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第二十二話 菜園

「はあ…」

アデラインは幾度めかわからない、沈鬱なため息を落とした。

明日までにドレスの生地を決めなくてはならないのに、とてもそんな気分になれない。見る見本のどれもこれもが、気落ちしているせいか灰色がかって見える気がする。

「…はあ…」

昼間、ルトヴィアスはアデラインの顔すら見てくれなかった。冷たい態度と言葉で突き放され、逃げるように帰って来てしまった。

――…機嫌が悪かったのかもしれない。

御前会議で何か嫌なことがあったのかもしれないし、先日の国王との謁見の件を、やはり気にしているのかもしれない。長旅で疲れがたまっていたのかも。

――…それか…私が何かしてしまったのかも…。

顔をそむけるルトヴィアスの姿を思いだし、アデラインの目にじわりと涙が浮かぶ。

――…打ち解けたと…思っていたのに…。

他愛ない会話で笑いあった馬車の旅は、すべて幻だったのだろうか。今日のルトヴィアスは、国境で再会してすぐのルトヴィアスに、まるで戻ってしまったかのようだった。

「…このまま…また話もきいてくれなくなったらどうしよう…」

その可能性に、アデラインは身震いした。

アデラインにとって、ルトヴィアスはもう単なる政略結婚の相手ではない。大切な友人だ。その大切な友人の気に障る何かを、自分でも気付かない間にアデラインはしでかしてしまったのだろうか。

けれど、考えても考えても、思い当たることがない。 思い当たらないのに謝ったところで、ルトヴィアスは果たして許してくれるだろうか。

コンコン、と扉が鳴った。

「は、はい?ミレー?」

アデラインは慌てて涙を拭う。

扉が開き、ミレーが顔を覗かせた。

「お嬢様。お客さまでございます」

「お客さま?」

アデラインは立ち上がった。

もう外は暗い。こんな時間に客とは誰だろう。

ミレーが扉を大きく開けると、その向こうからオーリオが姿を現した。

「オーリオ!」

「夜分失礼いたします、お嬢様。入っても?」

「勿論よ。さあ、どうぞ」

「お茶の用意をして参ります」

「お願いねミレー」

扉が閉まる。

オーリオは、円卓を挟んでアデラインの向かいの席に座った。そこが家庭教師時代からの、彼の定位置だ。

「お茶に来てって言ったのを覚えていてくれたのね」

「勿論、と言いたいところですが、実は宰相閣下にお知らせがあって参りました。ゆっくりはできません」

「そう…」

アデラインは肩を落とした。オーリオの話はいつも面白い。アデラインの知らないことを、分かりやすく話してくれる。彼の話を聞けば、沈没した気持ちも浮上出来るとおもったのだが。

「…申し訳ございません」

「あ、ううん。謝らないで。忙しいんでしょう?仕方ないわ」

宰相の複数いる秘書官の一人だったころとは違い、オーリオは今やルトヴィアスの秘書官だ。しかも首席。次席以下の秘書官達の仕事を指事しなければならないし、ただでさえ多いルトヴィアスの政務の予定を、全て管理している。

――…殿下は…今ごろ…。

食事は終わった頃だろうか。オーリオがここにいるということは、今日の政務は一段落したということだろうか。考え巡らし、ふと思い付く。

――…こういうところが、嫌だったのかも…。

打ち解けたからと、自分はルトヴィアスに不用意な注意をしなかっただろうか。食事について注意をしたのは、覚えている。あと肘をつく癖。母親でもあるまいし、ルトヴィアスは、アデラインのそんな不遜な態度を煩わしく思ったのではないだろうか。

俯き、動きを止めたアデラインに、オーリオが声をかける。

「お嬢様?」

「あ、ごめんなさい。忙しいのに寄ってくれてありがとう。お茶だけでも飲んで行って下さいね」

「…何かありましたか?」

「何も…」

「ないはずはありません。また一人で泣こうとしていましたね?前回は引き下がりましたが今度はそうはいきませんよ」

オーリオは睨むようにしてアデラインを見つめてくる。その圧力に、アデラインは首をすくめた。

指の先が、見本にあたる。

ルトヴィアスの冷たい声が耳に甦った。

『オーリオに相談したらどうだ』

「……ドレスの色を…決めたかったの」

話始めると止まらなかった。目頭が熱くなる。涙が(こぼ)れだすのを必死に我慢したが、声が震えるのはどうしようもなかった。

「殿下に何色が好きか聞こうと思って…でも…私…私、殿下を怒らせたみたいで…。私色々(うるさ)く言ったし…」

ポロリと頬に零れた涙を、アデラインは慌てて手で拭う。

「私。打ち解けられたと思っていたけど、勘違いだったのかも。きっと殿下は…無理に私に合わせてくれてたんだわ…私何をするにも遅いから…話すのも歩くのも遅いから。だから私に合わせるのが疲れて嫌になったんだわ、きっと」

ルトヴィアスに、そう言われたわけではない。けれど言葉にすると、実際それが事の真相であるような気がした。

円卓の上にあった手拭きで、アデラインは目元を覆う。

――…泣いちゃダメ。

これ以上泣いてはいけない。明日アデラインは公務で外出することになっている。泣き腫らした目で公務を務めるわけにはいかない。

アデラインの話を黙って聞いていたオーリオが、口をひらいた。

「無理に合わせているのは貴女の方では?」

手拭きから顔を上げてアデラインは聞き返す。

「え?」

「私には殿下が貴女を守れるとは、とても思えません。お忘れですか?殿下が貴女にした仕打ちを」

オーリオが言っているのは、3年前のことだろう。

あの時もアデラインは、こうやってオーリオに話を聞いてもらった。それを思いだし、アデラインは不思議に思う。

あの時、アデラインはルトヴィアスに恋をしていた。実際はアデラインが恋焦がれた穏やかで優しい完璧な王子様など、どこにも存在はしなかったのだが、でもアデラインはルトヴィアスがそうだと信じていた。彼に振り向いてもらえないことを嘆いて泣いた、はずなのに…。

――…あの時より、胸が痛い…。

今のアデラインは、ルトヴィアスに恋をしていない筈なのに。

なのに、何故胸がこうも軋むのだろう。

ルトヴィアスの冷たい態度に、何故ここまで傷付いているのだろう。

――…何故…。

「…結婚などやめてしまえばいい」

アデラインが答えに辿り着く前に、オーリオのとんでもない発言が、アデラインの耳に飛び込んできた。

「…オーリオ?」

結婚をやめるなど、しかもアデライン側から反故にするなど出来るはずもない。

オーリオだってそれは分かっているはずだ。わかっているはずなのに、オーリオは続けた。アデラインをまっすぐに見据えて。

「国も、身分も捨てて、名前を変えて生きていくんです。国境さえ越えれば不可能ではない。貴女が望まれるなら私は貴女を連れて逃げてみせます。いつでも、どこへでも」

アデラインは耳を疑った。

今、オーリオはいったい何を言ったのだ。

ただでさえ回転の遅い頭で、それでもアデラインは必死に、オーリオの言葉の意味を咀嚼(そしゃく)した。

心から信頼する従兄。

彼は自分が言ったことが、国への裏切り行為にあたることを、そしてアデラインへの求婚と同義だと、わかっているのだろうか。

しん、と室内が静まり返る。

オーリオは、アデラインから目線を逸らそうとはしない。

「……ふっ」

くすくすと、アデラインは笑い始めた。

「ありがとうオーリオ。そうね。明日殿下に謝って、それでも駄目ならお願いするわ」

まさかオーリオが、こんな冗談を言うとは。

もう少しで本気にするところだった。生真面目な従兄の意外な一面を垣間見て、アデラインは驚く一方で、気が楽になった気がした。

――…さすがオーリオだわ。

きっと全て計算していたに違いない。

「…はあ…」

オーリオは、何故か脱力したように俯いた。

そしてアデラインの手元の見本に手を伸ばす。

「…せめて、こちらのご相談くらいはお聞きします。見当はつけておられますか?」

「…それが、ぜんぜん…」

「こちらなんてどうですか?柄物ですが同系色なので派手になりません」

結局小半刻ほどオーリオを付き合わせて、膨大な見本の中から、アデラインは一枚の生地を選んだ。王宮に戻るというオーリオが、工房への言付けも引き受けてくれた。

「今日は寄ってくれてありがとうオーリオ。工房への言付け、お願いします」

「確かに承りました」

礼儀正しく頭を下げ、オーリオは馬車に乗り込んだ。その馬車が門から出て見えなくなるまで、アデラインは手を振って見送った。

隣に控えていたミレーが、心配げに言う。

「オーリオ様…何かあったのでしょうか?」

「どうして?」

「少し落ち込んでいたような…」

「本当に?やだわ、私自分の話ばかりして、何も気付かなかった」

オーリオに悪いことをしてしまった。きっと彼は仕事が忙しく、疲れていたのだ。なのに従妹の心配までさせてしまった。

「いつまでもオーリオに甘えていてはダメね…」

せめて明日の公務は立派に勤めよう。そしてルトヴィアスとも、逃げずにきちんと話をしよう。

星が光りはじめた夜空を見上げて、アデラインは小さい決意を固めた。





アデラインが公務で視察するのは、王都の東のはずれにある菜園だ。

昨年から王宮に野菜を納め始めた菜園で、当初は屋外ということもあり男性王族が行くことになっていたのだが、国王やルトヴィアスが行くほどの重要な場所でもなく、かと言って重鎮方は政治的に得にならない公務に乗り気にならず、押し付けるようにアデラインに話が回ってきた。

「風が気持ちようございますねお嬢様」

気持ち良さそうに言うミレーに、アデラインも頷いた。

「そうね」

心地よい空気を肺いっぱいに吸い込む。

広い空のせいだろうか。

同じ王都だというのに、菜園の空気は、王宮やアデラインの屋敷よりずっと澄んでいるように感じられた。

「お嬢様、どうぞこちらに」

気の良さそうな菜園主に促されて、アデラインは温室に入った。

後ろにはミレーや、視察を記録する書記官や事務官が続き、最後に護衛の騎士が連なっている。

馬車から降りた時、アデラインは騎士の中にライルとデオを見つけた。話しかけたかったが、公務中に私語は(はばか)られる。アデラインの視線に気付いたライルが軽く会釈してくれたので、アデラインもにこりと笑って返した。

温室の中は、温暖な気候を好む果物や野菜が並んでいる。

「温かいのね」

「はい。硝子張りで、太陽の光が多く当たりますので」

アデラインに、菜園主がにこやかに相槌をうつ。

「ここで作る野菜は太陽をよく浴びるので甘味が強いのです」

「今度晩餐会があるのだけど、その時食べられるかしら?」

「はい。晩餐会用に、見た目が特に良いものを選んで届けさせて頂きます」

他にもあれこれと菜園主は野菜の話をしてくれた。

王宮で食べられる野菜は指定された農園や菜園で、栽培、収穫された物に限られており、収穫証明がなければ王宮に持ち込むことすら出来ない。 王宮で食べる野菜を作っているということは、農家にとって大変な名誉なことなのだ。

「以前は息子と麦を作っていたんですが戦争で種籾(たねもみ)も全部焼けてしまいました」

「…ここらへんも焼けてしまったの?」

「はい。息子も兵隊にとられ…」

同じ王都でも、戦火を免れた中心街とは違い、郊外の地域は戦闘に巻き込まれ家や畑を失い、犠牲になった民間人も多いと聞く。こののどかな景色に、そんな悲惨な歴史が隠されていたと知り、アデラインは胸が痛んだ。

「けれど灰がいい肥料になったのかよく野菜が育って、今では王宮に買い取って頂けるまでになりました」

菜園主は頓着無さそうに、穏やかな顔で野菜を眺める。

焼け野原から、ここまで立派な菜園を作るのは、並大抵の苦労ではなかったはずだ。優しげな老人の横顔に、アデラインは見いった。

――…私も見習わなくては。

ルトヴィアスにちょっと冷たくされたくらいで、めそめそ泣いてはいられない。

ついつい、と、ドレスを引っ張られアデラインは振り返った。幼い少女が、背伸びするようにしてアデラインに籠を差し出している。

「おひめさま。あげる」

「…まあ」

籠にはいっぱいに赤い苺が詰まっている。アデラインは屈みこんで籠を受け取った。

「どうもありがとう」

アデラインが礼を言うと、少女は恥ずかしながら菜園主のうしろに隠れた。けれどその影から、そっとアデラインをうかがっている。その可愛らしい様子に、アデラインの頬が緩む。

「孫娘でございます」

可愛がっているのだろう。菜園主は顔を綻ばせて、少女の頭を撫でた。

「じゃあ、息子さんは…」

「はい。無事に帰って参りました」

「そう」

よかった、とアデラインは心から思った。息子が戻り、孫が生まれたのなら、菜園主にとってこの10年はただ辛いだけの歳月ではなかっははずだ。

「王子殿下のおかげでございます」

菜園主が、唐突に頭を下げた。

「長い皇国でのお暮らし、さぞご苦労様されたことでしょう。けれどおかげで、わしらは戦に怯えることなく、畑を耕せました。ありがとうございました」

「あ…」

アデラインは戸惑った。

ルトヴィアスへの感謝を婚約者であるアデラインが代理として受けとるのは、おかしなことではない。しかし、アデラインはルトヴィアスが皇国でどんな苦労をしてきたのか、何も知らない。にもかかわらずルトヴィアスに代わって言葉を返して良いものだろうか。

迷っているアデラインに、菜園主の後ろから、少女が声をかけてきた。

「ねえ、私馬車を見たよ。おひめさま、手を振ってたね」

「え?」

何のことかと一瞬考えたが、すぐルトヴィアスが帰国した際に王都の大通りを馬車で通ったことを思い出した。沿道には多くの民衆が押し寄せていた。

「わしらもお出迎えに行ったものですから」

「そうだったの」

「ねえ、また手を振ってくれる?」

少し首を傾げた少女の目は、キラキラと輝いていた。彼女にとって、綺麗な花帽と衣装を身に付けたアデラインは、寝物語に聞く憧れの『おひめさま』なのかもしれない。

――…馬車から手を振った時…。

アデラインは誰も自分を見ていないと思っていた。手を振る理由は果たしてあるのかと疑問に思った。けれど、見ていてくれる人はいたのだ。感慨深くアデラインは、少女に頷いた。

「ええ、王子様と一緒に振るから、あなたも振り返してね」

「うん!」

少女が笑う。

それを見て、菜園主も嬉しそうに笑う。

アデラインがただ手を振るだけで喜んでくれるほどに、ルトヴィアスの隣に立つということは付加価値を生むのだと、アデラインは改めて思った。それほどに、ルトヴィアスの存在はこの国で大きい。政治的意味では勿論、精神的意味でも。

ルトヴィアスは、充分すぎるほどに、それを自覚している。

アデラインは手を握り締めた。

――…少しでも…お役にたてたら…。

王太子になれば、ルトヴィアスは病弱な国王の政務のほとんどを代行するだろう。即位するも同然だ。その隣にただ立っているだけの妃になるつもりは、アデラインにはもうない。

「あの…お願いがあるのだけど」

「はい?」

「人参を売ってもらえないかしら?形が悪くて構わないの。新鮮なものが欲しいの」

菜園主は、目を瞬かせた。

「それは…勿論構いませんが…」

「お嬢様?人参など…どうされるんです?」

怪訝な顔のミレーに、アデラインはただ笑って見せた。





馬車がつくと、アデラインは王宮には入らず、そのまま外庭を歩き回廊を幾つか横切った。

「あの…お嬢様。どちらへ?」

後からついてくるミレーは王宮に不案内な為、不安げだ。

「この時間なら執務室ではなくて、こちらだと思うの」

「こちらって…」

「天馬の厩舎ですか?」

「よくわかったわねライル」

アデラインは立ち止まって、後ろを振り向いた。

王宮についたことで護衛の騎士達は一旦は任務を終えているのだが、ライルとデオは荷物持ちとしてついてきてくれたのだ。

デオが肩に担いだ麻袋を、よいせと担ぎ直した。

「じゃあこの人参は天馬がたべるんですか?」

「野生の天馬は食べないらしいけど、シヴァは…殿下の天馬は大好物なの。あと林檎」

「ああ…それで…」

ライルの担ぐ麻袋には林檎が入っている。菜園の林檎畑に風で落ちてしまった林檎が沢山あったので、傷みが少ないものを売ってもらったのだ。菜園主は傷物でお代はとれないと焦っていたが、無料で譲ってもらうわけにもいかず、押し問答の末に格安で売ってもらった。夏に収穫する種類の小ぶりの林檎だ。収穫には早く、まだ色づいてはいないが、甘い香りが微かにした。

「それにしても…けっこうな量ですけど…」

「食べるんですか?こんなに」

「食べるの。驚くほどたくさん」

アデラインも初めて見たときは、食べ過ぎて体重が増え、飛べなくなるのではと心配したものだ。後からルトヴィアスに聞いたのだが、天馬はそもそも大食いらしい。そのかわり数日程度なら食事をしなくても問題がないというのだ。『普段食い貯めしてるってことだろうな』というルトヴィアスの言葉に、アデラインは吹き出してしまった。

シヴァの厩舎の前には、数人の見張りの衛兵がいた。

――…おかしいわ…。

ルトヴィアス付きの騎士の姿は見えない。ルトヴィアスが中にいるなら、そこには必ず騎士がいるはずだ。この時間なら、ルトヴィアスはここにいると思ったのに、まだ来ていないのだろうか。

おかしいと思いながらも、アデラインはいつも挨拶を交わす衛兵に声をかけた。

人がよさそうな初老の男だ。

「殿下がいると思ってきたのだけど…」

「殿下でございますか?」

衛兵は眩しそうに太陽を見あげた。

「…そう言えば…いつもならいらっしゃる時間ですが…」

やはりルトヴィアスは来ていないらしい。

「…どうしたのかしら…」

「また御前会議が長引いていらっしゃるのでは?」

ミレーに、アデラインは首を振った。

「まさか…」

いくらなんでも、ここまで長引きはしまい。午後の議会が始まってしまう。

旅の最中、ルトヴィアスは日に数回、忙しい予定をやりくりして必ずシヴァの厩舎を訪れた。朝食後と、昼過ぎのこの時間、それから夕食前。王宮にはいったからといって、その習慣がかわるとは思えない。

――…何かあったのかもしれない…。

「…執務室に行くわ」

「お嬢様?」

「ライル、デオ、手伝ってくれてありがとう。ここまででいいわ」

「お嬢様?お待ちください!お嬢様!」

慌てるミレーを置き去りに、アデラインは歩き出した。

歩みはだんだん早くなり、それでも足りずに遂には走り出す。

胸騒ぎがした。

きっとルトヴィアスは忙しくてシヴァにかまっていられないのだ。そうに違いない。…そう思うのに、不安が胸を占拠していく。

髪が乱れ、花帽が落ちるのにも構わなかった。

赤い絨毯がひかれた廊下を駆ける。大階段を登れば、そこは高官達の執務室が並ぶ階だ。

激しい息切れで、アデラインは膝をついた。何人かの女官や侍官が、アデラインを怪訝に見て通りすぎていく。

階段を上がって奥が、ルトヴィアスの執務室だ。

――…早く、早く行かなきゃ…。

気が焦り、呼吸が整うのを待っていられない。

アデラインはよろめく足を叱咤して、階段をかけ上がろうとした。だが、鼻先に警棒を突き付けられ、それを止められる。

「ここから先は通れん!」

階段を警備する衛兵だ。

「上はお前のような者が入れるところではない!」

言われて初めて、アデラインは自分がまた同じ失敗をしたことに気がついた。誰も供をつけていない。

――…ああ、また殿下との約束をやぶってしまった…っ!

オーリオにも、自覚が足りないと叱られたというのに。

やはりアデライン一人では、『マルセリオ家の娘』という説得力に欠けるらしい。つくづく自分の地味顔が恨めしかった。

「わ、私はマルセリオ家の…」

何とか上に行こうとアデラインは声をあげるが、衛兵は聞く耳をもたない。

「王宮に花帽さえかぶらずにくるなんて、なんて無作法な娘だ」

「わ、私は…」

「さあ、早く立ち去れ!牢にいれられたいか!」

衛兵に肩を押され、アデラインはよろめく。

――…倒れる!

尻餅をつくことを覚悟して、アデラインは目を閉じた。

けれど衝撃はおとずれない。

「大丈夫ですか?」

声をかけられ目をあけると、そこにはアデラインの肩を後ろから支えるライルがいた。

「ライル!」

「お嬢様、意外に足がお速いんですね。びっくりしました」

「デオ!」

ライルとデオは走って追いかけてくれたらしい。二人とも少し息が乱れている。

「二人ともきてくれたの?」

「お嬢様を一人にしたと知れたら、今度こそ団長に殺されます」

「ミレーさんが心配してましたよ。あとこれ、どうぞ」

デオがアデラインに花帽を差し出す。

「ありがとう…っ」

「こちらはマルセリオ家のご令嬢だ。無礼は許さん。道をあけろ」

ライルが低く言うと、衛兵は顔をひきつらせて後ずさりした。

「さ、宰相閣下の…っ!?」

受け取った花帽をかぶり、アデラインは今度こそ息を整える。

――…背筋を伸ばして。顔をあげて。花帽を落としては貴婦人の恥。

呪文のように心の内で唱えて、アデラインは一つ深呼吸した。

はやる心が、おかげで少し落ち着いた気がする。

「行きましょう」

階段をのぼり始めるアデラインを、もう誰も止めなかった。

アデラインに付き従いながら、デオがボソボソと言う

「お嬢様は、もう少し偉そうにしていいと思いますよ」

「え?」

「見てください。あの衛兵の青い顔を。気の毒に。同情します」

そういえば、ライルとデオもアデラインを侍女と間違えて謹慎になった身だ。

ライルがデオの肩を押す。

「おい」

「あ…す、スイマセン」

「ううん。デオのいうとおり、私が悪いわ」

偉そうに、とはどうすればいいのかわからないが、このままでは宰相令嬢を侍女と間違えて肝を潰す被害者が増えつづけるだろう。早急に対策を練らなければ。

「でも、お嬢様は変わりましたよ」

ライルがぽつりと言う。

「変わった?私が?」

どこが、と尋ねかけて、アデラインは勝手に得心した。

「ドレスね」

「…いや、そうではなくて…」

「可愛くなりましたよ!」

デオが満面の笑みで言う。

ミレーがいれば、無礼者とまた大騒ぎしそうだ。アデラインは吹き出した。

「ありがとう。嬉しいわ」

「冗談だと思ってますね。そう思ってるのは俺達だけじゃないと思いますよ。殿下なんてお嬢様にベタ惚れじゃないですか」

「ベた…え?」

アデラインは思わず二人を振り返る。アデラインが数段上にいるため、視線の高さがほぼ同じだ。

デオが、ライルまでが意外そうな顔をしていた。

「え?わかりません?」

「…わからないわ」

そう返事してから、醜聞を払拭しようというルトヴィアスの努力が実っているのだと、アデラインは気がついた。ここでアデラインが首を振るのはまずいだろう。

「あ…あの…殿下はお優しいお方だから。私にもお気遣いくださるの」

とりあえず、アデラインは無難にとりつくろう。

けれどライルとデオは、まだ不思議そうだった。

「…ご本人だとわからないものなんですね」

「え?」

「お嬢様、けっこう鈍いです?」

ミレーがいなくて、本当によかった。いれば大階段の高い天井に、デオを非難する高い声が響き渡っただろう。




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