第十三話 蜜色の灯火
エレイナは城中の廊下を歩いていた。もうほとんどの人が出払って、がらんどうのようになってしまった城の中で、意味もなく視線を泳がせていた。道が分かれているところでは、立ち止まってそれぞれの先を、意味もなく見つめたりもした。
そのたびに、バルバロッサや、ラーファたちとの思い出が顔をだした。
おぎょうぎ悪く、ラーファと廊下を歩きながらアイスを食べたりした。姫がふざけて、足がつったと言って、おんぶを要求してきたこともあった。
数えきれないほどの記憶が、思い出そうとしても思い出しきれぬほど日常の一部になってしまった記憶が、この日になって思い出へと昇りつめた。
エレイナは、廊下が十字に交わる前で止まり、一息ついた。
が、すぐに疑問に目を濡らすことになった。誰かの、慌ただしい足音が近づいてきたからだ。
思わず硬直してしまった。
誰が、走っているのだろうかと、目を疑問に濡らしていると、懸命に走るラーファが横切った。
我が目を疑うと共に、なにか驚くことをやろうとしていると、すぐに感じた。
「ラ、ラーファ!」
エレイナはすぐに、ラーファを追いかけた。
ウルウがワイザに、あわてて声をかけた。
「陛下っ! ここでそれは……!」
薄暗さと、くっきり空間をへだてるようにワイザの広げた手の上で浮く火の玉。 百獣の王の顔が浮き出たそれの威力を、女は知っていたのだ。
ワイザは女の顔を一瞥した。
「そんなことはわかっておる。ヤツ一人をチリに変える程度にまで弱めておるわ」
火の玉を放ろうと構えたワイザを見て、海斗は走り出した。
カーブをえがいて海斗に飛んで行った火の玉は、直撃するすんでのところで回避され、味方の兵士にぶち当たった。
待つこともなく火が全身をつつみ、あげた悲鳴は火が声帯を溶かすたびに鈍くなり、すぐに炭となって崩れ落ちた。
海斗はチラとそれを見て、避けられ歯を食いしばるワイザに叩く木刀を構え、一気に距離を潰し、薙いだ。
ワイザは刀で防ぐが、海斗は間髪入れずに、その刀を軸として、回りながら木刀を滑らせ、横腹に叩き込こんだ。
ワイザは踏みとどまろうとしたが、加護の大きさは凄まじく、身体の芯を震わせながら飛ばされた。
無様に転がされ、膝をついて起き上がろうとしたワイザに、海斗は一直線に走っていった。木刀は次なる一手を探すように構えていた。
ワイザは目を鋭くさせた。
加護が授けられているとはいえ、人間がここまで動けるのだろうかと不思議に思った。
と同時に、我が目を疑った。
一瞬。ほんの一瞬だけ、海斗の後ろで鬼を見た。
腕を広げて、燃え上がる炎のような双眸をこちらへぶつけてくる巨大な鬼を見た。
そんなわけはないとぎゅっと目を閉じ、首を振ると、もう見えなかった。
そして起き上がって、振り下ろされた木刀を受け止めた。
海斗は右足で思い切りワイザの鳩尾を突き蹴った。後ろへ下がるワイザに、追い討ちをかけるように、横腹めがけて木刀を薙いだ。
そうはさせんと刀でふせごうとしたワイザ。が、木刀は横腹ではなく、頭を叩いた。よってまた、飛ばされてしまって、ワイザは顔をしかめた。
このままでは同じことの繰り返しだと、すぐに起き上がった。
だが海斗はいなかった。
わけもわからず呆然と立っていると、殺気と影が上からぶつけられて、思わず視線をやると、木刀の切っ先をこちらへと向けて落ちてくる海斗が見えた。
恐怖を感じたワイザは横に身を転がすと、刹那、木刀が大地を穿った。
ふくらんだ砂埃が海斗を包んだ。
荒くなりかけている息を整えながらそれを見つめるワイザへと、砂埃から即座に縫い出てきた海斗は木刀を振った。
苦しげに受け止めるワイザに、海斗は攻撃の手を緩めることはなかった。しかもそれらはおよそ綺麗にまとまっているものではなく、デタラメに四方八方から打ち込んでくるために、反撃の隙が読めなくなってしまっていた。
加えて明らかに重くなっている所為で、防ぐワイザの手は痺れていった。
気づけば、かなり苦しい顔をしていると気づく。
さきほどから、なぜこんなにも劣勢に立たされているのかわからなかったのだ。大量の加護がここまで変えたという予想では、やはりどうしても納得がいかなかった。根本である種族の力量差からして、ここまで逆転することはないと理解していたからだ。
海斗はワイザの顔を執着に狙って、次第に傷をつけ始め、血をこぼれさせた。
そのあいだにも手や足にも打ち込まれていたために、痺れが身体をまわってしまっていた。
ワイザは、海斗という人間がわからなくなってしまっていた。
海斗は、自分をバルバロッサの覚悟だと言った。真っ暗闇の中、取る者もいない手を最後まで伸ばし続けた姫の覚悟だと。そして諦めの淵にいた騎士たちの思いを吐き出させ、木刀を振るい、優位に立ち始めているその姿が、どうしても理解できなかった。
たかをくくって結んでしまった、婚約解消の約束。まさか人間が勝つわけなかろうと、慢心してしまったのだ。
それを悔やみつつ防いでいたら、いつの間にか腹に木刀の切っ先が突かれていた。
とんでもない激痛にあとずさったワイザ。その時、耐えがたい敗北の未来を見てしまった。
このまま負けてしまうのか。
が、瞬間身体が軽くなった。
「まだです陛下! 諦めてはなりません!」
後ろに視線を投げると、アイナたちと同じように、突き出した手に緑の光を灯している女の姿があった。
ワイザは眉をひそめた。
「ウルウ……」
ウルウはぎこちなく笑んだ。すると、ワイザの胸中に、改めて海斗に対する怒りが生まれた。それは瞬時に煮えたぎったマグマのようになり、海斗を睨みつけた。
なぜこんなにも、悪魔であるこの自分が、人間ごときに追い詰められなければならないのだと。
海斗も、いま起こっていることを理解した。
ワイザにも、自分と同じ加護がかけられたこと。そして、この戦いの終わりが近いことを。
加護の数が優っているとはいえ、自分も満身創痍。加護で鈍くさせているとはいえ、痛みが絶え間なく身体に噛み付いていた。
ワイザは刀を構えて海斗に突進した。
海斗も、痛みに耐えながら木刀を強く握って猛進した。
距離を潰し合った二人は、海斗の薙ぎからはじまった。防ぐワイザは右足で海斗の腹を突き蹴って、海斗の口から血が弾け飛んだ。
海斗は痛みに食いしばって耐えることを時間のムダとし、今度はワイザの腹に、雄叫びをあげながら木刀の切っ先を打ちこんだ。
ワイザは、皮膚を破らずに身体の内部を壊しにかかる木刀に、激痛と恐怖を抱くと同時に、また怒りが湧いた。
激痛を圧し殺して、刀の切っ先を海斗の顔へと飛ばした。が、海斗は左足を軸に回り、頬をかすめるだけにとどまらせ、回転の勢いをのせた木刀を、ワイザの横顔に叩き込み、かなりの距離を飛び転げさせた。
よろめきながら起き上がったワイザは左手を広げて、火の玉を十数個、周りに生み出した。
「これが……これが……お前の覚悟か」
海斗は火の玉に驚き、立ち止まって荒くさせた呼吸を整えはじめた。
「バルバロッサ……これが……お前の覚悟……決断かァァッ!!!」
ワイザの口から、頭から大量の血が吹きこぼれた。
「だがこの火を見ろ! お前の覚悟は、ロウソク程度の大きさしかあらず!! この火の前には無力でしかない!! そのような男をさしむけた判断を悔やむがいいッ!!」
広げた手を閉じた。すると火の玉に、ライオンの顔が浮かび上がった。
ウルウは歓喜した。
「貴方の思うままにしてください陛下ァッ!」
海斗は僅かに開いていた口を、しばらくつぐんだあと、言葉を紡いだ。
「俺がロウソクかい……そうかい。当たってんねェ、その例え」
ワイザは片眉をあげた。
「なにも火は燃やすためだけに使われるわけじゃねェ。祝うためにも使われらァ。
だからいまの俺は……あいつを……お前から離れられるあいつを祝う火だ……!!
あいつが、思いを絞りきって燃やしたこの火の力ァッ! 老眼かっぽじってよく焼き付けなァッ!!」
高らかに言い放った海斗に、ワイザは叫んだ。
「小僧がァァァァッ!!」
海斗は走り出して、ワイザは閉じた右手を、火の玉を引っ張るよう振った。
そのさまを、アイナは目を見開いて見つめた。そんな彼女の後方から、足音が聞こえ始めた。目の前の光景に気を取られてしまって、気づくのはすぐ後ろから聞こえるようになってからで、足音の主の通過をゆるしてしまった。
どう見てもラーファに見える少女が、海斗の方へと走っていったのだ。
「待ちなさいラーファ!」
続いてエレイナが、慌てた様子で追いかけていった。
アイナは手を伸ばした。
あのままでは、二人の戦いに巻き込まれてしまう。それは絶対にあってはならないと、焦りを感じて、アイナも二人を追いかけた。
ラーファは、走りながら叫びあげた。
「海斗さぁぁぁぁぁんっ!!」
海斗は小さく振り返って、視線の端でラーファをとらえた。
まもなく二人に到達してしまいそうになるラーファは、ワイザに怯える目を潤ませながら、叫びをつなげた。
「姫が、ドレスをやぶりましたぁぁぁぁぁっ!!!」
海斗の笑顔は花開き、ワイザの眉間に深いシワがきざまれた。
「よく言ってくれたァァァァァッ!!!」
「貴様らァァァァッ!!!」
ワイザは振りかぶっている途中で気を取られ、火の玉と手との接続がごっそり外れてしまった。
が、繋がりが保てた一つの火の玉を、ラーファの方にはなった。
海斗はそれを左手で掴み取った。信じられないほど熱く、手が溶けてしまうとも感じたが、それでも離さずに、手の中で圧し潰した。
そしてエレイナが辿り着いてラーファを抱き包み、アイナは前に出て二人の盾になった。
海斗は、体勢を崩しているワイザの頭に木刀を叩き込んだ。左手に激痛を抱え、食いしばった歯から血を吹きこぼしながら。
ウルウは叫びあげた。
「陛下ぁぁぁぁっ!」
ワイザの背中を見るだけで、敗北という結末が頭にありありと浮かび上がってきたのだ。
その声を聞いたワイザは、刀を握る手に力がこもり、海斗の腹を突いた。肉を刺す嫌な感触が、腕を走った。
海斗は声も出なかった。だが、決して両腕から力を落とそうとはしなかった。
その甲斐あって、ワイザの意識のほとんどを奪い取り、全身で地面を穿つように弾き飛ばした。
周囲の空気は放射状に、駆け、アイナたちの髪を満開にさせた。
ワイザはピクリとも動かなくなった。しかし彼が生み出した火の玉いつまでも浮遊していて、僅かに、本当に僅かずつだが、海斗は、自分に近づいているように見えた。
ウルウの手から、緑の光が消えた。放心した顔で、立ち尽くしていた。
海斗はそれ目もくれず、火の玉を見て、鼻で笑った。
それとほぼ同時に、ワイザは小さく言葉を紡いだ。
「お前を……火を……消す火を……」
海斗は腰を落とした。
「そうだ。どんな火でも、最終的にゃあ消さなくちゃならねェ」
火の玉を掴み取った手を見た。真っ黒焦げになって、もうほとんど感覚がなかった。熱いのか、はたして機能しているのかよくわからぬまま、視線をワイザに移した。
アイナは危険を感じ、エレイナとラーファをこの場から離した。
「お前の火は、ちとデカすぎらァ。他人の俺には一つで限界……なら」
木刀を落とした海斗。地面にめりこんだワイザの襟元を掴み上げ、自分と火の玉の間に持っていった。
「あとは、自分で消さなきゃな」
そして、ほぼ火の玉全部が重なったとき、海斗はそこへワイザを放り込んだ。
刹那、あたりは火につつまれた。
「海斗ォォォッ!!」
叫びあげたアイナの横で、ラーファは無表情を火にぶつけた。
まさか、そんなことがあるのか。助けようとしてくれた人が、こんなにも瞬間的に消えてしまうものなのかと、心が重いなにかによって押し付けられた。
だが、アイナには、火の中で揺らめくなにかが見えて目をこらした。
すれば、海斗が平然と、木刀のみねを肩に乗せて歩きでてきたのだ。
それに見とれていたアイナが、次、どんな判断をくださねばならないのか考え始めたのは、近づいた四人の守護者に、自分の名を呼ばれたときであった。
「お前たちは、あいつに肩をかしてやれ。あいつは多分もうじき……歩けなくなる」
そう言われた四人は、急いで海斗に近寄った。二人が肩をかし、残りは周りの悪魔から守る護衛となった。
だがもはや、抵抗しようとする者はおらず、唖然と海斗か火を見ているか、膝をついている者しかいなかった。
その中で、ウルウは涙を流しながら、ワイザから立ち昇る火を自身の上着でもみ消し、仰向けにさせて呼吸を見た。
すれば、まだ薄くあるようで、周りの兵士に、まだ動けるモグラにのせるよう怒声をあげた。
海斗は、アイナに力なく視線を投げていた。
胸をくすぐる嬉しさと、人間が悪魔に勝利した驚きが混在した感情を抱きながら、アイナは視線を返していた。
そして二人が交差するとき、海斗の意識は闇の中へと溶けていった。




