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第十一話 天馬

夜中から降りだした雨は朝になっても止まず、その為に一行は足止めされることを余儀なくされた。途中通る峠が、雨でぬかるみ、馬車の足がとられるのを怖れたためだ。

昨夜の一件で、ルトヴィアスとの関係が何か変わるのではとアデラインは期待したが、朝食の席のルトヴィアスは、いつものようにアデラインと会話はおろか目もあわさず、黙々手と口を動かすだけだった。そして食べ終わると、やはり何も言わずに立ち上がり出ていこうとする。

アデラインもいつものように見送りのために立ち上がり、けれど思いきってルトヴィアスに声をかけた。

「殿下、あの!」

ルトヴィアスは扉の前でピタリと立ち止まる。振り向いてはくれないが、アデラインの言葉を待ってくれているようだ。

「…あの、昨夜は…腹痛などは…大丈夫でしたか?」

「……ああ」

そっけないたった一言に、けれどアデラインは満足した。ほんの少しだけでも歩み寄れた気がしたのだ。

そのままルトヴィアスを見送るつもりだったアデラインだが、意外にもルトヴィアスは出ていかなかった。

「…来るか?」

扉に体を向けたまま、まるでそれは独り言のようだった。

だからアデラインはてっきり自分が何か聞き間違えたのだと思って首を傾げた。

「…え?」

「……来ないならいい」

「い、行きます!」

何処に、などという基本的な質問はアデラインの頭には浮かばなかった。



翼と同じ白い体に、銀に光る(たてがみ)

アメジストのように輝く紫の瞳。

まるで天使のような純白の翼を羽ばたかせて、その美しい生き物は(いなな)いた。

「―…天馬!」

アデラインは慌てて口を押さえた。突然の大声で、天馬の機嫌を損ねては大変だ。

「シヴァだ」

ルトヴィアスは手に持っていた水桶を床におろすと、関貫を抜いて、柵の中にはいった。

「シヴァ…何て綺麗なんでしょう…」

アデラインはうっとり呟いた。

ルードサクシードの高地に住む天馬は希少な生き物で、狩猟は堅く禁じられている。

ルードサクシード王家の直系男子だけが所有する特権を有していて、その美しさからも女神に愛された生き物だと大陸全土で神聖視されていた。

「私初めて見ました」

幼い頃、天馬の話を寝物語に聞いて憧れ、乗ってみたいとミレーにねだると、それは王族の特権だと教えられた。

ミレーは『旦那様になる方にお願いなさいませ』と助言をくれたのだが、その願いを婚約者に伝える前に、当の本人が人質として旅立ってしまった。まだ翼が生え揃わない子馬の天馬を伴って。

先王と現国王の天馬は、前の戦で残念ながら死んでしまったので、現在王宮には天馬はいない。

王族筋の所有する天馬は何頭か王都にはいるらしいのだが、厳重に管理されており、アデラインが天馬を見るのは、今回が正真正銘生まれて初めてだった。

普通の馬なら5頭ほど繋げるであろう広さの厩の中を、シヴァはグルリと一周して、ルトヴィアスに甘えるようにすり寄る。

その逞しい首を、ルトヴィアスは軽く叩くように撫でてやっている。アデラインには見せてくれない優しげな表情で。

その滅多に見れない横顔に、アデラインは目を奪われた。

希少生物である天馬が目の前にいるにも関わらずだ。

「…触るか?」

ルトヴィアスがアデラインを振り向いた。ドキリと飛び上がった心臓を隠して、アデラインは尋ねる。

「でも…いいんですか?」

天馬は誇り高い。主人以外は乗ることを許さないし、中には主人以外には手入れもさせない天馬もいると聞く。初対面のアデラインが気軽に触れるものとは思えない。

ルトヴィアスは既に普段の仏頂面だ。

「さあ?決めるのはシヴァだ」

「…」

つまりルトヴィアスは、アデラインがシヴァに触れるように、何かしら手助けしてくれるわけではないようだ。

アデラインは迷った。無理に近寄って蹴られでもしたら…。けれど幼い頃から憧れた天馬に触るせっかくの機会を、逃したくはない。

アデラインはこくりと、唾を飲み込んだ。

ルトヴィアスがしたように関貫を抜いて柵の中にはいる。

ぶるる、とシヴァが鼻を鳴らした。

「…はじめましてシヴァ。私はアデライン」

シヴァの目を見て言うと、まるで返事をするように、シヴァは紫の瞳を瞬かせる。

――…まるで言葉を分かってるみたいだわ…。

アデラインはルトヴィアスの横を通り、ゆっくりシヴァに近づいた。

「…あなたの綺麗な(たてがみ)に触ってもかまわないかしら?」

アデラインが尋ねると、シヴァはまた鼻を鳴らし、そして、なんと頭を垂れた。

「…っ」

胸を踊らせて、アデラインはルトヴィアスを振り向いた。ルトヴィアスは難しい顔で腕組みをしていたが、アデラインに頷いてくれた。

「かまわないようだな」

アデラインは飛び上がりたい衝動を必死に抑えて、またシヴァに面と向かう。一歩近付き、そぅっと手を伸ばした。指先が、銀糸のような(たてがみ)に触れる。

「…あなたは綺麗なだけじゃなく、とっても賢いのね」

ぶるる、とまたシヴァが鳴く。

「まぁ」

アデラインは嬉しくなった。そっとシヴァの首に触れた。しなやかな筋肉は、頼もしく、温かい。シヴァは下げていた頭を上げたが、アデラインの手を嫌がる素振りはない。

「アデライン」

「…っはい!」

呼ばれて振り向くと、アデラインは(くし)を渡された。

「…櫛?」

「鬣。すいてやってくれ。絡まりやすいんだ」

ルトヴィアスはアデラインに背を向けると、肩から外套をはずし、柵に掛けた。

「俺は水を酌んでくる」

「…殿下が?」

「お前が行くか?」

行けと言われれば行くが、アデラインでは水場からここまで来る間に桶が空になるだろう。

「…いってらっしゃいませ…」

ルトヴィアスは手首の釦をはずして腕捲りすると、桶を手にして行ってしまった。その後ろ姿が見えなくなってから、アデラインはシヴァに話しかけた。

「…いつもは、殿下がすいてくれるの?」

さすがにシヴァからは返答らしい反応は戻ってこない。

「…私がしてもかまわない?」

これにもこれと言って反応は返ってこなかったが、逃げもしないのでアデラインは櫛を鬣にあててみた。絡まりやすい、とルトヴィアスは言っていたが、櫛は一度も引っ掛かることなく鬣を滑り抜けた。

「…きっと殿下が毎日丁寧にとかしてくれてるからね」

厩舎の前には見張りが立ち、中にはルトヴィアス以外には入れない様子だった。つまりシヴァの世話はルトヴィアスが一人でしているのだろう。自ら汲んだ水を与え、体を拭き、大切に世話をしているに違いない。これほど美しい生き物なのだ。ルトヴィアスが手をかけるのも頷ける。けれど、それだけではないだろう。

――…殿下は、本当は愛情深い方なのかもしれない。

シヴァに見せた優しい表情が、それをものがたっている。そうでなければ、忙しい毎日の中でシヴァの世話はただ負担が大きいだけだ。

「…貴方が、少し羨ましいわシヴァ」

こぼれたアデラインの呟きに、シヴァは鼻を鳴らすと首を回してきた。慰めてくれているのかもしれない。

「何が羨ましいって?」

「っ!で、殿下っ!?」

いつのまにかルトヴィアスが戻って来ていた。ルトヴィアスは柵に入ると、水がたっぷり入った桶を床に下ろした。

「で?何が羨ましいって?」

「あ、いえ、あの…」

アデラインは焦って狼狽えた。ルトヴィアスに大切にされていることが、単純に羨ましい。けれどそんなことを等の本人に言えるはずもない。ルトヴィアスがアデラインを嫌っているのは分かっているし、その理由も悲しいことに理解できる。こんな地味で愚かで陰気な女、アデラインだって大嫌いだ。それを大切にしろなんて、厚かましいにもほどがある。アデラインとしては、ルトヴィアスがアデラインをないものとして扱い、存在を忘れてくれさえすればいいのだ。そうすればアデラインは、息を殺し、ひっそりと、けれど心安らかに暮らせるだろう。

「え、えっと、あの…」

焦るアデラインの目に、シヴァの銀に輝く鬣が入ってきた。

「た、(たてがみ)が!」

「…鬣?」

「綺麗な銀色で…羨ましいと。私はこんな暗い色なので」

でまかせは、あながちそうとも限らなかった。アデラインは常々、自分の髪が金髪や銀髪であったらと考えていたからだ。

うまく誤魔化せた。しかも大した嘘をつくこともなく。アデラインがそう安堵していると、ルトヴィアスが無言で近付いてきた。

何事かとアデラインは顔をあげた。

「…あの、殿下どうかなさっ…いたいいたいいたいいたい!」

おずおずとした質問を最後まで聞こうとはせずに、ルトヴィアスはアデラインの頬をつまみ、容赦なく引っ張ってきたのだ。

「…蒸した米菓子みたいだな」

「い、痛いです殿下、は、はなし…」

涙目で懇願すると、ルトヴィアスは指を弾くようにしてアデラインの頬を放してくれた。

赤くなった頬を手でさすりながら、アデラインはルトヴィアスを恨めしく睨む。

「いきなり何なんですか…っ」

「言ったはずだぞやめろって」

「…え…」

卑下するな、という昨日のやりとりをアデラインは思い出した。

「あ……す、すいません…」

「次は鼻つまむからな」

「や、やめて下さい!」

咄嗟に鼻を手で隠すアデラインに、ルトヴィアスが小さく吹き出した。

――…笑った!

けれどその笑顔はまるで一瞬の幻のように、すぐに消えてしまったので、アデラインはまたしてもじっくりと見ることが出来なかった。

ルトヴィアスは背を向けると、そのまま桶を持ち上げる。

「濡れたくなかったら足もと気を付けろよ」

「は、はい!」

ルトヴィアスは桶の水を床にまくと、長柄の刷毛で床を掃除しはじめた。その後も何度か水を汲みに行ったり、飼い葉を変えたりと、ルトヴィアスは実に手際よく動いた。彼の身分を知らない人が見れば、馬丁にしか見えないだろう。随分と気品が溢れる馬丁だが。

「殿下、よろしいですか?殿下?」

外からアデラインの父親の声がした。

「今行きます」

一言返してルトヴィアスはアデラインを振り返った。

「俺は戻る。お前は?」

訊くということは、このままここにいてもいいのだろうか。それならもう少しシヴァといたいが…。

「…私も部屋に戻ります」

アデラインは結局無難な判断を下した。ルトヴィアスは柵にかけていた外套を掴むと、シヴァの鼻筋を優しく撫でた。

「またな」

シヴァが甘えるように(いなな)く。

――…私に『また』はあるのかしら…。

今日はルトヴィアスの気紛れで、こうしてこの厩舎に入れたが、今後またルトヴィアスが同じ気紛れを起こすとは限らない。聖獣として厳重に警備されるシヴァとは、もしかしたらもう二度と会うことは叶わないのではないか。

「…今日は、ありがとうございました。貴重な機会を下さって」

アデラインはルトヴィアスの横顔にお礼を言った。

もう二度と彼の気紛れが起きなかったとしても、この貴重な一度を自分にくれたことを感謝しよう。

「あなたも、ありがとうシヴァ」

アデラインが微笑むと、シヴァも鼻を鳴らす。

この美しく、賢い生き物との触れあいは、きっと一生忘れないだろう。シヴァに優しいルトヴィアスの姿とともに。

「…アデライン」

「はい?」

呼ばれてアデラインはルトヴィアスに向き直った。

ルトヴィアスは不機嫌そうな、けれど途方にくれて困っているような、複雑な表情だ。何か言いたいことがあるようで、薄く開いた唇は、言葉を探しているのか何度か震えた。

――…何かしら?

アデラインはルトヴィアスの言葉を待った。けれど結局、彼の言葉は聞けず仕舞いに終わった。外からまた、ルトヴィアスを呼ぶ声がしたからだ。

「殿下?申し訳ありませんが急ぎの書簡が参りまして。よろしいですか?」

「…今いきます」

ルトヴィアスは先ほどと同じ返事をし、けれど今度は本当にすぐ厩舎の出口へ向かった。

――…何だったのかしら?

ルトヴィアスが何を言うつもりだったのか、気になりながらもアデラインはルトヴィアスの背に続く。

雨は、いつの間にか止んでいる。

厩舎から出てきたルトヴィアスとアデラインを見て、宰相が目を丸くさせた。

「…そなたも一緒だったのか」

「はい。殿下にお声をかけていただいて」

「…そうか」

宰相が意味ありげな目線をルトヴィアスに向ける。

「宰相、急ぎの書簡はどれです?」

ルトヴィアスは宰相の目線など気づいていない様子で、にっこりと促した。今日も彼の猫は絶好調だ。

「ああ、申し訳ありません」

政務の話が始まりそうだったので、アデラインはその場を辞すことにした。邪魔になってはいけない。

「殿下、お父様。私はこれで失礼いたします」

ドレスをつまんで、軽く膝を折る。

「ああ、誰か娘を部屋へ」

傍らに立っていた騎士が一人頭を下げた。

一歩下がったところでルトヴィアスと目があう。

「…ではアデライン。また昼食に」

誰が見ても婚約者を慈しむ優しい微笑みだ。

「はい。失礼いたします」

アデラインはもう一度膝を軽く折った。

醜聞の払拭は時間の問題だろう。猫が笑っているだけだと知っているアデラインでさえ、やはりルトヴィアスの微笑みは美しいと思うのだ。まして何も知らない人々が見れば、ルトヴィアスがアデラインを愛しているように見えるに違いない。

アデラインはルトヴィアスが連れてきてくれた道順を戻るつもりで、厩舎の裏を回って回廊に出た。

けれど回廊の先に、見知った人影を見つけてギクリと立ち止まる。

引き返すのはあまりに露骨な避け方だ。けれど隠れる場所もない。

人影は随分前からアデラインに気付いていたらしく、まっすぐにアデラインに向かって歩いて来る。

「ごきげんよう。アデライン様」

魅惑的な赤い唇で挨拶を述べると、彼女は菫色のドレスを細い指で少しだけつまみ上げ、軽く膝を折った。

その様は優雅で、そしてわざとらしいほどにうやうやしい。

「…ごきげんよう。ハーデヴィヒ様」

アデラインもハーデヴィヒと同じようにドレスを指先でつまみ、膝を折る。菫色のドレスを。

そう、ハーデヴィヒのドレスはアデラインのドレスと同じ色なのだ。

けれどアデラインの飾り気がない地味なドレスと違い、ハーデヴィヒのドレスは紅紫のレースを裾にあしらい、大きく開いた胸元には薔薇に似せた飾りがついた優美なものだった。花帽にも同じ飾りをつけ、見事に結われた髪には菫がちりばめられている。同じ『菫色のドレス』にも関わらず、アデラインとハーデヴィヒの装いには温室で大切に育てられた菫と、畦道で雨と泥に濡れた菫ほどの違いがある。

「まぁ、私なんて不調法を。アデライン様と同じ色を着てしまうなんて…お許し頂けます?アデライン様」

ハーデヴィヒは申し訳なさそうに大仰に顔をしかめたが、その目は楽しそうに光っていた。

自分より明らかに高い身分の女性や、客人と、ドレスの色がかぶらないように配慮するのは、貴族社会の暗黙の作法だ。特に公的な行事では、貴婦人達はありとあらゆる人脈をつかって高位の女性の衣装の情報を仕入れ、同じ色になることを避ける。

万が一色かぶってしまっても罰せられるわけではないが、周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買うのは免れない。高位の婦人に取り入る為にわざわざ同じ色を身に付ける、なんて剛の者もいるそうだが、勿論そんな例は極僅かだ。

アデラインは宰相令嬢で、第一王子の婚約者。配慮をされる側の人間であるので、この作法を気にしたことはあまりない。そして実際に他者とドレスの色がかぶったのは初めてだった。

「そ、れは…勿論…あの…とてもお似合いです」

下位の者の失態は、寛容に許すのが上位の者の務め。

ー…でも、これは…。

「ありがとうございます」

当然とばかりに微笑むハーデヴィヒの様子に、アデラインは確信した。

ー…わざと、だわ。

ハーデヴィヒはわざとアデラインと同じ色のドレスを着たのだ。アデライン相手に配慮するつもりはないと、遠回しに侮辱するために。それとも、同じ色でも着る人間によってこうまで違うと、アデラインに見せつけるためか。

いずれにせよ、ハーデヴィヒはアデラインを嘲笑するために、菫色のドレスを着て、そしてアデラインの前に立っている。

それがわかり、アデラインは更に萎縮した。

ハーデヴィヒを無礼者と叱責し、今すぐ着替えをするように命じるべきだ。それが次期王太子妃、そしてやがて王妃になる身として、アデラインがとるべき対処だ。王妃が臣下に侮られることはあってはならない。それはアデラインもわかっている。けれど、アデラインはハーデヴィヒと目を合わせることすら出来なかった。ただ恥じ入り、怯え、そして自らが情けなくて縮こまるばかりだ。

おそらくハーデヴィヒも、アデラインが強く出ないとわかっていてこんなことをしているのだろう。

「あの…では私はこれで…」

早くこの場から逃げ出したい。

頭の中は、ただそれだけだった。

「まあ、何かしらこの臭い」

「…え?」

臭いとは何のことだろう。アデラインにはわからないが、ハーデヴィヒは不快そうに眉をひそめている。

「いやだわ、まるで厩舎の臭い。いったいどこからするのかしら?ねえ、アデライン様」

「…っ」

かっと、顔が熱くなった。ハーデヴィヒはアデラインが馬糞臭いとあてこすっているのだ。けれどアデラインがいたシヴァの厩舎は、ルトヴィアスが清潔に掃除していて、大して匂わなかった。いくらなんでもこんな短時間でドレスに臭いがつくわけがない。

単にハーデヴィヒはアデラインがルトヴィアスと二人きりで厩舎にいたことを知っていて、それが気にくわないのだろう。ただ、そうとわかってもアデラインには言い返す度胸がない。

「私、失礼します」

アデラインは目を臥せ、ハーデヴィヒを見ないようにして立ち去ろうとした。けれどその前にハーデヴィヒが立ち塞がる。

「そんなに急がなくてもよろしいじゃない」

「…道を開けて下さいませんか」

「ねえ、アデライン様。私を殿下に紹介して下さらない?」

「…え?」

アデラインは思わずハーデヴィヒの顔を見返した。

長い睫毛と、鮮やかな紅をはいた厚い唇、豊かな胸からすらりとした肢体は、蠱惑的な魅力に溢れている。人の目に触れないようにと、アデラインが身を小さくしているのとは対照的に、ハーデヴィヒは自らの美しさを誇り、自信に満ちて、堂々としている。

「私、殿下とお近づきになりたいの。あんなに素敵な方初めてだわ」

ハーデヴィヒは、ルトヴィアスを思い出しているのかうっとりと頬をそめた。

「…」

ハーデヴィヒの幸せそうな様子を見ていると、何故かアデラインの胸のうちがモヤモヤと曇る。

ルトヴィアスの本性をぶちまけて、ハーデヴィヒの描いている夢をぶち壊してやりたい。けれどそうしたところでハーデヴィヒは信じないだろうし、アデラインが暴露したとルトヴィアスに知れるのも恐ろしい。

「…私の話になど殿下は耳をかしません」

断って早々に退散しようとしたが、ハーデヴィヒは許してくれなかった。

「そうやって側室候補を殿下から遠ざける気ですの?」

挑戦的なハーデヴィヒの眼差しに、アデラインは後ずさりする。

「そんな…私は…」

「まさかご自分が殿下を満足させられるとでも思ってらっしゃるわけじゃないわよね?」

「……思っていません」

固い声で、アデラインは返した。ルトヴィアスはアデラインを嫌っている。アデラインを妃に迎えるのは義務だからだ。義務さえ果たせば、心惹かれる女性を側におくのは、ルトヴィアスの自由だ。

「わかってらっしゃるならよかったわ」

満足げにハーデヴィヒは微笑む。

「誰かが側室に選ばれるなら、ここで私に恩を売っておいた方が、後々貴女も得になるんじゃなくて?」

ぷつ、とアデラインの中で何かが切れた。

「……好きでなったわけじゃないわ…」

「え?」

「好きで婚約者になったわけじゃない!」

吐き捨てるようにそれだけ言うと、アデラインは駆け出した。

ドレスをたくしあげて回廊を走り抜け、無茶苦茶に曲がり角を何度か曲がる。

――…なりたくて、なったわけじゃない!!

なのに、婚約者というだけで敵意をぶつけられ、侮辱をうける。ルトヴィアスの婚約者でさえなければ、注目されることも、この地味な容姿を揶揄されることもなかったはずだ。マルセリオ家の一人娘として婿をとり、静かに、穏やかに、日々を過ごせたに違いない。

確かに、優しく美しい王子の婚約者である幸運を、女神に感謝したこともある。けれど、それはもう遠い昔の話。

3年前の婚約解消騒動から、婚約者の座はただ豪華なだけの座り心地が悪いものに過ぎない。

それでも座り続けたのは、ルトヴィアス王子に恋していたからだ。心無い噂や嘲笑も、婚約者の座に座り続ける代償なのだと耐えてきた。けれど必死にしがみついていた恋が幻だった今、どうしてそれらに耐えられるだろう。

息が切れて苦しい。

アデラインは誰もいない廊下の壁に背中を預けた。

護衛についてくれた騎士がいない。

アデラインが急に駆け出したためについてこれなかったのか、それともアデラインごときの護衛など気が進まなかったからついて来なかったのか。

いずれにせよ、一人歩きはしないと、ルトヴィアスとした約束を早くも破ってしまった。

けれど、今はそれももうどうでもいい。何もかもが煩わしい。

ふと、頭に違和感を感じた。

「…花帽(かぼう)が…」

来た道を振り返ったが見当たらない。

どこで落としたのだろう。

花帽を落とさないように、優雅に、姿勢良く歩くのが貴婦人のたしなみ。

容姿に劣る分を補おうと、アデラインは行儀作法や立ち居振舞いには、人一倍気を付けてきた。

なのに花帽を落とすなんて…。

探しに戻ろうと足を一歩出したところで、膝から崩れ落ちた。 膝が嗤っている。生まれて初めて、行儀作法をかなぐり捨てて走ったせいだ。

「…ふっ…」

涙が溢れる。

自分が哀れで、惨めだった。

ルトヴィアスも、国も、王妃になる身分や立場や、結婚も、今のアデラインには全てがただの重荷だ。

何もかも投げ出して、逃げ出してしまいたい。

けれどその方法すらわからない自分が情けなくて、恥ずかしくて、アデラインは泡になって消えてしまいたかった。


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