第二十三話 扉の向こう
ルトヴィアスの執務室の前には、護衛の騎士が数人と、衛兵、侍官、女官が順序よく並んで控えていた。
侍官の一人と話し込んでいるのがオーリオだと気づき、アデラインは近づく。
「オーリオ」
オーリオは、珍しいことにビクリと肩を揺らして、アデラインを振り向いた。その顔が、心なしか強ばっている。
「お嬢様」
「…殿下に何かあったの?」
アデラインの直球の質問に、一瞬オーリオが答えに詰まった。
「…何かとは?ただいま殿下は議会にお出かけで…」
何でもないふうに答えるオーリオを、アデラインは咎めた。
「下手な嘘はやめて。なら何故護衛の騎士がそこにいるの?何故首席秘書官の貴方がここにいるの?」
「…っ殿下は、お忙しく今はお会いになれません」
常に冷静なオーリオが焦っている。来るはずのないアデラインが来たからか、それとも他にも原因があるのか。
「オーリオ、そこを通して」
「いけません、お嬢様。お戻りくださ…」
「通しなさい!!」
アデラインの声に、オーリオが息を飲むのがわかった。
オーリオだけではない。後ろのライルとデオも、控えている召し使いや騎士達も、驚いたように、身を固まらせている。
今のは本当に自分の声だろうかと、アデラインは疑った。『偉そうに』とデオがいっていたのは、もしかしたらこういうことなのだろうか。
今まで人に命令という命令をしたことが、アデラインはない。命令をすることで、自分が背負うべき責任が発生するのが怖かったからだ。
――…怖い…。
この先の扉を開けなければ、知らなくていいことを、知らずにいれば良かったと後悔することを、知らなくてすむかもしれない。
――…でも…。
扉のむこうに、ルトヴィアスがいる。
「―…通しなさい」
もう一度、アデラインは言った。
オーリオが一歩退く。
その脇を通り、侍官が取り次ごうとするのも制して、アデラインは自ら扉を開けた。
そこには…。
「――…お父様?」
呼ぶと、宰相が振り向いた。
宰相だけではない。そこにいた白い前掛けをつけた官吏―…医官や、医女、それから騎士団長。国王の秘書官。彼らが顔を上げ、アデラインの入室に驚いた顔を見せた。
中でも、彼らに囲まれるようにして長椅子に横になっていたルトヴィアスは、アデラインの姿を見るとあきらかに狼狽して、半身を起こした。
「…アデライン?どうして…」
「殿下、動かれてはいけません」
医官が、ルトヴィアスの肩を軽く制す。
「―…殿下?」
アデラインは状況が理解できない。
ルトヴィアスは外套も長衣も脱いでいた。白い中衣の首もとを寛げ、袖をまくって医官に脈をとられている。
円卓の上に並ぶ薬品の瓶や水桶にはいった氷を一瞥して、アデラインは不安が的中したことを悟った。
「…何が…あったんです?」
「入って来るな!」
アデラインから、ルトヴィアスはあからさまに目を逸らした。
周囲が、ルトヴィアスの態度に困惑する。無理もない。彼らは猫をかぶってアデラインに優しく接するルトヴィアスしかしらないのだから。
「出て行け!」
猫をかぶる余裕を、ルトヴィアスは失っていた。
何故だろう。ルトヴィアスの冷たく、刺々しい拒絶の声が、何故かアデラインには悲鳴に聞こえる。助けて、とそう聞こえた気がした。
「――っ出ていきません!」
走り寄り、滑り込むようにして、アデラインはルトヴィアスの隣に跪く。
脈診を終えて立ち上がる医官に代わり、アデラインはルトヴィアスの手をとった。いつも温かい彼の手が、氷のように冷たい。そのことに、涙が出そうになった。
「絶対に、出ていきませんから!」
「……く」
「え?」
「…吐く」
小さな声に、医女が敏感に反応して差し出した桶に、ルトヴィアスは吐瀉した。
「殿下っ!?」
「毒物を排出するための薬の作用でございます」
青ざめるアデラインに、医女が囁く。
「…毒…ですって?」
アデラインは医女に訊きかえした。聞き間違いだと思いたかったが、医女は自らの前言を否定してはくれなかった。
「ご心配はございません。念のための処置でございます。…しばらく、お苦しいと思いますのでおそばにいて差し上げて下さい」
医女はそれだけ言うと、桶を持って後ろ向きに下がっていく。
吐いたせいか、ルトヴィアスは長椅子にぐったりと沈んでいる。アデラインが握る手とは反対側の腕で目元を覆っていたが、青ざめている頬の色は隠せていない。
「……っ毒なんて…」
「……死ぬ量じゃない……」
ボソリと、ルトヴィアスが言った。
「殿下…っ」
「……心配するな……」
「……っ」
心配するアデラインを、心配する余裕などないはずなのにー…。
アデラインは込み上げる涙を、必死に飲み込んだ。絶対に泣くものか。
気を付けなければ、芸術品のようなルトヴィアスの手を握りつぶしてしまいそうだった。
その後も、数度ルトヴィアスは吐瀉し、その度にアデラインはルトヴィアスの背をさすり、口をすすがせるなどして介抱した。
「…髪…」
「はい?」
「…汚れる…」
「そんなこと気にしなくていいんです!」
髪やドレスが汚れるからと、アデラインの手を振り払っていたルトヴィアスも、やがて根負けしたのか抵抗しなくなった。単に吐き疲れて、アデラインを押し退ける体力もなくなったのかもしれない。日が暮れる頃に、疲れ切って眠りについたルトヴィアスを、医官が再び脈診した。
「…落ち着いておられます。もう大丈夫でしょう」
「…良かった…」
アデラインだけでなく、宰相や騎士団長達が安堵したためか、室内の空気が和んだ。
「お嬢様、お着替えを用意いたしましたので…」
いつの間に来たのか、ミレーが声をかけてくれた。ライルとデオの姿は見えない。どうやら退出したらしい。
「…もう少し、こうしていたいの」
ルトヴィアスの長めの前髪を、アデラインは指先でそっと寄せる。顔色が随分良くなった。
「…お父様。毒は食事にはいっていたんですか?」
ルトヴィアスの寝顔から目をはなさないまま、アデラインは背後の父親に尋ねた。
「…いいや。水差しに」
「水差しに?お部屋のですか?」
「そうだ。殿下は…毒にお詳しい。今までも何度か食事に入っていたことがあるが、飲み込むことはなかった。けれどご自分の部屋の水差しという油断があられたのだろう。すぐ気づいて吐き出されたが…少量、お飲みになってしまわれたようだ」
アデラインは冷水をかぶせられたような気分だった。これが初めてではないのだ。
「…いったい誰が…」
アデラインの問いに答えたのはオーリオだった。
「毒が盛られるたびに、犯人を捕縛しますが…肝心の黒幕にまでどうしてもいきつきません。これまで捕縛した者達は身分も性別も…毒の種類や入手経路さえもバラバラで共通点と言う共通点も見つからず……」
オーリオは眉をひそめ、忌々しそうに小さくこぼす。
ふと、アデラインは気付いた。
「毒味は?毒味係はどうしたんです?」
水差しの水はともかく、食事には必ず毒味係がつくはずだ。アデラインは父親と従兄を振り仰ぐ。
オーリオも宰相も、答えを押し付けるように顔を見合わせていたが、結局オーリオが口を開いた。
「殿下は毒味係をおかれません。皇国にいらした頃から、毒味をすることを周囲にお仕えする者達にきつく禁じられました」
「…そんな…だって、規則は…?」
王族の食事は、3人以上の人間で毒味するのが規則だ。ばつが悪そうに、宰相が顔を歪める。
「大抵の毒は匂いと味でわかるから、飲み込むようなことはしないと…なら毒味係など不要だと殿下が仰られたのだ。多少なら毒への免疫もあるからと」
「それを鵜呑みにされたのですか?お父様ともあろうお方が?」
「それは殿下が…」
宰相を庇うように、オーリオが横から補足した。
「殿下が、毒味をした食事は召し上がらないと強く仰せられたので…やむを得ず…」
「でも…っそんな…」
毒味係を拒絶するなど聞いたこともない。何故食事自体を拒むほど毒味されるのを嫌がるのか、理由は分からないが、はっきり言ってそれはルトヴィアスの我が儘だ。そしてそれを通してしまった周囲も問題だ。それが分かっているから、宰相もオーリオも、渋い顔をしているのだ。
アデラインは眠るルトヴィアスに視線を戻すと、呆れたようにため息をついた。
――…いくら毒がわかるからって…
何て無茶を…。
そして、唐突に、アデラインに直感がはたらいた。まるで女神のお告げのように。
『今日から、食事やお茶を飲むときは必ず呼べ』
国境を越えた夜の、意味不明の命令。
『俺が食べられる物を作らない方が悪い』
大皿ごとに一口ずつ食べる不自然な食べ方。
一口だけ口にいれ、気に入らないからと下げさせる料理。
ルトヴィアスは、アデラインにお茶一杯さえ一人で飲むことを許さなかった。
そのルトヴィアスの真意に、アデラインは愕然とするしかない。
――…あれは…まさか…。
あれは、好き嫌いなどではなかったのだ。
「…国境からの帰途……殿下が私と食事を一緒にされていたのは…私の食事に…毒が、はいっていたからでは?」
宰相とオーリオが、息を飲んだのがわかった。
すう、と自らの血の気がひく音を、アデラインは確かに聞いた。
「…毒味、なさっていたのね?殿下は私の食事を、ずっと」
「……」
「……」
宰相も、オーリオも、何も言わなかった。その沈黙こそが肯定だ。
「……私……私…っ」
手が、震えた。
葡萄パンの味がしないなどと、自分はなんて贅沢なことを言っていたのだろう。ルトヴィアスとの食事を嫌がったこともあった。好き嫌いはしてはいけないなどと、偉そうに説教をしたこともある。
ルトヴィアスは、目の前の料理が安全かどうか、アデラインが安心して食べられるように、淡々と確認していたというのに。
――…ずっと…私は殿下に守られていたんだわ…。
それこそ命がけで。
「お嬢様…」
「私が…狙われているんですか?」
怖いとは思わなかった。実感がなかったからだ。
自分に暗殺されるほどの価値があるとは思わないが、アデラインの『次期国王の婚約者』という立場を欲しがる者はたくさんいるだろう。命を狙われるには、理由はそれで十分だ。
けれど、それにルトヴィアスを巻き込んでしまったのなら、話は変わる。ルトヴィアスが今、苦しんでいるのは、もしやアデラインのせいなのではないだろうか。
オーリオは床に膝をつくと、動揺するアデラインに目線を合わせてきた。
「落ち着いて下さい。毒は…確かにお嬢様のお食事にはいっていました。ですが、殿下がご帰国されるより以前にお嬢様に毒が盛られたことはございません。逆に殿下は皇国にいた頃からお食事に度々毒を盛られていらっしゃったようです。それらを踏まえれば、狙われたのは殿下と考えるのが普通です。今日の水差しにしろ、お嬢様を狙っているとは考えにくい」
震える手を、アデラインは握り締めた。狙われたのが自分ではないと言われても、とても安堵など出来ない。
「……今、度々と、言いましたね?」
アデラインの問いに、オーリオは少し間を置いて頷いた。
「……はい。度々」
――…この方は本当に…『食べられる物』だけを、食べて生きてきたのだわ…。
廊下に落ちた籠の中身を、平気で口にするはずだ。皿に乗っている食べ物が安全なんて保証、彼にしてみればどこにもないのだから。
「…犯人が何故お嬢様のお食事に毒をいれることにしたのか、理由はわかりません。その方が殿下が油断されると思ったのか…他に理由があるのか…」
「他の理由って?」
「…とにかく、今は詳しいことは何も分からないのです」
「わからないって、でも…っ」
「アデライン!」
オーリオに食い下がるアデラインを、宰相が厳しい声で止めた。
「次期王妃ともあろう者が、取り乱すのはやめなさい」
「…お父様…」
父親に諌められ、アデラインは引き下がるしかない。小さくなったアデラインに、宰相は厳しいままの声で告げた。
「そなたの部屋でそなたと一緒にとる食事に毒が入っていたと公になれば、私やそなたに疑惑の目がむけられよう」
「…そんなことのために?」
宰相とアデラインを政治的に排除するためだけに、ルトヴィアスの命は危険に晒されたというのか。
「それは犯人に尋ねなければわからん。私が今話したのはそういう可能性があるというだけの話だ。いずれにせよ、殿下が毒を盛られていることは外部に知られる訳にはいかん。敵が誰かわからん今はいかなることも秘密裏に処理しなければ足元をすくわれかねん。このことは他言は無用だ。よいな?」
「…はい…」
宰相は表情を緩め、アデラインの 肩に手を置いた。
「王宮はマルセリオの家と違い、人の出入りが多く入れ替わりも激しい。我々の目の届かないこともあるだろう。そなたは畏れ多くもやがて王家の一員になる大事な体だ。王宮では食べ物やその他にも、十分に気を付けなさい」
「…はい」
父親の優しさに笑顔で応えたくて、アデラインは強ばった頬を無理に笑わせようとしたが、上手くはいかなかった。
「席を…はずしてくれませんか」
掠れた声にアデラインが目線を戻すと、ルトヴィアスが薄く目をあけていた。
「殿下…」
「少しでいいんです。皆も、少しアデラインと二人にしてください」
宰相は頷き、その場にいた者達に目で指示をだした。
扉がしまり、執務室にはルトヴィアスとアデラインの二人だけになる。
ルトヴィアスは横たわったたま、アデラインを見上げて告げた。
「…あの夜、俺のスープに毒がはいっていた」
いつの夜の話か、尋ねなくてもアデラインはわかった。
国境を越えた日、初めて同じ食事の席についた夜だ。
「それで…私のものにもはいっているかもしれないと、心配して来てくれたんですね?」
アデラインの胸に、感情の波が寄せては引き、また寄せてくる。
その感情が何という名前なのか、アデラインはわからない。
あの日、ルトヴィアスとアデラインの関係は最悪だった。
それでも命が関わる事態に、彼はアデラインを守ろうと動いてくれたのだ。
そのことに対する喜び、感謝、けれどそれとは相反する怒りや悲しみが多分に含まれた感情の波。
それをルトヴィアスにぶつけたい衝動を、アデラインは必死に堪えていた。
「…一歩間違えれば…殿下が私の代わりに亡くなっていました…」
唇を噛み締めるアデラインに、ルトヴィアスは表情を動かさない。
「毒は俺を狙って盛られたんだ。俺が死んだとしても、俺はお前の代わりじゃない。お前が気にする必要はない」
「殿下!」
「この際言っておく」
ルトヴィアスの目が、アデラインを真っ直ぐとらえた。妙に澄んだ色から、アデラインは目をそむけられない。
「この先王宮で俺がいないときに何も口にするな」
彼の声には、覇気がなかった。
呼吸に何とか音を乗せているような、そんな話し方だった。
――…『この先』…。
この先も、毒が入った食事をアデラインが口にしないように、ルトヴィアスは毒味し続けるつもりなのだ。
アデラインはルトヴィアスを睨んだ。そうしていないと、涙が出そうだった。
「…そうして私は、貴方が毒味してくださった紅茶を安心して飲むんですか?」
「そうだ。出来ないなら王宮にくるな」
拒絶の言葉にさえ、棘がない。それほど、ルトヴィアスには生気がなかった。それが悔しくて、アデラインは唇を噛み締める。
「…っ嫌です」
「…アデライン」
「嫌!」
毒は、悪意だ。
それを日々食事に盛られていた彼は、どんな思いで、吐き出してきたのだろう。
父王に仇なす者と疑われ、その一方で皇国に飼い慣らされた裏切り者とも罵られる。彼は国の為に人質になったのではないのか。感謝こそすれ、こんなふうに彼が孤立することになるなんて。
「……っ」
堪える間もなく、涙が床に落ちる。
「…泣くなよ」
「ごめんなさ…っ」
「…」
ルトヴィアスが、アデラインに手を伸ばした。
それはどこか、落ちてきた果物を拾おうと、思わず伸ばされた手に似ていた。
アデラインの頭を抱え込むように抱き寄せるルトヴィアスの腕に、アデラインは黙って従う。
花帽が、ころりと床に転がったが、そんなもの気にもならない。羞恥も遠慮も忘れて、アデラインもルトヴィアスにしがみついた。
――…泣かないと決めてたのに…。
ルトヴィアスが猫をかぶる理由がわかった気がした。
かつて、アデラインに親しげに話しかけてきた友人達。友人だと思っていた。信じていた。けれど、彼女達は去った。アデラインを嘲りながら。
あの時のアデラインの心の痛みと同じような痛みを、ルトヴィアスも知っているのかもしれない。
彼の周りには、彼の身分と立場に笑顔で近づく人間が多いだろう。そんな中の誰かが、ルトヴィアスに毒を盛ったのだ。
アデラインが友人達を『友人』と信じてしまっていたように、ルトヴィアスには、信用できる者とそうでない者の見分けが、きっとつかない。
だから彼は猫をかぶるのだ。
上品な微笑みと、優しい言葉で、人と一定の距離を保って、冷静に、客観的に、自分と周囲を観察する。ルトヴィアスがかぶる猫は、彼にとっての鎧なのだろう。
心を守るための、笑顔の鎧。
――…私は、知ってる…。
俯くことを鎧にしていたアデラインには、痛いくらいにわかる。
人を信じない、信じられない、それがどれほど孤独なことか。
「…私を…遠ざけないで」
「…っ」
アデラインを抱き締めるルトヴィアスの手に、力がこもった。
――…貴方に…知ってほしい…。
孫娘を抱いて顔を綻ばせていた菜園主。ルトヴィアスの姿を、一目見ようと押し掛けた民衆。修練に励む騎士や、衣装を縫う女官。
その他にも沢山、心から本当に、ルトヴィアスを、国を、思う人はいるのだ。
俯くことをやめ、顔を上げたからこそ、アデラインが見ることができる景色を、ルトヴィアスにも見てほしい。
――…貴方が信じられる、信じるに足る妃になってみせます。
『出ていけ』と拒絶しながら、けれど助けを求めていた手。
誰に助けを求めればいいのか、分かりかねているようだった。
――…貴方を一人にはしない。絶対。
ルトヴィアスを守りたかった。
猫などかぶらなくても、ルトヴィアスがあの木漏れ日のような瞳で笑えるように。




