第三話 外出する前は財布を持っているか確認しろ
「いらっしゃいませ~。お一人様ですね? こちらの席へどうぞ~」
開いた扉は鈴の音を鳴らした。入店した男は扉付近にいた店員に案内されて、茶色の革製のソファに腰かけた。
ファミレス独特の空気に混ざった、様々な料理の匂いを嗅いでいた男に「ご注文が決まりましたら、こちらのベルボタンを押してください」と頭をさげ、女店員は離れていった。
さぁ何にしようと、机の端に立てかけられたメニュー表を開いた。
一人で座るにはこの机はちょいと広いな~、と若干恥ずかしく思いながら、気に入る一品を探した。
そして目にしたものの中で、最も心惹かれたのが、パンケーキであった。ハンバーグやオムライスなどの写真が載ったページを見て、これはちょっと重いなと感じ、ページをめくったその先にあったのは、デザート類。その中央にページをまたがってあったのが、パンケーキの写真だった。
円盤状のぶあつくふんわりとした二枚重ねのその上に、ちょんとのったバターが一つ。横には四回まかれたホイップがそえられていた。そして大量のハチミツが皿までしたたるそのさまは、男の舌をいとも簡単につかまえた。
これにしよう。
男はいつの間にかボタンを押して、注文し終わっていた。
これで待つだけとなった男は、肘をついて頬杖をし、だるそうにして目だけを動かしてあたりを見渡した。
「……はぁ~。よくわかんねェ世界に来ちまったよ、まったく」
さっきまでスマホ上で彼女と過ごす親友に対してキレていたのが、なんだか懐かしく思った海斗は、鼻から長く、薄く息を吐いた。
海斗の向く方にある、壁一面に貼られた窓の向こうにはツノが頭から生えていたり、コウモリの翼に似たものが背中にある、悪魔のような者たちが歩いていた。当然人間のように身体だけでツノなどのオプションがない者もいる。そんな彼らが、楽しげに飲み食いしながら、あるいは酔いながら行き来する様は、元の世界でもわりとどこでも見られるもので、それらを見るたび首を傾げた。
そのうえ周囲には彼がよく見ていたビルや、飲食店に似たものが見えるのだから、なおさら彼らの形をいぶかしんだ。悪魔が打ち立てる科学の発展など、海斗が抱く悪魔への印象の中にはまるでなかったからだ。
ただ、自室で現れたあの何かを見てからでは、特に慌てふためくことはなく、パンケーキを待つ余裕はあった。
そしてしばらくしたらパンケーキを、先ほどの女性の店員がにこやかに運んできた。
海斗の口は涎の作成を早めた。よくある、写真と現実の乖離が大きすぎるという謎現象もなく、想像のとおりだと思えるクオリティが、目の前に現れたからだ。
海斗はありがとうございますと小さく会釈し、小さく唾を飲み込んだ。
そして、用意されたナイフとフォークを使うことなく両手で二枚掴み上げ、ほおばって。
一気に走って店を出た。
「店長喰い逃げですゥゥッ!」
「本当かァッ!!?」
うしろからうっすらと聞こえてきた店員たちの声は、海斗の背中を強く押した。
必ずこれを逃げ切らなくてはならないという使命感にも似た意志をより強くさせ、足の回転は速くなること速くなること。
行き交う人々の視線もうまく避けつつ、海斗はパンケーキを押し込んでいった。
ここまで来たら恥も外聞も後悔もねェ! なにも感じることもねェ! どこかもわからねェ世界に迷い込んじまったんだ! 当然お金も知識もねェから生きていくには盗み、トンズラしかねェんだ!
なにも恥じることはないさ、なんて正当性を無理やり抱いたまま、海斗は胸を自信で満たし、パンケーキで胃も満たしつつ走り続けた。
「──そ……なァ!?」
すると、多くの人の喧騒の中でひときわ目立った声が、海斗の前方からチラと聞こえた。人のあいだを綺麗に縫うようにして、それは耳に入って意識を軽く向けさせてくるようで、海斗は眉をひそませた。が、このまま無理やりにでも逃げ切らないといけないという状況下では、そんなこと気にせず必死に走るしかなかった。声の主が現れてもすぐに避ければいいと思った。
「まえ────く──ったなァ?」
だから進む、どんどん進む。店員たちが見つけられないほど遠くへ、絶対に捕まらないほど遠くへ。
そう改めて決意していると、特別人通りの密度が高い場所があって、そこを通るのに四苦八苦した。周りもそれなりに人がいて、いまさら進路変更もできなさそうに見えた海斗は、無理やり押し通ろうとした。しかし逆に押されたりして苦しげな表情を浮かべる。だが諦めずに、「どいてくれ!」と叫びつつ前進した。
「お前城に──てもいいのかァ? お前の好きなひ──にはもう時間が無いぞォ!?」
声がさっきよりも明らかに大きくなって、逆に周囲の者の声が薄くなった。足音や、それを気にしていないような少数の人の声しか聞こえてこない。
海斗はより目つきを鋭くさせた。
俺の足音の方が大きいんじゃねェか?
これが何の声なのか、とても興味は湧いてきたが、もう少しでこの人ゴミを抜けられそうになっている喜びが脳を支配し始め、その興味は急速に潰れた。
そして人混みの末端が見え、海斗は襲ってきた達成感のような感情に支配され、おもわずぶわっと前に跳ねて脱出した。
それで無事脱出できればよかったのだが、目の前に、皮膚が緑の、ハゲの横顔が目に飛び込んできた。
「は?」
「あん?」
海斗は空中で進路を変える翼など持ち合わせていない。目があった瞬間、おでこ同士がぶつかりあった。ごっ、と鈍い音を立てて、二人は尻餅をついた。
「いッッッタァ!」
「なん……だァ? このっ……」
額をおさえて痛みに耐える両者を、大量の野次馬が見下ろしていた。
ややあって、緑の男がやおら立ちあがり、海斗を鋭い、赤の目で見下ろした。
何やってんだテメェというその恨みの視線を、海斗は細めた目で確認した。
「テメェなんだこの……いきなり出て来て当たりやがって! 謝れ! 土下座しろコラァッ!」
「あ、すんませーん。あなたがいた事に気付きませんでした。まさか緑でハゲののおっさんがいるとは……本当にごめんなさい」
「お前それほんとに謝ってんの? 本当に悪いと思ってんの!?」
「思ってますよ、超思ってますけど、俺食い逃げ犯で店員とのチェストから逃げてるんで退散させてくださいませんか」
「いやそれ店員さんにも悪いと思って? マジの悪人なんだけど、すぐ店に戻って欲しいんだけど」
「ここで生きるためには必要なことなんで、悪とか善とかいまは関係ないんで」
なんだなんだと少人数ではあるが野次馬もあつまってきた時、海斗も立ち上がった。赤くさせた額の痛みは取れてきて、周りの状況がうまく飲み込めるようになってきて、集まっていた人数に、つかのま、目を大きくさせた。
ぶつかった奴と同じような外見の男がもう一人、ぶつかった男を挟んだ先にいて、自分たちの会話を奇妙に思う野次馬が数人いて……右横には工事をしているのか、白いパネルが連ねられていた。
あまり目立つことは避けたいと思う海斗の視線のはしに、何故か、パネルを背にしてへたり込み、こちらを不安そうに見つめてくる女の子の姿が見えた。頭のてっぺんに、髪の輪っかをつくって、ぶかぶかの白い服を着る少女が、くりりとした丸い目を開かせていたのだ。
海斗は、なんせこんなところに、と思う前に、「なぁ? 必要だよな」と言葉をついだ。いきなり言葉をぶつけられて戸惑ったのか、目を海斗と男を交互にせわしなく動かせた。
そんな海斗の言動を気に食わなかったのか、ぶつかった男は両手を前に広げて襲いかかってきた。
「まずちゃんと謝れバカ! そんなガキ見るよりお前のやったことをしっかり見やがれ!」
「うるせェ! まずテメェがこんなところで突っ立てるのが悪いんだろうが!」
しかし海斗は戸惑うことなく、男の背後にサッと回って首を締めてみせた。腕が首に深く食い込んで、男は苦しさがやってくる前に海斗の腕を掴んだ。しかし海斗の力が思いの外強く、ほどけなかった。
険しい顔をして、腕をパンパン叩く男の行動も気に留めず、海斗は力をこめ続けた。
「な、何やってんだバカや……」
それを、もう一人の男が海斗を止めようとした時に、男は口を閉じた。
向こう側の野次馬の海を、のっしのっしとかき分け進んでくる大男の頭が見えたからだ。
「てんちょー! 食い逃げ犯がいました! あれ! あの男です!」
海斗は聞き覚えのある女の子に、はっとした。自分を席に運んだ店員の顔が脳裏にくっきりと浮かんでくるのと同時に、見えたその店員の後ろを歩いていた、海斗の二倍はありそうな大男が、さっと海斗の首を締めた。体格からは想像できないほどの俊敏さで驚いたのとほぼ同じくして、すぐにでも落ちてしまいそうな苦しさが、頭と身体をいまにもわけてしまいそうな巨大さで首に現れた。
「こいつかこの野郎!!」と、低くくぐもった大男の声が、海斗の耳のそばで聞こえた。あまりよろしくない息のにおいもはなにやって来て、顔を遠ざけたかったがだっちりとヘッドロックされていて、完璧に身動きが取れない。
「ぅぅぐ……」
「離せこのォー、ゥ、ァ、ァ」
とんでもない力で締められる海斗は真っ赤な顔して、必死に生にしがみつきながら、緑の男を締める腕をゆるめることなく男を苦しめている。三人は、三色団子のように連なって締められ、締めていた。
なんだなんだと興味の視線をぶつけてきた野次馬の目が、どこか心配するような視線に変わっていた。関わりたいと思わせるはずもない三人の状態は、けれども見世物には向いているようで、野次馬の数は明らかに増えていた。
へたりこむ少女は、もはやおどおどした感じもなく、ただ自分の立ち位置を探るように、丸い目で三人を見つめ続けた。
「……ファー……」
様々な声が混じり合う中、それらをかき分けて、少女は、一つの女の声を聞いた。
その声に安心感を覚えた。いますぐ会いたいと、駆け出した。海斗の方をちらとうかがって、野次馬の足でできた林のなかを這い、かいくぐって声のした方へと向かった。どんどんと大きくなる女の声に、ほんの少し安堵した笑みを浮かべた。
そしてくぐり終えると、這い出た少女を見て驚いた女が、しゃがみ、慌てて少女を抱きよせた。
三つの紺色のベルトのようなもので束ねられた、なめらかな茶色の長髪が地面に、はさりとこすれた。
「ラーファっ……心配したのよ。 勝手に走っていっちゃだめよ?」
ラーファはうつむいた。
「……ごめんなさい」
「怪我はないようだからよかったけれど……これはなんの人だかり……?」
女性は、ラーファの身体に、怪我がないか視線を走らせて、後ろにできた野次馬の塊の方を眉をひそめ見た。
「あのね、私……男の人ふたりに襲われそうになって」
「え!? 大丈夫だったの!?」
ラーファは頷いて、悪魔たちのあいだに目をやって、その先にいる者へ人差し指を向けた。
女も立ち上がってそこに目を凝らし見ると、三色団子のようにヘッドロックしている男三人の状況が確認できた。思わず目を白黒させてしまった。
「あの人が助けてくれたの」
ラーファは真ん中にいる海斗がやってくれたことを、女に話した。
その海斗は危険にさらされていた。
やばい、もうじき俺の意識は落ちてしまう。
そうやって、顔を紫にさせながら、自分の運命を半ば悟っていた。
何故だ、何故俺は捕まってしまったんだ。だって完璧だったはずだ。俺の行動は完璧に店員たちを遠のけたはずだ。やっぱりさっきの頭突きがやばかったか? やっぱりなのか? じゃあこいつは許せない、絶対に許さない。
悟ってはいたが、私的な理由で己の腕の力をぬこうとはしなかった。自分も落ちるんなら、この緑の男も落としてやると決意した。
しかし人間の限界は案外早くやってくる。目の前が急速にぼやけ始めてきたのだ。
あぁ……最後に食べたのは逃走中のパンケーキか。うまかったけど、状況が状況なだけにやっぱり少し……寂しい最後の食事だなぁ……。
「あ、あの! 貴方、なにをやったんですか……?」
軽く走馬灯のようなものが前から後ろに、川のように流れていく最中、女が目の前に現れ、声をかけてきたのが見えて、海斗はなんとか意識を保った。
しかし首が絞められているためうまく答えられずにいると、店長が
「いやこいつ、私の店で無銭飲食しましてですねぇ。逃げたところをこうして捕まえてるんですよ」
と、代わりに答えた。
それを皮切りに、腕にますます力がこもって苦しむ海斗。
したら女性は心配そうな表情そのままに
「じゃあ私が払いますからっ。いくらですかっ?」
赤の長財布を開きながら、そう言った。
運命の分岐まで、あと五時間──。