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 ――ここは、東尋坊だろうか。自殺の名所で有名な所に、なぜ俺は独りで立っているのだろう。そうか、ここは俺が最近はまっているゲームアプリの聖地だったんだ。俺は自殺しにここにやってきたんじゃない。レアキャラを探しにはるばるこんな所まで来たのさ。でも、どうしてだろう。今にも崖下の真っ黒な海に引き込まれてしまいそうだ。俺の右足が岩をなぞっているぞ。だめだ、危ないよ。滑落死なんて、俺は嫌だよ……。


 * * *


 渋谷と言えば。JRハチ公改札口から排出される雑多な利用客、京王井の頭線から降りてくるセレブ気取り、どこから現れたか東急線と地下鉄線の地下出入口からわらわらと湧き出る若者、バスやタクシーを使う奴もいる。宮益坂を登れば青山に行ける。道玄坂を登ればホテルがある。センター街はガラの悪い連中しかいないから行きたくない。ざっと見たところ渋谷のスクランブル交差点というのは、こういう塩梅で四方八方からヒト・ヒト・ヒトが集まるのだろう。しかし、店も開いていない平日の早朝ともなると人口密度は然程高くはない。中には朝帰りであろう世間知らずの若者が我が物顔で歩いているが、時間に追われ悲壮な顔つきで先を急ぐサラリーマンの気迫と、ホワイト企業で責任のある仕事を任されていて自分の可能性に不安がない若いサラリーマンの満ち足りた自信に負けている。

 俺がそんな早朝に渋谷を闊歩しているのにはもちろん訳がある。とりあえずファイヤー通りをくねくねしながら代々木公園に向かうのが日課のようなものだ。最近は人気の位置情報サービス型のゲームアプリがアップデートされたので、早速わくわくの新機能を試しながら歩いている。時間は守らなくていい。そもそも守るべき時間などない。常にスマホを見ながら俯いてノロノロと歩いていると、もちろん時間という名の鎖に縛られた社畜どもが舌打ちしながら俺の肩にぶつかってくる訳だが、そんな事はどうでもよい。俺は今まさに、レア中のレアキャラに遭遇したところなのだから!

 お目当てのキャラクターを獲得して何度も画面をなぞりながら、一応前方にも注意を払う。グッと頭を上げたところで目に入ったのが、どこにでもあるコンビニの看板だった。小腹が空いたので、何か軽く口にできる物を買っていく事にしようと、特に疲れているわけでもないのだが気怠そうに入店した。幸い通勤客で混んでいる様子もなく、俺は一日分のビタミンが摂れるという高めの清涼飲料水とコンビニのチキンを買った。まだ朝だというのに五百円も使ってしまった。それにしても、さすが早朝勤務の店員は手際が良い。仕事をしている。そう、今の時間は社会人は仕事をしているのだ。

 朝のうちから電池が激減するのも嫌なので、歩きスマホはここらでやめておくことにした。おしゃれなセレクトショップ街を抜ける。いわゆるイケメンな店員が開店準備をしている。その様子を歩きながらじっと眺めていると、まるで不審者でも発見したかのような奇異の目でこちらを見返してくる。俺はすっと目を逸らして、店の隣にあった自販機を見つめる。自販機に用があるわけではない。

 代々木公園近くのガードレールに寄りかかると、さっきのコンビニの袋をごそごそと漁った。まずは元気が出そうな飲み物から。普通のジュースのようだが、きっとこれで今日一日分の栄養は摂れるのだろう。半分ほど飲み終えたところでチキンにかぶりつく。齧ったところからびゅっと肉汁がこぼれ、俺は急いで一緒に入っていた小さなお手拭きを取り出した。まれに俺の近くすれすれを通り過ぎるサラリーマンがいるので、もう少し人通りの少ない場所に移動した。遠くに新宿副都心の高層ビルが立ち並んでいる様子がよく見える。きっと向こうでも大勢の労働者や学生が右往左往しているのだろう。

 俺はとある建物の中に入って不愛想な係員に書類を提出した。俺はまたスマホを手に取ると、建物に入る直前に自販機で買ったカフェオレを飲みながら椅子に座った。


 数十分経ったところだろうか。若い女性の声が聞こえる。

「砂賀さまぁ、砂賀朋弥さまぁ」


 俺の名前が呼ばれた。俺は今、ハローワークのパイプ椅子に座っている。今日は失業手当の給付認定日だった。ただそれだけだ。指定されていた時間が早朝だったので、たまたまビジネスマンが占めている渋谷にいただけだ。普段はこんな時間にここまで足を運ぶことはない。基本的に汚い飲食店や敷居の高いセレクトショップの集まりみたいな街に、俺みたいな人間が用などあるはずもない。日課など存在しない。今日の俺のタスクは、ハローワークに失業手当をもらいに行くことだ。平日の早朝に顔を出して小一時間もすれば今日の用事は終了だ。俺には下を向いてスマホを弄るくらいしか能がない。どんなに行き交う人々を心の中で、まるで森羅万象を司る何者かにでもなったかのように俯瞰的に評価して、他人の欠点や弱点を粗探しすることで自尊心を守ろうとしたところで、この瞬間に現実が全てを打ち壊していく。俺は弱くてどうしようもない人間だ。せっかくの虚勢もあっという間にどこ吹く風だ。

「――それでは、失礼いたします」

 若い女性職員は一礼するとすぐに奥に引っ込んでしまった。サービス向上の為に、とのことでアンケートを依頼されたので、下の階の机でさっと書いてしまおう。それにしてもどうして渋谷の中心地だというのにこうも覇気のない連中ばかりなんだ。まるで死の行進だ。いや、傍から見れば俺だって同じようなものなんだ。職も金も、誰かに語れるような趣味も特技もない。気が付けばおしゃれな美容院なんて高校生の頃に親に頼み込んで小遣いをもらって行ったきり。結局ぱっとせずに、今では激安の床屋にしか行けない。それでも面倒で放置していたら、だいぶボサボサになってしまった。おもむろにトイレで鏡を見つめる。このパッとしない冴えない男は誰なんだ。かろうじてまとまった髪、輝きのない目、だらしない口元。いつからこんなにしまりのない顔になってしまったのだろう。

 情けなくなって力なく扉を開けてトイレを出た。近くにあった机にアンケート用紙を広げると、手元にあったボールペンで書き殴るように記入した。

「満足していますか?」

「役に立っていますか?」

「他にお困りなことはありますか?」

 満足なんてするわけない。俺は何の役にも立たない。困っていることは山程あるが、具体的に何に困っているのかがわからない。急に目頭が熱くなってボールペンを強く握った。ふっと力を抜いた途端、するりとペン先は滑ってアンケート用紙からはみ出してしまった。

 もう提出するのは諦めよう。今日はついでに用もない渋谷をフラフラしてみようと思っていたが、もう逃げ帰りたいような気分だ。紙をぐしゃぐしゃと丸めようとすると、めくった指先に違和感がある。どうやら下にまた何か違う用紙があるようだ。さっきまで机の上にこんなものはなかったはずだが、そっとめくると誰かの履歴書だった。俺は知らない間にそれを下敷きにしてしまっていたようで、綺麗な字で書かれた履歴書は無残にも俺の筆圧でデコボコになり、筆先がはみ出した時につけてしまったのか、志望動機の部分に強い斜線が引かれていた。

「何でこんなところに履歴書が……」

 おおかた誰かがいつでも使えるように前もって用意しておいたのか、これから面接なのか、はたまた添削用に書いたのか。用途はわからないが、俺は結構とんでもないことをしてしまったような気がして頭から血の気が引いてしまった。

「それ……」

 声のする方に俺は慌てて振り返ると、まだ学生のようないで立ちの女性が立っていた。履歴書に貼られている写真を確認すると、どうやらこの女性のものだったらしい。俺はしばらく言葉が出なかった。

 怒られるのか、気持ち悪がられるのか、職員に通報されるのか。俺はこんなところで犯罪者になってしまうのか。頭が混乱して、正常な判断ができなくなっていた。そもそも他人の履歴書をダメにしてしまうなんて経験は三十年近く生きてきてしたことなどない。

「あ……」

 言葉を発せないまま、俺はその女性をジロジロと見ることしかできなかった。女性の第二声は案外速かった。

「ごめんなさい! それ、私の履歴書です。添削してもらおうと思って持ってきたんですが、そこに置き忘れてしまっていたみたいで」

 ――ごめんなさい。まさか謝られるとは思っていなかったので、小心者の俺は胸を撫で下ろした。


つづく……予定です。

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