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第三話 宰相令嬢の憂鬱な朝

「お嬢様、お嬢様!起きてくださいまし」

「…もう起きてるわ。ミレー」

アデラインが寝台の中から応えると、天幕が一気に開けられた。眩しさにアデラインは眉をひそめる。

「ミレー…眩しいわ…」

「朝でございますからね。明るいのは当たり前でございます」

アデライン専属の侍女のミレーは、アデラインよりもアデラインの母の年に近い。アデラインが生まれた時から側に仕えており、それもあってかアデラインにやや遠慮がない。信頼のおける姉のような存在ではあるが、この無遠慮さが、思春期を迎えた頃からアデラインには悩みの一つだ。

アデラインは溜め息をひとつつくと、のろのろと起き上がった。

夜着からのぞく肩も腕も細く、女性的な色香は乏しい。

白い小さな顔に、やはり小さな黒い目と唇。

腰にまで届くたっぷりとした豊かな栗色の髪。

もうすぐ、アデラインは18歳になる。

豪奢な寝台の上で絹の夜着に包まれながら、しかしその様子はまるで捨てられた子犬のような風情だ。

「私、嫌な予感がするわ」

ぼそぼそ、と唇が動いた。

蚊のなくようなその声を、侍女は聞き逃さなかった。

「お嬢様?」

「ドレスの裾を踏んで泥水の中に転ぶとか、蜂に刺されて顔が満月みたいに膨らむとか…」

恐ろしい想像に、アデラインはブルッと震え上がった。

「笑い者になるわ。絶対そうなる気がする!」

アデラインは寝台に逃げるように潜り込むと、頭からしっかり掛布をかぶった。

大きな溜め息をついたのは、今度はミレーだった。

「何を言ってらっしゃるんです。ほら起きて!顔を洗ってお召し替えを!」

ミレーは掛布を引き剥がそうと強引に引っ張ったが、アデラインも負けじとしがみつく。

「私やっぱり今日は1日寝てる!お願いミレー!私は熱があるから今日は行けないってお父様に言ってきて!」

「そんなこと出来るわけございません!」

ぐぐぐっと、両端を引っ張られ、掛布はまるで綱引きの綱のようだ。

「お願いお願いミレー!一生のお願い!」

「出来ません!!」

軍配はミレーにあがり、まるで網にかかった魚のようにアデラインは掛布と一緒に寝台の上に投げ出された。

本より重い物を持ったことがないアデラインと、水仕事から給仕までこなす体力自慢のミレーでは、勝負の行方は始めから決まっていたようなものだ。

「昨日も一昨日もその前もそのまた前も、ドレスの裾を踏んで転ばれることはございませんでしたし、ここ10日ばかり晴天続きですので泥水の水たまりなどありません!このあたりは涼しゅうございますので、蜂が飛び回り始めるにはまだ季節が早ようございます!よって刺される心配は無用です!!」

「でも、だって…」

涙声のアデラインに、けれどミレーは容赦なかった。

「でももだってもございません!皇国に留学なさっていたルトヴィアス王子殿下が10年ぶりに戻られるんです!婚約者のお嬢様がお出迎えなさらないでどうするんですか!!」

ぐぅの音も出ない正論の前に、アデラインは肩を落とした。

留学の名目で人質にされていた王子が、当初の『成人まで』という皇国との約束どおり、ようやく帰国するのだ。

王子は帰国の4ヶ月後に立太子することが決まっており、立太子のすぐ翌日には、アデラインと婚礼をあげる。

病身の国王に王太子の不在と、不安を抱えていたルードサクシード国民は、これでやっと安心できると胸をなで下ろし、そして、戦後初めてにして最大の国の慶事を楽しみにしていた。

例え高熱があったとしても、婚約者のアデラインが帰国する王子を出迎えないわけにはいかないだろう。

「さぁさ、顔を洗ってくださいまし。早くしませんと朝食を食べ損ねますよ」

更に促しても寝台で半べそ状態のアデラインが哀れに見えたのか、ミレーはアデラインの隣に座ると、その背に手を回した。

「道が悪くても大丈夫なように、今日は履き慣れた靴をご用意しましょうね。それから虫除けのハーブを花帽の内側に縫い付けておきましょう。他に何か心配がございますか?」

「…馬車に酔って吐かないかしら」

「ならお手持ちの小袋に薄荷飴を入れておきます。酔った時に舐めるとスッキリしますよ」

「…」

「お嬢様」

「…わかったわ…起きます…」

背中に伝わるミレーの手の暖かさに励まされ、アデラインは力なく頷くと、ようやく寝台から降りた。顔を洗い、ミレーに手伝ってもらいながら亜麻色のドレスに袖を通す。

「もっと他のお色のお召し物にしたらどうです?他家のご令嬢はここぞとばかりに着飾ってきますのに…」

「いいの」

短く言い切るアデラインに、ミレーはもう何も言わなかった。

ルトヴィアス王子が国境を越えるのは昼過ぎだ。それに立ち会うために数日前からアデラインは国境近くの領主の屋敷に宿泊している。

ルトヴィアス王子を出迎える為、宮廷騎士団をはじめ多くの貴族が集まり、更にその従者や馬車で溢れかえった国境近くの街は、ちょっとした祭りのようになっていた。

明るい人々の表情とはうってかわって、アデラインは陰鬱な深いため息を零す。

3年前の婚約解消騒動以来、自分の立ち位置をアデラインは見失っていた。他の女性と結婚するために、王子に捨てられかけた婚約者。公衆の面前で指を差されて『愛してない』と喚かれたも同然である。

『王子の婚約者』として公務をこなしても、影で『名ばかりの…』と囁かれていることは知っている。

名ばかりだろうと正式な婚約者であることに違いはないのだから、開き直って堂々とすればよいとは思うのだが、アデラインにはそれができなかった。人前でおどおどすることが多くなり、最近では公務も満足にこなせない。

その上、ルトヴィアス王子本人を目の前したら、自分はいったいどうなってしまうのか、アデラインは想像するのも恐ろしかった。

「髪はどういたしましょうお嬢様」

「…いつもと同じようにして…」

「…かしこまりました」

ミレーがアデラインの豊かなブルネットを丁寧にすいて、頭の後ろで一本の三つ編みを編み始めた。鏡の中の地味な自分の顔を、アデラインはぼんやりと見やる。

化粧を施して、ようやく人並み程度に見れる顔。

この鼻がもう少し高かったら、この睫毛がもう少し長かったら、目がせめてルトヴィアス王子のような綺麗な碧色だったら…。

もう少しルトヴィアス王子も、アデラインに関心を持ってくれたかもしれない。婚約解消をするにしても、一言謝罪をくれたかもしれない。

そしたら心の整理もつきそうなものだ。

騒動後、ルトヴィアス王子からは謝罪どころか個人的な便りは一度もない。手紙などは皇国に制限されていたので仕方がないのかもしれないが、大使が定期的に皇国とルードサクシードを行き来しているのだから、言付くらいしてくれてもよかったのではないか。だが王子は、政略結婚の婚約者に、そんな気遣いは無用だと思っているのかもしれない。

婚約解消騒動については、もう全ては終わったことだ。何事もなかったふりをするしかない。いつまでも引きずって謝罪を要求するような女など、ルトヴィアス王子はきっと煩わしく思うだろう。

それに、そんなことを言えば、アデラインがルトヴィアス王子を想っていると、告白するようなものではないか。政略的な婚約なのに、アデラインだけが一方的に王子を慕っていると当のルトヴィアス王子に知られるのは、あまりに恥ずかしく惨めすぎる。

アデラインは、鏡の中にゆるゆると笑いかけた。

「ミレー」

「はいお嬢様」

「私、ちゃんと笑えてる?」

正妻の妾への嫉妬は、はしたないこととされている。何事も知らぬふりで、ゆったりと微笑むのが貴婦人の嗜み。

「…はい。とてもお綺麗です」

ミレーは手を止めて、深く、頷き返してくれた。

「…ありがとう」

人に名ばかりの妻と嘲られ、それを聞こえぬふりをして微笑むなんて、まるで道化だ。

せめてミレーの言うとおり、本当に美しくありたかった。そうであれば『婚約者があれでは、婚約解消もしたくなる』と、密かに頷く人もいなかっただろうに。

身支度が終わり、朝食もすませ、アデラインはいよいよ国境にむけた馬車に乗り込んだ。

「いってらっしゃいませ。お嬢様」

「…行ってきます…」

ミレーが渡してくれた手提げの小袋には、油紙に包まれた薄荷飴がキチンと入っていた。花帽の折り込みにも、虫除けのハーブが縫いつけられている。限られた時間の中で、予定外の仕事にもきっちり対応してくれる侍女に、アデラインは感謝した。そして侍女を忙しくさせているだろう自分が情けない。

ガタガタと揺れる馬車の中で、アデラインはその日何度目か、もはやわからないため息をついた。


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