第八話 しがみつく
街に向けられたバルバロッサの視線は、いつのまにか、無意識に門の向こう側に向くようになっていた。気づけば門を見ていて、再び街を見ると、いうことがままあった。
いまもまた、門の向こう側を見ていて、首を振って街に視線を移した、彼女の身体は、ランプの蜜色の灯りに濡れていた。
すると彼女は瞼を垂らし、浅いため息をついた。
頭の中も、胸の中も輝く過去の情景が占めてしまっていて、もう、どうしようもなくなってくる。
アイナも、こんな風になってしまっていたのだろうか。
そんなことを感じながら、後ろ髪をひかれる思いで静かにまた、皆との思い出をひろげさせた。笑顔になれるようなものも見つかったが、それはもれなく全身を痛めつけた。
ただ、もうこれでいい。そう思えるように、次第に心が変化していった。
これは良いと、そう思えたバルバロッサは今一度、凄まじい後悔の重さを感じた。
自分はこの国を残し、去ってしまうのかと。姫という立場から降りて、数千年も続いてきたこの国の行く末を、国民たちに投げ捨ててしまうのか。
もうなにをすればいいかもわからない中で、彼女は目をあけた。
すると、門の先になにかがうごめいているのが確認できて、彼女の顔は一瞬驚き、眉が跳ねた。
それがなんなのか、バルバロッサが理解できないなんてありえなかった。
*
「到着いたしました陛下。ご指示を」
ウルウは膝をつき、モグラにまたがる男にそう言った。
男はそちらを見ず、そびえ立つ城を眺めていた。
「まだ、いまはまだよい。ここで待つ。待てば、あいつは自ずと顔を出すだろう」
ウルウはおだやかに、「かしこまりました」と口にして立ち上がり、モグラの横についた。
モグラの鼻がピクピクと小さく跳ねた。
男は微笑み、眉をよせた。
バルバロッサ。美麗で、強健で、しかして脆弱な一国の姫。誰に頼るでもなく、いや、頼る者もいぬ地に一人立ち続ける女よ。ワシは歓迎するぞ。その弱点ばかりの肉体をワシの国に閉じ込めてやろう。
男は白く伸びるヒゲの束を二度さすった。依然として瞳は城を貫いて、離さない。
やっとここまできた……到達したのだ。自分の悲願はここに達成される。必ずや手にしてみせようぞ、必ずやものにしてみせようぞ。
男は笑みを強めた。
ああ、この瞬間のために、ワシは生きている。弱ってきたところを見計らい、国の存亡を脅し、無理やりにサインをさせた甲斐があったというものだ。
男を囲む二千の兵士も皆、アリフトシジルを見つめていた。
*
「いやおかしいわ。これだけ探しても見つからないなんておかしいわ」
海斗は未ださまよい、若干諦めムードに突入していた。
「なんで見つからねェの? なんでみんな話を聞いてくれねェの? おかしいじゃん、困ってるヤツには手を貸してやるってのが心あるヤツの行動じゃねェの?」
小さく悪態をつきながら、天井が届かぬくらい高い廊下を歩く。窓はついていないため、ここは城の中心寄りに位置しているのだとわかる。
なら重要な部屋とかがあるもんなんじゃないのか? という海斗の考えに反してなにも見つけられず、心が荒れに荒れて珍道中。
本当に、本当に最悪の人生の終わり方しか、末路の選択がないのだろうか。それはあまりにも嫌すぎる。でも姫の場所もわからない、しかも彼女らは時間がないとも言ってた。その時間が来てしまえば、姫に会う機会もなくなる、そんな言い方をしていたし。
やはり海斗はまったくこの状況を理解できてはいなかった。姫と会えなくなる祭りとは、いったい、どういうものなのだろうか。
そしてそのためか悲しげな顔をする臣下たち。それでも苦しげに準備をするのは何故なのか。そんな祭り、海斗には経験もないし、知識もない。
海斗は腕を組み、難しい顔をして、視線を廊下に落としていた。頭の中ではこれまで見聞きした情報が整理され始めていた。
姫との会話でこの国の民は、わけあって皆、女なのだと聞いた。会うたび会うたび、顔立ち整った美女ばかり。そんな、男にとってはある意味、桃源郷のようなところで生きるのも乙か、とは一瞬考えたが、場所が場所だ。人間に、魔界で生活しろだなんて無理難題の極みである。
さっきから情報整理の横で、海斗の思考はそうやってループし、難しい顔をして、額をおさえて首を横に振った。
すると、また複数の足音が小さく耳に入ってきて、思わず前を向いた。
しかも、今度は数人単位ではない。数十人、いや、百にのぼるかもしれない足音が、こちらに近づいてきているのがわかった。
海斗はこれに何かを察して、近くにあった、鹿のような、ツノを広げた動物の首の像を飾る台のもとへ、足音から陰になるようにしてしゃがみ隠れた。
台が思ったよりも大きく、彼はすっぽりと隠れることに成功した。
すればすぐに、音の主たちは、案の定海斗が進もうとした方から現れた。
少しばかり覗いてみたところ、なにやら全員、腰に剣やら背に杖や大剣を身につけているではないか。
海斗は少し驚いて、一瞥したらすぐに顔を引っ込ませて硬直した。
音はどんどんと距離を詰めてきた。もう少しで、いやもう目の前にまで来た、と感じた直後、列の先頭が見えた。
海斗は、目を大きくあけた。
その先頭を歩くのは、食堂でバルバロッサの背後に陣取り、こちらを睨んでいた、アイナであったからだ。彼女の横顔が通り過ぎる刹那のあいだ、彼は彼女の瞳を見た。それはあまりにも感情をやどしていない、ガラスで作られたように、非生物的であると感じた。
全てが通り過ぎて、彼女らの背後を眺めながら、三角座りをしたまま、海斗はこれまで目にしてきたことを、訝しんだ。
食堂で会った時もそこまで生き生きとした瞳ではなかったが、今見たのはその比じゃななかった。それに、急に飛んできたコバエを素手で捕まえることができるほどの実力を持っているのに、こんな安直な隠れ方をしている自分を見つけられないのも妙に思った。
後に続いていた者たちも皆、無感情を貫いていた。
海斗は微動だにせず、カーペットを見つめていた。
祭りというのは、あんな冷徹に、無に、おこなうもんなんだろうか。
わからない。ひたすらにわからない。どうしてあれほど切羽詰まっているのだろうか。
海斗は立ち上がり、進み始めた。
会わなければ。なんとしても、バルバロッサと会わなければならない気がした。
だが、海斗は、いま、ぽっと浮かんできた感情に、少し首をかしげた。
自分ではあるが自分ではない者が望んでいるように、急に強く、いままでよりも強く、会いたいと望み始めたからだ。
そして、祭りの正体を、いままで手にしてきた彼女らの言動から考察した。
時間通りに必ず行われること、姫が主役なこと、それがおこなわれると、姫とは会えないかもしれないということ。それを悲しむ国民たち。そして、印象から考えたこの世界の背景。あらゆることから考察しまくった。
すると、ある一つの答えが浮かんだ。
海斗の前を通り過ぎた隊列の中の一人が、できるだけ無表情につとめ、アイナに話しかけた。
「姫に、最後のあいさつを済ませなくてよかったのですか」
その女の、一本の赤色のおさげが、揺れた。
アイナはそちらに向かず、言葉を紡いだ。
「姫にとって、一番楽な別れを選んだだけだ」
女は、小さくムッとした。
「楽な、とは」
「わからんか。姫にとって、一番大切なのはこの国ではない」
女は眉をひそめたが、アイナはそれを知ることなく、続けた。
「まぎれもない私たちだ。
そんな私たちが無闇矢鱈に話しかけていたら、心がここにとどまり、折角作り上げた決意がにぶってしまうだろう」
女は、続くカーペットに視線を落とした。
「......なるほど」
女は、しぶしぶ納得して、それ以降口をひらくことはなかった。
今日一日、国民をバルバロッサに近づかせなかったアイナに一抹の不満を抱いていたが、その思惑を知って、何も言えなくなってしまった。
そんなアイナにチラと視線をやると、無表情に塗られた「悲」の感情が一瞬だけ見えた。
*
ラーファは、エレイナに半ば無理やりなだめられ、自室の前まで連れてこられていた。
結局、少女の顔には、アイスを食べても太陽が昇ることはなかった。未だ曇り空が、我がもの顔で生きていた。
その暗さはエレイナにも痛いほど伝わって、道中なに一つ声をかけてやれずここまで来てしまっていた。
エレイナは後悔で、目を細めた。
子供にだけは決して心配させてはいけない。そう思っていたのに、自分はなんて不甲斐ないのだろうか。これまで、この子と長く一緒にいて、性格もわかっているのに。
普段元気に、ポジティブに、活発に動き回るラーファが、無表情でいることがこの上なくつらかった。一緒に笑いあえず、会話を交わせないことが苦痛でしかなかった。
だが後悔が栓となって、その感情も言葉にすることができないでいた。そしてそのまま、部屋の前にまで着いてしまった。
「さ、ラーファ。入って、ここで待ってなさい」
やっと言えた言葉がこれだ。
だがラーファの足は棒となって、扉を前にして頭を垂らしたままであった。
やはり、まだ彼女の未熟な心では、この悲しみを受け止めきれないのか。
エレイナは少女の頭を撫でようとした。
「待ってたら姫は一緒に遊んでくれるの?」
その手は止まった。ラーファはそのまま続ける。
「姫は」
「なにを言っても変わらないの」
だが、何かを続けて言おうとしたが、エレイナはもうなにも言わせてはならない、思いをここにとどまらせてはならないと思い、言葉の壁で遮った。
少しの間流れる静寂が、ラーファにとってはどんな凶器にも勝るものであると、エレイナは理解していた。しかし、こうせざるを得ないこともわかっていた。
するとラーファは、頭を少し上げて、自分とほぼ同じ背丈にあるドアノブをつかんだ。
「わかってるの。もうどうせなにを言っても姫は、きっと街を見る方が大事っていうもん」
そして肩を落としたまま、自室へとはいっていった。
エレイナの表情は、硬く、止まっていた。
ラーファの方が、自分よりもずっと大人びているではないか。
遊んでほしい、姫と遊びたいという望みは子供そのものであったが、その言葉はどうだ、一途に姫を思っているからこそ言えたものではないのか。
むしろ姫しか見ていない。きっと、あの無表情のあいだの思考力はすべて、姫に注がれていたに違いない。
どうにかして姫を救えないか、ラーファはひたすらに、自分たち大人よりも強く望んでいたのだ。今の言葉を聞いたら、そうとしか思えなかった。
私はなにをしていたのだろうか。姫のためになにかをやろうとしたのだろうか。運命を変えようと、したのだろうか。ラーファから学ぶところは、多々あったのではなかろうか。
しかしもう今となっては、何もかもが遅い。定まり駆けた運命の前で、なにができるというのだろうか。
エレイナは、しばらく動けずに、扉の先にいるラーファを思い続けた。
*
「ほほう……ほう。これほどまでに、我らの結びを祝福してくれる者たちがいたか」
アイナたちは、門上、門前に、ただ黙って位置づいた。
それを見た男は、ただ微笑んだ。
門前の中心に、アイナはいた。彼女らにとって、なんとしても打ち滅ぼしたい相手が、目の前に広がっていた。
兵士の中には、ニタニタと笑うものも散見でき、いまにも殺したい衝動が吹き出してきそうだった。
しかしながら、彼女らは得物をとることはなかった。ただ睥睨を続け、かかしのようにつっ立っているだけであった。
その姿を、男は危険因子とは思わず、ひたすらに嬉々として笑んでいた。
そんな男に、アイナは言葉を紡いだ。
「ただいま姫は、準備をしております。もう少々お待ちを」
男は二度頷きながら言った。
「わかっておる。あやつのことだ、妥協はせんだろう。あぁ……とびぬけて美しく飾って現れるんだろうなぁ!」
アイナは無表情を貫いた。無感情、無動作を徹底し、ただ機械のようにふるまった。
もうすでに、騎士であることを捨てていたのだ。
ここからは騎士ではなく、守護するものではなく、姫の結婚をできるかぎり成功に導きたいと思う、一種の観客としてここにいることを選択した。
周りも、その意思を理解し、同じ観客として立っていた。
*
「もう、いかなくては」
向こうからやってきていた者は、門の前についた。
それは、時間がやってきたということだ。やってきてほしくはない時間がやってきてしまった、そういうことだ。
ただ、自分はそう思ってはならないと、バルバロッサは理解していた。
なんせこれからのことは、自分にしかできないのだから。いやもはや他人に任せてはならない領域にある。姫である自分が、それをまっとうしなければならないのだ。
しかし、身体が立ってくれなかった。心は、もうあの軍団の元で立っているはずなのだが、どうにも足が心とリンクしない。何故なのか、わからない。
再び、街に視線をおろしてみる。すると、少しだけ、ほんの少しだけ気持ちがやわらいだ。
思えば、これまで色々なことがあった。
家臣たちと食事して、間食もよくとった。散歩していたらいつも話しかけてくれる者がいて、買い物に付き合ってくれたりもした。仕事したり、たまにサボって叱られたり、たまに自分は姫なのか? と思ってしまう時もあったが、それもいまとなってはいい思い出で、この「姫と友人のあいだくらいの関係」が好きだった。
バルバロッサは、視界を閉ざした。
もう本当に、向かわなくてはならない。いつまでも悩み苦しんではいられない。思い出に浸っていられるのは、もうここまで。今から、それを捨て、あの軍団の長と結婚しなくてはならないのだから。これまでの思い出より、これから作られるであろう思い出に目を向けなくては、良き妻にはなれないのだから。
バルバロッサは決意し、街を眺めながら、窓台に手を置き、のそりと立ち上がった。しかしやはり身体は重く、両腕で支えなければ崩れ落ちてしまいそうになって、必死に力を込めた。腰をくの字にさせたまま、溜め息をついた。
覚悟したはずなんだけどな。
あのドレスを着なければ。この後に控えるは結婚式。こんな質素なワンピースでは向かえない。
そうして何度も何度も心に訴えかけた。
すれば、この鬱蒼とした色も、少しは晴れ渡ってくれると思ったから。
ようやく受け止めてくれたのか、小さくなっていた覚悟は次第に元に戻って、それよりも大きくなっていった。
そして再び覚悟が心を満たし尽くそうとした時、彼女はもう一度視界を閉じたら、扉の開いた音がした。
「あ、やっとかよ」
続いて、男の声がして、驚いた。
振り向き見れば、そこには、食堂で会話した海斗が、心底しんどそうに眉を落とし立っていた。
「やっとあんたの部屋を見つけたわ。まったくよォ、どうなってんだここのヤツら。あんたの部屋はどこですか? って言う前にどっかに走って行っちまいやがる。教育してないの? 困ってるヤツは助けようってよ」
バルバロッサの開いた口は、言葉を紡げなかった。表情を変えることも忘れ、ただ海斗を見つめていた。
なんでここにきたのだろうか。やっと、とはどういうことなのだろうかと、一斉に尋ねたいことがたくさん生まれてきて、うまく声が出なかった。
海斗は、頭を雑に掻いた。
「あん? なんで反応しねェの? さっきはあんなに楽しそうに話してたじゃねェか」
ようやく少しだけ整理がついた頃になると、いままで固めてきた覚悟がもろく、崩れていくような気がして、バルバロッサは口をすぼめた。
「なにをしに来たんですか」
心中をエグるようにすくい取ってきそうな海斗の目に、バルバロッサは怯えて、再び街を見下ろした。
海斗はかまわず言葉を紡いだ。
「これから何があんのか、聞きにきたんだよ」
「聞いてなにをすると」
「そりゃあ聞いたあとの俺が決めるこった。だから、聞かせてくれよ」
バルバロッサは心底呆れた。
なんで、こんな時に聞きにきているのだか。
窓台の上で重ねられた手を、ぎゅっと握った。
「貴方とは関わりのないことです。国民以外のかたが聞いてもしょうがないことです」
「んだよ……さっきはめちゃくちゃ楽しそうに話してたクセに。 顔こっち向けてくれよ。なんでそんな苦しそうな声出してんだ」
海斗は食堂での雰囲気とはまったく違う彼女に違和感を覚えた。
やはりなにかある。これまでに抱いた疑問は、この城に存在する「真実」を的確にとらえていたと、確信した。
だがしかし、それをバルバロッサは言いたくないようだった。
絶対に吐かせる。
海斗の疑問追求の炎はますます燃え盛った。
「聞いても面白いことはありません」
「結婚かい」
この一言で、バルバロッサは黙り込んが、一瞬、肩が反応したのを、海斗は見逃さなかった。
「もしかして、当たったかよ」
「……」
「これまでエレイナさんたちから聞いたことや、見たことを繋げたんだ。で、結婚っつー答えにいき着いたわけだな」
バルバロッサは、窓台に視線を落とした。
「だっておかしいもんよ。祭りがあるってわりには誰も楽しそうにしてねェ。で、そのあとは姫に会えないかもだって? んな馬鹿げた祭り聞いたことねェや。
それにここは魔界だろう? 軍力? 国力? よくわかんねェが、そんなもんが重要視されてそうな感じがしてさ。
そんでここは女ばかり。立場的には弱い方に立っていると仮定したら、政略結婚みたいなもんに辿り着いた。あってる? 合格してる?」
バルバロッサはしばらく黙り込んでいたが、やがて、小さく頷いた。
「そうですよ。結婚します。私は、フェロス・アニマという国の王、ワイザという男と、結婚するんです」
バルバロッサは、窓の向こう指を向けるかわりに、窓に右手を置いた。
海斗も目を凝らしながら二、三歩前進し、窓の向こうを目を凝らし見た。すると、来た時には無かった黒い塊が、門前にあるのがぼんやりと見え、バルバロッサの背中を見た。
「嫌なんだな?」
「違い、ます」
海斗は口を、小さくへの字に曲げた。
無理をしている。
本当の気持ちが知りたいと、また言葉を紡いだ。
「じゃあなんで準備してねェ。結婚式くらいあんだろ? そんなワンピース一枚で行くつもりかよ」
「それは、あちらで着るんです。こちらでは用意していない、ので」
「嘘つけよ。さっきどっかでドレスを見たぞ」
ついには、初めから崩れかかっている嘘をバルバロッサは吐いた。
それを看破すると、また黙ってしまった。
海斗の視線は、バルバロッサの背中を貫いていた。
あっちで着るなんて、おかしな話だと思った。結婚式におあつらえむきなドレスを見たのだ。まさに白という色に命を吹き込んだように、この曇った空気の中にあってもかすまないものだった。それを着ずに、もしくは持って行かずに式に望む? それはまた大きな疑問だった。
「嫌なんだろ、結婚すんのが。吐き気がするくらいイヤってこった。そんじゃなきゃ、俺なんか突き飛ばしてあっちに向かうだろ?」
「そんな、わけ、ないです。私が、自らこの国を救えるならばと契約したこと。そんなわけ、ありません」
海斗はだいたいの状況が見えた気がした。
「国を救うねェ。なんだよ、結婚しなくちゃ国を襲う、なんて脅されたか」
バルバロッサは答えない。
「その契約、やぶっちまうことはできねェのかよ」
「できません。こちらの世界では、人間界よりも契約は重んじられるもの。特に、こんな国同士の契約をやぶってしまえば、他国から袋叩きにあいます。そうなれば、いくら戦いに自信がある者でも、この世界では生きられなくなる。
それは、それは絶対にあってはならない……!」
彼女は、結婚は別に嫌ではないと言っていた。硬く閉ざされた決意であった。
が、どうだ、次第にほぐされていっているではないか。
少しずつ、少しずつ、本心が漏れでぬよう固めた心から一滴ずつこぼれ始めていた。
海斗がそれを見逃すはずは無かった。
「契約を白紙にする権利。そんな、クーリングオフ的なもんはないのか」
「ありませんよ。悪魔と悪魔の契約はそれくらい強いものです。貴方も……そういった書物を読んだことがあるのならば、知っているはずです。人間と悪魔とは、まずほとんどの場合契約から入る。悪魔から力、知識や財を得る時も、それは変わりません。婚姻も、同じことです」
バルバロッサは、上半身が重くなるのを感じていた。
腕は震えを大きくし、肘はやおら曲がっていく。額からも汗がぽつぽつと滲んでいた。
海斗はいままでの言葉を反芻していた。悪魔同士の契約は強固、決して当事者ではやぶることができない。その言葉の意味の先にあるなにかを、懸命に探っていた。
すれば、ある考えに至った。一つ、ぽんと置かれてあったのだ。
それは次第に、物語のように変化した。
「じゃあよ、それ、人間がやぶらせるってのはどうだ」
「……は?」
バルバロッサはおもわず海斗をふりかえった。
ふざけていると思ったのだ。
見たら案の定小さく笑っていて、不快に思い、また、窓台に視線を落とした。
「そんなこと、できるはずが無いじゃないですか……」
「これまでに人間が、悪魔同士の契約をやぶったことは」
「ありません。でも、それがどうしたっていうのですか。例がなければ作ればいいとおっしゃいますか? あの魔王の前で、ただの人間が」
「ただの人間だからできるんじゃねェのかよ。当事者は、悪魔はやぶれねェんだろ? なら、『ただの人間』はどうよ?」
海斗はおどけるように、両腕をひろげた。
「だからできないって言っているじゃないですか! 種族、で言えばできるのかもしれません。横槍をいれて強制的にやぶれるのかもしれません。ですか、ですが力では無理でしょう!? それとも貴方に、あの軍団を黙らせるだけの力があると!?」
バルバロッサの肩の震えが、顕著に出始めた。
「でもそれ以外に、あんたをこの国の姫のままにする方法がねェ。誰かが無茶をしないと、あんたは一生悪夢の中で生活しなくちゃいけなくなる」
バルバロッサはまた口を閉ざした。海斗はかまわず続けた。
「もうやめな、そんなに自分の本心を閉ざすのはよ。自分のことくらいはっきり言いやがれ。最初に会ったとき、暗かったのは結婚するのがイヤだったからだろう?」
食事の後、見えた顔は明らかに曇天模様だった。にこやかさを絶えないようにはしていたが、それでも作り笑顔感をぬぐうことはできていなかった。
「こんな時間になってもドレスを着ていないってことは、着るのがイヤなくらい、結婚もイヤってこった」
彼女を探す途中、ある部屋に綺麗なドレスが中央に立っていた。それはそれは絵本の中で見るような、少女たちをときめかせる以上のドレスだったと、記憶している。
一瞬目を奪われた。もとの世界では、どれだけあれを気にいる女性がいることだろうか。
「で、ここで俺に反論するも、苦しそうなのは、これまた結婚がイヤだからだ。はずしてるか? 俺の予想は」
バルバロッサが発する言葉の一つ一つには、まったく自我が宿っていなかった。今の状況に満足しているのならば、そんなことは決してないはずだ。
答えは簡単だ、結婚がイヤだからだ。
ただ、バルバロッサは、未だにその姿勢をかえようとはしなかった。
「なにも、あなたは、なにもわかっていません。私が結婚するのは、私がそうしたいと望んだから……国を守りたいと思ったからこそ、結婚、するのです」
海斗は眉をひそめた。
「じゃああんたは国民のことをわかってねェ」
急に重くなった声色に、バルバロッサの震えがとまった。
「エレイナさんやらラーファちゃんやら、あんたの、あれ、アイナだっけ? そいつらの顔、まじまじと見たか」
視界の上側で小さな風がまどをかすめた。
「楽しそうな顔してたかよ。俺にはそうは見えなかったなァ。
普通結婚って言ったら、周りは少なからず嬉しそうに祝福するもんだ。でも、あんたの周りはそうじゃない。みんな、あんた以上に苦しそうな顔してたよ」
自分と接する時、彼女たちは平気そうな、日常と変わらないであろう顔をしようとしていた。だが、それはほんの一瞬だけ崩れる時があった。
それは、バルバロッサ以上に苦しそうだったと思う。
それを伝えなければ。彼女に、そう伝えなければという一心で、続けようとしたが。
「だからあんたは……」
「もういいんです!」
バルバロッサは声を荒げ、止めた。
今までの比ではない声量が部屋中を駆け巡り、秒針の音なんて、蟻の足音程度のものになった。
「私にとって、一番大事なことは国が無事かどうか……っ! みんなの行ってほしくないと思う願いを、私が叶えてしまえば、国は滅びてしまう……そんなの本末転倒! 絶対に、できません!」
バルバロッサは顔を両手で覆い、窓台に両肘をつく。
嗚咽が混ざった声が聞こえ始めた。彼女はついに、本音のすべてを固めた心から漏らしたのだ。
海斗は、表情を眉根をひそめた。
「でも俺ならできる。あんたを、無理やり花嫁の座から落とされた姫に、俺ならできるんだよ」
「人間の力でですか!?
ふざけるのは……もう見たくも聞きたくもありません……! もう、もうやめてください。せっかく、せっかく決意したのに……! そんな甘い言葉かけないでください……」
バルバロッサの瞳から涙が流れ始めた。
声も涙に濡れ始め、見えずとも海斗はこぼれ落ちていく涙が見えた気がした。
彼女はとんだ頑固者だった。自分もしたくない、周りもしてほしくないと願っていることを現実にしようとしているのだから。わがままの言い分ということは重々承知だが、そんな状況で無理やり実行しようとするのは、きっと違うのではなかろうか。
そんな、責任感あふるる頑固者の考えを変える方法を、海斗は知っていた。
頑固者だった、小さい頃、よく親や身の回りの大人たちが、してくれていたこと。
自分がはっきりわかっていることを、言葉にしてふっかけてやることだ。
「なんでそこまでして、一人で背負おうとするよ」
きっとバルバロッサだって見えてるはずだ、わかっているはずだ。自分が、みんなが進みたい方向など。
「俺ァな。これまでに、数えるほどだが、話した奴らの顔を見た。……全員、悲しい顔をしてた」
だからこそ、彼女の背中を押さなくちゃならない。
進みたいと思う方向へ、向かえるように。
「俺をここに案内するとき、ラーファちゃんを部屋に戻るよう指示するとき、言われた通りしようとするラーファちゃん。料理を運ぶ時……で、あんたを守らんがために後ろについてたあの女。
みんな同じだったよ。言いたいことなんか、聞かずともわかる。みーんな同じさ」
その誰もかけられなかった言葉。それが、彼女を動かせる唯一の言葉。
「行かないでほしい、結婚しないでほしいってな」
彼女の震えはとうになかった。うなだれて、その顔を両手でおおっているだけだ。
「結果なんてこの際どうだっていいのさ。ただ、自分が、みんなが苦しむ道を選ぼうとすんな。
自分ができねェことはきっと誰かがやってくれる。それがいまは俺だ。俺が、あんたができないことをやる。
これが最後だ。『魔王と結婚する道』はたまた『そいつに抗う道』。少なからず、みんなと笑いあえる未来が見えんのは……どっちだ」
バルバロッサは下唇を噛んだ。
邪道なのだろう。この人間の戯言に寄り添うのは、姫としては邪道で、失格なのだろう。
でも、みんなが笑いあえる未来があるのは、小さな、本当に小さな可能性だけれど、それがある方は、わかってる。決まっているのだ。
長い時間をかけ、固く閉ざしたこの心。それが婚約の直前で揺れ動く。人間の言葉の所為で。
自然と飛び出していた涙が、落ちて、大きな染みをつくっていた窓台に向かって、また、一粒、頬を伝ってこぼれおちた。
姫の決心はいとも簡単に崩れ去った。
「たす……けて……」
眩しく光る、黒き希望にしがみついた。
運命の分岐まで、あと 時間──。