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第二十八話 晩餐会②

大広間の豪華な扉が開くと、既に席についていた面々が一斉に立ち上がる。きらびやかに着飾った人々が頭を下げ礼をとる中、ルトヴィアスとアデラインは歩を進めた。真っ白な布に覆われた晩餐会用の長い机の上には、規則正しく銀食器が並べられ、等間隔に花と燭台が置かれていた。

晩餐会は初めてではない。

値踏みするような視線にはいつまでたっても慣れることは出来ないが、何も気付かないふりで微笑むことは出来る。 それでも今まで感じたことがないほどの好奇心、羨望、疑心など様々な感情の波に、アデラインは今にも窒息しそうだった。

意識して呼吸を繰り返すアデラインの横で、ルトヴィアスはといえばいつも通り頭上に猫を乗せ聖人のように悠然と微笑んでいる。幼い頃から注目を浴び慣れているだけあって、その微笑みからは緊張どころか余裕さえ感じられた。彼はただ歩いているだけだというのに、その洗練された歩みに貴婦人達は頬を染め、でなければ溜め息をついている。

ルトヴィアスとアデラインは国王の左側に揃って座り、それにあわせて立っていた面々も各々席につく。

ルトヴィアスが帰国した際は体調が思わしくなかった国王だが、今日は顔色も良いようだ。国王はアデラインの以前と違う着飾りに気付き、目を細めた。

「随分君が眩しく見えるのは何故かな。とても似合っているよ、アデライン嬢」

「ありがとうございます国王陛下」

アデラインは目を伏せて感謝を述べた。婦人の装いを褒めるのは、一種の礼儀だ。けれど今まで、その礼儀すら受ける経験が少なかったアデラインにとって、国王の言葉は面映ゆかった。

「念のため言っておきますが彼女は私の婚約者です父上。口説くのはご遠慮頂けますか」

「おや、私の息子は随分と心がせまく育ってしまったようだ」

ルトヴィアスの軽口に、国王がさも楽しそうに応えると、周囲にも笑いが起こった。

「今日のアデライン嬢は本当にお美しい」

「今まで出し惜しみされていたのですか宰相閣下」

話を向けられた宰相は、慌てる様子もなく朗らかに笑った。

「夫君たるルトヴィアス王子のご不在中に、着飾る必要はないと言い聞かせておりましたので」

アデラインは、耳を疑った。そんなことは一度も言われたことがない。むしろアデラインは、常々父親にもう少し装いを何とかしろと言われていたのだが、それをおくびにも出さず上手く会話をさばく宰相はさすがである。

周囲は感心したように頷き合った。

「なるほど」

「さすが宰相閣下。素晴らしいご方針ですね」

「アデライン嬢の貞婦ぶり、我が娘にもぜひ見習わせたいものです」

貞婦とまで持ち上げられて、アデラインはそわそわと落ち着かない。そもそも自分が話題の中心になる機会など今まで無かったため、素直に褒められておくべきか、謙遜すべきなのかの判断も出来ない。

「わ、私など…滅相もないことです」

無理矢理作った愛想笑いで、アデラインは結局後者を選んだ。隣のルトヴィアスの頭上から猫を借りてきたい心境だ。

「それくらいにして下さい。恥ずかしがり屋の彼女が困っています」

ルトヴィアスがまた軽口めいて言うと、国王がまた楽しそうに笑った。

「仲が良いことだ。この分では孫の顔も遠からず見ることができそうだね。マルセリオ」

「ええ、陛下。楽しみですな」

国の頂点に立つ人間が二人も揃って何てことを言うのだ。アデラインは顔を真っ赤にして俯いた。

けれど、朝の散歩でもしてきたような清々しい微笑みをうかべたルトヴィアスが、次に言った言葉に、アデラインは俯くどころか危うく卒倒しかけた。

「ご期待に沿えるよう努力いたします」

わっ、と場が盛り上がる。

アデラインは開いた口が塞がらない。

――…な、な、な、何てことを…っ!!

いくら醜聞を払拭したいからといって、いくらなんでもこれでは醜聞どころかアデラインの正気も吹っ飛びかねない。

給仕をしていた侍官が、招待客全員の杯に葡萄酒をつぎ終わる。アデラインにとっては、それが女神の助けのようだった。

「それでは息子の帰国を祝って」

国王が杯を掲げると、宰相もそれに倣う。

「ルトヴィアス王子殿下のご帰国を心よりお喜び申し上げます」

宰相の寿ぎの言葉に、大広間の全員が杯を高く掲げ、声を揃えた。

「お喜び申し上げます」

アデラインの手元が震えていたのは言うまでもない。





和やかな雰囲気で始まった晩餐会だったが、交わされる会話の端々に、貴族達の権力欲と好奇心が入り混じり、アデラインは一瞬も気が抜けなかった。

宮廷内にはいくつかの派閥がある。

もっとも大きいのは国の復興を最優先として皇国へ臣従する親皇国派だ。この派閥が強い勢力を保っているのは、リヒャイルド王が戦後、反対勢力を粛清したからたが、その粛清の手を逃れ皇国とそれに臣従したリヒャイルド王への反感を抱く反皇国派は少なくはないし、親皇国派も決して一枚岩ではない。大抵の貴族達の関心事は、国益や国の名誉ではなく、自分達の家名と領地、そして財産を、いかに守り肥やすかである。その為には主義や主張などいくらでも覆す。表向き親皇国派の仮面をかぶりながら、裏で反皇国派と通じていると目される人物も多くいる。

そんな彼ら貴族達が共通して興味を持っているのは、ルトヴィアスが今後示すであろう国の方針と、それによって自分達が利を得られる方法だ。

勿論、ルトヴィアスはそんなことは百も承知であるようだった。

「皇国ではどうお過ごしでしたか? 」

「皇国ではどんな方々とお付き合いを?」

そんな何気ない質問にも、ルトヴィアスは聖人のような清らかな微笑みで、当たり障りのない答えを返し、無駄に敵を作ることを上手く避けている。

何気なくアデラインはルトヴィアスの手元を見た。

――……やっぱり何も召し上がっていない…。

ルトヴィアスの前に置かれた皿にのる料理は、先程盗み見た時から何も減っていない。彼は一口も口に運んではいないようだ。おそらく飲み物も飲んだふりをしているだけなのだろう。

今日は朝から晩餐会の準備もあり、アデラインはルトヴィアスの食事の準備が出来なかった。つまり彼は朝から何も口にしていないのだ。

毒見がされている食事は一切食べないという自らの言葉に、ルトヴィアスは忠実に従っている。

我儘、強情、言い方は色々あるだろう。けれどそんなルトヴィアスの頑なさに、何かに怯えているような、そんな様子をアデラインは感じ取っていた。

――…明日は何のスープを作ろうかしら。

ルトヴィアスが好きな食材を、アデラインは頭の中で混ぜ合わせる。

けれど、ジワリとした痛みを足に感じ、小さく顔を歪めた。

――…靴が…。

両足の踵が、ジクジクと痛む。

ドレスに合わせて薄い榛色をした靴は、あつらえる時間がなかった為に既製の物から選んだ。

昨日試しに履いた時には特に気になるところはなかったのだが、どうやらアデラインの足には若干合わなかったようだ。気を張っていたせいか今まで気付かなかったが、足を少し動かすだけでも痛む。

出血をしているかどうかが気になるが、屈んで見るわけにもいかない。

薄い色のドレスだ。血が裾にでもついたら目立ってしまう。

迷った末に、アデラインは立ち上がった。

「アデライン?」

見上げてくるルトヴィアスに、アデラインは微笑んだ。

「すぐ戻ります。お話を続けてらしてください」

ルトヴィアスや周囲に告げると、膝を軽く折って礼をとる。

踵が痛んだが、それを庇う歩き方をしては気品に欠けてしまう。ルトヴィアスの婚約者である自分にはそんなことは許されないと、アデラインは一歩一歩を意識して優雅に歩いた。

廊下に出れば、誰かしら女官がいるはずだ。女官に頼んで応急手当てをしてもらおう。侍官が開けてくれた扉から出たアデラインは、すぐに女官の姿を探した。磨きあげられた大理石の広い廊下の柱の影に、深緑のドレスの裾を見つけ、アデラインはほっとする。女官の制服だ。

「あの…」

声をかけようと近づくと、女官は複数人いるらしく話し声が聞こえる。

「ねえ、アデライン様のドレス見た?すごく素敵だったわ」

耳に飛び込んできた自分の名前に、アデラインは思わず柱の影に身を潜めた。

「びっくりしたわ。いつも古臭いドレスばかり着ていたのに別人みたい」

「派手じゃないけどいいわよね。品があるっていうか…」

古臭いドレス、には少し傷ついたが、社交辞令ではない同性からの褒め言葉にアデラインの胸に嬉しさが込み上げる。

「でも…」

女官の声がやや低くなる。

「急に着飾ったりして…あからさまよ」

まるで崖から突き落とされたような衝撃に、アデラインは声もでない。

「殿下が帰ってきて…気をひきたいのでしょう?あからさますぎてはしたないわ」

嘲笑が聞こえた気がして、アデラインは身を縮ませる。女官達はアデラインに気付くこともなく、お喋りは続く。

「確かにドレスは素敵ね、でもあの平凡な顔は変わらないじゃない。ブスではないわよ?でもあのお美しいルトヴィアス殿下の隣に立つとよけい…哀れで同情しちゃうわ」

「でも殿下はアデライン様をお気に召してるって話よ」

「それだって国王陛下と宰相閣下の手前、殿下は気を使っているだけなのよ。ほら、例の婚約解消騒ぎの件があるでしょう?それなのに、ちょっと殿下にお優しくされたくらいで舞い上がって…みっともないったら」

クスクスと、忍び笑いが聞こえてくる。陰口には慣れていたはずだ。けれど、一度持ち上げられてから叩き落とされる痛みは、想像を絶した。

床が崩れて、ぽっかりと口をあける暗闇に体が今にも落ちていきそうだ。彼女達の声からは悪意さえ感じられる。アデラインは女官に対して悪い態度をとった覚えはない。けれどそれなりの教養と容姿を認められて王宮に上がった彼女達から見れば、血筋しか取り柄のないアデラインなど見下すに値する存在なのだろう。

――…わかってるわ…。

ルトヴィアスがアデラインに優しいのは、アデラインが婚約者だからだ。そこに愛情が伴っていないことなど、云われなくてもわかっている。3年前のことでアデラインやアデラインの父の宰相に、ルトヴィアスが気を使っているだろうこともわかっている。ルトヴィアスの優しさを勘違いなどしてはいない。勘違いしてしまえるほど愚かな娘であれば、どんなに幸せだっただろう。

けれど残念なことに、ただ無邪気に婚約者の王子様に憧れていられるほど、アデラインは物知らずではない。人の汚い感情を知りすぎた。

アデラインはそっとドレスをたくし上げて踵の様子を見た。皮がめくれているが、血は滲む程度だ。これならドレスが血に汚れる心配はないだろう。

どうにか女官達に気付かれないように大広間に戻りたい。それだけが、今アデラインに残された矜持だった。踵は痛むが、心の痛みに比べればなんでもない。女官達に見つかり、口だけで謝られるのだけはどうしても避けたい。上品に頭を下げながら、顔ではアデラインを蔑み笑っているのだと思うと堪らないからだ。

「御婚礼のドレスも、アデライン様よりもルトヴィアス殿下の方がお似合いよ」

――…何ですって?

戻る為に方向転換しかけた体を止めて、アデラインは耳を疑った。

ルトヴィアスに、ドレス?

「ちょっと殿下は男性よ」

咎める声はあがったが、その声も新しい話題を楽しんでいるのは明らかだった。

「だって最高級のレースと真珠を使うって話よ。アデライン様にはもったいないわよ。それよりも殿下が着た方が絶対にお似合いだわ」

「確かにあんなにお美しい方だなんて思わなかったわ。亡くなられた王妃様にそっくり」

「陛下にはあまり似てらっしゃらないみたい」

若い彼女達が死んだリーナ妃に会う機会はないはずなので、きっと肖像画か何かを見たのだろう。未来の国王であるルトヴィアスにドレスが似合うなど、不敬罪に問われかねないが、お喋り好きな女官の冗談だ。不快ではあるが、本気で取り合う必要はない。アデラインは今度こそ大広間に引き換えそうとした。

「それはそうよ」

「あら、どういうこと?」

「古参の女官様から聞いたのだけど、実はね…」

女官の声が低くなった。ヒソヒソと、楽しそうに。今度はいったい何だ。

「殿下の父君はリヒャイルド陛下ではないのですって」

心の痛みも足の痛みも、一気に吹き飛ぶ。

一瞬も躊躇わず、アデラインは女官達へ近づく。

「…貴女たち!」

女官達は突然現れた王子の婚約者にして宰相令嬢にギョッと目を剥く。

4人いた女官達は、いずれも華やかな美しさをはなっていた。きっと下級の貴族か富豪の娘で、結婚前の行儀見習いか、または結婚相手を探す為に王宮に上がったのだろう。それは珍しいことでも、咎めることでもない。けれど女官として王宮にいる以上、わきまえるべきことはある。

「私のことはかまいません。好きに言うといいでしょう。けれど国王陛下やルトヴィアス殿下への無礼は許しません!!慎みなさい!!」

よりによって、国王とルトヴィアスとは壁1枚しか隔てていない、誰が話を聞いていてもおかしくないこんな場所で。

「も、申し訳ございません」

「失礼いたします」

「し、失礼いたします」

女官達は青くなって膝を折ると、慌てて退散していった。

古参の女官からきいたと言っていた。なら、今の話はずっと囁かれてきた噂なのだろう。彼女達にとっては前の前の前の前の王妃が旅の踊り子だったとか、大昔に王位継承争いで負けて自殺した王子の亡霊が夜になると大搭の階段で啜り泣いているとか、そんな真偽などどうでもいい噂話の一つに過ぎないに違いない。 それなのに本気で叱責しなくてもと、きっと後で口々にアデラインを()(ざま)に言うかもしれない。けれど後悔はなかった。退屈さを紛らわすためのお喋りで、ルトヴィアスを貶めるなんて我慢ならない。

「女官の人数が多すぎるんじゃないのか」

背後からの突然の声に、アデラインは驚いて振り返った。

「殿下!」

アデラインのすぐ後ろで、ルトヴィアスは小走りで去る女官達の背中を視線で追いながらため息をつく。

「だから無駄話する暇があるんだ」

「殿下、いつからそこに…」

女官達の話は聞いていたのだろうか。

「少し前だな」

アデラインを嗤う彼女達の話も聞いてしまったのだろうか。いや、今はそれよりも、あの酷い噂話をルトヴィアスの耳に入れてしまったことが悔やまれる。もっと早く女官達を黙らせるべきだった。

「…あの、殿下。お腹立ちになるのはごもっともですが…あの者達はただの戯れ言として言ったにすぎません。お咎めはどうかご容赦頂けませんか…」

「…お前は礼儀を知らない奴らを庇うのが本当に好きだな。まあ、いい。女官達が俺の何を言っていたかは知らないが、どうせ根も葉もない噂だろう?」

「…聞こえていなかったのですか?」

「声を潜めたからな」

ルトヴィアスのところまではあの噂話は聞こえていなかったようだ。

「そうですか…」

アデラインはホッと安堵した。 ただの噂でも、彼がきいて気分が良いものではないだろう。

「ええ、殿下のご推察のとおり、根も葉もない噂です」

「どうせ結婚相手を探すために女官になったくちだ。口ばかり忙しくしてる奴はやめさせたほうがいい」

ルトヴィアスがそう言ったのは、女官の人事が王妃の管轄だからだ。例え国王のお気に入りの女官でも、王妃が暇を出せば王宮から退出しなければならない。国王は口出し出来ないのだ。

王妃も王太后も不在のルードサクシード王室はその権限を一時的に女官長に委任しているが、ルトヴィアスと結婚後はアデラインが王太子妃として決裁を下すことが決まっている。だからと言って、気に入らない女官を端から辞めさせるわけにはいかない。女官達の中には帰る場所がない者や、国王や王子の妃や側室に上がることを目的として王宮に上げられた者もいるからだ。そこには大なり小なり貴族達の政治的な思惑が存在する。たかが女官一人と侮っていると政争に発展しかねない。政治バランスを考慮しつつ、けれど公平に、王宮の風紀と伝統を重んじて守る。それが王太子妃としてアデラインに求められる仕事だ。

だから、アデラインが次に言った言葉は王族の妃として、何の間違いもなかった。

「でも、ああいう美しい娘がいたほうが殿下もおくつろぎになられるでしょう?」

ルトヴィアスの表情が止まる。 ややあってそれが怪訝に歪み、アデラインに向けられた。どうしたのかとアデラインは首を傾げた。まるでルトヴィアスが怒っているように見える。

「…側室のことを言っているのか?」

「え?あ、はい…」

ルトヴィアスの問いに、アデラインは頷いた。するとみるみるルトヴィアスの表情が険しくなっていく。

「お前、俺に側室をもってほしいのか?」

「え…」

まるで怒っているような、というよりルトヴィアスは明らかに怒っている。その怒りは間違いなくアデラインに向けられており、アデラインはそのことに狼狽した。何か自分はしでかしたのだろうか。

「あの、殿下申し訳ありません。私何か…」

「俺が他の女を選んでもお前はかまわないのか、と聞いている」

ルトヴィアスが何を求めているか分からず、アデラインは困惑を深める。ルトヴィアスが側室をとるとらないは、彼の自由だ。それに対してアデラインにどうこう言う権利はない。

見上げるルトヴィアスは怒りに顔を歪め、まるで射殺そうとするかのようにアデラインを睨んでいる。けれどその瞳が、どこか傷ついているように見えてアデラインは目を離せない。綺麗な碧の瞳から、今にも赤い血がしたたり落ちるのではないかとアデラインは手を伸ばした。

「…殿下?」

指先で触れたルトヴィアスの頬は、滑らかで、冷たかった。手はあれほど温かいのにと、不思議な気がする。

アデラインの手に、ルトヴィアスの手が重ねられた。

「…っ」

ルトヴィアスの唇が、言葉を乗せるのを躊躇うように震えた。彼がそんなふうに躊躇するのは初めてだった。それほどひどいことを、自分はルトヴィアスにしてしまったのだろうかと、アデラインの心が傷む。もう一つの手でもルトヴィアスの冷たい頬を温めようとアデラインがした時、遠く大理石の床を近づいてくる靴音が聞こえた。瞬間、ルトヴィアスの表情がガラリと変わる。怒りが乾いた土壁のように剥げ落ち、いつもの微笑みこそないものの、先程までいた苦痛に耐える彼はもうどこにもいない。

「で…」

「戻るぞ」

言われ、手を引かれるままにアデラインはルトヴィアスについて大広間に戻る。途中、足の痛みを思い出したが、尋常な雰囲気ではないルトヴィアスに言い出せず、アデラインは奥歯を噛んで歩いた。

ルトヴィアスは何故怒っているのだろうか。

いったい自分は何をしてしまったのだろう。

席に着いたアデラインは彼の様子を横目で見たが、既にルトヴィアスの頭上にはいつもの猫が鎮座しており、感情の断片すら見当たらない。

アデラインは陰鬱な気分で葡萄酒が注がれた硝子の杯を手にとった。一口飲み、嫌な気分を忘れてしまおうと思ったが、そううまくはいかない。

聖人のように微笑み、国王の話に相槌をうつルトヴィアスの横顔をみているうちに、我慢出来ると思っていた足の痛みが、抉られるように増していく。

「アデライン様?どうかなさいまして?」

向かいに座る財務大臣夫人が小声で気遣ってくれた。

「リオハーシュ夫人…」

「ご気分が優れませんか?」

まだ年若いリオハーシュ夫人は、おっとりとして少しばかり浮世離れしている。世情にも疎く、よく知らない人の悪口より、庭に咲いた花の色や子供が転んだとか笑ったとか、そんな話を好む穏やかな貴婦人だ。人によっては彼女とのお喋りをつまらないと言う人もいるが、アデラインにとっては耳に優しくて、安心できる。それを宰相も知っているので、夫人の席をいつもアデラインの近くにしてくれるのだ。

「いいえ。何でも。」

アデラインは慌てて取り繕った。素直に落ち込んでいい場所ではない。

杯を置くと、アデラインは話の輪に入った。

「何のお話しですの?私も混ぜてください」

「ロワール夫人の猫のお話しですわ。おかしくて笑ってしまいますの」

「まぁ、どんなお話しです?聞かせてください」

猫の話は、すぐにアデラインの耳を上滑りし始め、代わりに鼓膜に響くのはルトヴィアスの声だった。

『俺が他の女を選んでも、お前はかまわないのか』

アデラインの脈拍に合わせるようにして、ドクドクと傷口が痛む。

ルトヴィアスは他に兄弟がいない。リヒャイルド王にも男兄弟はいず、既に降嫁した姉妹姫がいるのみ。若年層が圧倒的に少ないルードサクシード王室にとって、次世代の誕生は急務である。アデラインがルトヴィアスの子供を産めればそれに越したことはないが、正妃に子どもがうまれなかった場合、側室を迎えるのは王族の義務で、権利だ。よしんば正妃が後継ぎたる王子を生んだとしても、側室をもたない国王は歴史上極めて少ない。

――…痛い…。

足の傷が、ではない。胸の奥が、まるで踏み潰されるようだった。

ルトヴィアスが側室をとる。

それを考えると、どういうことか涙が出そうだ。

――…どうして?

ルトヴィアスに幻の恋をしていた頃ならともかく、今のアデラインは彼に恋などしていないのに。…してはいけないのに。

正妃として、その時がきたら毅然と対応しなくてはいけない。決して側室に嫉妬などしてはならない。立派な妃になると決めたのだから。逃げるのではなく、その道を歩こうと心に決めたのだから。

俯き、アデラインはドレスを握りしめた。

「アデライン様?本当に大丈夫ですか?」

リオハーシュ夫人が、ひそりと囁く。深く俯くアデラインの様子に、周りがざわめき始めた。

――…でき、ない…。

アデラインの黒い瞳が、決壊寸前にまで一気に潤む。

覚悟など出来ない。

嫉妬せずにはいられない。

私からルトヴィアスを奪わないでと、大声で叫びたかった。

この人が好きなの、と。

涙が切なさに耐えられずにぽとりと落ちた。握り締め、小さく震える拳を涙が濡らす。そしてその一滴を、美術品のような白い、大きな手が包んだ。

ハッと顔を上げると、思った以上にルトヴィアスの目が近くにある。そして近づいてくる。

「…え?」

口づけされる――…と思ったが、ルトヴィアスはやや屈み、それから一息でアデラインの体を抱き上げた。


「…っきぃゃああああああああああああああああああああっっっっっ!!!!!!!」


王宮の伝統ある大広間で行われる公式行事には似つかわしくない黄色い絶叫が、至るところで同時に上がった。

アデラインは叫ぶどころか、息も出来ない。

既視感に目が眩んだ。

この美しい王子はアデラインが泣くと決まって暴挙に出るが、もしや仕置きのつもりなのだろうか。

「で、でででで殿下…」

「失礼。私の婚約者は気分が悪いようです。退席をお許し頂けますか?父上」

いっそ爽やかなほどの笑顔で、ルトヴィアスの猫が父王に伺いをたてる。アデラインのどもりも、貴婦人達の悲鳴も、まるで耳に入っていないようだ。

リヒャイルド王はすぐに頷いた。

「それは大変だ。誰か、すぐに医官を呼びなさい」

「いいえ、外の空気を吸えば良くなると思いますので。では」

極上の微笑みを置き土産に、ルトヴィアスはアデラインを抱えて颯爽と歩きだす。

「つかまってろ」

囁かれて、困った。

以前同じことを指示された時には、羞恥心から出来なかった。今日も羞恥心はあの日に勝るとも劣らない。けれどアデラインは思いきって彼の指示に従うことにした。おずおずと、一見細いルトヴィアスの肩に手を回す。すると、アデラインを抱くルトヴィアスの手に微かに力が加わった。ルトヴィアスが返事をしてくれたような気がして、それが何だか嬉しくて、アデラインの目からまた涙が落ちた。


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