もなしに皇帝の執務室に押しかけ、『彼女』との結婚の許しを乞うた。
皇帝も、その場にいた皇国の宰相や、大臣も、ルトヴィアスの突然の結婚宣言に仰天して言葉を失っていた。
母国の大使が直ちに呼び出され、慌てふためく彼を通してようやく母国に婚約解消についての話がもたらされた時には、ルトヴィアスと『彼女』の関係は、皇国と母国全土に醜聞として広まっていた。
ルードサクシードからは当然だが婚約解消は許さないという書簡が届き、宰相までがルトヴィアスを説得するためにわざわざ皇国まで出向いてきたが、ルトヴィアスは説得には頑として応じなかった。
『それほどご寵愛の女人なのでしたら、ご側室に迎えられてはどうですか?』
そんな宰相の妥協案にも、ルトヴィアスは頷かなかった。
ルトヴィアスにとって、『彼女』を妃にという望みは、たった一つの我が儘だったのだ。
けれど、そんなルトヴィアスと反比例するかのように、『彼女』との関係は徐々にきしみ始めた。
『私は王妃になりたいわけじゃないわ!王子を好きになったわけでもない!あなたを好きになったの!』
――――彼女はルトヴィアスとの結婚にどうしても付随してしまう王妃という地位に、責任に、義務に、完全に臆していた。
ルトヴィアスを愛してはいても、王子としてのルトヴィアスを、受け入れられなかったということかもしれない。
『私を愛してるなら国を捨てて!』
彼女の金切り声が、まだ耳に残っている。
『国よりも王位よりも私を選んで!!』
『できるわけないだろう!?』
『どうして出来ないの?私を愛してないの!?』
――…そんなふうに、ルトヴィアスと彼女は終わった。
別れの言葉もなく、彼女は修道院に旅立った。
それを聞いた時、心のどこかで『ああやっぱり』と声がした。
そもそも、望んだ女性を妻にするなど、そんな贅沢が自分などに許されるはずなかったのだ。
食事に、頻繁に毒が盛られ始めたのはこの頃だ。
ルードサクシードの宮廷では、次期国王にルトヴィアスが相応しくないと表だって声が挙がった。
ただでさえ心労が多い父王の心配を増やして、なんと詫びれば良いか…。
軽挙だった。
無謀だった。
けれど、あの時は、あれ以外の選択肢は有り得なかった。
――…でも、もし…。
もし、時間が巻き戻せるなら…。
ルトヴィアスは瞼をあけた。
小鳥のさえずりが聞こえる。
侍官が呼びに来ないということは、起床の定刻にはまだなっていないのだろう。
ゆっくりと、ルトヴィアスは体を起こすと、天幕を手で押しやる。裸足のまま、床に足を下ろして寝台から抜け出した。窓の外には朝霧がたちこめ、ひんやりとした朝の冷気が伝わってくる。皇国は霧など滅多に出なかった。ルードサクシードより暖かいからだろうか。
窓硝子に、ごつりと額を預けた。
――…久しぶりに、見たな…。
『彼女』の夢を見た後は、いつも最悪の気分だ。3年前の別れが、まるで昨夜のように感じられて、胸を抉ってルトヴィアスを苦しめる。けれど何故だろう。今朝はその痛みが、ぼんやりとして他人事のようだった。きっとそれは、アデラインのおかげだ。アデラインの存在が、ルトヴィアスの中の『彼女』の存在を、ようやく過去にしてくれた。
国境で再会してからの僅かな時間で、アデラインはルトヴィアスに様々なものを与えてくれた。
それとは反対に、ルトヴィアスはアデラインに何もしてやれない。
それどころか、アデラインを苦しめていたのが他ならぬ自分であると、ルトヴィアスは10日ほど前の晩餐会でようやく知った。
妙な歩き方をしているアデラインを追って、大広間を出たルトヴィアスは、女官達の話を聞いてしまった。
『殿下が帰ってきて…気をひきたいんでしょう?あからさますぎてはしたないわ』
『確かにドレスは素敵ね、でもあの平凡な顔は変わらないじゃない。ブスではないわよ?でもあのお美しいルトヴィアス殿下の隣に立つとよけい…哀れで同情しちゃうわ』
まるで当たり前のようにアデラインを侮辱する女官達の口ぶりが、そしてそれを叱責することもなく、息を殺して身を隠すアデラインの様子が、それが初めてのことではないと物語っている。
こんな日常を、アデラインはずっと送っていたのだろうか。
てっきり、次期王妃としてかしずかれ、守られ暮らしていただろうと思っていたのに…。
以前、大公やハーデヴィヒのアデラインに対する態度にも、違和感を持ったことも思い出す。あの時は、はっきり言い返さないアデラインにも多少なりとも非があると思っていた。アデラインが俯くのは己の容姿への過剰な劣等感のせいなのだと。それにしても、宰相令嬢であり次期王妃であるアデラインが、何故ここまで侮られるのだろうか――。そんなルトヴィアスの疑問に答えてくれたのは、他でもない、アデラインを嘲って笑う女官達だった。
『ほら、例の婚約解消騒ぎの件があるでしょう?』
目の前が、真っ暗になった気がした。
――……俺か。
3年前、婚約者を一切省みず恋人を選んだルトヴィアスのその行動が、アデラインを蔑みの対象に陥れた。
何故今まで、気付かなかったのだ。少し考えればすぐわかることだ。人の粗探しが大好きな貴族達は、婚約者に捨てられかけたアデラインを、まるで犯罪者か魔女であるかのように蔑んだだろう。本人に何の落ち度がないにも関わらず、人より少しばかり大人しい容姿や性格を、きっとひどく貶められ、嘲られ…。アデラインが人の顔色を窺い、怯え、俯くようになったとしても無理からぬことだ。
――…3年…。
3年、ルトヴィアスは苦しんだ。けれどそれは、ルトヴィアス自身が引き起こした、背負うべき代償だ。
けれどアデラインは、アデラインは違う。
ただルトヴィアスの婚約者だというだけで、ただ婚約を解消されかけたというだけで、アデラインは周囲から軽んじられ、侮られ、彼女の矜持も、自尊心も、粉々に踏み潰されてしまった。
『卑下するな』など、どの口で言えたものか。好きでもない色のドレスに身を包み、おどおどと不安げに俯き、存在を消すかのように生きざるを得なかったのは、すべてルトヴィアスのせいだというのに。
女官達はその後も声を潜めて何か噂話をしていた。ルトヴィアスに聞き取れたのは、ルトヴィアスにドレスが似合うとか、そんな馬鹿な話だ。ドレスが似合うと、それは皇国でもルトヴィアスがよく言われた蔑みの言葉だ。それを母国に帰ってきてまで言われるのかと、ルトヴィアスは辟易した。好きでこの顔に生まれたわけじゃない。どうして人間という生き物は、容姿に拘るのだ。そんなものに拘るから、アデラインはこんなに傷ついたのだ。いや、傷つけたのはルトヴィアスだ。間違いなくルトヴィアスだ。
『私のことはかまいません。好きに言うといいでしょう。けれど国王陛下やルトヴィアス殿下への無礼は許しません!!慎みなさい!!』
女官達を叱責するアデラインに、ルトヴィアスは性懲りもなく、無性に腹がたった。
――…自分の為に怒れよ。
ルトヴィアスの為なら、そうやって堂々と立ち向かえるのに、どうして自分の為には立ち上がらないのだ。
どうして、どうして、どうして
――…どうして、俺は…。
3年前のあの日。
もっとアデラインのことを考えなかったのだろう。
どうして、あんな自分勝手なことが出来たのだろう。
アデラインに、一度も謝りもしなかった。せめて謝罪の手紙の一通でも出していたら、アデラインの状況は何かしら変わっていたかもしれないのに。
――…いや、手紙は禁止されてたな…。
それでも、なにかしら謝意を伝える方法はあったはずなのに…。
つまりあの頃のルトヴィアスは、自分のことしか考えていなかったのだ。
自分が一番つらいのだと思っていた。自分が一番傷ついているのだと思っていた。
―――だから誰かを、アデラインを傷つけていいなんてことにはならないのに。
コンコン、と控えめに扉が叩かれる。
「殿下、ご起床のお時間でございます」
ルトヴィアスは、窓辺に佇んだまま返事をした。
「…――起きています。どうぞ」
「失礼いたします」
扉が開き、着替えを捧げ持った侍官が入ってきた。
ここ数日、リヒャイルドは体調が良く、その日の御前会議にも出席した。
リヒャイルドが玉座に座る。ただそれだけだというのに、広い部屋に緊張が張りつめる。
その緊張感は、最高権力者に対する単なる畏怖だけではなく、戦後10年間、リヒャイルドが国を導いたことへの尊敬と信頼の念も感じられた。
分かっていたことだが、まだまだ自分は父王に及ばないとルトヴィアスは改めて認識させられる。
難しい議題もなく、会議は定刻より早く終了した。
「厩舎へ行かれますか?」
オーリオが相変わらずの無愛想で訊ねてくるのへ、ルトヴィアスも相変わらずの猫かぶりでにっこり返した。
「そのつもりですが、かまいませんか?」
「時間になりましたらお呼びにあがります」
オーリオが一礼で見送るのを背に、ルトヴィアスは回廊から庭に降りた。
ここ最近、オーリオはルトヴィアスにあまりついて回らない。職務に支障がない程度ではあるが、以前はまるで睨むようにルトヴィアスを見張っていて、その視線が痛かった。けれど晩餐会あたりから、どことなくルトヴィアスと目を合わせるのを避けているし、アデラインと会う時には席をはずすことが多い。それがどうも意図的であるように、ルトヴィアスには感じられた。
――…避けているといえば…。
ルトヴィアスはこぼれそうになる嘆息を、何とか噛み殺す。
実は、目があわないのはオーリオだけではない。オーリオと目が合わないのはむしろ幸いなのだが、アデラインまでルトヴィアスと目を合わせようとしないのだ。
彼女は晩餐会の翌日から、また騎士団の兵舎に出入りしてシヴァの厩舎にいるルトヴィアスに食事を届けてくれている。ルトヴィアスが食べている間、アデラインが隣で座って食べ終わるのを待っているのは、もはや日常だ。
けれど、以前は自然にあった会話が、今はない。ルトヴィアスが話しかければ答えが返ってはくるが、そこから会話が展開しないのだ。
アデラインは、時にはあからさまにルトヴィアスから顔を背け、ルトヴィアスが食べ終わると、空になった木製の器を籠に押し込めて、そそくさと出ていく。完全にルトヴィアスを避けている。
どうしてなのか分からない、訳ではない。
「ご苦労さま。何か変わりはありましたか?」
厩舎の見張りに、ルトヴィアスは声をかけた。人の良さそうな初老の見張り番は、髭がはえた口元をにこりと歪めて答える。
「これといったことはございません。ああ、ただ朝方、殿下と入れ違いにアデラインお嬢様がお見えになりました。林檎をおいていかれましたよ」
「…そうですか…」
頷いてルトヴィアスは厩舎の中に入った。
扉を閉めると、そこはルトヴィアス一人だ。自然、肩から力が抜ける。
普段より早いルトヴィアスの訪れに、シヴァが嬉しそうに近づいてきた。その首を、ルトヴィアスは軽く叩いてやる。
ふと、足元に目をやると、水桶の隣に麻袋が置かれ、中から小ぶりながら赤く色づいた林檎が覗いている。
いつの間にか夏採りの林檎の時季がきたらしい。
ルトヴィアスは小さく自嘲した。
「……主従で餌付けされてるな…」
林檎を一つ掴み、シヴァの鼻先に持っていくと、シヴァは待ってましたとばかりに食い付いた。シャリシャリと規則正しく咀嚼する音に、甘い香りがあたりに広がる。
「……くそ…」
ルトヴィアスの舌打ちに、シヴァは不思議そうに嘶いた。
見張り番は『入れ違い』と言ったが、おそらくアデラインはわざとルトヴィアスと会わないように、時間をずらしたに違いない。
正直、アデラインの態度にルトヴィアスはかなりまいっていた。どれくらいアデラインの顔を正面から見ていないだろう。まるで以前、俯いていたアデラインに苛立っていた頃に戻った気分だ。
――…いや、あの頃よりひどいな…。
アデラインへの想いを自覚している分、そして自覚したことで膨れあがった想いの分、焦躁がつのる。
こっちを見ろ、とアデラインの肩を強引に引きたい衝動をルトヴィアスは必死に押さえていた。そんなことをすれば逆効果だ。それくらいは、アデラインとの短い付き合いの中でルトヴィアスも学んでいる。彼女は外見に反して、かなり頑固だ。腕力で強引に押さえつければ、怯えて従うどころか、断固として反発するだろう。
自分がどうやらアデラインに片思いしているようだと自覚して、けれどルトヴィアスはその気持ちをアデラインに押し付けようとは思わなかった。
アデラインはルトヴィアスの立場も自分の立場も良く理解して、よくやってくれている。さらに心まで求めるのは、ルトヴィアスの我儘に他ならない。彼女にとっては義務だとしても、傍にいてくれるのだからそれで満足するべきなのだ。
頭では、そう分かっていた。けれどルトヴィアスが思っていたより『片思い』という状況は甘いものではなかった。
『でも、ああいう美しい娘がいたほうが殿下もおくつろぎになられるでしょう?』
アデラインが言った言葉。
体が引き裂かれたかと、ルトヴィアスは思った。それくらい衝撃をうけた。
アデラインの言葉は、理解ある正妃として模範的で、何の問題もない。そしてそこには、当然のようにルトヴィアスに対する恋愛感情もなかった。その事実を、改めて目の前につきつけられ、ルトヴィアスは簡単に激昂してしまった。
そんなルトヴィアスにアデラインは恐れ慄き、泣き出してしまったようだった。
――…どうして俺は…。
上手く優しくできないのだろう。
泣かせたいわけではないのに。傷つけたいわけではないのに。
衆人環視から庇うように抱き上げたアデラインが、ルトヴィアスの首に腕を回してくれたことに、ルトヴィアスは正直安堵した。
そして、ようやく謝ることが出来た。
『悪かった。俺のせいで』
謝るより他なかった。謝ったところで、3年前をやり直せはしない。それでも、ルトヴィアスはアデラインに謝りたかった。そして、アデラインに責めて欲しかった。ルトヴィアスを叩きながら、恨み言を叫んで責め立てる権利がアデラインにはある。そうすることでアデラインの心が少しでも救われるなら、一生だってアデラインに恨み言を言われ続けても構わなかった。
なのに――。
『殿下は私に自分を変える勇気を下さいました』
そう言って、彼女は微笑んだ。
そんなアデラインを、ルトヴィアスは理解できない。それと同時に、彼女のそんな優しさと強さに、改めて惹かれずにはいられなかった。
そして、気付いた時には言っていたのだ。
『俺の妃はお前一人だ』と。
想いを押し付けるつもりはなかったのに、ルトヴィアスの想いでアデラインを押し潰してしまわないかと、ずっと心配していたのに、これ以上彼女に我儘を言うまいと自分を戒めていたのに。
その時のルトヴィアスはただアデラインに、どれだけ自分が彼女を好きか―愛しているか伝えたかった。
そうして、アデラインを抱き締めた。ごちゃごちゃと言葉を重ねるより、それが一番、ルトヴィアスの気持ちが伝わる気がしたのだ。
その時は、伝わった気がした。
ルトヴィアスの腕の中で、アデラインは真っ赤になりながらも、ルトヴィアスの長衣を握りしめていたし、その後晩餐会の席に戻っても恥ずかしそうにしながらも微笑んでいたからだ。
けれど、次に会った時。
アデラインはルトヴィアスと一切目を合わせなかった。
話も出来ず、近づけば逃げていく。
そんなアデラインに、ルトヴィアスは混乱した。混乱して、理由を考えた。考えられるのは、たった一つだ。アデラインにとって、ルトヴィアスの気持ちは重かったのだ。つまり彼女にとって、ルトヴィアスに愛されることは迷惑だったということだ。
当たり前だ。
ルトヴィアスはアデラインを捨てようとした。結果、アデラインは息を殺すように生きてきた。3年もだ。その3年がどれ程長いか、ルトヴィアスが誰より知っている。
アデラインが、ルトヴィアスに微笑みかけてくれることだけでも満足するべきだったのに、それを今更愛しているなど、アデラインが呆れるのも当然だ。迷惑がり、ルトヴィアスと顔も合わせたくないと、話もしたくないと、そう思うのも仕方ない。
ルトヴィアスの表情が険しかったのか、シヴァがすり寄ってきた。
「…大丈夫だ」
心配してくる愛馬を安心させたかったが、その試みは失敗だった。力ないルトヴィアスの微笑みに、シヴァの紫水晶のような瞳が揺れている。
――…それでも…。
それでも、諦めきれない。
迷惑がられているのに、もしかしたら軽蔑さえされているかもしれないのに、それでも、諦めきれない。
――………こんなふうに…。
こんなふうに、誰かを切願したことが過去にあっただろうか。
確かに、自分は『彼女』を好きだったはずなのに、でもこんなふうに『彼女』を求めたことがあっただろうか。
『彼女』と結婚したいと、本気で思ったはずだったのに…。
意地になってはいなかったか、とルトヴィアスは己に問いかける。
絶対なっていないとは言い切れなかった。
自分の人生であるはずのそれが、あまりにままならないことに苛立って、『これだけは』と意地になってはいなかっただろうか。
「……ビビ……」
妻にと望んだあの女性を、自分は本当に愛していたのか――。
夢の中の『彼女』の面影は、何故かもうおぼろげだ。
ギ、と扉が軋んだ。
振り向くと、木製の扉の隙間からアデラインが中に入るところだった。
ちらりとルトヴィアスの姿を確認すると、アデラインは慌てたように視線を泳がせ、最終的には自らの足元を見ることで落ち着いたようだ。
「…し、失礼、いたします。御機嫌麗しく、存じ上げます…」
「…ああ」
ルトヴィアスが返事をすると、アデラインはおそるおそるといった様子で近づいてくる。まるで獅子に狙われた兎のようだ。
そんな彼女を見るのは辛い。
関係が気まずかろうが結婚することには変わりないのだから、いっそ強引にまた抱き締めてしまおうか。
――………出来たら苦労しない。
所詮、惚れた方が負けだ。アデライン相手に、ルトヴィアスは常に負け組。勝ち目はない。
小さく深呼吸すると、ルトヴィアスは意識して声を柔らかくしようと努めた。
「いい匂いがするな。何のスープだ?」
「は、はい。あの…あの…」
アデラインは、籠にかけてあった布を、すぐ傍の樽の上に広げた。その樽は、丁度良いからと机代わりにいつも使っているものだ。
「…ひよこ豆と…野菜のスープです……」
籠から出したスープ入りの器を、丁寧にアデラインは置いた。
「……パンは…チーズを挟んであります…」
チーズを挟んだ2枚の薄切りのパンを
スープの器の隣に並べると、すす、とアデラインが後ずさった。
そんな仕種にもいちいち傷つく自分が女々しくて、ルトヴィアスは自分が嫌になる。
「……もらう」
「……どうぞ」
一口飲み込んだスープはまだ温かい。舌に野菜の優しい甘さが広がる。
「……うまい」
「……ありがとうございます」
それきり黙りこんだ二人の背後で、シヴァが甘えるように嘶いた。そして鼻先でアデラインの背中をつつく。
「シヴァ」
アデラインは嬉しそうにシヴァをふりかえった。ルトヴィアスには、見せてくれなくなった柔らかな笑顔で。
アデラインは櫛をとりだし、シヴァの鬣の手入れをはじめた。いつのまにか、それはアデラインの仕事の一つになっている。
「いい子ね。シヴァ」
「……」
アデラインに鬣をなでられご機嫌な愛馬が、何故か憎い。裏切り者、とルトヴィアスは声なしにシヴァを罵った。……惨めだ。
しばらく婚約者と愛馬の楽しげな様子を面白くない気分で眺めていたルトヴィアスだが、アデラインの明るい表情を見ているうちに、今なら会話ができるかもしれないと考えた。そういえば、ちょうどいい話題があったではないか。
「最近、お前の真似をする女が増えてるって知ってるか?」
「え?」
アデラインが振り向く。よほど驚いているのか、ルトヴィアスから目をそらすのを忘れている。
――…やっと向いた。
それだけのことがやけに嬉しくて、けれど表情には出さず、何でもないようなふりで、ルトヴィアスは話を続けた。
「お前がこないだの晩餐会で着たドレス。あれがいいって、似たようなドレスを着る女がここのところ多いそうだ」
真似をする、ということは、アデラインの装いを好ましいと思ったということだ。少なくとも、侮る相手の真似は誰もしないだろう。
アデラインの目が、みるみる丸くなる。
「本当に?本当にそんなことが?」
「今日の御前会議で話題になったくらいだぞ」
大臣の一人が雑談として話したそれは、アデラインの自信に繋がるのではないかと、ルトヴィアスは詳しく訊ねた。
アデラインが晩餐会で着たドレスを真似て、薄い榛色の生地に同系色の糸で刺繍したドレスが、夜会で密かな流行になりつつあるらしい。話をしてくれた大臣も、娘にせがまれて榛色のドレスを仕立てたものの、身分が自分より高い婦人と同じ色のドレスを着てはいけないという例の面倒臭い慣習のせいで、なかなか着る機会を得られず、娘はやきもきしているそうだ。
「榛色と似ている鳶色や亜麻色が品薄になっているとも聞くから、多分かなりの女が、お前と同じようなドレスを発注しているんだろうな」
似た色が売れているのは、色がかぶらないようにという工夫だろう。そのうち夜会は榛色と同系統の色のドレスで溢れかえるに違いない。
近年、淡い色の柄物のドレスが流行っていたこともあり、アデラインの落ち着いた雰囲気のドレスは、女達に新鮮に見えたのかもしれない。
アデラインの顔は、嬉しそうに上気していた。
その顔を見ていると、ルトヴィアスも心が明るくなっていく。
ところが、少し興奮ぎみに話し始めたアデラインの言葉に、ルトヴィアスは凍りついた。
「ああ…私…オーリオにお礼を言わなくちゃ!」
「…何?」
何故、オーリオの名前がここに出てくる。
ルトヴィアスの表情が固まったことに、アデラインは気付いていない。
両手で自らの頬をつつみ、興奮を押さえようとしているが、今にも飛んでいってしまいそうだ―――オーリオのもとへ。
「あの色を選んでくれたのはオーリオなんです!」
「…オーリオが?」
「そうなんです!私にきっと似合うからって」
「…」
「オーリオはやっぱりすごいわ。ドレスのことまでわかるなんて」
「…何故?」
「はい?」
「何故、オーリオが選んだんだ?」
ルトヴィアスの表情が険しいことに、アデラインはようやく気が付いた様子だった。
「…あの…殿下?」
「どうしてオーリオが、お前のドレスに口出ししているんだ?」
声が尖るのを、ルトヴィアスは止められない。
ビクリと、怯えるようにアデラインが肩を揺らす。
――…まずい…。
怯えさせてどうする。 押さえろ。
優しくしたいのだ。泣かせたいわけではない。傷つけたいわけではない。
暴れかけている怒りを、ルトヴィアスは目を伏せることでやり過ごそうとした。
「あ、あの…口出しなんて…ただオーリオは私が困っていたのを助けてくれただけで…」
「どうして俺じゃなくてオーリオなんだ!?」
「…で、殿下がそうしろって仰ったんです!」
アデラインが震える声で訴えた。
黒い目が潤むのに、ルトヴィアスはたじろぐ。
「…俺が?」
「お、仰いました…」
「いつ?」
「……ドレスを…仕立てる時…ここで…」
記憶の引き出しから、遠くはない過去が飛び出してくる。
―――…言った。確かに言った。
ルトヴィアスは額に手をあてた。
言ったけれど、本気で言ったわけではない。あの時のルトヴィアスはアデラインへの恋愛感情を無視しようと躍起になっていたし、オーリオへの嫉妬もあって、はっきり言えば拗ねていた。
まさか本当にアデラインがオーリオに相談して、しかもオーリオが選んだドレスを着るなんて夢にも思わなかった。
――…似合ってた…。
あのドレスは、本当にアデラインに似合っていた。
肩が出すぎていないかと気にはなったが、それは他の男に見られるのを危惧したからで、危惧せずにはいられないほど、アデラインの良さを引き立てるいいドレスだった。
もし、ルトヴィアスがアデラインの相談に乗っていたとして、あれほどアデラインに似合うものを選んでやれたか自信がない。
あれは、オーリオだから選べたのだ。アデラインをすぐ傍で見て、彼女をよく知るオーリオだったからこそ。
「………」
「…殿下…あの…?」
ルトヴィアスが手で隠している表情を、そっと窺うようにアデラインが一歩をこちらに踏み出した。
けれど、ルトヴィアスは一歩退いた。
「…殿下」
「……」
自分の恋する相手が、他の男の選んだドレスを着て、平静でいられる男がどの世界にいるだろう。更には、そのドレスがとてつもなく似合っていたことで、ルトヴィアスは敗北感にも打ちのめされていた。
この先一生、こんなことを繰り返すのだろうか。
アデラインは自分を愛していないのだと思い知らされ、そのたびに崖から突き落とされる気分を味わうのだろうか。
――…もしかして…。
これは女神がルトヴィアスにあたえた罰なのだろうか。3年前のことがありながら、今更アデラインを求める自分勝手なルトヴィアスへ、罰を与えないアデラインにかわって、女神が罰を下しているのではないか。なら、自分はその罰を受けいれるべきだ。
――…3年前を、もしやり直せたら…。
こんなふうに、掛け違えた釦のような関係にはならなかっただろうか。
いいや、あの頃のルトヴィアスは、本当の意味でアデラインと出会っていなかった。だから、あの時はあの選択肢しかなかった。
3年前でなければ、10年前か。あの戦争さえなければよかったのか。あるいは戦争に勝っていれば、あと半月、終戦が早ければ…。
―――――いや。きっと、何をどうしても、自分とアデラインは掛け違ってしまう運命なのではないかと、ルトヴィアスはそんな気がした。最初から…最後まで。
「殿下…」
アデラインの声が、まるで小さな子供のように頼りない。
暗いまぶたの裏に、若葉色のドレスを着ていた少女の姿が蘇る。
アデラインを、こんな掛け違えた運命に縛り付けていていいのだろうか。
ルトヴィアスはいい。どうあろうと、ルトヴィアスはアデラインを愛している。
アデラインに迷惑がられようが、軽蔑されようが、そのことにどれほど傷つこうがかまわない。
けれど、アデラインは…。
軽蔑する男を夫にするような、そんな不幸な結婚をアデラインにさせていいはずがない。それこそオーリオと一緒になった方が、彼女は幸せになれるのではないか。オーリオの方が、きっとアデラインに上手く優しくできる。オーリオの方がきっと…。
優しくしたいのだ。泣かせたいわけではない。傷つけたいわけではない。ただ、ただ…。
――…ただ笑って欲しい―…。
ルードサクシードの法律では離婚は出来ない。
結婚してしまえば、アデラインを解放してはやれない。
――…国内の…政治バランス…。
それから血筋、家柄。それさえ揃った相手を選べば、問題はないはずだ。前にあれほど大騒ぎになったのは、相手が相手だったせいもある。それなりの相手を選びなおして、色々と根回しをすれば、それほど難しいことではないはず。
――…アデラインには傷がつかない形で…。
何度も婚約解消騒動を起こす王子だと悪評がたったとしてもかまわない。どんな手をつかっても、アデラインの心を今度こそ守ってみせる
何だってやる。アデラインを自由にしてやれるなら…。
「……お前が…もし」
自らの口が勝手に動くのを、ルトヴィアスは他人事のように傍観していた。
「……もし、婚約を解消したいのなら…そうしても…いい」




