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第一話 幼い婚約者     

ルードサクシード王国宰相ファニアス・マルセリオの一人娘アデラインが王宮に足を踏み入れるのは、この日が初めてだった。

――…わぁ、すごい…。

2ヶ月前に8才になったアデラインにとって、王宮の豪華な柱も高い天井も、そして天井に描かれた聖人達の絵も、すべてが珍しく、美しい。

「アデライン。離れるんじゃない」

「は、はい。お父様」

天井画に気をとられて、いつの間にか歩みが止まってしまっていたようだ。アデラインは慌てて父親に駆け寄った。すると、宰相は眉をひそめる。

「音をたてて走るものではない」

「…ごめんなさい…」

娘が謝ると、宰相は身を翻し、また磨きぬかれた廊下を歩き始めた。アデラインもそれに続く。

頭上にのるドレスと共布で仕立てた花帽(かぼう)を落とさないように、アデラインは背筋をまっすぐに伸ばし、上体を動かさないように、勿論靴音にも気をつかって歩いた。

子供には難しいこの所作をアデラインが大した苦もなくこなせるのは、それこそ言葉を覚え始めた頃から徹底して母親から仕込まれたおかげだろう。

「こちらでお待ち下さい。すぐに王子殿下がお越しになります」

案内してくれた女官がうやうやしく礼をとり下がっていくと、アデラインはキョロキョロと部屋を見回した。

――…鏡だらけ…。

映りが良い鏡は宝石と同じ価値がある。その鏡が部屋一面に貼られた様は圧巻だ。

婚約者であるルトヴィアス王子と結婚し、王宮で暮らすようになれば自分もこんな部屋で寝るようになるのだろうかと、アデラインは心配した。

――…ちょっと嫌だなあ…。

眩しくて眠るのに苦労しそうだ。

「大人しくしていなさいアデライン」

「はい。お父様」

アデラインは素直に頷いた。その小さな足を飾る若葉色の靴は、水晶のビーズが刺繍され、アデラインが歩くたびキラキラ輝く。アデラインの8歳の誕生日に、王太子の第一王子にして国王の嫡孫・ルトヴィアス王子から婚約の品として贈られたものだ。

男性が求婚の際に女性に靴を贈るのは、ルードサクシードに限らず大陸全土での習慣で、元々は女神が初めて地上に降臨した時に、後に女神の夫となる農夫が、女神の足が汚れないように、その場に生えていた白詰草を編んで靴にしたのが始まりだという。

婚約はもともと内定していたことではあったのだが、当のアデラインは靴を贈られたその日に初めて、自分が将来王妃になるのだと教えられた。

しかしやはりまだ8歳。

事の重大さを理解出来るはずもなく、幼い心はまだ見ぬ婚約者よりも目の前の美しい靴に夢中になった。

彼女にとってその靴は寝物語の中の魔法の靴だった。

きっとこの靴を履けば、自分にも魔法がかかるのだと、半ば本気で考えていたのだ。

ところでこの水晶のビーズがついた靴は、実を言うと少しばかりアデラインには大きかった。

しかし婚約の品として王子から賜ったものを、大きさが違うと返品できようはずもない。

靴は中敷きを増やすことでアデラインの小さな足に、無理矢理調整された。そんな事情があって、実はアデラインの踵はジワジワと痛みを訴えていたのだが、それでもアデラインにとっては大のお気に入りだ。婚約者に会ったら、まず最初に靴のお礼を言おうと決めている。

ルトヴィアス王子はアデラインより2歳年上の10歳。

会うのは今日が初めてだが、正式に婚約が整えば、王子と会う機会も度々あるだろう。

――…仲良くなったら何をして遊ぼう。

アデラインの心は弾んでいた。 人形遊びには付き合ってもらえるだろうか、王家だけが所有を許される天馬は見せてもらえるだろうかと、婚約者との対面をずっと楽しみにしてきたのだ。

その時、アデライン達が入ってきた扉と反対側の扉が開いた。

「ルトヴィアス王子殿下のおこしでございます」

女官の声に、父親の宰相がすぐさま膝を折り首を垂れた。アデラインも慌ててそれにならう。

コツコツと近づいてきた足音は、アデラインのすぐ前で止まった。

「顔をあげてください」

少女のような伸びやかな声に促されて、アデラインはそっと首を上げる。

そこに立っていた少年は、アデラインより頭一つ分背が高かった。そしてその金色の髪はまるで光を放つようだった。宝石のような碧の目に、祭壇で見る女神の彫像のような顔立ちは、目を見張るほどに美しい。

その美しさに射抜かれて、アデラインは息が止まるかと思った。 神がかった美しい瞳にじっと見つめられ、アデラインは指一本、瞼一つ思うように動かせず、棒のように立ちつくす。

「…君がアデライン?」

聞き慣れたはずの自分の名前が、春の詩のようにきこえた。

返事をしなければ、と口を開けたが、何故か声が出てこない。呼吸が浅くなり、爪先から全身に痺れが広がる。

「アデライン、殿下にご挨拶を申し上げなさい」

隣の父親が、たしなめるように促す。

けれどアデラインは、震える唇を噛み締めるので精一杯だ。ついさっきまで靴のお礼をと、用意していた言葉が、鉛になって喉に詰まっているかのようだった。

「アデライン!」

「叱らないで下さい」

父親の厳しい声を制したのはルトヴィアス王子の一言だった。

「まだ小さいんです。叱らないであげてください」

自分よりはるかに年上の宰相を見上げて、アデラインを庇ってくれた彼も十分幼かったのだが、その言動には既に王族の威厳が感じられる。

この大人びた少年が自分といつか結婚するのだと、アデラインは初めてそれを意識した。

実はそれまで婚約者と遊び相手の違いも明確ではなかった彼女の中で、その差別化は大きな革命だった。

「お祖父様がお待ちだ。行こう」

差し出される白い綺麗な手は、爪の先まで美しくて、まるで美術品のようだ。

今日はルトヴィアス王子と共に国王陛下に挨拶し、婚約の報告をすることになっている。 その後、アデラインとルトヴィアスの婚約は国内外に大々的に発表されるのだ。

自らの小さく丸っこい手を恥じながら、アデラインはその手をおずおずと、美しい手に添える。すると、象牙を思わせる美しい手は、意外にも子供特有の温かさでアデラインの手を握り返してくれた。その温かさに、アデラインはようやく少しだけ安心することが出来た。

そろりと目をあげる。

緑色の綺麗な瞳は、アデラインではなく進行方向に向けられていたので、心置きなくアデラインは彼を盗み見た。

ルトヴィアスの明るい金髪が、さらさらと揺れるのに、アデラインはうっとりと見とれた。

――…すごい…。

綺麗な顔に、金の髪。おまけに優しくて勇敢だなんて、神話に出てくる聖人そのものだ。

――…なんて綺麗な男の子なんだろう…。

アデラインはあっという間にルトヴィアス王子に夢中になった。

大きくなったら自分は美しいお姫様になり、彼と結婚して、いつまでもいつまでも、幸せに暮らすのだ。

そんな夢物語を、アデラインは信じて疑わなかった。








ルードサクシード王国の王孫・ルトヴィアス王子の婚約式は、聖ティランアジール皇国をはじめとする各国の王族、大使を招き、王侯貴族の列する中、盛大にとりおこなわれた。異例なほどに盛大な婚約式は、アルバカーキ王の孫王子に対する並々ならぬ期待をあらわしている。

それも仕方ない、と人々は囁きあった。

その日、ルトヴィアス王子の父・リヒャイルド王太子は、体調が悪く婚約式に欠席していた。リヒャイルド王太子は生来体が弱く、アルバカーキ王と折り合いが悪い。しかし、ルトヴィアス王子は体も強く、幼いながらも才気煥発、母妃譲りの美しい顔立ちから国民にも広く愛されており、アルバカーキ王が息子のリヒャイルド王太子より孫のルトヴィアス王子に期待を寄せるのも、仕方ないと言えば仕方がないことだったのだ。

10歳の王子と、王子に手をひかれ初めて国王に拝謁する8歳の婚約者を、来賓客は微笑ましく見守った。


しかしこのわずか10日後。

ルードサクシード王国と聖ティランアジール皇国の間で、戦争が勃発する。1年以上続いた戦いで、大陸の二大強国として皇国と肩を並べたルードサクシードは、広大な国土を焼失し、その誇りと国威は地に落ちてしまった。




「婚約解消!?」

母親の悲鳴のようなその声に、アデラインはビクリと肩を揺らした。

ルトヴィアス王子との婚約から7年。15歳になったアデラインは、残念ながら麗しの美女には成長しなかった。

黒い瞳も口も小さめで、鼻も高くはなく、お世辞にも美人とは言えない。しかし花帽から覗く豊かな栗色の髪は、たっぷりと艶めいてその背を彩り人目をひく。

国の内外から広く将来の王妃と認知されており、正式な婚姻前ではあるが、王族に次いで身分高い女性として扱われていた。

今日も、本来であれば王室の女性が訪れるべき王都の孤児院を慰問したばかりだ。

子供達の元気な歌声に、胸を温めていたアデラインのもとに、突然父親の宰相からすぐに自邸に戻るようにとの使いがきた。

何事かと帰ってみれば、まだ外套も脱がぬうちに先程の母親の悲鳴である。婚約解消、と。

「どういう…ことです?」

震える声で尋ねれば、母親が弾けたように振り返った。

「アデライン!」

宰相夫人は愛娘に走り寄り、ぶつかるようにその身を抱き寄せた。

その拍子に、夫人の頭から花帽が転がり落ちる。

華やかな刺繍が施された婦人の帽子は花帽と呼ばれ、これを落とさないような優雅でゆっくりした所作が、貴婦人のたしなみとされている。

かつて太皇太后に仕え、宮廷の花形女官だった母親は、いついかなる時も、このたしなみを忘れることはなかった。

常に背筋を伸ばし、凛と前を向く美しい母はアデラインの憧れだった。けれど今、その母の頭上から花帽が転がり落ちた。そのことを、母も、厳格な父もかまおうとしない。

事態はそれだけ深刻なのだ。

「お母様…」

「決まったわけではない」

宰相は堅い表情で、しかしキッパリと言い切った。

「婚約解消になどならん。そなたは何も心配しなくてよろしい」

「私…何か不調法をしましたでしょうか?」

アデラインは膨れ上がる不安を抑えこむように、胸元を押さえた。婚約以来、ルトヴィアス王子に相応しくあろうと努力をしてきたアデラインである。しかし元々人見知りな気質があり、おしゃべりは苦手だ。度々ある晩餐会や舞踏会で、何か失態をしてしまったのではないか。

「そうではない。そなたに落ち度はない」

「では何故そんな話が持ち上がるのです!」

娘の代わりに叫んだのは宰相夫人だった。宰相は眉をひそめ、視線を床に落とす。まるで一人娘の今にも泣き出しそうな顔から逃げるように。

「…殿下の、ご希望だ」

「…ルトヴィアス殿下の?」

アデラインは愕然とした。婚約披露の日、天使のような清らかな微笑みを見せてくれた少年とは、以来一度も会っていない。直後に起きた聖ティランアジール皇国との戦争と、敗戦。ルトヴィアス王子は留学という名目で、事実上の人質として皇国へ旅立っていた。

「…殿下が、私との婚約解消をお望みなのですか?」

手の震えを、アデラインはもう抑えることが出来なかった。不安が涙に形をかえて、今にも目頭からこぼれ落ちそうだ。

「…皇国で、ある婦人を見初めたそうだ。その婦人との婚姻を強くお望みであられる」

「何てこと…っ!」

アデラインよりも先に、母親が泣き崩れた。

「噂は…殿下が特定の婦人と親しくしている噂は前から耳にはしていた。しかし先日、殿下が皇帝陛下に婚姻のお許しを頂きたいと、直接お願いされたそうだ」

「…それで…話が公になったんですね」

母親に引きずられるように、アデラインも床に手をついた。

「そうだ。皇国の皇帝陛下は婚姻には反対されている。しかし議会の面々は婚姻を認めることを前向きに考えているらしい。」

皇国側にしてみれば、自国の娘をルードサクシード王国の王妃に据えることが出来る絶好の機会だ。しかし皇帝が婚姻に反意を示しているということは、どこの国もそうであるように、皇国内部にも権力者達の駆け引きがあるのだろう。

「きけば相手は身分低い婦人だという。我がルードサクシード王国の王家にそのような者を、しかも皇国の人間をいれるなど言語道断!」

娘から目を逸らしていた宰相は、突然声を荒げると、妻を押しのけるようにしてアデラインの両肩を強く掴んだ。

「アデラインよく聞きなさい!ルードサクシードの王妃になるのはそなただ!亡くなられたアルバカーキ先王陛下がお決めになられたのだ。そなた以上に王妃に相応しい娘はおらん!」

「お父様…」

普段冷静な父親のあまりに感情的な口振りに、アデラインは事の重大さを改めて認識した。

「例えルトヴィアス殿下の強いご希望でも、この婚約は決して覆らん。

王妃は国の母だ。ただ国王に愛されればなれるものではない!血筋・家系・相応しい教養にふるまい、それらが揃ってこそ王妃になれるのだ!」

王妃は国の母。ただ国王に愛されればなれるものではない。逆を言えば、国王に愛されなくても王妃にはなれるのだ。

迂闊にもアデラインは、それまで気付いていなかった。アデラインが望むように、ルトヴィアス王子も同じくアデラインとの結婚を望んでくれているわけではないのだと。アデラインがルトヴィアス王子を慕って胸を熱くするように、ルトヴィアス王子がアデラインを想ってくれているわけではないことを。

これは政略結婚なのだ。

ルトヴィアス王子がアデラインを選んだわけではない。血筋・家系・国内の政治均衡を考えた上で『将来の王妃』としてアデラインが指名されただけの話だ。

わかっていたはずだった。けれどアデラインは本当には分かっていなかった。

手は、もう震えていない。

目頭も、もう乾いている。

ただ力がはいらない。

肩を掴む父親の手の強さに反して、アデラインは腕をダラリと放置していた。

婚約破棄を望むルトヴィアス王子に、裏切られた気分で傷ついたのは勘違いだ。裏切るも何も、そもそも王子の心はアデラインのものではない。

「王妃になるのはそなただアデライン!」

それはまるで死刑執行の宣言のように聞こえた。

遠い遠いあの日。アデラインの手を包んでくれた美しい手の温もり。

その温かさを、アデラインはもう思い出せない。




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