第六話 初対面のときは自分をおさえろ
カラになった食器を前に、海斗は少しだけ背中を丸め、顔の前で手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
おいしかったと、海斗は満足感に満ちあふれた。
この世界に無理やり迷いこまされて、もはや盗みをはたらきつつ生きねばならないのかと覚悟していたところを救われ、さらには食事ももてなされるとは思わなかった。荒んだ心がうるおう気がした。
しかし未だ不安も残っていて、顔をうつむかせた。
本当に、この国の姫が戻る方法を知っているのか、そればかりが気がかりでしょうがない。
エレイナは、多分知っているだろうと言っていたが、もしかしたら、知らない、なんてことも。
そんな不安がいつまでもこびりくも、いや、と海斗は首を振った。
必ず戻る。なんとしても、この世界から脱して、もとの生活に戻らなくてはならない。もう少し、悪魔という奇特な存在と関わっていたい気もしたが、そんな心境のままでいてはいけないと、眉間にしわを掘った。
でも、こちらからもなにか礼の一つでもできれば、という気持ちがが心残りになりそうだとも感じ、背もたれに身体を預け、頭の後ろで手を組んだ。
すれば厨房のほうから、さきほど料理を運んできてくれた女がお盆を持って近づいてきた。
慌てて海斗はふとももの上に手を置いて、姿勢を良くし、女の微笑みを見て苦笑するのだった。
「お口にはあいましたか?」
「え、えぇそりゃもちろん! 非常に家庭的なメニューだったので、はい!」
自室でいる時のような、リラックス感を抱いてしまっていた。こんなにもだらけている姿を他人に見られるのが恥ずかしいとは。いつのまにか両手は股の間に埋もれていた。恥ずかしさを全力で隠すために、海斗は若干オーバー気味に反応して、女を一瞬だけきょとんとさせた。
だがすぐに「それは班長もよろこびます」と微笑んだ。
海斗は眉をあげた。
あの人、料理の班長なんだ。
単純に驚きもしたし、うまいわけだと納得もした。
そして海斗の胸の中で、再び一番気になっていた疑問が暴れ出して、自然に口にしていた。
「さっき……エレイナさんは姫さんを呼びに行くとは言ってましたが、呼んで、来るようなものなんですか? 姫って」
女性は、食器をお盆に乗せ始めた。その表情は穏やかだった。
「きてくれる……と思いますよ、私は。あんがい姫はアグレッシブで、お優しい性格ですので」
食器に向けられた女性の目を、海斗は見つめた。
「へ~……」
「手が空いていれば、率先して子供たちの遊び相手になりますし」
海斗は自然と微笑んだ。
「そりゃいい人ですね」
「『ムチで全身をイジメて』というドMからの要望にもこたえますし」
「い、いい人ですね……」
「『アイアンロックして』というドMからの要望にもこたえますし」
「いい人なんですかねそれは」
「『首絞めて』というドMからの要望にもこたえますし」
「ほぼドMにしか優しくねェじゃねェか! 率先してドM叩きに行ってんじゃねェか!」
女性は皿をのせきったお盆を持ち上げ、一層強く微笑んだ。
「そんな要望にもこたえるほど、優しいということですよ」
海斗は少し眉をひそめて、顔を難しくした。
ただ、まだ顔も見ぬその姫を信じてもいいかもしれない、という気もした。
それを話す彼女は、とてもにこやかで、そも、姫という存在を、厨房を任せられている人物が気難しくなることなく、話題に出す光景だけで、良い人だということが伝わってきた。
女は浅く一礼して、厨房の奥へ戻り、水や皿のぶつかる音が聞こえ始めた。
しかし海斗は見逃さなかった。──厨房の方に振り向くその一瞬だけ、たったそこだけ、後悔や哀愁といった感情をごちゃ混ぜにした顔を見たのだ。エレイナも、同じような顔をしていた。
なぜだろうか。
声をかけてみようとした海斗だったが、無理だった。厨房に奥に行ってしまった彼女に、声をかけてみようだなんて、思えなかったのだ。
しばらく海斗は、腕を組みながら厨房を見つめ続けた。
いつの間にか水の音も消えていて、そに気づいて頃には、エレイナが姫を呼びに行って、三十分以上が経過していた。さっきの女性も厨房から出てこないし、海斗は本当に暇を持て余していた。
かといって、来て間もないヤツが許可なく城内をドカドカ散策するのは失礼だろうし、入れ違いになりそうで怖いし、それでも何もしないでいるのも違う気もして、困り果てた。
海斗は目を閉じ、腕を組んで、眉間にシワを掘った。
嫌な予感が、まぶたの裏をかすった。
もしかして姫というのは、よそ者には頑固なのではなかろうか。よく考えてみればそうだろう。いきなりやってきた男、しかも「魔界にいきなりやってきたんすけど~」という頭沸いてそうな、現実離れしたことを言うヤツを、自分が姫ならば相手にしたく無いと思った。というか、いまは国の大事な催し物で、総出で準備にあたっているということは時間が差し迫っていると考えていい。そんな中で果たして、元の世界の戻す、なんて手間のかかりそうなことをするだろうか。
いやない。自分ならば絶対にしない。絶対にツバを吐きつけて見放すだろう。
海斗は目と口をきゅっと閉じて、ウゥと唸った。
いままでにない不安がぐるりぐるりと脳みそをかき混ぜて、気味の悪い焦燥感から逃れられず、頭を下げ、右腕を杖として額を手のひらで覆い、つぶつぶとした汗が数滴にじみ出た。
そんな海斗の背中に、女の声がかかった。
「初めまして。貴方が……海斗さん、ですね?」
清らかな、落ち着きのある声だった半ば自分の世界へとドツボにはまっていたため、海斗はひどく驚いた。
錆びついたロボットが、急に起動させられたように、カクカクと首を後ろに回すと、一馬身先に立つ女が見えた。
そして、赤と青の瞳に、とらわれた。
ときめきとは違う……というよりも、感情はいっさい揺れ動いていないというのに、何故かその二つに視線が掴まれ、動けなかった。
女は申し訳なさそうに目をしぼめた。
「いきなりでごめんなさい。バルバロッサ・ラナと申します……一応、この国の姫でございます」
小さく会釈したから、視線から外れ、二色の瞳の手から逃れられ、ハッとした。目の前にいる女性が、自分が会いたかった人だと。
そう思うと、自然と椅子から立って向き合っていた。
「た、高村海斗、です。初めまして」
頭を掻きながら、少々ぎこちなく会釈し言った挨拶に、続けて姫は目を細めて微笑んだ。
またその瞳が綺麗だと思っていたら、姫の横から鋭い圧のようなものが飛んできた。
あまりの強さに視線をずらしてみると、彼女の斜め後ろに一人の女性がいることに気がついた。二色の瞳にとらわれ、すぐ横の存在にまで気付けていなかった。
彼女の目つきは最悪で、黒い目が、姫とは違う力で海斗を離そうとはしなかった。視線を万力で固定されているような気がした。
固まったまま待っていても、目が合っていることは気づいているだろうに、睨んでくるだけで一向に口を開こうとはしなかった。
海斗はなんとかバルバロッサに視線をやって、苦笑した。
「あの、そちらの女性は……」
刹那、きょとんとした姫は「あぁ、彼女は……」と言いながら振り向いて、女を見るなり困った顔になって、ため息まじりに言葉を紡いだ。
「アイナ……そんな顔をしないの、海斗さんがどう反応すればいいかわからないでしょう」
アイナは眉をひそめ、一度視線を床に落とし、少し恥ずかしがるように姫を見、海斗の足元に視線を落とした。
「す、すまない。私はアイナ・エルミーラ……姫の護衛だ」
バルバロッサは微苦笑を浮かべて、再び海斗を見た。
「ごめんなさい海斗さん。いつもは優しいんですけど……どうか許してやってください」
海斗は首を振って、いや大丈夫です大丈夫ですと、気にしないよう促した。
それから二人は座って話す体勢を整えた。アイナは引き続きバルバロッサの背後に立っていた。
視線が下がって、見えたアイナの腰に、海斗はぎょっとした。腰の両側の布が半円状に無くて、そこから紐パンの結び目が飛び出ていたのだ。
なんで?
突如湧き上がってきたおかしさが顔に出るのにこらえつつ、チラチラと見ていたら、アイナの顔がまた鋭くなっていった。
いけない、と海斗はバルバロッサに視線を移した。目は口よりも饒舌だ。男が女を見る時は特にだから、もうアイナに視線をやらないと決意した。
優しいバルバロッサの顔を見ると、どうにも悪い知らせを伝えようとするようには見えなかったので、海斗は少し安堵した。
やっと帰ることができるかもしれないと、心が少し和らいだ。
すると、親しい者たちの顔が浮かんだ。もう見れないかもしれない、という最悪の結果が消える代わりに、親や親友たちの笑顔がぽつぽつ浮かんで、ふとももに置かれた両手をぎゅっと握りしめた。
そんな気持ちが、海斗の口をひらかせた。
「あの姫さま……」
「エレイナから聞きましたが」
が、バルバロッサが言葉をかぶせてきた。
海斗は戸惑った。ん? と思ったが、口を急速に閉ざし、聞く姿勢に回った。
「お腹が空いて、お金を持っていないがためにパンケーキをくわえて逃げたとか」
「え、あ、まぁ……」
食い逃げの話をされても、恥ずかしさは浮かんでこなかった。
バルバロッサは微笑んだ。
「だめですよ。そんなことをしちゃ」
海斗は口を半開きにして、無表情になった。
罪を笑うのは姫としてどうなのか、とは思ったが、そこまでのお人好しというのか。ただこのまま優しく接してくれるのならば、帰る算段もたちやすいのでは? と、ますます期待が胸をジンと暖かく支配した。
海斗は頭をおおざっぱに掻きながら苦笑した。
「いやぁ、ほんとうに、あの時はおかしくなっちゃってたんですね~。今思えばなんであんなことをしたのかと……すみません、食事を提供してくださったエレイナさんに、感謝を伝えておいてください」
よし、これで帰ることを聞けばいいだろうと、すぐにでも発砲できるように、次の言葉を鉛玉のように準備した。
多分いまの会話は自分との距離感を縮めるためのものだろう。ここから、おそらくは、元の世界に戻る方法を提示してくれて、儀式かなにかが執り行われるのだろう。そして気づいたら自室に戻っている、といった理想的な展開が待っているのだろう。
海斗はどこか、いいようのない小さな幸福感に包まれた。
だから、それを早く現実にしたくて口をあけた。
「じゃあ僕、かえり……」
「そんなエレイナの料理はどうでしたか?」
海斗は顔から感情を落とした。
言葉を繋げたけれども、またしても遮られた。
一瞬、海斗の思考も動きも、なにもかも完全に停止した。
あれ? まだ続けるの? 時間ないんじゃないの?
姫の顔はまだにこやかであった。だから海斗もつられて、笑いきれない苦笑いをする。
はやく進めたいが、なぜか足元を見られているような気がして会話の路線変更ができなかった。
「す、すごいおいしかったですよ。聞けば、彼女は料理の班長? だとか。いや~、さすがだと思いましたよ~」
段々言葉のクオリティが下がっていくのを、海斗は感じていた。早く帰りたい思いが言葉のチョイスの質を落とす。もちろんキーパーソンである姫の機嫌は取らなくてはならないのだが、やはり焦りもあった。それが積もって積もって外に飛び出してしまったのだ。
そしてやっぱり、なんとなく、でも強く路線変更をしようとする。
「で、あのですね」
「そうでしょう? 彼女の料理の腕は我が国一。料理については、あらゆる種族、世界に通ずる知識をもっているのですよ」
しかし無理だった。分岐器はどうやらバルバロッサに握られているようで、海斗が自由に変えられるようなものではなかった。
「……そうなんですか」
「はい。今日は彼女もあまり時間がないので、ちょっとしたものしか作れなかったみたいなのですが……」
海斗はただまっすぐ、微笑むバルバロッサを見つめていた。
こっちも時間がないんですが。
そして、おそらくバルバロッサに悪気はないのだと思うが、本当に足元を見られている気がしてたまらなかった。帰してやるんだから、最後の最後に話につきあえ、という思いがあちらにはあるような気がした。
それを無理矢理に遮れないような空気も確かにここに感じたから、会話をぶった切る言葉が口から出てこない。出したら出したで、護衛のアイナからなにか言われるような気もしたし。
このまま夜まで魔界にいてしまうと、あっちでは行方不明者の捜索が出るのではなかろうか。広場で見た時計から、時間はリンクしているとわかっていた。
捜索依頼が受理されたら、どうなるんだろうか。ニュースでたまに見るように、大人数の捜索隊がしらみつぶしになって地域や山をしらみつぶしに探すのだろうか。
海斗は不安になった。
家の夕餉は決まって七時からで、友人と食べに行くという知らせがなければ必ずそれまでには家に帰っている。それまでに帰ってこなければ、両親は不思議に、不安に思うだろう。遅れた理由として、「魔界に迷い込んでいた」なんて言っても絶対に信じてくれないだろうし、そんな特別な理由があろうとなかろうと、友人との外出のしらせもないから奇妙な空白の時間となる。いずれにせよ変な感じにはなるから、帰れないという運命はどうしてもさけたい。
しかし、海斗の心を読めないバルバロッサは、会話の終焉が来ることを許さなかった。
「海斗さんの趣味はなんでしょうか?」
海斗が完璧な受け答え役に回ってしまうほど、バルバロッサの口は止まらなかった。言い方は非常にやわらかいが、新たな話題を挟ませてくれるスペースを作ってはくれなかった。
「……だらけること、ですかね」
「本とかは読みますか?」
「読みます。ファンタジー系のやつとか、はい」
「じゃあそういう映画とかも?」
「見ますよ、たまに」
「AVは?」
「すごい勢いで路線変わったんだけど。直角すぎて脱線したんだけど」
「官能小説とかは?」
「ずっとその路線でいくの? 突き抜けるの? 読まないですよ」
「好きな体位は?」
「根掘り葉掘り聞きすぎなんだけど! 初対面でマントル蒸発させて核まで迫ろうとする人はじめて見たんだけど!」
海斗は眉根をよせた。
これが悪魔というものか。
土足でどかどか、いきなり心のリビングにまでやってきて海斗は困惑した。そしてすでに自室のドアノブに手をかけようとしていることを恐怖した。
こんなのがこれから続くのだろうか。
それは個人的にも、時間的にも、嫌だった。
だがここで、急に救いの手がのばされた。
「姫、もういいでしょう。長引くと、式にも支障が出るかと」
あれだけ海斗に圧をかけていたアイナが、まるで海斗を救うかのごとく鋭く割り込んだ。
僥倖か? これであちらに帰ることができるのか?
思わずアイナに視線をぶつけたら、少しだけ尖った目をバルバロッサに向けていた。
しかし姫は臆さず、微笑んだまま片眉をさげて、アイナに顔をむけた。
「もう少し、もう少しだけですから……いいでしょう?」
美しい赤と青が、アイナの圧をはじきとばした。
アイナの眉が苦しそうにひそめられ、その二色から視線をそらした。
また姫のお願いに、強く出られないのかと思うと、姫がこんな状況にも関わらずお願いしてくることに嬉しさを感じつつも、不甲斐なさも抱いた。
バルバロッサは続けた。
「なにも、その時間までずっと話すわけじゃないんです。それに、ちょっとくらいなら支障もなにもでませんよ」
ね? と瞼を閉じて微笑むバルバロッサに、なにも言い返せないアイナ。
一時的ではあるが、蚊帳の外に出された海斗はきょとんと、バルバロッサを見つめていた。
あれ、俺の件は?
帰る手段があるのなら、すぐに帰れるとばかり思っていた。そしてすべてがハッピーエンドで、幸せの道を幸せにスキップしながら幸せに進んで行く。そんな未来があるとばかり思っていた。
こんな優しく、険しい道程があるだなんて、誰が思おうか。
「そ、そうです、ね……わかり、ました」
アイナの不服全開のぎこちない言葉に、海斗は静かにとまどった。
そしてそれを皮切りに口を閉ざしてしまったアイナは、瞼も閉じて銅像のように動かなくなってしまったのだ。
は? と不満が生まれたが、バルバロッサは満足そうな笑顔を向けてきた。
「で、どんなAVを見るんですか?」
「純愛モノ!!」
相手の気持ちなんぞ考えていないような質問のラッシュに海斗は辟易した。アイナのように銅像になることはできないので、若干適当に、でも悟られぬよう答えていった。
しばらくバルバロッサは、海斗の寝室を荒らそうとするのだった。
*
バルバロッサの部屋の前に、膝を抱え、背中を丸めて壁を背にしているラーファの頭を、エレイナは優しく撫でていた。
ラーファの視線は廊下に落とされ、心ここにあらず。どれだけ撫でようが反応はない。
真上のランプも一緒になって、やわらかな光で背中を撫でていた。
海斗のことを話し終えたエレイナに、バルバロッサはわかりましたと言って部屋をあとにした。もちろんラーファには一言も投げかけることなく、外にいるアイナに一声かけて食堂にむかってしまったので、すねてしまったのだ。
多分そうなるだろうな、とは思っていた。姫が尋ねたいことは、海斗さんのことであって、ラーファがなにをして遊びたいか、ではない。
「姫様は、絶対に私とあそびたいはずだもん……」
ラーファは静かにつぶやいた。
エレイナの撫で方は、次第に大きくなって、小さなため息をついた。
「そうかもしれないけど……時間がないのよ。もう時間も迫ってきているし……ね?」
なんとか気持ちを落ち着かせてあげようとするも、ラーファは止まらなかった。
「でも、海斗さんと話す時間はあるの?」
光なきラーファの視線がエレイナの眼球をつらぬいた。
痛かった。思わず、恐怖心も抱いてしまうほどの激痛を感じた。
相手は子どもなのに、長く一緒にいる、気の許せる子どもなのに、一種の恐怖を抱いた。天敵に睨まれたカエルが抱く恐怖心……とはまったく違う、けれども似ていると思うそれが、胸のすみに浮かびあがった。
なにも反論できず、エレイナは弱々しく視線を返し続けた。力不足を感じて、また胸を痛めた。こんな少女の願い一つ、叶えてやる事ができないのだろうか。
しかし無理なものは無理なのだ。結局、誰かに対する願いの決定権なんて、「やってほしいと思う人」ではなく、その願いを向けられる人」が持っているのだから。
後者の姫が遊ばないという姿勢ならば、絶対に遊べないのだ。
子供にこの現実を教える時には、どんな言葉がけをしてやれば良いのか。いまのエレイナには、一つしか思い浮かばなかった。
できるだけオブラートに包んだ言い方。親も使っているであろう言葉。
それを言おうと、瞼を閉じ、口を開こうとした。
「私、いっぱいいっぱい我慢したよ?」
だがラーファが先に言葉を発して、エレイナはハッとした。
自分が言うはずだった言葉、「我慢しなさい」。
それを、ラーファは予知したかの如く、対抗する最適解の反論を口にした。
またもや、何も言えなかった。
なぜこんなにも、圧倒されるのか。ずっと一緒にいたラーファと、なぜ今になって会話ができないのか。きゅうと胸を締め付けられるようだった。
「あそびたいって気持ちは、我慢しなくちゃいけないものなの? そんなにじゃまな気持ちなの? もう、わかんないよ」
ラーファは膝のあいだに、顔をうずめた。
少女の胸をしめつける力は、きっと強大なものだ。
信頼のできるひとが、これからいなくなる……子どもにとっては到底受け止められるものではない。大人目線でもそう思う。
あぁ、なぜ、姫は結婚を選んでしまったのだろうか。私たちはなぜ抗わず、結婚の道にしか案内できなかったのだろうか。
これ以上口をひらこうとはしない、悲しみに押しつぶされそうになっているラーファに、いまやってやれることといえば、静かに、あたまを撫でてやることくらいだった。
エレイナは弱く歯を食いしばった。
運命の分岐まで、あと二時間──。