第十話 夜のピクニック②
「何でお前が悪い?」
「あ、あの…だって………なので…」
ボソボソとアデラインは応えたが、あまりに小さなその声はルトヴィアスの耳には届かなかったようだ。
まるで猛獣のようにルトヴィアスは唸った。
「あああっ!?」
「だ、だって…じ、地味だから!」
アデラインは自棄になって声を張り上げた。ルトヴィアスはその整った顔を、今度は困惑に歪ませる。
「…はあ?」
「私の顔が地味だから!だからきっと騎士達は覚えづらいんです!」
何が悲しくてこんな情けない事情を説明せねばならないのか。
あまりの恥ずかしさにアデラインの顔は紅潮し、目に涙が浮かび上がる。
「………ぷっ…」
頭上で、吹き出す音がきこえてアデラインは思わず顔を上げた。
――…今、笑った?
ルトヴィアスは額に手をあてていたので顔は見えなかったが、明らかに口元が緩んでいた。
――…笑った!
猫をかぶって微笑むのではなく、本当にルトヴィアスが笑うのを見たのは初めてだ。
それは彫像が笑うくらい有り得ない現象で、アデラインはどうにかその珍しい現象を見れないものかと身をよじる。
けれどルトヴィアスがわざとらしくゴホンと一つ咳払いをしたので、慌てて背筋を伸ばした。
「…別に…地味じゃないだろ。…そりゃ派手な顔じゃないが、まぁ平均というか…」
「…それを地味というんです…」
下手な慰めは逆に傷口を広げる。堂々と笑ってくれた方がいくらかマシだ。
けれど、アデラインを気遣うような発言をルトヴィアスがしたのが意外すぎて、アデラインは気落ちするどころではない。
ルトヴィアスはアデラインと目を合わそうとしなかったが、その横顔がいつもより幾分か柔らかいように見える。
先程笑ってしまったことが、もしかしたら照れ臭いのかもしれない。
「…で?夜にピクニックにでも行くつもりだったのか?」
アデラインの手に下がる籠を、ルトヴィアスはチラリと見て言った。
強引な話題変更だったが、容姿の話題を打ち切ることについてアデラインに異論はない。
「…これは…」
籠を、胸の高さまで持ち上げる。
「これは殿下にお持ちしたんです」
「…俺?」
ルトヴィアスは驚いたように、アデラインを見た。
アデラインは頷く。
「はい。あの…お夕食をあまり食べてらっしゃらないようだったので……」
籠の中の、潰れてしまったパンに心が痛んだ。せっかく作ってもらったものを無駄にしてしまった。ミレーに謝らなければならない。
ひょい、とルトヴィアスが籠を覗いた。それまで気にならなかったその近さに、アデラインはドキリと肩を揺らす。ルトヴィアスはそれに気付いた様子もなく、籠の中に手を伸ばした。
「香草焼きか?」
「はい、あの…」
何をするつもりかと、訝しがるアデラインの目の前でルトヴィアスは鶏肉の塊をつまみ、躊躇なく口の中に放り込んだ。
――…た、食べた!!
アデラインの体の血の気が一気にひいた。
「殿下!そ、それ…っ」
磨き上げられた廊下は、だからと言って食器代わりになるほど清潔なわけではない。
「いけません!!早く吐き出して下さい!!」
「何故?」
何故も何も、理由はわかるはずだ。
慌てるアデラインにかまわず、ルトヴィアスは潰れたパンをまた口に放り込む。
「キャアアアアアアア!!」
「うるさい。ちょっと黙ってろ」
アデラインの手から籠をもぎ取ると、ルトヴィアスは執務机にそれを置いた。そして自らも執務机に軽く腰掛けると、檸檬水の瓶を手に取り、コルクを抜く。
――…た、食べるつもりだわ!!
アデラインはルトヴィアスを何とか止めようと試みた。
「あの、あの、それは落ちて…」
「俺が蹴りいれたからな」
「もしお体に不調をきたしたら…」
「その時はその時だ」
瓶にそのまま口をつけ、コクコクと飲み干す。アデラインは戸惑いながら、ルトヴィアスの近くへそろそろと近寄った。
まさかルトヴィアスがこんな行動に出るなんて。もしこれで食あたりにでもなれば、ルトヴィアスはルードサクシード王家唯一の直系男子。国の一大事だ。
アデラインがハラハラと見守る中で、ルトヴィアスはあっという間に籠の中の食べ物を平らげてしまった。
「うまかった」
指についた塩分を舐めとりながら、ルトヴィアスが籠をアデラインに押し付ける。それを受け取りながら、アデラインは頭を下げた。
「は、はい…」
「さて…」
ルトヴィアスは腕を組み、額に手をあてる。金糸の髪がサラリと流れるのに、アデラインは思わず見惚れた。仕草も言葉も乱暴で驚くことは多いが、彼の美しさがそれによって損なわれないのがまったく不思議だ。ルトヴィアスは何か考えているようだったが、ややあってその美しい顔を上げた。執務机に腰掛けているため、視線の高さがアデラインとほぼ同じだ。アデラインの鼓動がドクンとひとつ跳ねた。
「例え屋敷内でも今後は供をつけろ。いいな。」
「…はい」
「それから…」
言葉を区切り、ルトヴィアスは俯く。
「…それから、自分を卑下するな。…地味とか…やめろ。」
「…え…」
予想外のことを言われアデラインは戸惑わずにはいられない。ルトヴィアスの真意がわからず返事を躊躇していると、ルトヴィアスは俯いたまま不機嫌そうにアデラインを促した。
「返事!」
「は、はい!!」
条件反射的に、アデラインは返事をした。それでもルトヴィアスは満足したらしい。
「…よし」
スッとまっすぐ立ち上がるその頭上には、もう立派な猫が鎮座している。
ルトヴィアスは無駄がない動きで部屋を横切り、扉をあけた。その向こうに宰相達が並んでいる。扉が開いた事で、全員がルトヴィアスに注目し、その言葉を待っていた。彼らの顔を見渡し、ルトヴィアスが静かに最終決定を告げる。
「…両名とも5日間の謹慎の後任務に戻すこととします」
「それは…」
口を開いたアデラインの父を、ルトヴィアスは制した。
「今回のみの温情処置です。慈悲深い未来の王太子妃に感謝し、今後は一層の忠誠を捧げるように伝えておいてください」
「…かしこまりました」
父親が頭を下げるのを見て、アデラインはホッと胸をなでおろした。
「誰か。アデラインを頼みます」
「かしこまりました」
一番近くにいた騎士にアデラインを部屋まで送るように指示をした後、ルトヴィアスは宰相の告げる予定の変更に耳を傾け頷いていた。その横顔は、静かで理知的で、先ほどまでアデラインを壁まで追い詰めた猛獣と同じ人物とは到底思えない。ルトヴィアスが飼う猫はとてつもなく躾がいいようだ。
穏やかで、理性的。洗練された身のこなしに、柔らかく、でも良く通る話し方。
その外見といい、きっと彼が王太子になれば臣下と国民から絶大な支持を得るに違いない。まさに完璧な王太子だ。
猫の着脱により態度に天と地ほどの違いがあるが、彼の根底にある本質には揺らぎがないのかもしれない。
騎士の在り方を語った彼は、間違いなく騎士号を授ける王族としての責任を自負していた。
あの姿は素直に尊敬できる。
――…それに…。
それに、自分を卑下するなと、彼は言ってくれた。
――…そんなこと言われたの初めてだわ…。
アデラインの父親は『王妃に必要なのは外見ではない』と、アデラインに言い聞かせるのが常だった。つまりは繰り返し『お前は美しくない』と言われているようなものだ。
自分が深読みしすぎていることも、父親の娘を思っての言葉だということもわかっていたが、アデラインは密かに傷ついていた。
公平性を重んじる父らしいが、一人娘なのだから少しぐらい贔屓目にみてくれても…と、恨みがましく思ったこともある。
アデラインは決して不器量ではないが、いつか王妃として立つ身としては、いささか地味と言うより他ない。アデラインを美しいと言う人もいたが、彼らが社交辞令を言っているのがわからないほど、アデラインは愚かでもなかった。
人知れず、自らの外見を憂いていたところへ、3年前の婚約解消騒動だ。ルトヴィアスが選んだ相手がそれは美しい女性だと聞いたことで、アデラインの外見に対する劣等感は決定的なものになった。
ああ、私がもっと美しければ、と。
けれど当のルトヴィアスが言った。『卑下するな』と。
美しいと、舌先だけでアデラインの機嫌をとれるだろうと、アデラインを侮りはしなかった。
それが、アデラインには意外すぎて戸惑ってしまった。
――…そのままでいいと言われた気がした…。
ルトヴィアスの言葉は、アデラインの容貌を肯定してくれたように、アデラインの耳には届いた。美しくはない、けれどそのままで良いと、言われた気がしたのだ。
それは言葉を良くとりすぎなのではないかと、アデラインは自分でも可笑しくなった。
口元から、ふっと思わず笑いが零れる。
「どうかしたのか?」
宰相と話し込み、そのまま行くだろうと思ったルトヴィアスが、アデラインの傍まで戻ってきた。
「…いいえ。いいえ何でもありません」
アデラインはクスクス笑いながら首を振った。
怪訝そうに眉をひそめたルトヴィアスの頭上では、猫が滑り落ちかけて慌てている。
きっとルトヴィアスは露ほども思わないだろう。自身の言葉がどれほどアデラインの心を明るくしたのかなど。
笑いながら、アデラインは言った。
「お礼を言っていませんでした。先程は助けて下さってありがとうございます。私へのお気遣いも、本当にありがとうございました」
「ああ?」
何のことだと、不機嫌そうに顔を歪めたルトヴィアスの頭上の猫は完全に滑りおちている。扉は開いたままだが、宰相達は廊下で控えたままなので、ルトヴィアスの態度の変化には気がつかないだろう。
荒々しいルトヴィアスを、何故かアデラインはあまり怖いとは感じなかった。
先程の廊下で見た無表情な瞳のルトヴィアスよりずっといいと思えたのだ。
単純に慣れてしまったのかもしれない。
「これを、食べてくださいました」
空っぽの籠を、アデラインは少しだけ持ち上げる。
「…べつに」
ふいっと横を向く彼が、実は照れているようだと気付いて、アデラインは可笑しくなってしまった。まるで子供のようだ。
クスクスと笑いが止まらない。
「フフ、あの、もしお腹が痛くなったら、フフフ、言って下さいね。お薬を用意しておきますから…フフ、ダメだわ止まらない」
笑い続けるアデラインを、ルトヴィアスが不思議そうにじっと見つめた。
そんな彼の表情を初めて見たアデラインは、ピタリと笑いを引っ込める。不敬に過ぎたかもしれない。
「す…すいま、せん。あの…」
「…薬、用意しとけよ」
ルトヴィアスはそれだけ言うと、猫をかぶり直して部屋から出ていった。
――…悪い人ではないのかもしれない。
少なくとも、ミレーが言ったように性根が曲がっているわけではなさそうだ。
――…また、笑ってくれるかしら…。
彼の本当の笑顔を見てみたい。それはきっと、猫をかぶった時の聖人のような微笑みよりも、ずっと美しいだろう。
 




