幕間 王と宰相
「あの子をどう思う?」
手元の書類に目を落としていたファニアスは、年下の主君の呟きのような問いかけに、顔を上げた。
「ルトヴィアス殿下でございますか?」
「うん。貴方から見て、あの子はどう?国境からの道中、傍であの子を見てきて、どう思った?」
寝台の上で、大きな枕を支えに座るリヒャイルドの手元にもまた、何枚かの書類がある。皇国へ留学していた第一王子の、帰国に関する書類だ。
10年前、前国王の首を土産に皇国へ願い出た降伏。降伏とルードサクシードの存続を受け入れるかわりに、皇国はルードサクシードに条件を突き付けた。人質を求めたのだ。第1王子を差し出せ、と。
第二王子や第三王子を人質に出すことはよくあるが、第一王子、しかも他に兄弟がおらず王太子になることが確定している王子を人質に出すなど、聞いたこともない。聞いたこともないが、それを要求されてしまうほど、ルードサクシードの立場は、もはや弱いものだったのだ。リヒャイルドは、その条件を飲んだ。飲むしかなかった。
『ルトヴィアス殿下の立太子は見送りましょう』
『…そうだね』
ファニアスの提案に、リヒャイルドは力なく頷いた。
人質は王太子ではなく、王子。それだけが、その時ルードサクシードが皇国を相手に張り通せた、ささやかな意地であり、万が一の時の保険だった。万が一、万が一にもルトヴィアスが戻らなかった場合に、王太子を失うという痛手をルードサクシードがこうむらないための。
ファニアスは、書類を円卓の上に揃えて置いた。
「立派にお育ちになられたと思います」
ルトヴィアスをどう思うか、その答えにファニアスは端的に答えた。それを聞き、リヒャイルドは苦笑する。
「うん。そうだね。健康そうだし、礼儀作法も臣下への受け答えも完璧だ。政務はどう?」
「ご自分の立場は十分理解していらっしゃいます。法令など知識面もきちんと学ばれていたようで問題ありません。私や秘書官の助言を聞く柔軟さもお持ちだ。だからと言って言いなりになるようなこともない。国境付近でかなり多くの上申書を受けとりましたが、書類の内容を鵜呑みにすることも、情に流されてその場しのぎの決裁をなさることもありませんでした。あのお若さでそうそう出来ることではございません。まず及第点を差し上げたい」
「貴方に及第点をもらえるとは思わなかったよ」
リヒャイルドは、自分が褒められているように喜んだ。世間一般の父親がそうであるように、リヒャイルドもまた、息子を誇りに思っているのだ。
「ただ…」
「ただ?」
リヒャイルドの目から、喜びの熱がすっとひいた。そしてその目は、真っ直ぐにファニアスを貫く。
ファニアスが言わんとすることを、リヒャイルドは分かっている。分かっていて、あえて云わせようとしている。
「……ただ、ルトヴィアス殿下は…精神的に未熟でいらっしゃる」
ファニアスの言葉に、リヒャイルドはまた苦笑した。
「ファニアス。いいよ、はっきり言ってくれて。ルトヴィアスは幼稚だと、そう言いたいんだろう?」
「………」
肯定することは憚られ、ファニアスは沈黙にとどめた。
ルトヴィアスは、幼稚だ。
幼い頃から神童だ、大人びていると、周囲から誉めそやされてはいたが、それはルトヴィアスが大人のふりをしているからにすぎない。
小さな子供が大人のすることを上手に真似するように、ルトヴィアスもそうしているのだ。20才になり、名実共に成人したはずの今も。
うまく取り繕ってはいるが、見る人間が見れば一目瞭然だ。
ルトヴィアスの中身は、10才から、いやもしかしたらもっと幼い頃から、成長していない。
ファニアスから見て、ルトヴィアスは、あまりに危うい。
成熟した体。優秀な頭脳。なのに、精神面だけがあまりに幼く、もろく、不安定だ。
「…あの子に国がおさめられるだろうか…」
リヒャイルドが両手を組んで額にあてる。さながら祈るように。
「…わかりません。ですが、殿下以外に、この国を継ぐ方はいらっしゃらない」
「………」
リヒャイルドは静かに嘆息し、目を閉じる。その横顔を、ファニアスも静かに見つめた。リヒャイルドの胸中は、痛いほどわかる。
ルトヴィアスでは、国は治められない。
人を治めるということは、真似事で出来ることではない。政事はそんな簡単なものではない。このままルトヴィアスが国を継げば、遅かれ早かれこの国は滅びる。
「……あの子から……」
リヒャイルドが、薄く目を開ける、
「あの子から……健全な成長期と思春期を奪っておいて…その上そのつけをあの子自身に払わせなければならないなんて……」
ルトヴィアスの皇国での生活がどんなものだったか、ファニアスには、きっとリヒャイルドにもわからない。
ただ、人との関係や、それに関する摩擦を経て成長する機会を、ルトヴィアスが奪われたことは確かだ。
ルトヴィアスは、急かされてしまったのだ。急かされて、時間をかけて成長するのではなく、とにかく取り繕うことを急いで覚えてしまった。親に怒られまいと、親の前でだけ良い子でいる幼子のように。ーーそうしなければ生きられない環境に、ルトヴィアスを一人放りこんだのは、他ならぬリヒャイルドやファニアスなどの大人だ。
人質の件だけではない。
リヒャイルドも、ファニアスも、ルトヴィアスを守れなかった。守ろうとしたが、けれど最後の最後で逃げていた。ルトヴィアスの声なき悲鳴から耳をそむけて、見たくないものから、現実から、目を背けた。
誰かが罰せられるべきなのなら、それは間違いなくファニアスとリヒャイルドだ。なのに、女神はファニアスとリヒャイルドを罰さない。すべての皺寄せはルトヴィアスと…アデラインにいってしまう。彼らの人生を歩くのが、彼らであるがために。
「…あの子は…私を恨んでいるのだろうね。いや、恨まれても仕方がないことを、私はあの子にしてきた…わかってはいるけれど……でもこたえたよ」
「陛下?」
「あの子が他人行儀に…お体を大事にしてください、と…人形みたいな顔で…私から逃げるように出ていった…」
昼間の、ルトヴィアスとの対面のことをリヒャイルドは言っているようだった。
リヒャイルドの寝所を帰国の挨拶のために訪れたルトヴィアスは、四半刻もせずに退出していった。
巷で囁かれる父子の不仲説を肯定するような有り様に、ファニアスも勿論ルトヴィアスへ一言進言したのだが、ルトヴィアスには『父上はお加減が悪いのだから無理をさせてはいけないと思ったのです』ともっともらしい言葉を爽やかに微笑みながら返された。つまり、うまく逃げられてしまったのだ。
本当に、頭の出来だけはいいから始末が悪い。いや、顔の出来も申し分ないが。
「…昔は父上父上と…煩いくらいにまとわりついてきたのに…」
「…陛下。まがりなりにも、殿下も御年20才。幼い頃のようにはいきますまい」
ファニアスは項垂れる主君を慰めたが、自らの言葉が残念ながら慰めにならないことを、よくわかっていた。
人質にいく前から、いや戦争が始まる前から…いや、いつからだったか本当のところはファニアスにはわからない。ルトヴィアスは、いつのまにか『今』のルトヴィアスになっていた。無邪気にリヒャイルドに肩車をねだる少年は、いつの間にか姿を消してしまったのだ。
大人に振り回される形で、ルトヴィアスは本来の自分を失っていった。
「…アデライン嬢と…」
リヒャイルドが顔を上げた。
「報告で…ルトヴィアスが随分とアデライン嬢と親しくしていると聞いたけど…本当かい?」
リヒャイルドの表情は不安げだ。今、完全に彼は為政者ではなく、ただの一人の父親だった
「ルトがどういうつもりか、君はわかるかい?ファニアス。アデライン嬢と親しくしているのがもし打算的に考えてのことなら…」
リヒャイルドは、息子がファニアスの娘を『また』傷つけはしないかと心配しているのだ。
ファニアスは、リヒャイルドのそんな様子が少し可笑しかった。
ファニアスは幼いリヒャイルドの家庭教師を務めた過去がある。生真面目で少し気弱だったあの小さな王子様が、今や自分の息子の心配をしているとは。
「…私も実は当初はそう思っておりました」
ファニアスは言葉を一度切った。言いたいこと、言うべきことを頭の中で構築する。
「ただ…打算的にせよ娘を丁重に扱って頂けるならそれも良いと思ったのです」
「貴方はまたそんなことを…目にいれても痛くないほど可愛い娘でしょうに」
眉を寄せるリヒャイルドに、ファニアスは苦笑を返す。娘は可愛い。けれど可愛いからと、愛し愛される理想的な結婚を娘に与えてやれるほど、ファニアスの立場は軽いものではない。
愛せなくても、せめて娘の複雑でやや面倒な形の矜持を、ルトヴィアスが守ってくれさえすればいいと、ファニアスはそう願っていた。けれど、風向きは思わぬ方向に変わりつつある。
「例の件だって…ルトはどういうつもりなのか…リーナがあんな死に方をしたから過敏になるのは仕方がないとしても…」
「陛下、その件は娘には内密のことですので」
「わかっているよ…けれど、それでルトに何かあれば傷つくのはアデライン嬢だ。あの子はそれがわかっているのだろうか…」
「…残念ながら、殿下はお分かりにはなっていないでしょう。ですがー殿下は…ただただ純粋に娘を…アデラインを守ろうとして下さっているようです」
「………」
リヒャイルドは、少し驚いたように目を見開いた。
「守る…?ただ純粋に?」
「私にはそう見えます。少なくともここ数日の二人を見ていると…上辺だけのままごとをしているわけではないようです。侍女からの報告ですと…派手に喧嘩もしたようですし」
「喧嘩?ルトと…アデライン嬢が?」
「何を言っていたかはわからなかったようですが、お互いに怒鳴りあっていたとか」
「怒鳴りあい!?」
リヒャイルドが驚くのも無理はない。リヒャイルドの知るファニアスの娘は、俯いてばかりいて、ろくに返事も出来ない内気な娘だからだ。
「私も驚きましたよ。娘が怒鳴るなど…妻が知れば大喜びでしょうが」
ファニアスの妻は、アデラインが自分の意見を口にするのが苦手なことを昔から憂いていた。アデラインは昔から、素直で聞き分けが良く、絵に描いたような良い子だった。それがいつか、アデライン自身を苦しめるのではと、ファニアスの妻は心配していたのだ。
「………そう…」
リヒャイルドが、窓の外を眺める。
その横顔に、ファニアスは今は亡き人の面影を見た。
苛烈で激しく、恐ろしいまでに強かった王。幼い頃から憧れ、必死に追いかけた。かつて、彼の言葉は絶対だった。
だから、彼がファニアスの娘をルトヴィアスの妃にと決めた時、ファニアスも決めた。娘を王妃にしてみせると。歴史に、並ぶもののいない王妃にしてみせると。
だが、ファニアスも少し意地になっていたのかもしれない。3年前の婚約解消騒動。あの時、意地にならずに娘の幸せを考えて婚約を解消していれば、その後味わう屈辱を、アデラインは知らずにすんだのではないか、と近頃思っていた。
思っていたところで、ルトヴィアスとアデラインが怒鳴りあいの喧嘩をしたという報告をうけた。
本音を晒しあえるのなら…もしかしたら、あるいは…。
「…恋になるといいね…」
リヒャイルドが呟いた。いまだその目を窓の外にむけたまま。口元に、微かな笑みをのせて。
「恋になるといい。私がリーナにしたように、貴方が貴方の奥方にしたように、ルトヴィアスがアデライン嬢に恋をして…」
遠くをみるような、けれど傍らをみるようなリヒャイルドの目は、かつて最愛の妻を見つめたその色だった。きっと彼には、今も見えているのだ。宝石と呼ばれた妻が。
そして、彼女と生きた時間は、リヒャイルドの血となり肉となって、今現在のリヒャイルドを形作っている。
「その恋が…ルトヴィアスを成長させてくれればいいね…」
それは、希望だった。
滅亡の寸前から復興を遂げ、けれど再び滅びへの砂時計が動き出しかねないこの国で、花開こうとする恋は、たった一つの希望だった。
ファニアスに出来ることはない。リヒャイルドにもないだろう。
二人に出来るのは、今はまだ小さな蕾のそれが、やがて見事な大輪の花を咲かせることを、ただただ、願うことのみだった。
upするかどうか迷ってupした話です。今も迷っています。
もしかしたら後日削除するかもしれません。
…さ、削除しても怒らないで…。
※たくさんの方に削除をしないでというお言葉を頂きましたので残しておくことにします。コメントを寄せて頂きありがとうございました。
2018.5.19 ファニアスの名前を間違っていたため訂正しました。
2018.5.21 ファニアスの名前がまだ間違っていたため訂正しました。 (ご指摘ありがとうございました。)
リヒャイルドのセリフを訂正しました。




