第四話 名は姿よりも第一印象を左右する
「へー……魔界、ですか。ということは、エレイナさんも悪魔ということで?」
三人は、広場のベンチに腰かけ、両者の状況を話しあった。
周りを囲む低木の中にうち立てられた白いポール型時計が一時をさしているのに、あたりがひっそりと暗いのに気になりつつ、海斗は、エレイナ・オーガンと名乗った女性の言葉をのみこんだ。
「そうなんです。この子、ラーファも同様です」
エレイナは、バタークッキーを食べるラーファの頭を、いとおしそうに優しく撫でた。
ラーファも心地よく感じ、目を細めてクッキーをかくっとほおばった。
さきほどの怯えた表情はどこへやら、子供特有のかがやく笑顔をふりまいていた。
そして海斗は、にわかに信じられないでいた。──海斗のような人間には、打ち立てられた悪魔像というものがあった。暴力的な印象から、少なくとも彼女たち二人は大きく逸脱していて、表情に出さず驚いていた。ただ、えレイナが言ったことに一つも嘘はないとも思えていた。
それを見ているだけで、魔界という違う世界に来てしまったという幾らか胸を締め付けていた困惑は、ねぜか、もはや無かった。
海斗は、エレイナの向こうに座るラーファをまじまじと見つめて、言葉を紡いだ。
「人間はいないんですか」
「おそらく、あまりいないと思います。
でも、違う世界からは、人間の他にも様々な種族の往来が多くあります。魔界も、数ある世界の中では物資の流通がおおきいですから、みんなここに売買しにきたりするんです」
「違う世界……天界とか?」
「そう、ですね。
貴方もここに来てわかったかもしれませんが、この世にはたくさんの世界があります。数は、私の知っているのでは百八つ。それらは鎖みたいなもので繋がれていて、その鎖のつかみ方さえ覚えてしまえば、誰だってどこへでもいけるんですよ」
海斗の常識はいとも簡単に破砕された。
「パラレルワールド」や「イフの世界」を題材にした物語を好んでいたが、それがいざ目の前にたやすく降ってくるとは思わなかった。
いや、よく言うと、「世界が多くある」 ということに対しては驚いてはいなかった。驚いたのは、エレイナが天界の存在を否定しなかったことだった。あるようで、ないのではないか、それらはゲームの中だけのことではないか。そう思っていた魔界に腰をおろしながら天界の存在を確信することが、なぜだか、さっき抱いていた困惑の代わりに、言い知れぬわくわくが迫って来ていた。
しばらく流れた沈黙に、エレイナは、身体をぽふっと預けてきたラーファの方に目を向け、微笑んだ。
海斗の目には、二人が本当の親子であるかのように映った。
鎖で繋がれた世界……どういったものだろうか、と瞼を下ろして想像した。世界が丸いものだとすると、数珠のように連なっているのであろうか。それとも、大きな空間の中で点在する世界が、それぞれ鎖で繋がっているようになっているのか。
ふと、海斗は目をあけた。
世界の繋がり方を想像している時に、なにか流れ星のようなものが、すっと、瞼の裏を通ったのを見た。
(あ……そっか)
それが何であるか、すぐにわかった。
自分が生まれ育った故郷についてだった。全ての世界が鎖で繋がっているということならば、鎖を辿っていけば変えることができるのではないか。
そう期待を膨らませると、海斗は、前かがみになってエレイナの顔を見た。
「じゃ、じゃあですねエレイナさん。僕がもとの世界に戻れる事も可能ということです……かね?」
少し興奮して、言葉がうまく出てこなかったが、エレイナは、ラーファと同じように丸い、淡いブラウンの瞳で海斗を見た。
「可能だと思いま……あぁー……いえ、難しいかも、しれません」
しかしエレイナは、視線を地面に移しながら難色を示した。
海斗が少し心配そうな顔でどうしたのか聞いたところ、煙のようなバケモノはどんな存在で、どのような力を使い、どんな意図でここに連れてきたのかわからない。しかも、海斗の住んでいる世界は、もう神や悪魔などのつながりも、違う世界とのつながりも薄いため移れない可能性があるのだという。
さらにエレイナは言葉をついだ。
「海斗さんが住む、地球がある世界……そこは、もう、他の世界を結ぶ鎖が唯一ない世界なんです」
海斗が、あからさまに、大きく肩を落とした。
それをみたエレイナは、しまったという顔をした。
せっかく、怖い真実があるかもしれない質問を、勇気を出して答えてくれたかもしれないのに。エレイナは、親指の付け根を握って、慌てて続けた。
「いや、あの、できないことはないと思うんですけど、私はその方法を知らないというか、なんといいますか」
海斗は、エレイナの慌てる顔を見るようで、見ていなかった。
あっちからこっちには簡単に来れたのに、簡単には帰れないとか……なんだよそれ。
またもや理不尽に見舞われ、あの、心臓を貫き出したバケモノに対して、いま再び、憎悪の感情が烈火の如く、ふつふつと燃え上がった。
それは彼知らず表情にも滲み出てきて、怒っているような、不安に思うようなものになって、エレイナは少々慌てたように口角を上げた。
「あ、で、でも姫なら、知っているかもしれませんね」
「姫?」
海斗はその言葉で、バケモノを何度も木刀でめったうちにする妄想の世界から帰ってこれた。
もしかして、戻れる……?
まだ希望があるようで、心に少し余裕が生まれた。
しかし、その希望を持つ相手は姫だという。
姫なんていない国で育った海斗にとっては、なんだかどれだけ困っていても、こちらに手を伸ばしてくれないような存在に思えてしょうがなかった。
だからまだ、一抹の不安を消すことができずに、膝の上においた両手を遊ばせていた。
「博識で、他の世界への関心が強い姫なので、おそらく知っているような、そんな気もしますが……」
エレイナは、姫に一縷の思いをかけつつ言ったが、なかなか明るくならない海斗の顔に、なぜだか申し訳なさで胸がいっぱいになった。
海斗は思い悩んでいた。そして脳裏に、故郷で過ごした光景が皆ぞこから太陽の光へと駆け上がる泡のように、もももと浮かび上がった。
友人と過ごした学び舎、駆け遊んだ公園、家族とのショッピング、家でのわだかまりや団欒。
全てが、このへんぴな場所では非常に大切なもののように輝いた。手でいくらすくっても量なんて減らなかったのに、いまはそのもの自体が無いなんて。
海斗はきゅうと胸が苦しくなった。帰りたい。本当に帰りたいと強く思った。
「も、もしあれなら、海斗さんに会っていただくよう持ちかけることもできますが」
瞬間、そうエレイナの声が聞こえた海斗は、目を見開いてエレイナを見た。
それにびくっと肩を跳ねさせたエレイナの両手をがばっと包んだ。
エレイナは丸くあけた瞳で、ラーファはクッキーをくわえながら見た。
「お願いします。帰りたいんです」
街から出て、草原や岩肌をおりまぜた土地を数十分程度歩いていると、紫がかった先からぼんやりと、より濃い紫のシルエットが浮かび上がってきた。
それを指差したエレイナは言った。
「あれです。あそこが私たちの国です」
それはまるで大きなスポンジケーキのようであり、中央には特別大きくいびつな形をしたろうそくがたてられていた。それが大きな城だとわかると、海斗は、ほー、と感嘆の声をもらした。
「アリフトシジル。それがあの国の名です。私たちが……いえ、姫が何千年も守ってくれた国です」
海斗は中途半端にあいた口を、閉じることを忘れていた。
「へぁー……。その姫さんが、俺をもとの世界に戻す方法を知っているかもしれない、と」
「はい、私はそうだと思います」
これほどまでに非現実的な物体が手の届く場所に来てしまうと、こんなに心が震えるものなのか。
海斗は眉をひそめながら、不安もおぼえはしたが、どこか安堵してしまっているところもあった。
今までは漠然とした不安にさいなまれてばかりいたが、あの城を見た途端、本当に助けがあるのではないかと漠然と感じてしまっていたのだ。
いままで黙っていたラーファが、やがて、エレイナを見上げ、口をあけた。
「他の人も知ってるとか、ないかな~?」
「んー……あるかな~?」
エレイナは首を傾げた。
それを見て、ラーファは眉をあげて、元気よく声をあげた。
「ルシファーさんとか!」
海斗は驚いてラーファを見た。
「え? ルシファーいんの?」
見えたラーファの顔は、なにも不思議を感じていないように、笑顔だった。
「サタンさんとか」
「サタンもいんの?」
「みんな優しいし教えてくれるかもっ!」
「みんな優しいの? 悪しき名前しかでてこなかったけど」
いままで順調に歩んできた足が、急に重くなったように感じた。
ラーファは優しい顔で国を眺めた。
海斗は複雑な表情で、その顔を見つめていた。
サタンにルシファー。今から希望を掴みに行く手前でそんな凶悪な、有無を言わさず絶望を与えてきそうな名前を聞いてしまって、尻込みしてしまった。
しかし行かなくては、尋ねなければ、帰ることはできない。
海斗は、希望と不安に挟まれながら、砂利道を踏み進んでいった。
まもなく到着した三人は、あけっぱなしになった門をくぐり入国した。
そして海斗はわいてきた興味とともに辺りを見渡した。しかし特段驚くような奇抜なものはなく、一見、木材や鉄筋コンクリートで作ったような、自分の世界と似たつくりをしている家屋が所狭しと並んでいた。さらに進むと国民が集まるであろう噴水が設けられている憩いの場所や、ブラックボードを置いていたり、扉の横に木の看板をぶらさげている飲食店のようなものもぽつぽつ見えた。この大木の幹のような大通りから、枝のように分かれた小道も多くあった。
道中、普段見られないようなもので驚いてしまう自分を想像していたが、むしろ、もとの世界と変わりないものが多すぎて驚いてしまっていた。
どうみても立派な国だった。
海斗は自然と閉口していて、会話はなくなっていた。
だが、何かが違うと感じるところもあった。何か足りないと思い、よく考えてみるとそれは、国民の姿を見ていないからだと気づいた。でも、そんなバカげたことがあるか、ともう一度、周囲を見渡してみるも、やはり誰一人として外に出ていないのだ。
だが、エレイナたちはそれが当然だと言わんばかりに、顔色変えず歩いていて、それがますます心を気持ち悪くさせた。
そしてどうしても気になってしまって
「……なんで、誰もいないんですか?」
と、エレイナならなにか知っているだろうと思って問うた。
すると少しの間、エレイナは口を閉ざしたのだ。
ますます強く疑問を抱き、もう一度問い直してみようとしたところ、彼女は微苦笑をうかべた。
「今日は、国にとって大事なことがあるので……みんな、忙しいんですよ」
しかしやはりまだ納得できずに、「祝い事ですか」と続けて問うてみると、「そう、ですね。華々しく飾るため、準備をするために、外に出ないんですよ」と表情変えずに言う。
なんとも腑に落ちぬ言い方で、もっとわからなくなってしまった。
「忙しいなら外に出るんじゃないですか? ほら、祭りとかも、結婚式もそうじゃないですか。準備の時は人の往来が激しくなる」
海斗は、怪訝そうに眉根をおとした。
忙しいから、準備をするから外に出ない。それはきっと逆なんじゃないだろうか?
だって明らかにおかしいだろうに。文化祭だって結婚式だってなんだって、大人数で準備をするときは出入りが激しくなるものだと思っていたから。
すると、エレイナは黙ってしまった。少し、本当に少しだけ口角を上げ、うつむき、困った表情に作った。どう言おうか迷っている、そんな顔。
そして海斗は見逃さなかった。自分が「結婚式」と言ったとき、彼女の顔は一瞬電流が走ったようにひきつったのを。
いつの間にかラーファからも笑顔が消え、うつむいていてた。この空気に耐えかねた海斗は、ほぼ反射的に
「ま、まぁ魔界でこっち側の常識引っ張り出してもしょうがないですよね~……」
と、どこか緊迫したような雰囲気をくずすため、言葉がついて出ていた。
「……そうですね」
しかしその言葉は功を奏すことはなく、二人の表情は変わることはなかった。
海斗は通り過ぎゆく家々を、注意深く見た。やはり、作業しているという言葉では片付けられなかった、
電気もついていないのに、中で作業なんてできるんだろうか。
これも訊きたかったが、それはタブーであると思った。
*
姫はまだ、美しく照らす光はなけれども、未だ街を眺め、身動き一つしなかった。
誰も歩かない街、太陽どころか、未だ家から漏れる光もありはしない。
感覚を刺激するのは、窓のかすめる風の小さな音のみ。
それでも飽きることなく、むしろ時間が経てば経つほど熱心になっていくように、どこか愛おしそうに見つめていた。
(……あれは……?)
姫は視界の下で、城に近づいて来る何かに気づき、大きく目をあけた。しかしよく見えず、立ち上がって両手と額を窓に貼り付け、それに視線を落とした。
三人いるのが見えた。門から城までまっすぐに伸びた大通りを歩いていて、そのうちの二人はエレイナとラーファであると理解できた。
あの二人はよく行動を共にしてるから、買い物かどこかに行って帰って来たのだろう。
だが、その隣に見知らぬ者がいるのが、妙に思えて仕方がなかった。
その者が、男に見えるのにも不思議に思って、姫は、三人が見えなくなるまで見つめ続けた。
*
城内は、整っているの一言であった。 誰もいぬ城門の前に立ったかと思えば、自動的に、ゆるやかに開いた。
先の方へと伸びるレッドカーペットを歩いていけば、思ったよりも落ち着いた城内の装飾に、海斗は少し驚いた。
金銀の装飾を、財の悉くで豪華に、傲慢に使われたということもなく、どちらかというとねずみ色や黒、赤を主としたもので、しかしだからこそ馴染みやすく、そこまで海斗に抵抗感は生まれなかった。
初めての城訪問、とても緊張すると思ったのに、となんだか期待を裏切られたようだった。
廊下の壁にはまばらに絵画や、海斗よりも低い、色あざやかな花を生けたかびんを置く台があったり、天井の近くには、ランタン型のランプが蜜色に、ひかえめに灯っていた。
装飾品に関しては、てっきり鎧やらシャンデリアが設けられていると思っていたので、またここでもあらかじめ備えていた緊張感が無駄になった。
そういった、一種の期待はずれ感を抱きながら、ラーファの手を繋ぐエレイナのあとに続き、さらに進んでいくと、大きくひらけた場所についた。そこには木の丸いテーブル1卓に対し、椅子が数脚置かれてある部屋で、彼は食堂のようだと思った。
もしかして、と思って目を凝らしてみると、はたして先にオープンキッチンとみられる空間があった。
そして海斗は、エレイナに、ここで待っていてくださいと椅子を引かれ、小さく会釈して座った。
そしてラーファに、腰をおろして視線をあわせ、自室に戻ってなさいと頭を一撫でした。
ラーファは微笑んだ。
「分かった!」
意気揚々と、もときた道を戻ろうとする姿は、本当に愛くるしい少女の姿であった。あの子の部屋も、この城にあるのか。なんとも贅沢な、と海斗は指を鳴らした。
「ラーファ!」
すると、エレイナは口をあけた。呼ばれたラーファは、眉をあげて、目を丸くして振り返った。
なにかラーファに伝え忘れていたのだろうかと、海斗はエレイナの顔に目をやると、さっきまで柔らかな顔をしていたのに、ほんの少しだけこわばったものになっていて、少し戸惑った。
まるで、親が子供にしつけをするときのような顔だった。
「もう……姫の部屋には行ってはいけませんよ」
「……はぁい」
思った通りだった。
エレイナは、ラーファがこれからするかもしれない行為を事前に制止した。
そう言われたラーファの悲しそうな顔といったらなかった。しゅんとなって、先ほどまでの元気なうしろ姿は見せず、とぼとぼと肩も頭も落として、薄暗い廊下の先へと消えていった。
なぜそんなことを強く言ったのか、海斗はエレイナの横顔を見つめた。
これまでの会話で思いつくはずも無い、制止の内容だった。なぜラーファは姫に会ってはならないのか。二人の身分が違いすぎるのであればいざしらず、ラーファもこの城に住んでいるのだ、違いすぎるというわけではあるまい。それにエレイナはここまでの道中で、姫は優しく気さくな人だと、特に子供には、と言っていた。会えないわけではないはずだ。もう姫の部屋には行ってはいけない、という言葉から察するに、ラーファはこれまでに頻繁に、姫と顔を合わせていたに違いない。
加えて、あの子が会ってはいけないのなら、自分も会ってはいけないのでは? と、一抹の不安を抱えこんだ。
感情考察が入り混じる胸が、この土地を覆う空のようにどんよりと重くなった感じがした。
海斗が考察の世界から帰ってこれたのは、エレイナの次の言葉だった。
「お腹、すいてるんですか?」
眼前に、なにもなかったところにエレイナの顔が横から覗き込むように出てきて、海斗はびくっとした。
「な、なぜそういう風に?」
「だって、パンケーキをくわえて逃げてしまうほどですから」
エレイナは柔らかに笑った。
同時に海斗は少し恥ずかしくなって、苦笑した。
エレイナは、自分に料理を振舞ってくれるのだろうと、すぐに悟った。
「いやっ、でもそのパンケーキ代を払っていただいたんですから!」
が、エレイナは首を振って
「一応、ここに来たからには、貴方はお客様なんですから。 まだ時間に余裕はあるのでしょう? なら、いいではありませんか」
と、半ば一方的に良しとされた。
エレイナは、デシャップにたたまれ置かれていた黄色のエプロンをまとった。
「それに……最後のお客様になるんですから」
「最後?」
「え? あ、いえっ! 聞こえて……なんでもありません」
小さくつぶやいた言葉を聞き取ってしまい、海斗はつまずいた。慌てた様子のエレイナは、海斗を振り返って笑った。
それが、海斗の目には、作り笑顔に見えてしょうがなかった。
言葉もそうだが、なんでそんな顔をむけるのか。
海斗はキッチンに移っていく後ろ姿を、見えなくなるまで追った。
壁の向こうに行った途端に、エレイナはカウンターから、ふっと笑顔を覗かせた。
「あ、作り終わったら、姫様に伝えに行きますからねー」
あの広場で見た、ほがらかな笑顔だった。
「あ、はい」
ひょうしぬけた返事をした海斗は、さっきの顔と言葉を、続けていぶかしんだ。
*
蜂蜜色の光がうすく満ちる階段に、ラーファの激しい呼吸音が駆け上がっていく。息を切らしながらも、その身を止めようとせずにヤイヤイ登る。
そして、やっと目的の階に辿り着いて、登り終え、膝に手をつき、ちらりと後ろを見た。
「だれも……追いかけて、きてない、よね……?」
なに一つ、影がないことを確認して、そっと胸をなでおろした。
食堂からはずれた廊下に移った時から走ってきて、とても疲れた。少し休んだぐらいじゃとれないその疲れを、ラーファは見ないようにして、足をまた動かし始めた。
今度はあまり疲れないよう、小走りに。
小さな身体であった。まるでどこか負傷したかのようにぽてぽて走る姿は、なにかを背負うにはあまりに小さかった。しかしその瞳はまっすぐとしてぶれることを許していないようでもあった。
しばらくして、思うところに到着し、足を止めた。
そこは丁字路で、蜜色のランプの光が灯されたつきあたりから、左右に伸びる廊下が見えた。ここからつきあたりまでラーファは忍び足で行き、右側の廊下を見るべく、姿勢を低くして壁を背に、顔を少しだけ出しておそるおそる見た。
視線は先にある扉の一点をとらえた。どこか心配そうな色が塗りたくられた視線で。
上部に二つのランプが設けられた、こげ茶色の扉。
それに関わりたくてしょうがない、そんな気持ちがふつふつとラーファの胸の奥からわきあがった。次第に、瞳からは心配というよりも、まるで遠い地にいる恋人を思うような感情が浮かび始めていくのを、ラーファは気づいていない。
手を出そうか出すまいかと、胸中は、どうしようもできない感情でぐしゃぐしゃになっていた。
向こう側からかすかに聞こえてきた音に、ラーファは、はっとした。
なんだろうと耳をすまし、十分に光を見たしきれていない廊下の向こうを目をこらし見た。ついさっきまでかすかだった音が、はっきりと聞こえてきた。││誰かの足音だ。
加えてラーファは、この足音に聞き覚えがあって、背中に冷たい何かが這い上がってくる感覚を抱いた。
アイナだ。このハイヒールで打ち鳴らすような硬い足音は、間違いなくアイナだ。
自分がいま、この場にいることがバレたら絶対に部屋に戻されてしまう。普段から自分の言動に厳しいことはないが、今日ばかりは許してくれないと思った。
そうならないために、隠れられるものがないか、探そうとした時、ちょうど後ろに、自分の背丈と同じくらいの、花瓶をのせた台がうしろにあった。
できるだけ足音を立てないように、されども急いでその陰に隠れ、目を強くつぶった。
お願い……! こっちに曲がってこないで……っ。
足音が近づくたびに心臓が、静かにしないといけない状況に反し、階段を駆け上がるようにドンドンドンドンと騒ぎ立て打つ。それが、もしかしたら外に漏れ出て気付かれてしまうのではないだろうかと、焦った。胸を両手でおさえても小さくなることはない。
──もう……姫の部屋には行ってはいけませんよ。
やってはいけないことをやってしまっている。それはよくわかっている。ああ言ったエレイナの表情が痛々しく脳裏をかする。
足音はもうすぐそこまで迫ってきていた。
自分の欲と、約束をやぶった罪悪感にはさまれ、もうどうにかなってしまいそうになり、ますます強く目をぎゅっとつぶった。
しかし、ラーファの心配に反して、足音はこちらに曲がることなく通り過ぎていった。
鼓動はしばらく収まりそうになかった。満ち潮から引き潮に移り変わるように、ゆっくりと静かになっていくまで、目を閉じていた。完全に潮が引くと、静かに長く、息一つ吐いた。
だめだめ、こんなところでじっとしてたら。はやく……会わなきゃ。
「なにをやっている」
覚悟を決めた途端、ラーファは驚いた。顔の真横で、アイナの声がしたから。
肌が波打つような感覚が、さぁっと全身に広がった。
すぐ横には案の定アイナが、腰を下ろし、こちらを鋭く見つめていた。
「アイナ……さん」
アイナの視線が網のようにまとわりつき、身じろぎ一つできなかった。
運命の分岐まで、あと四時間──。