第二十九話 晩餐会③
細身に見えるルトヴィアスだが、実際に抱き上げられると、彼の腕も胸も、驚くほどに逞しい。以前アデラインを蝶のように軽いと言ったが、本当にアデライン一人を抱え上げるなど、何でもないようだった。
アデラインは、彼の綺麗な横顔を仰ぎ見る。
――…私…殿下が好きなんだわ。
いつの間にか、アデラインはルトヴィアスに恋をしていた。してはいけないと思っていたのに、今でもそう思っているのに。
あの幻のような初恋の、延長なのかどうかはわからない。けれど今、目の前の男性に恋をしているという事実は、もう否定しようがなかった。
大広間を出ると、ルトヴィアスは駆け寄ってきた専従の侍官にいくつか言いつけた。
「控えの間に湯と布の用意を。それから傷薬と包帯も」
「かしこまりました」
侍官が礼をして、離れていく。
「…お気づきになっていたのですか?」
ルトヴィアスが下した命令は、傷の手当てを目的としたものだ。
「…大広間を出ていく時、いつもと歩き方が違ったからな」
「…同じように歩いたつもりでしたが…」
「俺以外は誰も気づいてない。足を庇うような歩き方が変だと思って追いかけたのに…悪い…その……」
気まずそうに、ルトヴィアスは目を泳がせる。
「…それほどお怒りでしたか?あの…申し訳ありません私…」
まだ、彼を怒らせた理由がわからない。それにも関わらず謝るのは意味がない気もするが、他にどうすればいいかアデラインにはわからなかった。けれどアデラインの謝罪を、ルトヴィアスが遮った。
「いや、違う……いや、違わなくはない、んだが…」
困ったように口ごもり、彼はとうとう立ち止まってしまった。
「殿下?」
さっきからどうにもルトヴィアスは彼らしくない。何かを言おうとして、けれど結局言わずに口を閉ざしてしまう。眉を寄せるその様は、何かを考えこんでいるようで、その邪魔をしてはならないと、アデラインも話すのを控えた。
遠く、侍官や女官が行き交う靴音だけが聞こえる。
ルトヴィアスの碧の目が、戸惑うように揺れて、アデラインの黒い目を捉えた。
「俺は…」
「はい?」
「俺はお前が…」
目をしばたくアデラインを、ルトヴィアスはじっと見つめる。そして拗ねたようにふいっと逸らすと、再び歩き出した。それが急だったので、アデラインは慌てて彼にしがみついた。
「殿下?」
「…とにかく、お前に怒ったわけじゃない。俺は…またお前に八つ当たりしたんだ。すまない。謝る。だから頼むから泣かないでくれ」
「あ、いえ…私が泣いたのは…」
ルトヴィアスに怒られたからではない。むしろ『またお前に八つ当たりしたんだ』の『また』とはいつのことなのだろう。アデラインは尋ねようとしたが、控えの間の扉の前に侍官の姿を見つけ、結局言い出せなかった。
大広間に隣接する控えの間に入ると、既にたらいにたっぷり注がれたお湯や、傷薬が用意されていた。
控えている女官を見て、アデラインはドキリとする。さきほど叱責した、あの女官だ。
自分をはしたないとまで言った女官に傷を手当てされるのは気まずいが、アデラインの私室で待機しているだろうミレーを呼び出させるのも、それはそれで気まずい。ここは我慢するしかないと、内心アデラインは腹をくくった。
けれどそんなこと必要ないとでも言うように、ルトヴィアスが女官に退室を促した。
「私がするから、出ていなさい」
アデラインはまじまじとルトヴィアスを見た。私がするから、と今言わなかったか。
それは女官も同じだったようだ。
「あ、あの…ですが…殿下がお手ずから?」
「侍官にさせるわけにはいかないだろう?」
それはそうだ。夫や親族以外の男性に体を、しかも素肌を触らせるなど、貴族の女性にあるまじきことだ。馬車から降りる時にライル達が手をかしてくれるのとはわけが違う。
「出ていきなさい」
軽く睨むように命じられ、女官は怯えてびくりと肩を揺らした。ルトヴィアスの飼う猫にしては随分ときつい口調だ。
――…そういえば…。
ルトヴィアスは『少し前』から話を聞いていたと言った。ルトヴィアスに対する女官達の噂話を聞かれたかもしれないと動揺して、自分の噂話のことなどすっかり忘れていた。
――…聞いて…しまった?
女官にまで蔑まれるアデラインの情けない現状をルトヴィアスに知られてしまった。ルトヴィアスはどう思っただろう。自国の宮廷の統制が、こうも乱れていることに心を痛めたに違いない。
「し、失礼いたし、ました」
「それから」
ルトヴィアスは頭を下げながら後ろ擦さる女官に、また冷気を孕んだ声をかけた。
「…は、はい」
女官の手が震えている。わずかに見える整った顔は青ざめていた。
「今後、私の婚約者を侮辱する言動をした者は、アデラインが何と言っても王宮から追放する」
「殿下!?」
アデラインは仰天して、ルトヴィアスを見上げた。
「それは…それは私の権限です!」
「貴女が何と言おうと、貴女を傷つける者を私は許す気はない。――自分を含めて」
ルトヴィアスの瞳が、アデラインを至近距離から見つめる。
その切実な色に、アデラインは何も言えなくなった。
「殿下…」
「…下がってよい」
「し、失礼いたしました!!」
女官は礼を取るのも忘れて、転びそうになりながら扉から出ていった。
それを背中で見送り、ルトヴィアスはアデラインをゆっくり椅子に下ろした。
「あ、あの…」
「靴を脱げ」
「え?」
彼は、豪奢な外套を肩から外して、床の上に雑に放り出す。
「脱がないと何も出来ないだろう?」
ルトヴィアスが手首の釦を外しながら言った言葉に、アデラインは動揺を隠せない。ルトヴィアスは本気で、自らアデラインの足の手当てをする気だ。
「じ、自分でやります!」
もはや、アデラインの頭からは今しがたのルトヴィアスと女官のやり取りなど吹き飛んでしまった。
婚約者とはいえ、結婚前だ。それに馴れない靴で歩いたせいで足が蒸れている。そんな足をルトヴィアスの前に晒すなど言語道断。
アデラインは椅子の上で身を縮ませるようにして、必死に抵抗した。
「自分でやりますから、どうぞお気遣いなく!!」
「ああ、もういい。俺が脱がせる」
既に腕捲りしたルトヴィアスは、アデラインの抵抗が気にくわないのか目を細めると溜め息をつく。そしてアデラインの足元に跪いた。
「自分でやりますってば!」
「裾、邪魔」
「殿下!」
「俺がドレスめくっていいのならそうするが?」
アデラインは絶句した。そんなことになれば、もうどこにも嫁げない。勿論目の前の婚約者が責任はとってくれるはずではあるが。
顔を真っ赤にしながら、アデラインは意を決してドレスの裾を、震える指でそろりと持ち上げた。
「…裾のレース。一周りで騎士団の一部隊が2日食える」
「…っ!」
頭の中でチャリーンと金貨が鳴る。
そんな高価なレースを、血に汚れるかもしれないお湯に浸けるわけには断じていかない。
グワっと勢いよく、アデラインはドレスを膝丈までたくし上げた。ほぼ無意識に。
「よし」
ルトヴィアスが満足げに頷くのに対してアデラインは、ガクリと項垂れる。淑女の貞操観念とはこの程度か。
「…負けた…」
「脱がせるぞ」
うちひしがれるアデラインを見事に放置し、ルトヴィアスは湯気があがるたらいを引き寄せる。
ルトヴィアスの長い指が、足首を掴むのをアデラインは息を飲んで見守った。彼の手はけして冷たくはなかったのに、何故か背筋がゾクリと震えて、足が思わず逃げようとするのをアデラインは唇を噛んで堪えた。
身体中の血液が足首に集まり、踵の傷口から吹き出しそうだ。これでは手当てする意味がわからない。
靴を脇に置くと、ルトヴィアスはお湯に浸した布でアデラインの足を拭った。ジクリと傷口がしみる。
10年前、ルトヴィアスから贈られた靴はアデラインには大きすぎた。無理矢理履いた結果、靴擦れになりリーナ妃に手当てしてもらったのだ。
ちょうど今と同じ部屋で。
「…昔。リーナ様に同じように靴擦れを手当していただいたことがありました」
「……そうか」
ルトヴィアスの返事は、興味がないのか素っ気ない。
乾いた布で足を拭くと、ルトヴィアスは自らの足を台代わりにしてアデラインの足を乗せた。そして長い指でアデラインの傷口に薬をぬると、布をあてて包帯をくるくると器用に巻き付けた。随分と手慣れて見える。リーナ妃に習ったのかもしれない。
ルトヴィアスが動くごとに、彼の金糸のような髪が、きらきらと揺れた。切なさに、アデラインは目を細める。
――…どうしよう…。
どうしてこんなことになったのだろう。
好きになるつもりなんてなかったのに、どうして、いつから、心がルトヴィアスを追いかけるようになってしまったのだろう。
――…抑えなきゃ…。
ルトヴィアスを恋い慕う心を抑え込まなければならない。
恋愛感情は、必ず嫉妬をうむ。夫を愛するあまり、側室や側仕えの女官を虐げた王妃は過去の歴史に多くいる。そんな王妃の多くは夫から疎まれた。今、アデラインがルトヴィアスの側にいられるのは、アデラインの血筋や家柄、それから妃として何とか及第点を貰えているからだ。嫉妬に惑わされて、正妃としてあるべき姿を見失っては、たちまちルトヴィアスはアデラインを遠ざけてしまうだろう。
「…あんなふうに」
ルトヴィアスが、低い声で呟いた。
「え?」
「あんなふうに言われてたんだな」
ドクリと、アデラインの心臓が不気味な音で鳴った。
――…やっぱり…きいて…た…。
思った通り、ルトヴィアスは女官達がアデラインを蔑むのを聞いていたのだ。確かに、女官達の声はアデラインへの遠慮がないぶん、大きく廊下に響いていた。
包帯を結び、ルトヴィアスは顔を上げる。彼から向けられた視線を避けるように、アデラインは顔を背けた。顔を見られたくない。きっとひどく惨めな顔をしている。
――…ああ、どうしよう。
あんなことを聞かれてしまったなんて。
「お前がどうしてそんなに自分を軽んじるのか…ずっと不思議に思っていた。……あんなふうに言われれば誰だって嫌でも劣等感に押し潰されるよな」
「…」
はしたない、あからさま、言われた言葉は鋭い刃になってアデラインの心を刻み、思い出すたびに傷口からは血が流れる。
ルトヴィアスの視線が自らに注がれているのはわかっていたが、アデラインはそれからも逃げ出したかった。優しいルトヴィアスは、きっとアデラインを慰めてくれるだろう。
親しい人達も皆、婚約解消のことで色々と噂されるアデラインを慰めてくれた。優しく哀れんでくれた。その哀れみこそがアデラインを傷つける新しい刃になってしまうとも気付かずに。
「…あの、大丈夫です。慣れてますから」
必死にアデラインは言葉を絞り出した。ルトヴィアスに慰められたくはない。哀れまれたくない。お願い、これ以上惨めな思いをさせないで。
けれど降ってきた言葉は、アデラインが考えていたものではなかった
「悪かった。俺のせいで」
真摯な、謝罪。
アデラインは目を見開いた。何故、彼が謝るのだ。
「婚約を解消することで…俺の我儘で、俺が何かを言われてもお前が悪く言われるなんて思ってもいなかった。俺は何もわかってなかった…お前に、どんな思いをさせるか」
ルトヴィアスが、深く、深く頭を下げる。俯き、顔を背けるアデラインの狭い視界でもそれがわかるように。まるで叙任式の騎士のように。
「すまなかった。アデライン」
「殿下違います!」
アデラインは急いで床へ膝をついた。頭を下げるルトヴィアスを窺うために、更に頭を下げる。
「顔を上げてください!殿下のせいではありません!侮られるのは私のせいです。外見のせいにして、下をむいた私のせいです!」
美しければと、鏡の前で嘆いた日々。変わるきっかけを――勇気をくれたのは、他でもないルトヴィアスだ。
「殿下が手をひいてくださったから今日あの場で私はこのドレスを着ることが出来たのです。私一人では、例え着ることが出来ても人前に出るなんてとても…。 殿下は私に自分を変える勇気をくださいました」
ルトヴィアスが微かに頭を上げてくれたので、彼の目をアデラインは見つけることができた。少しだけ揺れている碧の目が綺麗で、アデラインは微笑む。
「私が何を言われたのだとしても、それは殿下のせいではありません。殿下が私の為に怒って下さる必要はないのです」
「お前は俺にお前の為に怒らせてはくれないのか?」
まるで拗ねたような言い方に、アデラインは少しだけ吹き出してしまった。
「そういうわけでは…ただ、殿下のせいではないと、そう言いたいのです」
「…俺は自分が許せない」
ルトヴィアスは、聞いているアデラインの方がつらくなるような声で、自らを責めた。
「俺は…自分だけがつらいのだと思っていた。自分が一番傷ついているのだと思っていた。…本当に嫌になるくらい俺は自分ばかりだ」
「殿下」
「どんなに謝っても謝り足りない。アデライン。お前は俺を罵ればいい。殴ったっていい。どうすれば俺はお前に償える?俺は…」
「顔を上げてください、殿下」
わざと、ルトヴィアスの謝罪をアデラインは遮った。
不敬ではあるが、きっとルトヴィアスはアデラインを咎めはしないだろう。
「もう、謝罪は必要ありません」
彼に謝って欲しいと思ったこともある。けれど実際謝られてみると、結局それはアデラインの欲しいものではなかったようだ。
アデラインは、おそらくルトヴィアスと話がしたかったのだ。
婚約を解消するなら、そうと直接申し込んで欲しかった。けれど現実にはアデラインは口出し一つ許されず、何もかもがアデラインの手が届かない所で処理されてしまった。アデラインの気持ちを置き去りにして。
3年前、ルトヴィアスが少しだけでもあの時アデラインを振り返ってくれたら、アデラインは婚約解消を了承しただろう。
けれど、そうなっていたらこんなふうにルトヴィアスと親しく接する機会はなかっただろうと思うと、やはり解消しなくて良かったとも思ってしまう。
「だから、頭を上げて下さい」
もう一度、アデラインは言った。
自分が微笑んでいるのがわかる。自然に、こんな風に笑える様になったのは、ルトヴィアスのおかげなのだ。
ルトヴィアスは、アデラインと目を合わせたままゆっくり頭を上げた。
碧の目の中で湖面の月のように揺れていた光が、やがて強く強く瞬く。何か硬い決意を秘めるように。
「…なら、お前も顔を上げろ」
「…え?」
アデラインの両頬を、ルトヴィアスの両手が包んだ。痛みを感じない程度に強く、彼の手がアデラインを上向かせる。
「顔をあげろ」
アデラインがそうしたように、ルトヴィアスもその言葉を繰り返した。
彼の目の中に自分が映っている。アデラインはそれを食い入るように見つめた。瞬きの一瞬さえも惜しい。僅かでも、ルトヴィアスの瞳の中にいたい。
「これから先、もしまた今日のようなことがあっても、お前が俯く理由なんて何一つない。お前がお前を恥じる必要なんてない。顔を上げろ。胸をはれ。誰が何と言おうと…何があろうと」
アデラインに言い聞かせるように、ゆっくり、真摯に、ルトヴィアスは一語一語を発音した。
「俺の妃はお前一人だ」
乾いた大地に雨が染み込むように、彼の声がアデラインに落ちてくる。
「……殿…下?」
落ちてきた言葉は、随分と自分に都合がいい意味に聞こえた。
「もう一度言うぞ。俺の妃はお前一人だ」
「あ、あの…」
どうしたって、自分の都合のいいように聞こえてしまう。
――…まるで…。
まるで、愛を約束されているように。
みるみると体温が上昇し、ルトヴィアスの手に挟まれた顔が熱くなっていく。
それを見て、真面目な顔をしていたルトヴィアスがぷっ、と吹き出した。
「…っ。お前本当に何なんだ、その顔」
くっくっと楽しそうに笑う彼は、いつもより幼く見える。その表情に、アデラインの胸は甘く締め付けられた。
「…か、顔です、か?」
いったい自分はどんな顔をしているのか。アデラインは自分の顔を確認する術はないものかと目だけで辺りを見回すが、残念ながら鏡の類いはない。
「他の男に見せるなよ」
ルトヴィアスは笑いながらアデラインの頭と肩に手を回す。そのままアデラインはルトヴィアスの胸に引き寄せられた。
以前にも抱き締められたことはある。けれどそれは泣いているアデラインを慰めるためだ。
ではこの抱擁は一体なのだろう。
まるで何か大切なものを、独り占めしたいとでもいうような甘さを醸す彼の腕は。
息が止まる。
いいや、時間が止まる。
「 …側室なんて必要ない。だから不真面目な女官はさっさと辞めさせろ」
「…っ」
耳元で囁かれたルトヴィアスの言葉は、優しく、甘い。
――…勘違い、してしまいそう。
彼の瞳が、声が、手が腕が、すべてがあまりにアデラインに優しくて、愛されていると、錯覚してしまいそうだった。
――…愛されてるわけじゃない。勘違いしちゃいけない。
何度も何度も、アデラインは自分に言い聞かせた。
――…殿下は、きっと私を哀れんでいるんだわ…。
女官にまで蔑まれる小娘に、不相応な立場と地位を与えられてしまった小娘に、ルトヴィアスは深く同情しているに違いない。そうでなければ、償いのつもりなのだ。アデラインを大切にすることで、彼は3年前のことを償おうとしているのかもしれない。とにかく、そこにあるのは憐れみや罪悪感で、決して愛ではない。
それでも、背中に回されたルトヴィアスの腕の強さが心地よくて、頬を預ける胸の温かさが愛しくて…。
――…今だけ…。
今だけ、幸せに溺れていよう。
溺れて、結果として呼吸が出来ずに心臓が止まってしまっても、それはそれで構わない気がした。その死は、きっとこの上なく甘美なものだろうから。
2018.6.7 脱字(?)を訂正しました。ご指摘ありがとうございました。




